2005年11月28日

燃える屁の系統

 昔、腸の内視鏡検査をしたとき、その終了間際に医師はしきりに「おならをして楽にして、楽にして」と言ったのであるが、このときばかりは何も考えずに素直に人前でプリプリやったものである。

 内視鏡検査では腸内に空気を送って腸をふくらますのである。こういう場合の屁は肛門から入っていった空気である。一般的な屁は口から入ってきた空気である(というか、腸内での発酵や腐敗で発生したガスとの混合気体)。

 だから、〈屁〉っていうのは口と肛門と二系統あるわけなんだね。これは大事な現象だよ。

 昔から「屁は燃える」という論議があり燃屁実験も行われているが、燃える屁とは「口系統」の臭い屁である。(確かに燃えますよ。音成は体験しました)
 燃える理屈は単純で、腸内細菌が産出したメタンが燃えるのである。メタンが多いと可燃性が高いわけだね。実際、手術中に電気メスの熱で引火して爆発した事故もあるという。

 その点、内視鏡検査は安全な施術なわけである。

 「肛門系統」の臭くない屁は燃えない屁であるが、こちらは芸をするには理想の気体である。だけど、屁を燃やして芸をするっていうのもアリかねー。(笑)


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2005年12月11日

標準的な屁ってある?

 屁の化学成分(比)については諸説ある。そりゃそうだよね。屁の生成過程を考えても、みんな食い物が違うわけだし、体質や体調によって成分量が変わるわけだし、何をもって標準とするか基準がないのである。人の数だけ個体差があるってわけさ。

 屁の化学分析はいろんな文献にいろいろ紹介されているが、出典がほとんど明記していないのでどういう筋の調査分析なのかはあまりわからないことが多い。それでも相当昔から伝わっているし、様々行われていることだけはわかるのである。

 溝口白羊の『屁の喝破』(1914年)によると、
 窒素(59.4%)メタン(29.6%)炭酸ガス(10.3%)酸素(0.9%)その他(硫化水素、水素、メチルメルカブタン、インドール、スカトール)
 ※ちなみに福富織部の『屁』に紹介されているデータはこれと同じである。

 藤田保の『おなら粋門記』(1964年)によると、
 東大医学部:窒素(49%)メタン(29%)炭酸ガス(1%)酸素(0.7%)水蒸気(?)アンモニア(?)その他(?)
 A研究室:メタン(39%)窒素(35%)炭酸ガス(9%)水蒸気(8%)酸素(0.2%)アンモニア(?)その他(9%)
 B研究室:メタン(51%)炭酸ガス(20%)窒素(17%)水蒸気(2%)アンモニア(10%)酸素(?)その他(?)
 ※メタンが半分を占める屁って危険だよね。

 『匂いの身体論』(鈴木隆著、1998年、八坂書房刊)によると、
 窒素(23〜38%)二酸化炭素=炭酸ガス(5.1〜29%)メタン(0〜26%)水素(0.06〜47%)酸素(0.1〜2.3%)
 ※これは最近のデータのようである。音成所有の本では組成の図表に誤植があり引用に際して訂正した。

 上位を占める成分比だけでも結構な相違である。時代による食い物の違いもあるだろうね。メタンや水素は燃えるわけであるが、ついそこに目が行ってしまうよ。危険な屁ってあるわけさ。(メタンや水素は無臭だから、臭い屁が危険というわけではない)

 まあ、こんな相違は糞や尿だって同じ事情だろうね。そこに実体はあるんだけれども確定できないわけさ。例えば、「明治牛乳」は成分として確定した「商品」(基準を満たす合理的な実体)であるが、糞尿屁などはそういう性格ではないのである。

 こういう場合、素直になって糞尿屁に限らず実体とはそういう「現象」なのだと思えば気が楽になるね。〈屁〉を通して見れば、実際にはすべてこれが世の中の仕組みなんだね。〈屁〉を天気(現象)に喩えれば音成の今日は快晴でーす。明日は曇りかな。音やニオイは変われど〈屁〉は〈屁〉なのさ。(笑)
posted by 楢須音成 at 01:16| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月04日

なぜハ行系列の言葉は笑いを誘う?

 「屁」は「へ」とか「ひ」と読む。日本語でいうところの「ハ行」系列の言葉だね。諸外国ではどうか。福富織部の『屁』などから引用すると、こんな感じ。

英語 fart ファーツ
ドイツ語 furuz フュース
フランス語 pet ペ
      vesse ヴェッス(すかし屁)
スペイン語 pedo ペイドー
北京語 屁 ピー


 まあ、「ハ行」「パ行」「バ行」というのは「屁」の擬音の系統を示しているわけだね。このような〈屁〉における擬音は追究すべきと思うが、この(音の)系列というのは笑いを誘う点でも際立っている。濁音になるとなおさらだね。〈屁〉的現象における音はある種の傾向を持っているわけさ。

 ところで、今年は戌年だけど、音成は犬の放屁を聞いたことがある。ブスンといった感じだったかな。どういう腹加減だったのか。
 犬には〈屁〉という概念はないだろうから、犬に〈屁〉的現象はないはずである。
posted by 楢須音成 at 23:02| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月13日

屁芸は何を表現するのやら

 屁で芸をする曲屁は口笛のように誰にでもできるものではない。それは純粋に音楽というわけではないんである。言ってみれば、屁音の高低や長短によって情景とかモノを描写的に表現する世界なんだね。

 以下は福富織部の『屁』に曲目として紹介されているもの。

蛇の蛙(かえる)のみ→ギャギャギャと蛙がのまれかけて苦しむ姿を模しつつ、一番終わりには蛇がキッとのんでしまうところまで表現する。

すれ違い→若い女性などとすれ違うときにする屁を模す。臭気より音を大きくしてビックリさせ逃げまどわせる態のもの。

数取り→1234と連発して数の多いことを勝ちとする。ただそれだけ。

梯子(はしご)屁→五段、七段、十三段の三種の梯子がある。まず梯子の縦木の二本を模して長く二発を出す。横木一本を模して少し短く出し、その両端にクサビとして短いのをブッブッと打ち込む。五段はこれを五回、七段なら七回、十三段なら十三回繰り返す。

あぶの笹渡り→笹の葉の上を渡るあぶの羽音に模して、ブルブルブルと十四五回鳴らし、最後は笹の葉を滑り落ちるようにブルッと出す。最後の一発は百雷が落ちるがごとく一座を驚倒させるのが妙。

ふくべ→ヒョウタンを模す。始め大きく出して中を小さくすぼめ、また大きく出して、これに口を付けて最後に栓をポンと打つ。また黄色い音でヒモを二本なう必要がある。

梅の古木→始めブーッと大きく出して梅の木の幹を模し、次にブーッ、ブーッと細く長く小枝をたくさん出して、これにプップップッと花やつぼみを添える。

うぐいすの谷渡り→うぐいすの鳴き声を模してプープと出して、その後はプッププップと飛び交う様子を無数に続ける。

イタチの一声啼き→音よりも臭気を重んじ、一発中に必殺の臭気をこめて一座のものを卒倒させる。

 いずれの曲屁もいきなり聞かされても何やらわからないだろうねー。まあ、鑑賞(?)には結構、想像力を要する。

 平賀源内の『放屁論』に登場する屁の芸人、花咲男(「源内は〈屁〉を論じたのか?」参照)は「昔よりいひ傳へし梯子屁數珠屁(じゅずべ)はいふもさらなり、砧(きぬた)すがゞき三番叟(さんばそう)、三ツ地七草祇園囃、犬の吠聲(なきごえ)、鶏屁、花火の響きは両国を欺き、水車の音は淀川に擬す。道成寺菊慈童、はうためりやす伊勢音頭、一中半中豊後節、土佐文彌半太夫、外記河東大薩摩、義太夫節の長きことも、忠臣蔵矢口渡は望(のぞみ)次第、一段ヅツ三弦浄瑠璃に合せ、比類なき名人出たり」と紹介されている。

 これを見ると、「梯子屁」「数珠屁」のような形態模写や犬や鶏の声ような声帯模写、あるいはそれらをミックスしたものに加えて、歌舞音曲に合わせて拍子をとったり、合いの手を入れたりする(んだろうね)パーカッション風の芸にまで広がっている。

 このように装飾性をまとっていく曲屁の進化も面白いね。ただし、表舞台で伝統化する気配はちっともないわい。
posted by 楢須音成 at 04:54| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月05日

屁に色はあるやなしや

 屁に色があると断ずることはできないようだ。採取した屁はことごとく無色であるというのが定説である。
 福富織部の『屁』で屁の色について考察しているのを紹介する。

「一般には、黄色とされてゐるが、之は糞便の色から類推した結果であつて、謂はゞ想像にすぎない。南方熊楠氏は、曾て屁の色の研究を志し、湯の中に入つて放屁し、之を試驗管に取つて燃やしてみたり熱して見たり、いろいろやつてみたらしいが、少年時代のことであつた爲、うまくゆかなかつたらしい。従つて屁の色が黄味を帶びてゐるといふようなことは、まだ発表されていない。
 今屁の主成分の個々を取出して檢査してみると、窒素といひ、二酸化炭素といひ、叉水素といひ、メタンといひ、インドールといひ、悉くこれ瓦斯體であつて、瓦斯體である間は何れも無色である。故に屁は無色であると斷ずることが正當である」

 このように論を進める一方で、織部は不思議な論を持ち出す。白いフンドシなどが幾分黄味を帯びていることがあるのは、屁の色ではなく、腸の微細な内容物が付着したものであると、一応は否定しながらも、こういう考察を繰り広げるのである。

「若し叉糞尿の微分子が、屁と同時に放發されることを想像するならば、當然其の人の糞便の色に伴ふものであるから、之は頗る多種多様であって、一概に黄とか黒とか云う單純な色彩に依つて一般を律する譯にはゆかない」(と、論を転換し、食物によって糞便の色が変わるウンチクを傾け、その糞便色の変化をもって五色の屁のひりわけも可能だというのである)

 おいおい、内容物から微分子に目を転じて何を言い出すのやら。屁の色は無色だけれど、糞便の微分子によって色つきの屁になるというわけさ(笑)。ありえねー、と思うけどさー。

 織部の執着ぶりが面白いね。
 色を敢えて想像するなら〈屁〉は黄色系統となるわけだが、織部はこれを否定しながらも、色を付けたいんだね。何とか色が付く根拠を述べているわけである。(事実または事実っぽさへの冒険だね)

「人糞の色彩は病的でない限り普通暗褐色を帶びている。是は變化せる膽汁色素を混入してゐるからであつて、この理由から云へば、屁は暗褐色でなければならない。また糞の色は其の攝取する食物に依つて異なるものであるから、糞と屁とが同色であるとしても、其の色は常に多少變化して行くものと見ねばならない。即ち肉類を多食するものは暗褐色を帶び、牛乳を飲む人、母乳に育てられてゐる子供のは鮮黄色、鐵鹽(鉄塩)類なれば濃暗褐色、コゝアは褐紅色、葡萄酒、苺が黒褐色に緑色様の光を帶びてゐる。さすれば自分の好む處の色彩を帶びた屁を放り出さうと思つたら、適当に其の食物を撰擇して取れば、昔両国で興行して當たりを取つたという曲屁福平のように五色の屁の放り分も出來る筈ではある」

 人は見えない〈屁〉を何とか見たいのである。そういう潜在的な渇望(屁への思いのほか深〜い渇望だよ)によって、〈屁〉というものが色をまとう根拠をめぐる議論があるわけなのさ。
posted by 楢須音成 at 05:05| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月19日

屁学博士の称号を与えん

 〈屁〉に関する知識は奇矯なことのように見なされる(ことが多い)。われわれにとって屁は〈屁〉であって、屁以上のものであるのだが、〈屁〉に関することの一つ一つは他愛もないことだと思っている。というか、〈屁〉に関することを、われわれは(心底から)価値あるものとは思っておらんのだねー。

 15問の正解と放屁技術試験に合格したら屁学博士の称号を与える問題が、藤田保の『おなら粋門記』の中に出てくる。真面目に答えるのか、トンチで答えるのか、屁理屈で答えるのか。問題を見れば、幅広い問いの姿勢と内容になっておるわけだが、この脈絡のなさには唖然とするね。(笑)

※引用する。正解は各自でどうぞ。音成は15問はとてもムリでしたわ。

第一問 フランス語で屁をなんというか。
第二問 屁を音のしないようにだす方法をのべよ。
第三問 屁の主成分をふたつのべよ。
第四問 屁は燃えるか、燃えないかを答えよ。
第五問 「清盛のおならは自然に燃えにけり」を解釈せよ。
第六問 おならの歌をうたってみよ。
第七問 「飯は屁のタネ屁は飯のタネ」を解釈せよ。
第八問 屁を採取する実験方法をのべよ。
第九問 屁どめの方法をのべよ。
第十問 屁に関する川柳または詩をひとつだけつくれ。
第十一問 「屁の河童」の意味を究明せよ。
第十二問 医者の前でだしてよいか、悪いか、答えよ。
第十三問 屁の三つの徳について論ぜよ。
第十四問 屁の音と、ニオイとの関係をのべよ。
第十五問 ナギナタ屁、梯子屁を、こいてみよ。
第十六問 スカンクの屁は、ほんとうの屁か。
第十七問 テンシキの意味をのべよ。
第十八問 屁の象形文字を書け。
第十九問 屁のにおいを消してみよ。
第二十問 屁の定義をのべよ。


 さて、出題は分野的には語学系、国語系、化学系、音楽系、医学系、屁の技(術)系という感じで、多岐にわたる。音成としては、「屁の定義をのべよ」を「〈屁〉の定義をのべよ」にしてみたい。
 〈屁〉というのは、業深き人間のアンビバレンスな展開を見せる現象の一つなのであるからして、これはかなりの難問であるに違いない。
posted by 楢須音成 at 09:15| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月07日

屁理屈だっていいじゃないか

 屁と糞が兄弟分であることに特に異を唱えるつもりはないが、だからといって屁と糞を同列に扱うのは反対である。屁と糞の関係はお互い臭い仲ではあるものの、存在する根拠の性格が違うわけさ。音成としては、屁を糞の従属物のように扱うのは遠慮いただきたいという気持ちがある。

 最近見つけた面白い本で『ウンコな議論』(ハリー・G・フランクファート著、山形浩生訳/解説、2006年、筑摩書房刊)というのがある。本の帯には「あんたの言ってることはウンコですな」とある。表紙を見ただけで「絶対に屁が弟分として出てくるゾ」と確信したものである。

 果たして書き出しからこうである。

「現代文化の顕著な特徴というのは、それが実に多くのウンコな議論や屁のごとき理屈にまみれているということである」

 やっぱりね、ウンコな議論と同列に「屁(理屈)」を並べているよ。
 ウンコ議論っていうのは、その場しのぎの言い逃れ、ふかし、ごまかし、はぐらかしのような、相手の出方に応じて為にする議論のこと(かな?)。ホントらしさを装って、まあ節操なき議論だね。一番困るのはウンコ議論をしている奴がウンコと思っていないこと(が多いこと)さ。

 それはともかく、以下、この本からウンコと屁の関係(位置付け)を少し抜き出してみる。

「結果として、ウンコ議論屁理屈のなんたるかについて我々は明確な理解を保持していない」
「思わせぶり性がウンコ議論屁理屈の本質的な構成要素であるからというより、むしろその動機になっているからであると考えたい」
「いい加減に作られたできのわるい代物を、ウンコ議論屁理屈の類似品と考えるのは、ある意味で確かに適切に思える」
ウンコ議論屁理屈は、知りもしないことについて発言せざるを得ぬ状況に置かれたときには避けがたいものである」

 というようにウンコ議論に屁理屈がセットになって付き従っておるわい。もちろん微妙にして抜きがたい区別はあるわけで、排泄物(ウンコ)と屁の軽重はこう解説してある。

「『屁』という用語はまた、もう少しばかり広範でおなじみの用法においては、ウンコ議論と同じながらお下品さ多少控えめな表現として使用に供されている」
「ちなみに屁とはまさに尻からの『ふかし』であり、排泄物とは類似性があり、したがってふかしはウンコ議論の同等品としてきわめて適切であるように思える。屁やふかしが有益なる内容をすべてくりぬかれた発話であるように、排泄物は滋養あるものがすべて抜き取られた物質である。排泄物は滋養の死体、食物の重要な要素が使い果たされた後に残るものとしてみることができる」

 ウンコと屁の兄弟ぶりが語られているわけだが、これじゃあ、ウンコの程度が軽いのが屁か?

 訳者の山形は、bullshit の訳として「ウンコ議論」を用意したのである。その事情を訳者解説でこう語る。

「原題の持つ、一部では放送・印刷禁止にもなるほどの強い卑語が持つ迫力を再現するためには、まったく同じインパクトを持つ表現がない日本語において多少は不自然な処理をほどこすことは免れ得なかった点、ご理解いただきたい。また文中に『ウンコ議論』に加えて『屁理屈』の一語を追加したのは、一つにはそうした少し常用度の低い用語の違和感を相殺すべく、類似の意味を持ちつつインパクトは弱いが一般性は高い用語を並べることで苦境を乗り切ろうとした苦渋の策ではある」

 ということは「屁理屈」の一語は訳者の配慮なのであるか? まあ、どちらにしても、この本における糞と屁の兄弟関係(の位置付け)はかくのごときものであり、同列にとらえられているわけである。

 しかし、ちょっと待たれい。屁と糞が存在のあり方として性格を異にするように、屁理屈とウンコ議論は基本において区別すべきではないのか。屁理屈には屁理屈独自の考察があってもいいんじゃない!

 屁理屈には、まさに〈屁〉的現象を背景にした両義的な性格があるのである。端的に言えば、その軽さ故に屁理屈は悪い意味でばかり使われるわけではないのさ。それに笑いがあるでしょ。〈屁〉なんだからさ。
posted by 楢須音成 at 00:32| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月16日

屁のニオイを90%消す方法

 屁に音とニオイは付きもの。昔から人は皆これに喜怒哀楽してきたわけなのさ。特にニオイは悪臭であるが故に嫌われる。屁の悪臭の理由(成分)についてはすでに多くの文献で指摘されている。鈴木隆の『悪臭学──人体篇』には最近の研究の成果が紹介されている。

「おならの臭気成分については、今まで硫化水素、インドール、スカトール、揮発性アミン、揮発性脂肪酸にアンモニアが加わったものといわれてきた。特にスカトールは、その名前とスカトロジー(糞便学)との近さから、いかにも糞便やおならのにおいの主成分であるようなものすごくくさいニオイを思い浮かべてしまいがちだが、そのもの自体はそれほど悪臭ではない。それどころか、基本的な香料原料のひとつとして使われており、香水をはじめとしたさまざまな調合香料を創香するする際に、ねっとりとしたボリュームのある甘さやフローラル感を出すのに大切なにおいなのである。
 そんなこともあって、スカトールをおならのにおいの主犯とする見方に私はなじめないでいたのだが、一九九八年に発表された最近の研究で、メチル・メルカプタン、ジメチル・サルファイドがおならの中から見つかった。このふたつに硫化水素を加えた三つの物質がくささの主役ではないかという。なぜならこの三つの物質の濃度が濃いほどおならがくさくなることが確かめられたからである。今まで信じられてきたようなインドール、スカトールの悪臭に果たす役割は、じつは過大評価されたものだったということになる。
 これら三つの物質は基本的に糞便のにおいの成分としても知られるが、おならでは糞便より硫化水素の果たす役割が大きいようだ。それを除けば、やはりおならはうんこの兄弟だったのである」

 ここで指摘されている三つの物質は硫黄(イオウ)化合物である。つまり硫黄のニオイが核になっている。これが糞便臭の基本なんだね。糞便臭は人体構造上の重要な現象であるが、そこには硫黄が介在しているわけである。硫黄は人体(を構成する)成分として必須の毒物なのさ。

 火山国である日本では硫黄のニオイは自然界にも身近にある。地獄谷とかね。いやなニオイ(悪臭)には違いないが、それだけで終わらないところがこのニオイの独特なところである。糞便臭の文化的構造は『悪臭学』で鋭く考察してあるよ。

 ところで、このニオイを消す方法であるが、『おなら粋門記』の藤田保が自ら実験してみたとして推奨しているのが以下の方法である。(この人の何でも試す姿勢は感心するわ)

「しかしぼくが実験したなかで、もっともよい方法は、パンツの中に活性炭素をいれることである。なにしろ活性炭素というものは、戦争中には防毒マスク用として、本物の毒ガスを吸い取るのに用いたほどの吸着力があるもので、屁のニオイを吸い取るぐらいのことは屁のカッパである。
 ふんどしのちょうど肛門にあたる場所に、ポケットをつくり、そのなかに粒状の活性炭素をいれて口を縫っておけば、それでできあがりである。活性炭素は薬局にいけば粉、粒の二種類売っているが、この場合は粒状のものにかぎる。
 というのは、粉状活性炭を用いると、粒が小さいので、布の目からハミだしてお尻が黒くなり、ズボンも汚れるので注意が必要。このクサミどめのフンドシは、もちろんぼくの発明ではあるが、特許は取っていないので、読者の諸君はご自由に製作されてケッこう。
 能率はひじょうによく、じょうずに用いると、ニオイの九○パーセントは消してくれる。将来は嫁入り道具のひとつとして、嫁さんに持たせたらよい。
 またもしフンドシがまにあわないときには、布切れに包んであてておくだけもよい。ただし、紙袋にいれて用いては、気体の屁はぬけとおらないからだめである」

 『悪臭学』でも最近の消臭グッズが紹介してある。アメリカで商品化されているという活性炭の消臭クッションや、肛門あたりに当てたゴムパッドからノズルが延びてそこを通過するうちに無臭化させるという消臭パンツである(どんなんやー)。

 買ってみる?
posted by 楢須音成 at 15:50| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月20日

屁のヘンタイってどういう人?

 人の〈性〉の奥深さ(趣味の違い)は想像を超えるものがあるね。まあ、「ついていけんわ」と思考放棄してシラーッとなることもままあるが、『ヘンタイの哲学』(2005年、キム・ミョンガン著、日本文芸社パンドラ新書)を読むと、〈性〉的なヘンタイが極めて文化的な現象であることがわかる。(音成は〈屁〉もまた極めて文化的な現象だと思っているわけさ)

 キムは「ヘンタイとは、人類が長い歴史をかけてつくりあげてきた、音楽、会話、宗教、スポーツ、言語、料理、道具、テクノロジーなどと全く同じ高度な次元のものである」として、「不自然」「倒錯」「異常」などという評価は不当であり、「ヘンタイこそ進化と脳の勝利の象徴」であると言っている。

 様々なヘンタイの中で〈屁〉に関するヘンタイはあるのかというのが、音成がこの本を手にした動機である。〈屁〉のヘンタイはどんなスタイルを示すのだろうか。糞尿への趣味・趣向の一派の中にないかと思ったけれど、そこに確たる〈屁〉の姿はない(ようである)。殘念に思っていたら「淫臭症」「異臭症」ということが解説してあった。

「(淫臭症)はギリシャ語のオゾ(臭い)とラグニア(快楽)を合わせて、これは『オゾラグニア』という。
 においには匂い≠ニ臭い≠ェある。
 アリストテレスや貝原益軒などが分類したらしく、前者は『快いにおい』『脂っこいにおい』『酸っぱいにおい』『刺すようなにおい』『辛いにおい』『猛烈にくさいにおい』として分類している。
 後者は五気五臭≠ニいって、五気には@香気(こうばし)Aそう気(くさし)B焦気(こげくさし)Cしょう気(つちくさし)D腐気(くちくさし)があり、五臭には、@香臭(こうばし)Aそう臭(くさし)B焦臭(こげくさし)Cしょう臭(つちくさし)D朽臭(くちくさし)がある。
 さらに他の人が、『芳香』『芳香系』『麝香(じゃこう)』『にんにく臭』『山羊臭』『不快臭』『嘔気臭』などに分類したり、さらに『エーテル系』『芳ばしい』『樹脂類』『アムブロジオ系』『アリル系』『こげ臭い』『カプリール系』『不快な』『嘔吐をもよおしそうな』という分け方もあるようだ。
 このうち、ズバリオーガズムを覚えるのはカプリール系らしく、これはカプリール酸すなわち腐臭味たっぷりのチーズ臭のことである。
 また、臭いといえば、異臭症というのがある。自然界にはない臭いが好きな人のことで、エーテル系、ガソリン系などがそれにあたる。
 (中略)
 異臭症ではガソリンのほかに、ホルマリンや消毒臭、ビニール製品臭、メタンガスや硫化水素などに強く反応する人もいる」

 この記述には概ねニオイのパターン(傾向や感じ方)が少々乱雑に網羅されているね。では〈屁〉はどこにあるのだろうか。成分的にはメタンガス(メタンは無臭)や硫化水素の系統であるが、硫化水素はタマゴの腐ったような腐敗臭である。

 ニオイでオーガズムを感じるのはカプリール系だというが、これは体臭のように発酵した脂肪酸のニオイである。チーズも発酵食品である。

 まあ、よくわからないけれども、臭い≠ェ匂い≠ノ転じるところにヘンタイの真骨頂があるわけである。〈屁〉にもそういう人はいるんだね。『においカミングアウト』(林雄司編、2001年、光進社)には、屁を愛する人たちがカミングアウトしている。

「私の好きなにおいは、ズバリお父さんのオナラ。それはもー臭いです。どれぐらい臭いかというと12畳の部屋のハシッコでオナラをしたら、その反対のハシッコにある空気清浄機のセンサーが、なぜか全開になるほどです。最近私は結婚をしたので、そのにおいを嗅ぐことができません。今の旦那さんは臭くないんです。あーあのにおい、嗅ぎたいです。旦那に何かへんなものでも食べさせようかなー」

 確かにヘンタイである。
posted by 楢須音成 at 23:43| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(2) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月31日

男と女の屁の差異を論じる

 屁に性別があるわけではないね。男性の屁も女性の屁も、屁は屁である。そうではあるけれど、同じ屁が性別によって表現を異にし、意味合いも違ってくるのはなぜだろうか。

 溝口白羊の『屁の喝破』には、こんな解釈がある。彼は宇宙の万象にはみな男女の性別があるとして、屁もまたしかりという。

「男の屁は概ね濁音を帯びてバ行ビブの二段に働き、女性の屁は多く透明にしてパ行のピプ二段に働く、其臭い事は共に同一であるが男性の屁は低音にして豪壯の氣を帯び、女性の屁は高調にして優美都雅(ゆうびとが)の韻を含んで居る。これ屁の配劑の妙である。而して男女兩性の中、其何れが最も多く屁をするかと云ふと、表現的に於ては男性である、何故男性よりも多く薩摩芋を嗜食(ししょく)する女性の屁が少ないかと云ふに、これは大いに理由が有る。太古遊牧の時代に於ては、日本の女性も男性と共に武器を執つて戰い、且つ盛んに大屁を放つたのであるが、漸次社會組織が複雜となつて、女性は戰列を離れ、専ら宗教的職司を執ると共に、女王の名は單なる空名と成つて、被征服者の位置に傾向した。其の後家長權の確立すると共に、男性の權威は終に女性に優越して女性の屁の權利は無視せらるゝに至り、欽明の朝の佛教渡來は更に又女權を窘迫(きんぱく)して、遂に便所ですら高聲(こうせい)で屁をすることを顧慮するやうに成つたのである」

 溝口は〈屁〉における男女の差異を解説して、まずは「配剤の妙」を指摘する。これは、まあ、屁の男らしさ女らしさを言っているわけだね。次に、女性の屁が少ない理由を歴史的に語るのであるが、要するに、人間社会の発展と複雑化にともなって社会組織は男性優位の構造化が進み、女性の「屁の権利」が駆逐されたと言っているわけである。

 なかなか鋭い見方であると思うよ。〈屁〉というものが人間関係(社会)の中で現象することを男性・女性という視点から分析している。「配剤の妙」にしても「屁の権利」にしても、その現象は好もうと好むまいと大筋で男性優位(上位)に左右された産物なのである。

 〈屁〉的現象における男女差がそのまま社会の人間関係を映しているという点で、われわれは〈屁〉を社会学的言語で論じることもできるのさ。
posted by 楢須音成 at 23:22| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月11日

使い分ける「ヘ」「おなら」「B型」「S型」

 屁を「ヘ」と呼ぶか、「おなら」と呼ぶか、微妙な使い分けがあるね。使い分けられる同名異称には心理の奥深い動機があるわけさ。中重徹の『一発』に収録されているエッセイ(和田健治「岡山県医師会報」)でこんな報告と見解が披瀝されている。

 和田は江戸時代の小咄18題を精査して、そこに出てくる「へ」と「おなら」を調べてみたのである。合計25の出現を数えたのだが、その使い方に傾向が出ていた。

 男の会話の中で  「へ」7回   「おなら」3回
 女の会話の中で  「へ」3回   「おなら」6回
 会話以外で    「へ」4回   「おなら」3回

 和田はこう指摘する。@「へ」は男の会話に多く、「おなら」は女の会話に多いAこれに当てはまらない(「へ」と言った)女は女郎、山から出てきた女、下女といった身分の低い者ばかりであるB「おなら」と言った男は大店の旦那、医者、気取ったご用聞きといった教養人ないしはスノッブ的な振る舞いの者であるCこうした会話以外での使われ方は、「へ」と呼ぶときの主語が男の場合は1回、女の場合は3回となるが、このときの女は女郎(2回)と下女(1回)であるDまた「おなら」と呼ぶときの主語はすべて女(女郎2回、嫁1回)ばかりである。

 要するに、概ね「へ」は男性が使い、「おなら」は女性が使う傾向を示すのだが、社会的な身分や価値(品位)を背負うことによって、「へ」は下位の者が使い、「おなら」は上位の者が使う傾向を示すわけだね。

 なぜこうなるのか? 音成の解釈のポイントは「へ」がモノを指し示すのに直接的な表現なのに対して、「おなら」は間接的なぼかし表現(お鳴りの転化)で発生したことにあるのさ。肝心なことをぼかして表現する心理の綾は、〈屁〉の場合、もちろん羞恥に絡む社会関係を背景にして発生したのである。

 和田のエッセイでもう一つ注目したのは次の一節。ここが面白い。

「それはこの気体に付属する音と匂いの問題である。
 そもそもオナラはその発生機転よりみて、二つの型に分けられる。一つは腸内での発酵によるもので、セルローズ・含水炭素・脂肪に由来し、炭酸ガス・メタンガスを主体とするガス量は多く、音の大きい、しかし匂いの少ないもので、芋・豆を食べたあとに出るのが代表的なものである。
 もう一つは腐敗によるもので、消化不良気味のときに出るやつで、ガス量は少ないが、アンモニア・硫化水素を主体として悪臭いちじるしく公害を起こすやつである。
 音の面からは前者は大音かつ低音であるのに、後者は高音または無音である。前者をB(ブー)型、後者をS(スー)型と名づける」

 和田は、B型のときを「おなら」、S型のときを「へ」と呼んでいると指摘して、川柳を例示している。卓見である。

 音に着目するとわかりやすい川柳はこんな感じ。

 屁(S型)をひったより気の毒はおなら(B型)なり
 屁(S型)ならまだいいがおなら(B型)の気の毒さ


 これをニオイに着目するとこういう川柳もある。明らかにS型だね。

 紙帳では自業自得の屁(S型)の匂い
 炬燵の屁(S型)猫も呆れて顔を出し


 さて、あなたは屁を言葉にするとき、「へ派」「おなら派」のどちらであるか? あなたの屁は「B型」「S型」のどちらであるか? 

 実はこの「へ派」「おなら派」「B型」「S型」の関係と表現は四つに組んで深く深く複合しており、解明すべき構造があるように思われるんだけどねー。
posted by 楢須音成 at 12:55| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月03日

〈屁〉の用語を分類してみた

 屁にまつわる言葉や表現はいろいろある。それらを集めてみると〈屁〉というものの深層が少しばかり見えてくる。山名正太郎の『屁珍臭匂臭』に「屁(おなら)用語事典」という章が設けられていて、屁に関する100語あまりの用語が集められている。無理に集めた感もないではないが、なかなか面白い。これを選んで次のように分類してみた。(語釈は一部補足して紹介する)


@屁(そのもの)を指す言葉
いしつきべ(石突屁)=プッと出す屁
Wind=英語の屁。俗語のFartは放屁すること
おならぶる=honorableの発音から転じて屁(英語にそういう意味はない)
かふう(下風)=かざしものことだが、屁をさす
ガス(瓦斯)=(気体、臭いから転じて)屁
じゅずべ(数珠屁)=連発する屁
すかしっぺ(透かしっ屁)=すかし屁。すきま風のように、こっそり、音なく、まばらにする屁
せつなべ(切な屁)=我慢しきれず苦し紛れに思わず出す屁
てんしき(転矢気)=屁。落語に出てくる
どくがす(毒ガス)=屁。毒気、天然ガスとも言う
なぎなたべ(長刀屁)=プー(と長く出し)、プルッ、プルッ(と振るように)する屁
にぎりべ(握り屁)=屁を掌中に受けて握った屁。それを人にかがせる悪戯
はしごべ(梯子屁)=初めに(梯子の縦木を)ブー、ブーと二つ長く出す。次に(横木を)短く出して両端にくさびをプップッと打ち込む。五段梯子はこれを五回、七段なら七回、十三段なら十三回繰り返す
ぶしらべ=すかし屁(秋田)
屁玉=屁。明治時代の子供のおもちゃ(樟脳にモチの粉をつけて火をつける)

A放屁という行為や仕草や状態を指す言葉
いっぱつやる=一発出す
おと(音)なしのかまえ(構え)=放屁の時の仕草
がくせい(学生)=よく放屁するやつ
きょくひ(曲屁)=技術的・曲芸的な放屁
きらす=放屁をちいさくすること(伊勢物語)
ちべ=放屁のこと(栃木)
にれんぱつ(二連発)=続けての放屁

B屁を介して(屁に託して)新たに意味付与した言葉
いいだしべ(言出屁)=臭いと言い出した者が放屁の当人→最初の発言者が当人ということ
きつねのへだま(狐の屁玉)=毒菌のたぐい
さいごっぺ(最後屁)=追い詰められたイタチの屁→最後のきつい一発。窮余の一策 
へをひりあう(屁をひり合う)=「屁食い同士」とも言い、連れ添う夫婦の仲。異体同心
へっぴりいしゃ(屁っぴり医者)=ヤブ医者
へっぴりがくもん(屁っぴり学問)=役に立たぬ学問
へっぴりごし(屁っぴり腰)=上体を前にかがめ、尻を後方に突き出した姿勢。及び腰
へっぴりじゅしゃ(屁っぴり儒者)=エセ学者
へぼいんきょ(へぼ隠居)=無力の人
へぼたゆう(へぼ太夫)=下手な浄瑠璃語り
へぼけん(へぼ拳)=下手くそな拳、打ち手
へぼりゅう(へぼ流)=技が拙劣なのに一流のように振る舞う流派
へろへろや=飛ばない矢、力のない矢
へりくつ(屁理屈)=つまらない、道理に合わない理屈
ひがん(屁眼)=肛門

C屁を使った名詞
へくそかずら(屁糞葛)=アカネ科の蔓性(つるせい)の多年草で、もむと悪臭がする
へごき=ナマズ(静岡)
へこきぐさ(屁こき草)=どくだみ
へたれむし(屁たれ虫)=くさがめ。カメ目ヌマガメ科のカメで、悪臭を出す
へっぴりむし(屁っぴり虫)=ゴミムシ類。特に、ミイデラゴミムシをいう。悪臭を出す
へったれまめ(屁たれ豆)=そら豆
へっぴりまめ(屁っぴり豆)=塩豆。そら豆。屁の材料になる豆
へぶくろ(屁袋)=盲腸
へのこ=男根
へご=弱虫(北陸)
へぼ=下手、臆病者
へこし=ふんどし
へなちょこ=未熟者
へげたれ=アホ。いくじなし
へすべいもん=おべっか使い(鹿児島)
べそ=げっぷ。おくび(山口)
べら=おべっか
べらぼう(便乱坊)=(人をののしって)ばか、アホ
へらずもの=役に立たぬもの

D屁を使った形容詞・動詞など
へぼう(屁坊)=下手、無力
へぐれんこつ=つまらない(熊本)
へげん=つまらない。だめ(九州)
へちぐそかける=人の言うことに反対して、けなす(長崎)
へちくる=いじる。もてあそぶ(岐阜)
へちげな=変なこと
へちまぐ=ゆがむ(富山)
へちゃ=鼻の低いこと
へちる=すねる
へっとくさい=息苦しい
へともおもわず(屁とも思わず)/へともせず=なんとも思わない。気にしない
へなぶる=あざける
へぬるい=手ぬるい。まだるっこしい。
へのかす=くだらない。役に立たない。無益
へぼうり(へぼ瓜)=末端に実ったうり→味がない
へぼくそ(へぼ朽)=取るに足らぬ
へだいなし=取るに足らぬ。たわごと(福島−群馬)
へみ(屁見)=木戸銭を払わずに観覧すること
へもひっかけぬ=でんで相手にしない
へろへろ=空腹、力のないさま

E屁の故事成語めいたもの
へのさんとく(屁の三徳)=@腹すいて良しA尻のチリを払って良しB人にかがせて気持ち良し
へのぼうこん(屁の亡魂)=何の役にも立たぬこと
へはいちげい(屁は一芸)=屁も立派な一つの芸であること(「臭けりゃ逃げい」と続く)
へはくすりせんぷく(屁は薬千服)=屁は薬千服に値する健康の証であること
へはわらいぐさ(屁は笑い種)=屁は笑いのたね(「たばこは忘れ種=たばこは憂さを忘れさせるもの」と続く)
へひってのしりすぼめ(屁ひっての尻すぼめ)=失敗したあとで、慌ててとりつくろったり、ごまかそうとすること
ゆめにへをふむ(夢に屁を踏む)=空のまた空→手応えのなさ
じんこうもたかずへもひらず(沈香も焚かず屁もひらず)=沈香のいい匂いでもなく、臭い屁でもない→可もなく不可もなし。平々凡々
ひゃくにちのせっぽうへひとつ(百日の説法屁一つ)=ありがたい説法も屁一つで台無し→長い間の苦労が小さな失敗で水泡に帰す
へとかじはもとからさわぐ(屁と火事は元から騒ぐ)=最初に騒ぎ出した者が、しでかした張本人である
へのかっぱ(屁の河童)=何の造作もないこと
へをひるこはそくさい(屁をひる子は息災)=放屁する子は健康


 このような〈屁〉にまつわる言葉はこれに尽きるものではないが、大体の傾向はうかがえるね。総じて良い意味ではないものの、〈屁〉の属性をとらえて人間の振る舞いや社会関係に言葉の意味を敷衍しているわけである。こういう言葉が構成されてわれわれはコミュニケーションする。〈屁〉はぷんぷんと息づいておるのさ。まあ、〈屁〉にまみれた言葉なんぞ使いませんわ、という人もいるだろうけどね。(屁はするでしょうけどさ)

 ともあれ、音成は家庭における至上のワガママは「屁の三徳」に尽きると思っておるよ。
posted by 楢須音成 at 21:34| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月05日

生物界における屁の意味

 人間ばかりが屁をするのではない。そのことに人類は早くから気づいていたに違いないのである。そして、どうも人間の屁とは位置づけが違うことを悟るに至るのである。まあ、これは改めて言うまでもないことだね。

「人類の屁は過剩の膓瓦斯の自然的排漏であつて、何等の目的を有するものではないが、他の生物には之を生存競爭上防禦の武器に供するものがある」

 溝口白羊の『屁の喝破』ではこのように指摘して、生物界の弱肉強食の中で屁を防御の武器とする動物や昆虫を紹介している。@イタチAスカンクBキツネCカメムシDヘヒリムシ…など、これらは追い詰められて困惑の絶頂に達したときに、ガスまたは分泌液を放出するのである。臭気に触れて相手が悶絶すればしめたものさ。

 @B→イタチの最後屁。緊迫した状況で放ち、相手の辟易動乱に乗じて逃げ去る。キツネも最後屁をするという。(緊急時に屁が出るというのは一種の反射運動なんだろうね)
 A→スカンクは臀部に腺を持ち、外敵に劇臭の分泌液を浴びせかけ悶絶させて逃げ去る。(厳密には屁とは言えないね)
 CD→昆虫類で攻撃を受けたり触られたりすると異臭を出すものがあるが、俳句の季題にも入れられているのがヘヒリムシ。ミイデラゴミムシ、ヘッピリムシとも。肛門腺から黄色い霧状の液体を発射する。「俺よりは遙か上手ぞ屁ひり蟲」という一茶の句があるが、日本文芸史上、無視できない有名な昆虫である。(異臭を発する虫はたくさんいるけどね)

 以上、生物界では発する屁が目的を持っている(身体の機能になっている)わけさ。

 ところが、人間の場合、ほかの生物と全く違う点は「自然的排漏であつて、何等の目的を有するものではない」ということなのであった。考えてみると、これ(屁は無意味であること)は凄いことじゃないか? ここに屁が〈屁〉的現象となって立ち現れてくる基盤があるんだよ。

 生理的な身体現象として「意味がない」地平から、〈屁〉はわれわれの精神に光明面と暗黒面の影響を与え続けている存在である。
 われわれは生物界の屁に戻ることはないのか。
posted by 楢須音成 at 12:59| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月25日

「その黄色い屁は私じゃないよ」は可能か

 テレビで〈屁〉が取り上げられることはあまりないが、たまにはあるもんだね。先日、少し酔が回っている耳にテレビから「おなら」「おなら」の連呼が押し寄せた。『トリビアの泉』(フジテレビ系列)である。この局は以前にも別の番組で〈屁〉を目撃したことがある。どちらも実証的な取材・検証で屁の科学を究めようとしていたのであ〜る。

 今回の『トリビアの泉』のムダ知識は「自分が放出したおならを体から離す最も効果的な行動は?」というものであった。つまり、この回答は、透かし屁の場合に悪臭のニオイ発生源としての責任を回避する有効な手段になるわけさ。

 番組によれば、屁は平均的に5cm/秒で肛門から上方に放出され、半径1.5mに拡散するという。そこで被験者が各界の専門家のアイデアに基づき、ジャンプしたり走ったり一回転したりと様々に体を動かして、まとわりつく屁を体から離そうと試みるのである。専門家の議論は延々5時間というから笑う。

 出た結論は「放屁してお尻を叩きながら横向けに走って移動する」というものであった。「横向け」というのが重要なところで、前後に動くと気流の関係で屁が体にまとわりつくのである。
 さらにニオイ回避策のもう一つの回答は「放屁するときズボンをつまんで袋状にしてそこに溜め微動だにしない」というものである。こちらは徐々に拡散して薄まっていくのを待つわけだね。
 なるほどねー、これが科学かい。

 番組で気がついたことがある。被験者が放屁して様々に体を動かすときの屁の動きを黄(金)色の霧状のガスでCG処理していたのだが、そのガス体はなぜ黄(金)色なんだろうか。もちろん、屁は無色であり、番組では気体の動きをわかりやすくするために色をつけたわけさ。白とか青とか赤とかじゃダメなのか。まあ、ダメじゃないけど、ここは黄(金)色なのである。

 屁からの連想は「黄(金)色」を導く。これは糞の兄弟分という意識下の連想であるに違いない。吐く息や風の動きなど、見えないものに色をつけることはあるけれど、黄(金)色(が似合う)と万人共通に思う(心的傾斜がある)屁は結構ユニークではないか。
 しかも、黄(金)色という色は下半身に位置するのと上半身に位置するのとでは、イメージが随分違う。下半身的には「糞」だが、上半身的には「金」である。この表裏性において我々は存在しており、〈屁〉的現象もまたその表裏性に揺れ動いている。

 さて、以前の別の番組(『闘え三賢人』)では屁のニオイを消すことがテーマになっていて、活性炭を仕込んだ座布団やパンツで驚異的に屁のニオイが消えることを実証していた。活性炭の効果は音成も以前紹介した(「屁のニオイを90%消す方法」)。ニオイも色はない存在物だけれど、これすら我々は黄(金)色に染めかねないねー。
posted by 楢須音成 at 14:46| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月06日

屁薬を飲んで屁を出す

 昔から屁薬つまり放屁(を促す)薬は注目されていた。一種の秘薬として考えられていた形跡もあるようだね。お伽草子の中の福富草子には、放屁芸に長けた福富の長者が隣家の主に家伝の放屁薬を与えるシーンがある。ここでは放屁芸を成立させる隠れたポイントになっているわけさ。江戸の曲屁師、霧降花咲男が登場して人気を博したときには、便乗して大阪で放屁薬が売り出されたという。

 軽石の粉を飲むとよく屁が出るということを信じている人も多いようだね。宮武外骨は真偽は保証の限りではないとして「(軽石に含まれる)マグネシウムが胃腸で炭酸のために溶解して瓦斯を起こし、それでオナラがよく出る」と想像している。小津安二郎の映画『お早よう』には軽石を飲んで屁がよく出るようにしようとする少年が描かれていた。

 漢方薬やハーブの中ではウイキョウが腸のガスを駆逐するもの(駆風剤)として知られているね。これは便秘に対して下剤を用いるように、腸に滞ったガスを排出させる作用があるわけである。この種のハーブは調べてみたら結構多い。アニス、アンゼリカ、イノンド、カミルレ、カルダモン、ガジュツ、コショウ、セイボリー、チョウコウ、トウガラシ、ハッカなどが健胃剤の効果とともに挙げられている。駆風(くふう)という言い方は面白いね。放屁促進剤よりはずっと味のある表現さ。

 「ガスコン」という名の薬があるが、ガスをコントロールするというのがこの名の由来。腸内には消化物と細菌によってガスが発生するわけだが、これは泡なのだそうだ。この泡がX線写真の邪魔になるというので、泡の玉を潰すのが薬本来の使い方になるんだね。泡が潰れればガスの吸収や移動がスムーズに行われる理屈で、屁が出る。(この泡ことを知ってか知らずか昔から屁のことを屁玉と言っているが、含蓄があるねェ)

 こうみると、放屁薬は@腸内にガスを発生させる薬A腸内のガスを排出しやすくする薬──と傾向が分かれることになる。@とAを兼ね備えてもいいね。

 もちろん健康目的を除外すれば、放屁薬(の効果)は屁を自在に操る技術の一環(芸)として位置づけられるのである。そもそも屁は制御(コントロール)が難しいわけだから、出てくる屁を十分制御できる力量がないと下手に放屁薬は使えんよ〜。
posted by 楢須音成 at 01:00| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月11日

河童は〈屁〉の化身なり

 ことわざに「河童の屁(または屁の河童)」というのがある。「取るに足らん」「容易である」というような意味だが、なぜそんな意味になるのかといえば、水中でする屁は勢いがない → 取るに足らない(つまらない)からだという。そこから「そんな仕事は屁のカッパ(朝飯前)」みたいな感じでも使うわけだね。
 ではなぜ「河童」なのだろうか。(別の説では「河童の屁」は、もともとは「木っ端の火」だとさ。水とは全然関係ない)

 この「河童の屁」の起源譚の真相は不明であるが、河童とくれば屁というように関係が成立しているのである。川柳には「すかしても音のするのは河童の屁」「聞いた事かいだ事なし河童の屁」とかある。

 大体、この河童というのはUMA(Unidentified Mysterious Animal=未確認動物)なのだろうかね。昔から目撃談は数多くあり諸説があるのだが、実在する物証の客観性が保証されているわけではなく、現在のところ空想上の動物となっている。
 
 福富織部の『屁』の「河童の屁」のところを見ると、屁というよりも河童についての記述に終始しつつ、河童の実体は「詳らかでない」とし、その屁については「さらに詳らかでない」と投げ出している。
 織部は資料を典拠に、河童の姿や呼び名の分布の考証を紹介したりしているけれど、そもそも屁はどこへ行ったんだというような、屁には関係ない記述なのである。
 河童とは、どんな動物か、『言海』には『水陸兩棲の動物、形(かたち)三四歳の童の如く、面(めん)虎に似て、身に鱗甲あり、九州の山中の淡海に多しといふ、詳かならず』と、正直に白状してゐる。この河童の放屁が、どんなものかは、生物学者もまだ説明してはゐない。『随筆珍本さえづり集』には此の河童の干物を見た記事が出てゐる。
(中略/長々と河童の干物の記事を引用したあげく)
 不幸にして、放屁のことには言及してゐない。よつて、此點は『詳しからず』としておくより致方はない。

 一方、中重徹の『一発』では、資料として『水虎(すいこ)新聞雑記』『山島民譚集(柳田国男)』『一話一言(大田南畝)』を示している(水虎とは河童のこと)。なかでも大田南畝(蜀山人)が紹介している河童目撃談が面白い。大田はこんなことを伝聞している。

 ――海中から赤子の泣く声がしたので船を回して網を打つと、鰯(いわし)網に河童が十四、五匹入ってきて逃げ出そうとした。棒かいで打ち据えたが粘り着いて一向に利かない。一匹が船の上に飛び込んできたのを、とまをかけてその上から打ち殺した。このときまでは確かに赤子の泣き声がしていた──という。
 河童の泣き声は赤子の泣き声同様に御座候。打殺し候節屁をこき申し候。誠に堪へがたき臭ひにて、船頭など、青くさき臭ひいまだ去り申さず候。尻の穴三つ有之候。総体骨なきやうに相見え申し候。屁の音はいたさず、すっすっとばかり申し候。打ち候へば首は胴の中へ八分ほど入り申し候。死に候て首引込み申さず候。

 これは目撃した人の手紙の引用である。いやはや何とも「見る」「聞こえる」「嗅ぐ」の三拍子揃って凄まじい情景である。ここでは河童の屁がしっかり記録されている。事件の真偽の程はわからないけどねー。

 ところで音成は、河童とは〈屁〉が実体化した(目に見える姿をとった)ものであるという仮説を持っているのさ。屁と河童の属性を少しばかり検討してみよう。

=確かに存在しているが見えない(目撃することができない)→ ニオイ(悪臭)がある → 音を発する(あるいは発しない)
河童=存在しているかどうか不明(目撃の信憑性が薄い)→ 生臭いニオイがする → 鳴き声を発する(あるいは発しない)

 さて、このように見て何が読み取れるのかと言えば、屁と河童がコラボレーションする密接な関係性の類似である。屁も河童もどこか似通った怪しい存在といわねばならん〜。音成はこう考える。

 屁は確かに存在して、自分の存在を主張している。というか、屁の存在を我々はよ〜く知っている。我々はこれを隠蔽したい意思を持つのだが、無情の屁はそこにしっかり漂ってしまう。
 一方、河童は(いるのかいないのか)怪しげに存在している。もちろん目撃談がある以上、自分の存在を主張している。「見た」とか「いた」とか報告する目撃者や伝聞者は、そういう体験を実体化しようとする切なる意思(期待)を持っているわけだね。なのに、河童の詳細な物証をあげるほどに客観的な信憑性は疑われてしまう。

 片や「有るのではないか」と疑われ、片や「無いのではないか」と疑われる。ベクトルは見事に正負に分かれる。つまり、正反対の怪しさにおいて似通っているのである。

 屁と河童が表裏の関係で結びついている(求め合っている)のだ――そこでは「河童の屁」だろうと「屁の河童」だろうとどうでもよろしい。不死鳥のようによみがえる河童談義や民話の深層において〈屁〉は河童に化身しているのさ。

 いやはや(ニオイと音の連想の果てに?)屁と河童を結びつけたのは誰だったのか。初めて屁に火をつけたのと同様に実に画期的だったね。

 思えば、燃屁は〈屁〉の光明面を示したが、河童は〈屁〉の暗黒面を示していると言わねばならん〜。
posted by 楢須音成 at 08:05| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月15日

何はともあれ我々は〈屁〉に寛大

 先日アメリカで発生した出来事。旅客機内でマッチを擦ったようなニオイが立ち込めて機を緊急着陸させたのだそうな。ロイター通信は次のように伝えていた。

「【ナッシュビル(米テネシー州)6日】米ワシントン発ダラス行きのアメリカン航空便が4日、途中にあるナッシュビルの空港に緊急着陸した。原因は、女性の乗客が飛行中、自分の放屁のにおいを隠そうとしてマッチで火をつけたため。同空港のスポークスマンが6日明らかにした。
 それによると、他の乗客からマッチの燃えた匂いがするとの通報があったものの、女性はその場では名乗り出なかったという。
 同スポークスマンは『もちろん彼女には怖さと恥ずかしさもあったでしょうが、乗客全員が飛行機を降りざるを得なかったうえに、検査犬を導入するなどして全荷物を検査しなくてはならず、事態収拾までに約3時間かかりました』と語った。
 女性には同じ便への再搭乗は許可されず、アメリカン航空の利用も拒否された。
 ただ同スポークスマンは『悪意があった訳ではなく不測の出来事だったので、彼女は何ら罪には問われません』としている」(ロイター)

 さて、この事件は「飛行機という密室で屁をし、マッチを擦ってニオイを隠蔽した(代わりのニオイにすり替えた)」というものであるが、どういう状況であったのか。まあ、話の推移はこうなりますかね。

@女性は飛行機に乗った。
A彼女は(我慢できずに)屁をした。
Bその屁は(ギョッとするほど)臭かった。
C彼女は(ニオイを消すため慌てて)マッチを擦った。
D彼女は機内で火気を連想させるようなニオイは警戒されることを忘れていた。
E乗客は(屁と?)マッチのニオイに(不審に首を傾げつつ)反応したが(マッチの)ニオイを通報し騒ぎ出した。
F大騒ぎになっても彼女は(恥ずかしさのあまり)名乗り出なかったが、(騒ぎを終息させるために)放屁を白状せざるを得なくなった。
G(事情を把握した)航空会社は彼女の再搭乗および同社の航空機の利用を拒否した。

 ニュース記事の常として、話の骨格はわかるんだけど、深層を把握するには、事実という肉の付き具合(細部)や全体の姿(真実らしさ)はほとんど不明であると言わねばならんね。語るほどに藪の中である。

 そうではあるけれど、ここには女性と乗客の危機意識の違いの緊迫した劇があるのさ。このとき、通報した乗客の危機意識は機体に及ぼうとしている何らかの危険であり、屁をした女性の危機意識はただひたすらに自分の屁の発覚だね。異常なニオイの原因の特定は屁の発覚になるのであるから、もちろん女性は騒ぎ(調査)に対して沈黙するが、同一機内の乗客という運命共同体の「異分子」として孤立することになる。

 この話の笑いの核心は、屁が自らの姿を消して別のニオイにすり替わったものの、そのニオイはそこには存在してはならないニオイで、しかも致命的な危険を示唆するようなニオイだったという失敗にある。

 そこには〈屁〉の振る舞いが教訓的に現象化した一つの姿があるね。――要するに〈屁〉の恥の隠蔽にはリスクが伴うということ。そして隠蔽は時としてとんでもない重大事にふくらんでいくが、それを沈静させるためには恥をさらさねばならぬという人生行路があるのであ〜る。

 〈屁〉の恥は引き受けなければ収まりがつかないのは「罪」と同じであるが、〈屁〉で事件を引き起こしたことが罪(犯罪)にならず(航空会社は訴えず寛大だった)、当局も我々も追及が腰砕けになるのは〈屁〉であるがためである。まあ、屁とは関係なく遊びでマッチを擦ったのであったならば、事情は斟酌されず罪は加重されたに違いないわけだね。
 
 これは〈屁〉の危機感というものが、人間生理を踏んまえて、やむにやまれぬ不可避な現象であることを示しているわけさ。それは理解を得る(可能性がある)。事件を伝える記者にだってそれを許してしまう心情があるんだよ。(音成はそれを、立場を越えた〈屁〉の「深層における危機感の暗黙の共有」と呼んでいる…笑)

 では、もう一度この事件を別の記事で振り返っておこう。

「【ワシントン6日】アメリカン航空の旅客機が、乗客の女性の放屁が原因で緊急着陸し、爆発物を捜索するなどの大騒ぎとなった。
 同機はワシントンからテキサスに向かっていたが、乗客の1人が乗員に硫黄の燃えるにおいがすると訴えた。このため、同機はテネシー州ナッシュビルの空港に緊急着陸。99人の乗客全員と荷物のすべてが同機から降ろされ、爆発物を見つけるために嗅覚犬を使うなどして捜索が行われたが、結局、何も発見されなかった。
 連邦捜査局(FBI)の捜査員が乗客全員から事情聴取を行った結果、1人の女性客がおならのにおいを消すため、機内でマッチを燃やしたことを白状した。この女性は、恥ずかしさからなかなか本当のことを話さなかったが、最後にしぶしぶ、放屁を認め、ガスがたまりやすい医学的な問題を持っていると語ったという。
 この女性の姓名は明らかにされず、告訴もされなかったが、アメリカン航空はこの女性の同航空機への搭乗を長期間禁止した」(時事通信)

 どんな事件も心理劇の真相は藪の中。一つ言えることは、飛行機に乗ると気圧の関係で屁は出やすくなる。腹具合にはくれぐれも注意が肝心であ〜る。

※記事の引用は「Yahoo! JAPAN」から
posted by 楢須音成 at 22:39| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月03日

新年を祝う〈屁〉的な心境

 狂句や狂歌は〈屁〉の一発のなりふり構わぬ面白可笑しさを追究してやまない。そこでは定型の(伝統の)音韻が心地よいリズムになっているわけさ。もちろん、年頭を祝う気持ちも表現されている。


     初日の出まづ元旦のおとし玉(団々珍聞)

     めでたうと門過ぐる子の放屁こそ 年のはじめのお年玉かも(鶴州)

     ひり初めて快き屁の玉の春 今年も不異の報せなるらん(竹林閑人)


 新年の改まった気持からか、ほかの狂句、狂歌に比べると何となく真面目くさった感じがするね。酒も入ったところで新春の生活エピソードを託してみよう。


     粗相してとりはずしたり年ひとつ 昔は屁とも思はざりしが(麦原笛成)

     湯の中の屁のたまたまにあう夜半 はみも浮くばかり嬉しかりけり(読み人しらず)


 とりあえず、身辺は「屁和(へーわ)」であ〜る。
posted by 楢須音成 at 10:39| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月04日

「ハンカチ」「監禁」「おなら」の紙一重

 いつの頃からか「○○王子」とかいうような言い方が流行っている。最近では「おなら王子」。そもそもの発端は「早稲田実業高校の斎藤佑樹投手(ハンカチ王子)が泊まった旅館で、ナインティナインの岡村隆史が、斎藤投手も使った酸素カプセルの中でおならを連発…というフジテレビの番組に高野連が抗議」という騒動。番組で岡村が「おなら王子」を自称して顰蹙を買ったという次第だ。ひたむきにプレーする選手の気持を愚弄し、番組内容は教育の一環である高校野球の目的から逸脱していると、高野連は怒ってしまった。

 まあ、お咎めなしの「ハンカチ王子」も随分きわどいと思うけどね。マウンドでハンカチを使っただけで「ハンカチ王子」とは、愚弄と紙一重ではないか──と、とる人もいるだろう。もっとも、言われた斎藤選手も(内心は知らないが)意に介さないみたいだし、「ハンカチ王子」はさわやかさの代名詞みたいになって流布してしまっている。なぜか世間に受けたわけさ。

 王子の中には「監禁王子」っていうのもあった。陰惨な性癖と金持ちで美形(?)の外見を結んで「王子」の乱発ではないかと思うが、もちろん、「監禁王子」は賞賛と紙一重である──と、とる人もいるだろうさ。

 こういうきわどい(どう受け取るかで180度違う結果を招来する)命名をする、おちょくり(ひねり)の精神は常に諸刃の剣であるが、よかれと思って口にし(いつまでも)「ハンカチ王子」を唱え続ける人たちやマスコミには決定的な無神経さが潜んでいるようだ。

 それはこの際どうでもいいとして、「おなら王子」である。このときの「おなら」は「ハンカチ」とか「監禁」とは違うのだろうか。まず「おなら王子」は自称したという点で、そもそも出自が違うのはわかる。

 「おなら」を連発した →「おなら王子」と名乗った

 という、自分の行為(放屁)に伴う自分自身への命名によって「おなら王子」は成立しているわけさ。そこには@斎藤選手が自ら「ハンカチ王子」と名乗るのと同じ構図A「おなら」は「ハンカチ」ほどのさわやかさがなく、といって「監禁」ほどの陰惨さもないB時事(話題)性をまとい「ハンカチ王子」あっての「おなら王子」である…といった点が指摘できる。(こう見るとなかなかの笑いネタである)

 岡村は相方の矢部浩之とともに、彼らが受け持つラジオ番組(フジ系のニッポン放送)でこう弁明したという。


 岡村「高野連が怒ってますけど、逆に僕が遺憾です。ハンカチ王子を“オナラ王子”と言ったわけではなく、僕(自身)がオナラ王子と言っているのに、球児の気持ちを踏みにじるとは意味が分からない。高校球児にこれを見せてくれ。それで“バカにされているみたいで腹が立ちます”というのなら、説明に行きます」
 矢部「(抗議に)選手は一切関係ないやろうね」
 岡村「ホンマです。中居が怒るのなら分かる。“何をカプセルの中で屁(へ)をこいてくれんねん”と。これ佑ちゃんにも見て聞いてほしい。バカにしてますか?と。僕らもレベルは違いますが、高校時代、クラブ活動をしていた。選手の気持ちは分かる。バカにするようなことはしない」
 矢部「宿の人にも迷惑かけて。申し訳ないですよ」
 岡村「ほんまですよ。僕ら泊まりに行きます。サッカー部で。理解に苦しむというか、意味が分かんないです。ビックリしました。これは誠に遺憾です」
                            ※以上、1/13のスポーツニッポン


 音成に言わせると、当事者の弁明というより論点ずらし(とぼけ)だね。自分は馬鹿にする気持なんかない→だから(選手を)馬鹿にしていない、という開き直り論法である。

 しかし、先に指摘した@〜Bにある岡村の行動(番組)は「ハンカチ王子」のパロディなのである(なかなかのパロディである)。もちろん、岡村が斎藤選手(や球児)を馬鹿にしていないのはそうかもしれないが、身を挺してパロった(おちょくった)ことには違いないわけだね。単に笑いをとったというのではなく、馬鹿にしていると騒がれるのは、実はこういうパロディも諸刃の剣であることを示しているわけさ。

 「ハンカチ王子」と聞いて、愚弄している(された)と感じる人もいる。
 「監禁王子」と聞いて、賞賛している(された)と感じる人もいる。
 「おなら王子」と聞いて、馬鹿にしている(された)と感じる人もいる。

 こういう紙一重の世界はルールがない。善意が悪意になり、悪意が善意になり、何でもないことがどちらかに偏する。どちらか一方の受け取り方が組織(学校とか)、世間、社会を覆い尽くすときの狂騒は、どっちにころぶかわからない点で恐ろしい〜。

 もっとも「おなら」の場合の紙一重は少々独特かもしれない。
 他人をからかって「おなら」を連呼する奴が連呼すればするほど、裏ではしっかりおならを粗相している(かもしれない)という当然の推測によって、そいつの背信的振る舞いを浮き立たすのである。そのことに気づけば、からかう方も笑っちゃうのである。そういう意味では、ナインティナインの自虐パロディは正直な振る舞いなわけさ。「おなら」を咎める方も「おなら」から無縁ではなく、次第に腰砕けになってしまう。そりゃ、まあ、〈屁〉は平等な生理現象であるからして、愚弄のネタとしては何やら意気阻喪させる愛嬌振りもまた持っているのである。

 まあ、気位の高い上品な人は決して人前で「おなら」とは発音しない。まして「おなら王子」など、口にするのはもってのほかであ〜る。(岡村サンはエライ=下品ね)
posted by 楢須音成 at 11:07| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月15日

生理的な屁の特性をまとめる

 生理的な屁についてちょっとまとめておこう。これまでにも、しばしば取り上げてきたけれども、人や食物や時や場所によって屁はいろいろなあらわれ方をするものさ。もちろん、誰一人として同じ屁をする人はいない。そりゃ、ま、そうだね。(以下、引用は中重徹の『一発』に収録された「屁の科学」というエッセイであるが、出典が抜けていて筆者不詳である)

(1)屁には大きい屁(大砲屁)と小さい屁(透かし屁)がある。大きい屁はガス発生量が多いために大きい(大砲)のであり、小さい屁はガス発生量が少ないため勢いがなく大きな音を発し難い(透かす)のである。
 大きい屁を意図して透かす場合は、この自然の摂理に逆らっている。

 大砲屁とスカシ屁と、一体どのくらい大小があるか。これは中々難かしい問題だが、或る物ずきの男が、風呂の中で放って、立ちのぼる泡を集めて測定したら、大砲屁の最も大きいのが四十五ミリリットル、最小のスカシ屁は○・八ミリリットル、通常の大きさのがまず十五か二十ミリリットルであったという、つまり一升瓶一杯ためるには、大きな大砲屁の四十発入用だということになる。

(2)大砲屁を孕む人は天上界において問題になる。それはボイルの法則に従って屁が腸満(ガスによって腹腔が膨満する症状)になるからである。飛行機に乗ったときは要注意である。最近、事件に発展したことがあったね。

 大砲屁も通常の下界では、満座の中で放ちにくいという不自由さぐらいであるが、天上界となると大したことになる。例えば飛行機で上空に上ると気圧が低くなる。物理学で有名なボイルの定律に依れば、
      PV=恒数
である。圧力Pが小となるほど容積Vはこれに逆比例して大となる。それで高度が高くなるほど、腸がふくれてくる。殊に日本人のような、菜食で大砲屁の素質となれば、腹は見る見る膨張して腸満のようになり、痛くて痛くてたまらなくなる。これは戦時中の航空隊でも困りぬいた一問題であった。

(3)その人に大きい(大砲)屁が発生するのか、小さい(透かし)屁が発生するのかは、主にその人の食性(食物に関する習性)によって傾向が出るのである。食性が人間行動に及ぼす影響は大きいと考えられるが、屁においても然り。というか、甚大な影響を与えている。
 動物のみならず、人間(民族)の屁において肉食性か草食性かの傾向はあるはずだ。大きな屁は草食性で臭くない。小さな屁は肉食性で臭い。このことが文化や感性の差となってあらわれてくるはずである。
 例えば、前に日本人とアラブ人やヨーロッパ人との比較をしたね。

 学生時代牛肉会をやって、やたらに肉を食うと、翌日出る屁は、キット鼻もちならぬものであった。あれは過食のため、一部の蛋白が不消化のまま腸の下部まで下がって来たので、それに適合した腐敗菌が繁殖して、蛋白質を分解してインドール、スカトール、硫化水素などの悪臭ガスを出すからである。植物性残渣(残りかす)の場合に起こるメターン醗酵、水素醗酵などに比べると、ガス発生は弱い。それで大砲屁にならずに、小さい屁になる。つまりスカシ屁となる。スカシ屁が臭いのはこのためである。
 それで草食する馬の屁は、大きくて臭くないが、肉食動物のは音なしで臭い。猫の屁が無音で臭いのも上の理論によるものである。

(4)屁は民族性ということばかりでなく階級(職種)にも関連してくる。これは「腸の蠕動」に関連するというが、行動からくる身体性ということだね。また、健康をも左右する。

 労働すると腸の蠕動が盛んになり、食物の通過が早くなる。従って未消化のものが腸の下部に来る。それで労働者は多発する。もしまたその場合飯とか菜っ葉とかを大食すると自然大砲屁となる。労働量が少なく、肉類牛乳などを主として食うと小さい屁の少発となる。もしまた労働も少なく可消化の物を小食するにかかわらずガス発生が多いような場合は、消化器の弱っていることを示すのであるから注意しなければならぬ。

 かくして、〈屁〉的現象は我々の身体に根ざした奥深〜い文化なのである。
posted by 楢須音成 at 21:19| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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