2005年08月31日

奇書が奇なのは何でだろ〜ヵ

 巷間〈屁〉に関する本はしばしば「奇書」と名指しされる。
 
 奇書という言葉には正と負の(と言って悪ければ相反する)二つの極にまたがる意味がある。音成の感覚で言ってしまえば、それは「怪」と「優」の間にある意味合いなんである。

 それは、怪(あやしい)を基点に、異(ほかと違う・異常な)→変(おかしな・奇妙な)→珍(めずらしい・稀な)を束ねつつ、優(卓絶している)に至る構造となっておる。これら「怪・異・変・珍・優」が混淆すればするほど「奇」は奇となるのである。
 
 「奇書」とか「奇人」とかは良い意味で(肯定的に)使われることも多いが、「奇病」となると、まず良い意味では使われない。いろんなケースを見れば、奇というものは特異性に対するわれらの向き合い方を暗黙に指し示しているわけであるね。
 
 かくして「奇書」とは何やらただならぬ書である。
 
 怪しいだけなら、いわゆるトンデモ本も人後に落ちぬが、そのまんまトンデモというのでは語るに足らぬのである。(怪しいだけじゃ奇じゃないし、優れているだけでも奇じゃありません。ギンギラ「怪・異・変・珍・優」の輝きがないとダメよ)
 
 偽書、異端の書、変態の書、錯誤の書など怪しい光彩を放つ裏舞台の奇書の数々を始め、中国小説の四大奇書(「水滸伝」「三国志演義」「西遊記」「金瓶梅」)のように、今では世評も高くマル優(卓絶している)と位置付けられ表舞台で高ポイントを獲得しているものもある。
 
 では〈屁〉における「奇書」とは何か。
 音成が思うに〈屁〉そのものは奇なるものでは断じてない。断じて奇ではないのになぜ「奇書」と名指しされるのか。
 
 だって〈屁〉が奇でない理由は「誰でもする」からである。老若男女、美人不美人すら問わないではないか。音成もするし、あなたもするよね。ごくごく普通の生理現象なのである。ならば〈屁〉的現象とは怪しくもなく、異常でもなく、奇妙でもなく、珍しくもなく、優れているわけでもないのが当然ではないのか。
 
 にもかかわらず、福富織部の『屁』にしても、ロミ&ジャン・フェクサスの『おなら大全』にしても、〈屁〉的現象を集めて語った本が「奇書」と名指しされている。確かに、やっぱり、何やらただならぬ書であることには違いないのだが....
 
 本日はここまで。


posted by 楢須音成 at 23:31| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月03日

続・奇書が奇なのは何でだろ〜ヵ

 当たり前の生理現象〈屁〉を素材にした本が「奇書」となってしまうのは「一つ一つはつまんないことなんだけど、たくさん集めたら凄いことになっちまった」というような転換構造があるからである。(たくさん集めてもつまんない場合もあるだろうし、単に集めればいいというわけではありませんからね)

 「凄いことになる」転換は別に「奇書」に限らない。世に優れた本には、成績表的・正誤表的な客観評価とは別に、あまねくそういう転換が用意されているものである。
 「奇書」の類もしかり。(奇書とは優れた本の一分野なのです)
 それは、素材の「ボリューム(量)」と、集めた素材を構造化する「フレームワーク(内容の構成)」との相互作用が、われわれの精神に「凄さ」を喚起してくるメカニズムなのである。
 
 素材が凄ければ、フレームワークが弱くてもインパクトはある(かもしれない)が、素材のインパクトがなくフレームワークも弱いとなると、いくらボリュームが多くても拡散してしまいインパクトはないのである。(まあ、それでも「テーマが単一=〈屁〉一本槍」というフレームワークでも本は成立するけどね)
 
 そろそろまとめに入ろう。
 @〈屁〉とは「誰でもする」当たり前の生理現象である
 Aそれは奇ではないが数を集めてくると奇に(近く)なってくる
 Bしかし単に集めただけではたいしたインパクトはない
 C真打ちの「奇書」に昇華できるかはフレームワーク次第である
 
 うーむ、なんか問題が残る感じ。

 .....音成は〈屁〉を当たり前として奇でないと強弁してきたが、実のところ、〈屁〉的現象というものは笑いや恥にまみれていて、本来は当たり前であるはずの生理現象が笑いや恥へと屈折していく深層を持っているのである。

 われわれはその深層を(無意識的に)感じている。それ故に「テーマが単一=〈屁〉一本槍」でもフレームワークは成立するのである。

 深層にちゃんと着目すれば〈屁〉的現象はそれ自体で「凄いことになる」のであるが、それを認知しなければ単なる当たり前の生理現象レベルなのである。

 かくして〈屁〉の七変化する素材の凄さに無頓着(表層だけしか見ていない)なら、その本は正しく奇書には成り得ないのである。〈屁〉とはそういうものです。
posted by 楢須音成 at 02:17| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月13日

まとまり感とは何だろ〜ヵ

 本(書物)の「まとまり」感は気になるものの一つ。テーマに基づいて展開される内容が作り出す世界は、独自の「まとまり」を示すのである。

 これまで『屁』『おなら考』『おなら大全』『一発』『新編・薫響集』と文献探索してきた。音成としては、とりあえずは明治以降で重要と思われるものを、特色(オリジナリティ)を浮き立たすべく選んできた。(つもりであります....)
 ところが、ここまできて何か物足りないんですね。

 そもそも世界(本の内容)の「まとまり」って何か。
 例えば、東洋医学とか西洋医学とか言うとき、東洋医学の「まとまり」感や西洋医学の「まとまり」感とは、一般人でも、ひとまず(漠然としていても)感じることができるほどに既知である(と思っている)。
 分野は成立(確立)しているし、専門家でなくとも、分野として成立していれば一定の概念や評価は持っている(あるいは、持つための体系知は求めればある)ものである。
 そういう「まとまり」を導く既存の体系知があれば、内容を展開しようとするときには自分の位置関係を認識していくはずだし、著作全体の「まとまり」感は自ずと備わるわけであるね。

 ところが〈屁〉的現象が一冊の本にまとめられるときのフレームワークに着目してその展開を見ると、〈屁〉的現象というものの位置付けや、フレームワークそのものの「まとまり」感というものが、肝心なところで腰砕けになっているように思われるのである。
 これまで紹介したそれぞれの本は、確かに〈屁〉的現象の世界をあぶり出してくれているのだが、何か「まとまり」感がストンと抜けているように思う。

 『屁』(福富織部)… 〈屁〉に関する事象を広く収集・解説・評論。生資料豊富でジャンル分け集大成の草分け。明治期までの古典からの収集に力点あり。資料集的。
 『おなら考』(佐藤清彦)… 〈屁〉に関する事象を広く収集・解説してコンパクトにまとめているが、著者は元新聞記者で人物エピソードに力点あり。取材に本領発揮。読物的。
 『おなら大全』(ロミ&ジャン・フェクサス)… 欧州の〈屁〉に関する事象を広く収集・解説・評論。歴史叙述の中に資料を展開した編年史による集大成。読物的。
 『一発』(中重徹)… 〈屁〉に関する事象を広く収集した資料集。『屁』を補完しつつ昭和戦後期までジャンル分けした生資料。近現代にかけての文学者の作品収録などに新味あり。
 『新編・薫響集』(興津要、中重徹)… 〈屁〉に関する事象を収集・解説・評論。ジャンル分けで生資料を用意し、主に近世から明治文学に花開いた〈屁〉の表現の多様さを通じて〈屁〉を跡付けている。評論読物的。

 それぞれは、内容をまとめてみればこんな感じかな。音成は、事象というか現象というか、関心の向けどころとして〈屁〉的現象の発生に注目しているので、こんなまとめ方になるのだが、各書とも「まとまり」感の収斂度がイマイチであると言わざるを得ない。(これら先駆的な著作に対して失礼な言い方ですよね。重々承知。それでも音成は、ほとんどの〈屁〉の著作に感じておるんですわ)

 これらの本は、話を集めてきた「笑話集」や「笑話の解説集」という「単純な読物的フレームワーク」を超えているのは間違いない。〈屁〉的現象の深層を発掘するために著述されたのであって、そういう批評精神は高く評価しなければならないのであるが、まとめの頂点で「単純な読物的フレームワーク」に収まってしまって踏み出せないでいるのである。

 なぜか。

 音成は「まとまり」感の物足りなさをそこに見るのである。もう少し追究してみよう。
posted by 楢須音成 at 13:59| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月17日

続・まとまり感とは何だろ〜ヵ

 結局のところ「単純な読物的フレームワーク」とは単に「〈屁〉一本槍」で笑いをとるスタンスである。そりゃ、まあ、〈屁〉の笑話を集めるだけで一冊の本をまとめることに不都合はないのである。
 あなたが編集者ならそこに気楽に素朴にアイデアを盛り込める。
 「都会の屁、田舎の屁」「女の屁、男の屁」「日本の屁、外国の屁」「賢者の屁、愚者の屁」「くさい屁、くさくない屁」....思いつく限り変わり映えのしないパターンである。これで売れるかどうかは知らんですけど。

 こういう単なる「〈屁〉一本槍」は、〈屁〉という素材の凄さ(笑いと恥にまみれた喜怒哀楽)に甘えてしまうということである。集めりゃ何とか様になる事態なのである。
 これが〈屁〉ではなく「寝言」「鼾」「欠伸」「げっぷ」といった素材ではどうか。比べてみれば〈屁〉の方が事態深刻と判断されるではないか。(と思いませんや?)
 
 では、ここで「〈愛〉一本槍」でいってみよー。「都会の愛、田舎の愛」「女の愛、男の愛」「日本の愛、外国の愛」「賢者の愛、愚者の愛」「くさい愛、くさくない愛」....とまあ、再びのワンパターンであるが、何だか〈屁〉は〈愛〉と良い勝負をしているようには思いませんや?(まあ、見解は二分するかもしれませんが、〈屁〉と〈愛〉は素材として同じくらいの深度を持っていると主張したいです)

 かくして〈屁〉(の話)を集めると立派に一冊の本になるし、面白オカシイわけであるが、〈屁〉的現象の深層の存在によって単なる「笑話集」を超えるのである。
 このような「単純な読物的フレームワーク」による本の場合、前面に出る期待値はあくまで「笑話集」であるから深層の存在は過剰(意外)である。従って「まとまり」感は少し重かったりする(笑話を超えている)わけである。

 音成が不満を漏らした「単純な読物的フレームワーク」ではない(批評的な)著作には、この逆の事態が起こっていると思うわけである。
 著者の期待値は〈屁〉の深層の存在を意識した「批評(的集大成)」であるが、そうであればあるほど深層の存在が重くなり、まとまりがつかず(まとめきれず)、天然の「単純な読物的フレームワーク」が浮き出してくるのである。

 つまり「まとまり」感の物足りなさというのは、身も蓋もないがフレームワークの不十分さということができる。
 フレームワークとは最後の終結点(頂点)を想定しないと、束ねてきた光が拡散するように、焦点がぼけるのである。

 エッセイや論文のような言いっぱなしの著作と違って本ではこういうことが起きる。〈愛〉なんかと違ってもともと〈屁〉は遇され方が冷たいし、深層の探求はまだまだ(あんまり誰もしない)ってこと。突っ込んでみると、われらの〈屁〉的現象はいささか謎めいているということです。
posted by 楢須音成 at 21:56| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月04日

〈屁〉の批評とは何だろ〜ヵ

 批評は対象(作品)をあれこれ論じるところに成り立つ。
 そもそも作品とは何ぞやとはここで深追いしないが、何かを論じるっていうのは、どういう形であれ分析・解釈・評価して何らかの体系化(秩序化)を目指すのであるね。
 そこで〈屁〉であるが、例えば大昔から〈愛〉が作品(文学)化され、それが論じられて、見果てぬ理論(覚めやらぬ夢のようだね)へと結実してきた一方で、〈屁〉はなかなか批評の対象とはならなかったのである。
 
 われわれの〈屁〉的現象への批評が芽生えたのは凡そ明治以降であると言わねばならない。いわゆる近代化というものが何かにつけ認識の枠組みを大きく変えたわけだが、遅蒔きながら〈屁〉に対する批評性をも持ち込んできた点で意義深いのであるぞ。

 きっかけはー、何か。(フジテレビじゃないよ。最近おならの番組ありましたけどね)
 多分それは開化で持ち込まれた〈屁〉の化学分析なのである。それが持ち込まれた衝撃が隠微に潜入し影響を与えたのである。何事につけ深ーい影響があるとすれば、持ち込まれたもの自体(分析結果)への反応もあるが、それを産み出した知の枠組み(取り組む姿勢や手法)への驚きなのである。
 
 まあ、〈屁〉の化学分析の結果(その表現=認識)に感心しつつ(仰天したわけはなかろう)、認識の新境地(批評性)が開けたことは間違いない。そういう時代の風が吹いていたわけである。
 
 福富織部の『屁』の出現はその影響下にある。

 これまで音成が取り上げてきた本は、原則的に一書まるごとテーマを〈屁〉としているものであるが、そのフレームワークの検討によって日本近代における〈屁〉的現象への批評性の変遷を示してみたのだ。(笑...ホンマかいな)

 かくして音成は『屁』の意義を強調するわけだが、大雑把だが批評性の変遷を以下のようにまとめておこう。

 『屁』の登場は〈屁〉的現象における日本初の集大成(フレームワーク)の試みとして画期的である。そこには萌芽的にいろいろな要素(指向)が存在している。
 後続の本は読み物的な洗練度は高めつつも、批評性においては現在まで発展途上の段階であり、多くの面で『屁』の水準を超えてはいないのである。

@大きな特色である総合的な資料集としての指向は『一発』に引き継がれている。
Aジャンルによる分類の指向は『おなら粋門記』『ヘ調ウンチク辞典』『屁珍臭匂臭』『おなら考』などに引き継がれている。
Bこれら諸作は『屁』にもあった面白オカシイ読み物指向も色濃く引き継いでいる。
C作者が顔を出すことで芽生えていたエッセイ(自分の身辺との関わりの中に〈屁〉をとらえるスタイル)という作品指向は『放屁学概論』『おなら粋門記』などに引き継がれている。
D福富織部が思い立った「集めてみる→分類(分析)してみる→論じてみる」という分析手法の指向は、国文学的アプローチの『新編・薫響集』や民俗学的アプローチで〈屁〉をとらえる『屁ひり爺』などに結実している。

 史的に見ると、現在に至る、これらの諸作の間には多くはないが、短編の〈屁〉の諸作や議論がいろいろ存在している。これらの総体が〈屁〉の批評性を支えているのである。基本的には@〜Dの指向の中にあるといってよいが、さて、これから〈屁〉的現象への批評が広がる可能性はどこにあるのか?
posted by 楢須音成 at 00:27| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月08日

続・〈屁〉の批評とは何だろ〜ヵ

 いまなお〈屁〉の化学分析はウンチクを傾けるときには触れざるを得ない基礎知識である。例えば〈屁〉の成分や成分比ということなどがそうだが、こういうこと(記述)が何で批評性を喚起したのかといえば、それによって〈屁〉を(西欧流の=科学的に)実体として見る観点を獲得したからである。

 論証抜きで言っちまうけれども、お鳴ら(おなら)とか転矢気(てんしき)とか下風(げふう)とか、実体に即した名称ではなく、ほとんど情況(場面や態度や動きなどの有り様)を指し示すことで曖昧に実体を示してきた〈屁〉が、初めて明確に実体を分析の対象にするという画期的な段階に達したのである。(何よりここから〈屁〉を「瓦斯(ガス)」と呼ぶようになったんだよ。「瓦斯」と呼ぶ気体の認識の背後に日本文化を背負わない異質な認識のフレームを見たんだよ。じゃ、明治以前はどうだったんだ?ってことになるけどね)

 近代化という時代の風が〈屁〉的現象へも吹いたのである。そこから現代に至るまでの批評性の概略を前回@〜Dの指向として示したわけだが、まあ、スケールが小さいと言えば小さいね。散発的で脈絡は見えにくいし、太い流れではないんである。(だって〈屁〉なんだもん...笑)

 音成の探索によれば、紹介した本以外に今日まで散発的に発表された〈屁〉の諸作や議論もまた@〜Dの指向を持っているのだが、これからの批評の可能性の主力は、いろいろなアプローチ(観点)の可能性を示唆するDにあるのは自明である。文明開花で獲得した〈屁〉を実体としてみる観点はいまや当たり前だし、それを前提とすれば、多彩な観点からアプローチが可能になるのである。

 すべて〈実体〉とはそれに即して詳細に(多方面から)観察すればするほど〈現象〉(実体の振る舞い)として立ち現れるものであり、そこを認識してこそ批評の根拠が見えてくるのである。

 例えば〈屁〉を化学分析すれば、

 「次に化學上の屁の集成はといえば、次の如きものである
  酸素 水素 窒素、炭酸瓦斯 硫化水素
  メチールメルカプターン
  そして初めに云つた屁の異樣なる臭氣は、硫化水素とメ
  チールメルカプターンが其主たる成分である、俗によく
  いふやうなアンモニヤなどの臭氣ではない。或る人は、
  インドール、スカトールなども、亦屁の臭氣の一部成分
  として居ると論じて居る」
            (『滑稽新聞』宮武外骨、1908年)

 もちろん、この記述はすべての本質(〈屁〉的現象の本質)を示しているわけではなく、一つの観点から見た〈屁〉の現象ということになるのである。

 こうした〈屁〉の化学分析だけをみても検体の数だけ成分も成分比も微妙に違うわけであるし、現象を細かく観れば観るほど確言しにくいのが現象である。では、その現象(の全体)をどう記述(表現)すればいいのか、などど考えてしまいませんかな。
 
 化学分析は〈屁〉的現象に新たな表現(記述)を提供した時点で十分に画期的なのであるが、一方で分析が拡張していく可能性を暗示し、さらに新たな別の観点の創出へと導くことにもなるのである。(現象の一方的記述は残尿感のような不全感を常に内包しているもの。されば疑心暗鬼する分析は分析の積み重ねにより新たな分析を呼び続け、分析的手法は連鎖的に多方面からの分析の可能性を示唆するんです)

 派生していく新たな別の観点によって、これからの〈屁〉の批評性は培われていくに違いない。
 もっとも、化学、物理、文学、民俗、心理、芸能、歴史、言語、医学、地理、音楽...などなど、われわれが〈屁〉的現象にアプローチするのに既存の知の枠組み(観点)のままでいいのかは、全く不明であるわい。

 これまでに紹介した〈屁〉に関する本は『おなら考』以外は現在では絶版になっている。また雑誌などに発表された〈屁〉の諸作や議論(対談など)はそのまま埋もれてしまっている。音成の探索も古書が99%という有り様。なかなか〈屁〉的現象は流れに(批評の対象に)なりにくいのである。残念じゃ。
posted by 楢須音成 at 21:42| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月11日

続続・〈屁〉の批評とは何だろ〜ヵ

 批評というものは飽くなき「分析」によって培われていくのである。
 〈屁〉に関する限り分析的視点の導入は日本では明治以降であったわけだが、ほかの欧化案件と同様に〈屁〉の批評の潮流は自然科学的視点(化学分析とか)と人文科学的視点(歴史分析とか)の間を揺れ動いて現在に至っている(はずである)。

 これまで主に〈屁〉的現象に関心を持っているエッセイ集を探索してきたわけだが、作者たちはエッセイのテーマの一部に〈屁〉を用意して熱く語っているのであった。それらの傾向は「〈屁〉の批評とは何だろ〜ヵ」でまとめた@からDまでの批評の指向に深浅あれども概ね当てはまる(はずである)。

 エッセイということではCであり、批評の可能性としてはDのバリエーション(広がり)へと向かっている(はずである)。

 CのDの言うことはやめよう。要するに、作者が顔を出している作品指向のエッセイの中においても〈屁〉は分析・体系化へと向かって(深化して)いることを音成は言っているのである。

 それら〈屁〉的現象への批評は総力戦ではなく個別戦が行われているわけであり、残念ながら、ここ久しく〈屁〉のまるごと本は出ず、まして雑誌のまるごと特集もない。なかなか全体が見えない状況ではあるのである。(そういう意味では、最初にやった福富織部の『屁』の総力戦は凄いよね)

 現在の地平から、論じる観点はいろいろあるはずなのである。だけど、まだ整理されていないし、視界は霧の中にあるように見通しがつかないのである。
 霧の中に敢えて突っ込んだとして、まるごと〈屁〉をテーマにした一冊の本の場合はフレームワークの「まとまり」感(の不足)が目立ってくるだろうね。瞬間技(単発)の論文やエッセイの場合は、全くの言いっぱなしではないにしても、観点の提示だけでカッコつけの言い切りが可能だから(音成はいつもこれをやっとる)、論点は千々に砕けて乱脈を極めるんであるよ。(...笑)

 〈屁〉に関する批評の論理展開に音成は不満を漏らしもしたが、〈屁〉的現象をただ並べただけでは分析は常に隔靴掻痒なのである。分析が〈屁〉的現象の「構造・構成」に言い寄らない限り〈屁〉を論じたことにはならないのである。

 ともあれ、〈屁〉的現象への批評は多くの人のエッセイによって深くも浅くも脈々と受け継がれていることは見てきたとおりである。
 これはこれで、とてもうれしいが、「やがてこの潮流は整理されていくだろー」…なんて、楽観的であっていいわけでもない。なぜならば、人は自覚しない限り何もなしえないからである。〈屁〉に自覚的である人はどこまでいるかは不明であるわい。

 〈屁〉を論じる(批評する)ってことは、〈屁〉的現象にどこまで自覚的になれるかということであるぞ。

 福富織部の『屁』から「屁から見た明治大正側面史」の一節を引用する。
「明治開明の世になると、屁は先ず化學者に取り扱はれた。即ち顯微鏡の渡來と供に、屁を試驗した。佐々木忠次博士によると、『屁は、形がないものとは何人にも考えられてゐたが、私の友人は、顯微鏡で試驗をした、その結果、屁は金の粒の集合だと言つて大發見したやうに云いふらし、大いに笑つたことがある』と、語られて居る。
 けれども、それより前に、屁は、操觚者(そうこしゃ=今で言うジャーナリスト)の為に、重要視せられてゐた。
 いひかえると、政府攻撃の有力なる資料となつて居る。つまり、正々堂々と反對をするに於いては、直ちに捕へられて、牢獄にぶち込まれねばならない。そこで、屁といふ愛嬌者を捕へ來たつて、時事を諷刺することが多かつた」

 化学者とジャーナリストを対比させながら、福富織部は自然科学的視点や人文科学的視点の萌芽を時代における〈屁〉の諸相(展開)として自覚的に見ているね。
posted by 楢須音成 at 11:06| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月03日

作品化する〈屁〉とは何だろ〜ヵ

 〈屁〉的現象を記述する資料を分類してみると@事実関係の記述A文芸作品B批評...と大別される。これら書き文字の記述は、そもそもは@の事実関係の記述から出発しているわけなのだが、それを踏み越えることが、作品化ということである。
 つまりAやBへと発展していく道筋をたどるのである。

 事実関係の記述とは、例えば「Aさんの屁は臭かった」というように文を構成する記述である。これに「その時」とか「鼻が曲がるほど」とかの記述が補強されて、関係が親密に形成(記述)されていくんだね。場所、近くにいた人、季節、表情、発した言葉など、そこにある様々な要素が次々に投げ込まれる。
 「その時、Aさんの屁は鼻が曲がるほど臭かった」となると事実は詳細になるわけさ。

 こうした事実関係の記述は基本的に視覚的に構成されるものである。見る(見た)という行為を暗黙の前提にしている。それは語り手というものを前提にしているわけだが、語り手が限りなく姿を見せず記述の背後に後退することによって、事実性(客観性)が強調される仕組みになっている。(事実が保証されるわけじゃないけどね)

 もちろん、聞く(聞いた)というような伝聞による事実関係もあるね。このときも伝聞される内容は視覚的に構成されている。そして「Aさんの屁は臭かったとさ(そうだ)」というような記述(語り口)になり、語り手の二重化を示すことになる。

 さて、事実関係を踏み越えた記述というものが「作品」なのであるが、どういう事情になっているのか。
 事実関係を踏み越えると言っても、「Aさんの屁は臭かった」という記述の形態(文)が変わるわけではない。そこに語り手が意識下で、ある立場をとる変化に応じて、語られるものは「事実」→「疑似事実」→「想像世界」へと進化の経路を進もうとする。「Aさんの屁は臭かった」という物語が始まろうとするのである。
 
 ここで〈屁〉というものの作品化への一歩が始まってくるんだね。
 臭かろうと臭くなかろうと「Aさんの屁は臭かった」と記述(Aさんが存在している事実を下敷きにするが、事実かどうかは別にして「臭い」という要素を投入)すれば、疑似事実の関係が生まれる。あるいは現実の存在を下敷きにせず架空のAさんを用意すれば、想像世界の事実関係が生まれてくるわけである。

 「Aさんの屁は臭かった」 事実関係なら…単なる事実
 「Aさんの屁は臭かった」 疑似事実なら…例えばデマなんかはこれだね
 「Aさんの屁は臭かった」 想像世界なら…純然たる物語(の萌芽)だね

 かくして、記述は同じであるが、語り手が意識下でどういう立場をとるかによって記述が提示する世界は変わるのである。このことを踏まえて「作品」というものを考えないといけないわけだね。
posted by 楢須音成 at 01:11| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月08日

続・作品化する〈屁〉とは何だろ〜ヵ

 古事記のような神話は、現代の認識では歴史としての「事実」を装いながら語り出している「作品」の位置付けになる。「事実」→「疑似事実」→「想像世界」の連関のどこに位置するかはともかく、それは物語であって「作品」である。

 万葉集のような詩歌も、言葉の様式化をふまえて「事実」または「疑似事実」または「想像世界」を歌いながら書き言葉化して「作品」となっている。(言葉や音韻の様式化は作品化の装置として自立的に機能するんだね)

 さて、〈屁〉的現象が作品化した例は宇治拾遺物語(鎌倉初期)にこんなものがある。

「今は昔、藤大納言忠家といひける人、いまだ殿上人におはしける時、びゞしき色ごのみなりける女房と物言ひて、夜ふくる程に、月は昼よりもあかりかるけるに、たへかねて御すをうちかづきて、なげしの上にのぼりて、肩をかきて引きよせけるほどに、髪をふりかけて、『あな、さまあし』といひて、くるめきける程に、いとたかくならしてけり。女房はいふにもたへず、くたくたとしてよりふしにけり。此大納言、『心うき事にもあひぬる物かな。世にありてもなににかはせん。出家せん』とて、御すのすそをすこしかきあげて、ぬき足をして、『うたがひなく出家せん』とおもひて、二けんばかりは行程に、『抑(そもそも)その女房のあやまちせんからに、出家すべきやうやある』と思ふ心又つきて、たゞたゞとはしりて、いでられにけり。女房はいかがなりけん、しらずとか」(粗筋=昔、忠家という人がいて色好みの美人の女のところに通って行ったんだが、女があれの真最中に高らかにおならをしてしまった。女は(恥で)口もきけずへなへなとなって起きあがれない。忠家もガックリ意気沮喪。あまりの情けなさに世を捨てて出家しようと決意するが、そそくさ寝所を出てしばらく行くうちに「なんで女の過ちに俺が出家しなければならんのよ」と思う心がわいてきて思い直して帰って行ったのだった。女がどうなったか知らんわい)

 この話は、実在した忠家に対して細ごまと事実っぽい記述を重ねることによって「作品」として成立している。大筋で事実なのかどうかも定かでないが、こうなんだと見てきたように細かく語れば語るほど(記述を重ねるほど)事実かどうかを問わず想像世界に近づくんだね。

 単純で当たり前の話ではあるが、「作品」というのは単なる事実関係の記述ではない。「作品」は、語り手が意識下で、ある立場をとって(ある意図をもって)記述を積み重ねることにより世界を提示するのである。

 宇治拾遺物語は真っ当に説話文学として「作品」としての意図を持ち、さらに古事記や万葉集と同様、記述の重層化というスタイル(=表現)を獲得しているわけだね。

 忠家の話は〈屁〉の事件を語って笑いを誘う。語り手の意図は何だろうか。話の核心は〈屁〉が原因で出家しようとする忠家の心理過程にあるわけだが、語り手は、そそっかしい忠家の滑稽な話である...と意図しただけだろうか。それもあるだろう。だけど、セックスの最中に高らかに屁をしたリアクションそのものを伝えたいという、〈屁〉的現象における人の振る舞いの伝達こそが語り手の意図であると言わねばならないんだね。語り手の感動そのものである。

 そういう意図(感動)が何を意味するのか語り手自身も評価しにくいかもしれない。かくして、現象は理屈抜きで記述されるのである。結果として、いろいろな解釈(理屈)は付けることができる。「笑っちゃうねえ、これじゃ美女も台無しよ」なんて表層的に(手軽に)鑑賞しても楽しめる。(話の落ちとして、逆に〈屁〉でムードが盛り上がったとか、忠家が「いやぁ、あの女ったらさぁ」と暴露して珍事を自慢するとかの異説となる展開があるかもしれないが、ここでは忠家の寝ぼけたような心理過程が記述されているわけである)

 もう一度この一節を眺めてみよう。説明(解釈)的な描写は一切ないところに記述が成立していることがわかる。こうなると、意図を特定するには記述に入り込む(語り手を追体験する)しかないが、もともと「作品」における意図は重層的で明確には特定しがたいものなのだね。

 音成はこの話の場合「セックスの最中に高らかに屁をしたリアクションそのものを伝えたい」ことが語り手の意図だと言った。
 その意図を踏まえた語り手の独り言は例えばこんな感じかな。@セックスの最中に屁をすることはあるさAでも美男美女が自分の意志からではなく、いきなり出したら慌てるわさBまして派手にやっちゃあ二人とも仰天するわさC二人とも人前に出られぬと思って恥にさいなまれて意気沮喪するわいなDだけど女の過失なんだからねE男が出家までするのはやりすぎじゃないかFさすがに平常心を取り戻したけどさG人を惑わせる〈屁〉はこわいのうH女もどうなったんかのうIあわれよのう...などと延々と続くにしても、目をそらさずに感動的に見ているのは二人のリアクションなのである。(だからABCあたりがリアルにして主眼ですね)

 まあ、ホントのところ「作品」の意図の所在は明確には特定しがたいものであるが、それでもその意図は記述のなか以外にはないのである。

 「作品」を通して語り手は世界を提示する。作品化を促す意識とは、これも単純な話で、基本にあるのは感動を他人にアピール(伝達)したいという意識なんだね。(それは孤独に耐えられず他人様に訴えようとする、業みたいな意識の運動なのさ)

 作品化した〈屁〉とは、〈屁〉的現象における人の振る舞いを伝達しようとするものであり、記述の重層化という表現のスタイルを獲得したものである。

 ならば、「Aさんの屁は臭かった」というような単なる記述が、意図をはらみ、表現を獲得して「作品」となっていく契機は〈屁〉の数だけ遍在していると言わねばならないね。
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2006年01月21日

続続・作品化する〈屁〉とは何だろ〜ヵ

 文芸やある種の批評を「作品」と呼ぶとして、これらの表現は何をめざしているのだろうね。「作品」というのはニュース原稿のような単なる事実関係の記述ではない(はずである)。「作品」においては、語り手が意識下で、ある立場をとって(ある意図をもって)記述を積み重ねるのである。

※お伽草子の中の福富草子を福永武彦訳(ちくま文庫)で以下引用して進める。

「人と他人の果報を、身分不相応に羨んではならない。昔、福富の織部という長者があったが、いかなる前世の定めごとか、生まれつき一つだけ独特の芸を持っていた。習ったわけでもないのに、奇妙きてれつな音響を発するのである。そこではからずも有名になって、その名は天下にとどろいた。
 その芸は、人前で言うのを憚(はばか)るような卑近なものだが、身分の高い低いを問わず、話に聞いた者はみんな笑い合ったから、やがてはお上に仕える人々の間にも名が通り、実技を御覧になってはなはだ興じられた。そこで福富長者は、富んだ上にも富み、楽しい上にも楽しく暮らして、棟には棟が高さを競い、蔵には蔵が立ち並んで、耕さずとも、五穀豊穣、庭のなかに充ち満ちた。
 ところでその隣に、乏少の藤太(ぼくしょうのとうた)という貧乏人が住んでいた。この方は織部に引きかえて、朝夕かまどに煙の立つこともない。庭は草ぼうぼう、垣根は崩れほうだい、幕の代わりに薦(こも)を垂らしたが、夜風の寒さにまんじりともできぬから、垣も柱もぶち壊して、ようやく暖を取る始末。夏はぼろ同然の麻衣(あさぎぬ)をまとい、破れ団扇(うちわ)で蚊をはらい、軒の夕顔のきれいに咲いたのを、せめてもの慰めにして暮らしていた。若いころから夫婦の契(ちぎり)を結んだ女があって、藤太には十以上もの姉さん女房だが、口がめっぽう大きいので、人からは鬼ばばあと呼ばれていた」

 物語の書き出しである。ここでは織部長者の屁芸の奇特ぶりや、身上の富裕ぶりについて記述を積み重ねている。織部長者の来歴が凝縮されて説明されているのである。そうやって、そこから流れは意図的に転じるわけだね。
 「ところで」と場面は切り替わる。乏少の藤太という隣家の貧乏人が登場するのである。書き出しから積み重ねてきた記述のトーンが転調するわけだが、実はこの物語はこの藤太(や鬼ばば)が主人公(眼目)なのさ。

 織部と藤太について語っている記述は対照的だね。織部については俯瞰から概説的に流す感じ、藤太については接近して微細な描写的な記述になっている。つまりは、印象の違う二つの時間(世界)が提示されている。
 二つの時間の中はそれぞれ、これまた、たくさんの時間によって構成されている(重層的に記述されている)わけさ。結果的に一つのまとまり(ストーリー)として提示されるところが「作品」(表現)なんだね。(こういう一節だけなら作品的と言っておこう)

 前に作品化した〈屁〉とは記述の重層化という表現のスタイルを獲得した世界だと言ったが、そこでは時間が流れている(表現されている)わけである。

 かくして織部の時間と藤太の時間の記述を見れば、藤太の方がリアル(より視覚的)で表現性が高い。語り手の意図(立場)は主人公と見定めた藤太(や鬼ばば)にあるわけだから、自ずと時間の濃密度が高いわけである。

 さて、この後、藤太は織部長者にあやかりたい妻(鬼ばばあ)にそそのかされて、織部から屁芸の伝授をしてもらおうと出かけていく。ついに秘伝の薬(放屁促進剤)をせしめて処方を聞いて帰る。妻は大喜びである。藤太を盛装させ今出川の中将のもとに送り出す。売り込んで屁芸で褒美をもらおうという魂胆である。しかし、出かける途中、藤太はどうも腹具合が思わしくない。

「中将殿はそれ(藤太の売り込み)を聞いて、こいつは面白い、近ごろは神経衰弱の気味で、学問の方もさっぱりだったが、一つこれで気晴らしと、さっそくお庭に召し入れた。そこで蹴鞠の場所に円座を据えさせ、ご飯にお酒と饗応いたらざるなく、さて今か今かと耳傾けておわします。御簾(みす)のうちには、御妹君の尚侍(ないしのかみ)、おばの尼御前、御台所(みだいどころ)など、見物あそばされている。藤太はお腹が痛いのに、せっかくの御馳走とばかりさもしい根性で詰めこんだあげく、腰はひきつる、お腹はしくしく、とうとう座に耐えられず、駆けこもうとしたとたんに栓がはずれて、さっと散らしたその勢いはまるで水鉄砲。庭先の白砂の上に山吹の花を散り敷いたようで、かねて山吹の名所と知られる井出の屋形(やかた)もかくやと思われる風情である。ましてやそこに一陣の俄か風が吹きすぎたから、御殿もきざはしも怪しい臭いが充ち満ちて、げにあさまい限り。桃尻おさえて逃げ出そうとするところを、下男どもがひっつかまえ、笞(むち)をふるって叩き伏せた。真黒な居処(いどころ)をひっぱたかれて呻くのを下男どもが烏帽子と髻(もとどり)を引っ張って、ようよう庭から追い出した。たらたらと血を垂らしながら引かれて行ったから、そのあとはまるで立田川、もみじの錦である」

 藤太はこんなふうに大失敗をやらかし、血にまみれ半死半生となって逃げ帰る。褒美を今か今かと待ちこがれていた妻は事態を知って大落胆。織部長者への逆恨みが炎と燃えさかって呪いの祈祷にはまり込むが、効果がないと知るや、鬼ばばあと化し織部を襲って噛みつくのである。ここに至る修羅場が延々と記述されて、この物語の展開の眼目(作者の意図)となっているわけだね。(いやはや面白いよ。是非原典をどうぞ)

 作品では積み重ねられる重層的な記述が独特の時間を生む。それを人に伝える水準が表現性を位置づける。作品へのこのような時間の登場は、基本的に人は自分という劇場において世界を作品化(時間化)して生きていることに根拠があるのさ。(要するに何事も自分の構造の中で反復してるんだね)

 前に紹介した宇治拾遺物語の藤大納言忠家の話はワンシーンの筋立てだった。この福富草子は場面をつなぐストーリーを孕んで長丁場なわけである。時間が時間を紡いでいくところにストーリーが成立している。

 ところで、これは〈屁〉の(失敗の)物語であるが、どうして〈屁〉でなければならないのか。かりに織部長者が笛の名手だったらどうなのか。隣の藤太がこれを真似てにわか仕立ての笛の名手を気取って出向き、とんでもない音色で大ひんしゅくを買う話とどこが違うのか。

 もちろん〈屁〉でなければならないのである。書き出しの「人と他人の果報を、身分不相応に羨んではならない」という教訓(一見、この草子のテーマみたいだね。違うよ)の話なら笛でもいいかもしれない。だけど、作者はそれじゃダメなんだね。〈屁〉でなくちゃ。

 この〈屁〉との関係は、そもそもの作品の素材の選択において絶対である。生の素材(リアル)という点で譲ることができない。そこから発する時間は必然的に紡ぎ出され、もはや代替できない世界(現象)に作者は身を置いていると言わねばならないのである。そこに作者の意図があるのさ。

 意図の能動的振る舞いこそ作品である。〈屁〉をもって人にメッセージを送ろうとする意識の運動は、あなたにだってあるよね。夫や妻や子供の前でわざと〈屁〉をこくとか、うっかり漏らして言い訳を用意するとか、ね。そのとき人は〈屁〉を中心に自らに世界が意味あるものであってほしい(または、あってほしくない)と願っているのさ。

 かくして作品化した〈屁〉の根拠は、あなたもする〈屁〉なのである。
posted by 楢須音成 at 23:21| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月28日

〈屁〉の考察が戯作となるのは何でだろ〜ヵ

 ダリの『「放屁の術、または陰険な大砲に関する概論」の抜粋』は〈屁〉を考察している。こう書き出していたね。

「読者諸賢よ、諸兄が屁をひりはじめてこのかた未だにいかに放屁をするか、そしていかにそれをなすべきかを知らぬというこは恥ずかしいことであります。人びとは一致して、屁は小さいか大きいかという変化の相違しかないと、そして根本的には屁というものはみな同種のものだ、と考えています。が、それはたいへんな誤りであります」

 原文の元のニュアンスはわからないが、翻訳の調子はちょっと大仰に構えた演説調で滑稽味を持たせているわけである。〈屁〉を語るとき(記述するとき)人はしばしばこんな大仰なスタイルになる。
 では、なぜ滑稽味が生まれるのか。それは、本来その語りのスタイルはもっと別なことに使うべきなのに〈屁〉で使ってしまってるからなのさ。

 パクってみた。
 
 @「読者諸賢よ、諸兄が人を愛しはじめてこのかた未だにいかに愛するか、そしていかに愛をなすべきかを知らぬというこは恥ずかしいことであります。人びとは一致して、愛は浅い深いという変化の相違しかないと、そして根本的には愛というものはみな同種のものだ、と考えています。が、それはたいへんな誤りであります」

 と愛を語れば、まあ、異論はあってもあまり笑いは湧いてこない。ちょっと論文調に語り口を変えてみると、

 A「人を愛しはじめてから、皮肉にも今に至るまでいかに人を愛するか、そしていかに愛をなすべきかを知らないのは恥ずかしいことである。多くの人は一致して、愛は浅い深いという変化の相違しかない、そして根本的に愛はみな同種のものだと考えているが、それは大きな誤りである」

 と語れば、いやー、愛を論じる真剣な考察じゃないか。

 以上は全く同じ論法の上に、屁を愛と入れ替えたわけだね。しつこく、もう一度入れ替えるよ。Aの愛を屁にする。

 B「屁をしはじめてから、皮肉にも今に至るまでいかに屁をするか、そしていかに屁をなすべきかを知らないのは恥ずかしいことである。多くの人は一致して、屁は小さい大きいという変化の相違しかない、そして根本的に屁はみな同種のものだと考えているが、それは大きな誤りである」

 と語れば、みなさんはきっと笑う。

 普通に語っても概ね〈屁〉的現象は可笑しい(場面になることが多い)。もともと可笑しいもんだから、ついついその可笑しさを先回りしてしまう(ことがある)。人はそういう(可笑しいものを可笑しく語る)心的習性があるんだね。もちろん意識的か無意識的かは問わない。(〈屁〉的現象における人の心的習性の根拠は何なのか、そもそも〈屁〉的現象はなぜ可笑しいのか、という問題は究明したいねー)

 ダリの『放屁の術・・・』も、ダリ自身か翻訳者かわからないけれど(まあ、両者だろうね)、滑稽味が出るような語りのスタイルを先回りして採用しているわけである。

 このように〈屁〉的現象はある種の真面目さやスタイルをもって語れば語るほど滑稽になってくる(ことがある)。それはまさに〈屁〉だからなんだけど、そこが〈屁〉というものの現象化の一つの特徴なんだね。

 かくして、ダリの『放屁の術・・・』は滑稽味を漂わすわけだが、ここからさらに一歩進んで戯作となる。作品化するのである。なぜか。
posted by 楢須音成 at 21:14| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月04日

続・〈屁〉の考察が戯作となるのは何でだろ〜ヵ

 〈屁〉に関する考察が戯作(作品)となる事情はどういうところにあるのだろうか。
 考察とは論をなすことであるから、何らかの体系化をめざすものなのであるが、ダリの『「放屁の術、または陰険な大砲に関する概論」の抜粋』の論の展開はこんな感じである。

「三流文法学者は、文字を母音と子音とに分類しています。つまりこれらの諸先生は一般に素材の上っ面をそっと撫でているにすぎません。しかし、その素材のあるがままの姿を感知させ、かつ吟味させることを公然と主張しているわれわれは、屁を厳密に『有声』と『無声』、あるいは『すかしっ屁』とに分類しようというのであります。
 有声の『屁』は当然のことながら、それらがつくりだす音の相異なる種類に応じて、ちょうど下腹部が爆薬で満たされているというごとく、放屁するという意味で『Petards』とよばれています。この点につき、ウイリシウス・ジョドシュスの《ペタール》に関する論文を参照されたい。
 ところで、その『ペタール』は、乾燥した水蒸気によって製造されたうるさい爆発音であります。
 それはその成因や諸条件の如何によって大きくもなり小さくもなる。
 大きな屁はとりわけはっきりとした有声、または有声であり、小さなものは半有声とよばれる」

 一読すれば、ここでも滑稽味が漂っているね。ただし、言っていることは論理的だし、特に異論をはさむ余地もなく「そうだよね」とうなずけるような内容ではある。(そうでない人もいるかもしれないけどね)

 ダリの言っていることはこうである。文法学者は上っ面だけ見て文字を母音と子音とに分類するが、われわれは〈屁〉のあるがままを実地に感知・吟味し、厳密に有声(の屁)と無声(のすかしっ屁)に分類する。さらに有声の屁の爆発音(ペタール)は成因や条件によって大きくも小さくもなるのであると指摘しているんだね。

 前回触れたような大仰な語りのスタイルで語られるわけだが、スタイルになっている「分類する」「成因や条件を指摘する」という論法(分析)は、もちろん作者の意図するところである(考察するわけだからね)。ただし実のところ、スタイルは滑稽味を加速しているだけであって、滑稽味が漂う根拠は〈屁〉そのものにあるんだよ。

 では、〈屁〉そのものの滑稽味とは何か。
 われわれは〈屁〉と声にしただけで笑ってしまったり恥じ入ったりする心性があるね。言葉以前の現象として〈屁〉はわれわれの日常生活に場面を持っていて、すでにわれわれは〈屁〉的なことを振る舞っているわけさ。身も蓋もなく言ってしまおう。われわれには〈屁〉の日常的地平において、もともと〈屁〉には分類したり成因や条件を云々する価値はない(論ずるに足らず)という、抜きがたい心的基準(偏見)が存在しているのさ。われわれが屁をしたり〈屁〉を声にした瞬間に笑う(または恥じ入る)のは、無価値なものという意識下の評価があるからである。

(われわれが〈屁〉に対して意識下で「無価値」「論ずるに足らず」という基準を持ち込むのは、本質的には〈屁〉的現象が常に恥を内包しているからである。恥に絡んで〈屁〉の無価値や笑いが発生してくる過程は独特であり、これはまた別の深い議論になる。この心的基準は〈屁〉を全否定ができないところで成立している二律背反である)

 さて、無価値なものは無視するのが正統である。それをあえて口にしたり論じること(スタイルをもって振る舞うこと)をすれば、一般に語る本人よりも受け取る側でより滑稽感が生まれる。語る本人はそれを意識下で自覚しており、そこから心的な先回り現象(可笑しいことを可笑しく語ろうとする)も起きるのである。

 ともあれ、無価値な〈屁〉を語れば滑稽味が漂う(可笑しい)のである。まして「考察」となると滑稽味は加速する。〈屁〉の「考察」においては考察という振る舞いが作者の意図である。だけど、語る価値のない(議論するのが無意味な)〈屁〉を敢えて考察することは一種の自己矛盾だよね。ここに戯作となる契機がある。

 戯作という「作品化」においては世界(時間)の現出があるわけさ。
 世界とは意味があり無価値ではないのだが、〈屁〉の無価値を踏み越えて考察を強行する(無理に意味を持たせようとする)ことによって、一種の虚構(事実または事実っぽさの演出)へと冒険してしまうのである。もともと〈屁〉は解明されていない(ほとんどそういうことをしてこなかった)現象だから定説がないし、〈屁〉の考察における虚構とは、ホントのようなウソのような強引な議論なのさ。戯作と言われる由縁である。

 先に引用した「屁を厳密に『有声』と『無声』、あるいは『すかしっ屁』とに分類しよう」という、ダリの論法は間違ってはいないようだが、「厳密」に考えると、恣意的(表面的)分類と言わざるを得ないね(本質的な分類基準か?)。恣意的なのだけれどダリは敢えてそれを絶対化して(基準にして)論を進めるのである。

 ダリの場合、この「有声」と「無声」(つまり、音のあるなしや大小)に随所で大変こだわっているのが面白い。その視点から〈屁〉の考察は展開し、そこに成因や条件が結びつけられていくという手続きなのである。

「二重母音的屁が雷鳴より恐ろしいものならば、またそれに続く落雷が多くの人の肝をつぶし、人びとを聾にし、また他の人びとを茫然自失させるものならば、二重母音的屁が雷鳴をこそ伴わなくとも、たんにあらゆる雷電の事故をもたらすだけではなく、また、たちどころに、生来臆病で偏見に支配されがちな人びとを殺傷することができる、ということは疑う余地がないのであります。われわれはこの屁の構成要素と、また極めて強大な風圧を理由にそのように判断するのです。この風圧は、解放されて、噴射の際にかくも激烈に外部の気圧を振動させるがために、瞬間的に、脳のもっとも精妙な繊維を破壊したり引き裂いたりむしり取ったりすることができ、さらにただちに、めまぐるしい頭の回転運動を与えて、風見のように頭を肩の上で回転させたり、第七脊椎において引きのばされた骨髄の皮膜を破壊したりすることができるのであり、またその破壊作用によって、死をもたらすこともできるのであります。
 これらすべての原因は、カブ、ニンニク、エンドウマメ、ソラマメ、カブラの根などを食うことによって創られるのであり、また一般に、呪術的効果が認められているすべての風を生む食物によって生成されるのであります。さらに、それらはわれわれが屁の発射の際に聞く明瞭な、連続的なそして間隔の短いひびきを形成するのであります」

 ここでは幾層もの世界が提示され時間が生起している。ダリは肉体という条件の下で生起する〈屁〉を様々なイメージによって描写的に考察しているわけだが、極限に達した二重母音的屁(連続的な有声の屁)の爆発音の破壊力(影響)を人の生死を左右するものとして語る。われわれはこれを読み、笑い、〈屁〉という爆発音の極限を知って、熱い「恥」の感覚とともに身辺のパーソナルな〈屁〉のエピソードを思い浮かべるかもしれないね。

 かくして爆発的に出現する〈屁〉の影響を語るダリの放屁ワールドは、ホントのようなウソのような世界(虚構)の論理へと踏み込んでいくのである。

 以上のまとめをしておく。
 第一レベル「〈屁〉を振る舞う→笑いや恥がある」←言葉以前の現象
 第二レベル「〈屁〉は無価値→語るに足らず」←意識下の心的基準
 第三レベル「〈屁〉を語る→スタイル(論法)を用いる」←滑稽味の発生と加速
 第四レベル「〈屁〉が虚構化される→戯作の世界を生む」←作品化

 われわれの意識は第四レベルに向かう。このとき意識は、行きつ戻りつスパイラルな動きで〈屁〉的現象を感知・吟味し、〈屁〉の作品化に向けて自らを振る舞っているのさ。
posted by 楢須音成 at 00:14| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月05日

屁文学は未完の大陸なのだろ〜ヵ

 「作品探求」としていくつか作品を取り上げてきたが、ここで音成が着目しているのは、そこに〈屁〉はいかに現象しているか、ということなのだね。〈屁〉を語る作品ではあっても、現象する〈屁〉そのものが眼目(テーマ)となっている作品は極めて少ないわけさ。

 これまで取り上げてきたのは明治以降の作品である。近代人が描く作品として、深浅はあれども自我という人間心理を見据える視点(内面志向)をもって〈屁〉を描いているね。そこはやっぱり近世の戯作の姿勢とは違うのである。

 近代的自我の「合理精神(実学志向)」や「個我の自覚(内面志向)」という二面性は〈屁〉にも及んでおり、これは「研究(化学分析など)」とか「心理(人間分析など)」とかに目を向けることで時代の波をかぶってはいるわけさ。

 もちろん文学作品は内面志向によって描かれる。〈屁〉の文学的なアプローチもしかりだが、そういう模索は常識とか道徳とか理念とか、共有を強制する観念の側から描かれるわけではないんだね。もっとも、文学にはストーリーという枠組みの強制力(そこにはキモチ良い時間の整合性がある)を心地よしとする習癖もあるから、内面志向を上滑りさせる(観念に流れる)恐れはあるものの、時代を映して〈屁〉もまた近代的な表現を獲得してきたわけである。

 内面志向というのは心身の人間的な現象に向き合う姿勢である。心身という場合、「心」に傾くか「身」に傾くかでニュアンスは変化するのだが、そもそも〈屁〉の場合は(音もニオイも強烈だし)「身(身体の諸要素)」に傾くきらいがあるわけさ。(もちろん心身は表裏の関係だけどさ)

 では、〈屁〉的現象(の深層)をふまえた屁文学の最高峰は登場しているか?
 これまで取り上げてきた明治以降の作品を、ちょっと強引にまとめてみよう。

 『おなら次郎吉』(長谷川伸、1925年)制御不能の放屁がもたらす地獄:テーマ性→人情
 『屁』(新美南吉、1940年)クラスに放屁癖の男がいることによる波紋:テーマ性→社会
 『お奈良さま』(坂口安吾、1954年)〈屁〉を禁止する勢力との闘争と夫婦愛:テーマ性→死・愛
 『中城ふみ子のおなら』(金沢恒司、1956年)末期の女性の放屁にこめた愛惜:テーマ性→死・愛
 『屁学入門』(藤本義一、1971年)屁の研究家のドタバタ:テーマ性→研究
 『へへへへもへの』(藤本義一、1978年)屁の研究家のドタバタ:テーマ性→研究
 『放屁抄』(安岡章太郎、1972年)女性の前での放屁が心的外傷となった男の救済:テーマ性→性

 文学的な深浅はともかくとして、各作品の〈屁〉に対峙する(あるいは〈屁〉が喚起する)テーマ性を取りあえず挙げてみたのである。

 こうみると、まだまだ〈屁〉の文学表現は達成された範囲が狭いんだね。というか、端的に、作品が少ない→作家があまり取り上げない→文学的表現になじまない(書きにくい)→だって〈屁〉なんだもん、ということになる(のかな?)。

 逆に言えば屁文学とは未完の大陸なのである。
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2006年04月11日

続・屁文学は未完の大陸なのだろ〜ヵ

 屁文学というようなジャンルが確立(認知)されているわけではない。それでも〈屁〉の文学は細々とではあるが、綿々と語られてきたし、これからも語られるだろうね。『一発』をまとめた中重徹が別の著書『新編 薫響集』のあとがきで、屁文学への見解を披瀝している。

 要旨はこうである。

 ──昔から放屁に関する戯文をもって文学の外道と白眼視する人もいたが、そういう考え方は人間の真実性を歪曲している。人間第一主義の近代の新しい文学論によってそれは一蹴される。(中重はフランスのグールモンの言葉を引用しつつ)すべての文学は消化器系と生殖器系にに分かれる。つまりは「消化器系→屁の文学」「生殖器系→愛の文学」であり、両者はあたかも左右の手のような関係である。ところが、両者への評価は雲泥の差がある。これは昔も今も変わりない。特に上代文学では屁は完全に無視された。日本文学の淵叢(えんそう)である古事記は全くの生殖系文学であり、屁は出てこない。
 こういう不均衡は時代を追って是正されてはきた。室町末期の一休、江戸中期の平賀源内、明治初年の団々珍聞(まるまるちんぶん)などが援護射撃もした。しかし、それでもなお、〈屁〉は末座にある。もちろん、いつまでもそうである理由はないはずだが。
 屁の宿命説では、屁は時により、かのガルガンチュワのように、すかし屁でも風車の四つを回せるエネルギーはあるが、残念ながら人間の運命を転換するほどの情熱には欠けているという。卓見である。しかし、「わが親の死ぬるときにも屁をこきて にがにがしくもをかしかりけり」という狂歌を親不孝と切り捨てた松永貞徳の評言の浅はかさと俗人ぶりはいただけない。
 ともあれ、消化器系文学の偏見は是正されつつある。屁は末座に変わりないが、末座こそ屁文学の唯一の母体なのだ──

 大体こんなことを言っている。中重の言う「末座」とは〈屁〉の貶められた処遇の位置を言っているわけだが、〈屁〉は日常のあらゆる場面で軽んぜられ、観念のあらゆる展開で軽視されているわけなのさ。そういう無用の〈屁〉だって、〈愛〉や〈涙〉と同様に心身の現象には違いないのに、最近の心身現象の解明(哲学とか脳生理学とか心理学とか)においても、〈屁〉は顧慮されず末座以下の扱い(全く登場しませ〜ん)ではある。

 中重が憤慨している松永貞徳の態度もまた、これほどの人でも〈屁〉というものを顧慮(洞察)しない(できない)困難さを示す。だけど、「わが親の死ぬるときにも屁をこきて にがにがしくもをかしかりけり」という〈屁〉的現象を観照するのに特別な資格はいらないわけさ。わかる人にはわかるんだよ。

 さて、日本の近・現代文学における〈屁〉の作品の様子を前回まとめたが、作品が萌芽的にしか出現しない状況は広がりという点でまだまだなわけである。形式的にも短篇だもんね。さらに長く、広く、深く大河的に〈屁〉が作品化されることが期待される。

 かくして、中重が言うように「末座こそ屁文学の唯一の母体」なのであるが、この「末座」の含蓄をもって探求することこそが屁文学のめざす大陸なのですぞ。
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2006年04月23日

続続・屁文学は未完の大陸なのだろ〜ヵ

 実のところ、近・現代に至るまでに「屁文学」は江戸時代に開花していたといえる。俳諧、川柳、狂歌、戯作などにおいて〈屁〉は隠蔽されることなく表現域を獲得しており、笑いや人情の機微を掘り当てるネタ(またはジャンル)として相応の探求の流れを用意してはいたんだね。

 ただし、明治と元号が変わったからといって近代文学が生まれるわけではないように、〈屁〉が文明開化でいきなり「近代化」した表現を獲得するわけもなく、逆に表現域は凋(しぼ)んでしまったと音成は思っているのさ。二葉亭四迷の『浮雲』(の表現世界)に〈屁〉はとんと無縁だし、近代文学は文学表現の世界に〈屁〉をなかなか認知してくれないのである。(笑いの文学が育たないというような日本文学の潮流は技術の問題じゃなくて、現象に対して向き合う人間たちの資質の問題さ)

 では、江戸期の屁文学の大陸は明治の文明開化の波に洗われてどうなったのか。表現を担った主流の人たちは戯作者といわれる当時の小説家(や愛好家)たちであるが、彼らの事情を『新編 薫響集』がこう解説している。

「この時代においては、江戸生き残りの小説家である戯作者たちも、武士階級にもまして不安な生活状態に追い込まれていた。(中略)そういう戯作者たちをすくったのは、新時代において、ぞくぞく創刊された新聞、雑誌の世界だった。(中略)ジャーナリズムに生活の場を見い出した作家たちであってみれば、いずれも人目をひく記事によって筆を競うことになった」

 かくして、衆目を集める〈屁〉が新聞や雑誌にしばしば登場することになる。『新編 薫響集』から紹介する。

「放屁で罰金五円
 京橋区木挽町六丁目に住む長崎県士族深川弥作は、横浜より汽車に乗り、新橋まで来かかる途中、いかにも腹が筋張りて堪らねど、中でやっては、他の人に気の毒と、ぐるりと臀をまくり、窓からブーッと一発やると、遂にその筋の聞く、否、嗅ぐところとなり、鉄道規則第六条に依り罰金五円申し付られたるは、昨十八日のことなり」(東京日日新聞、明治十四年十一月十九日)

 他愛もない新聞記事だが、そもそも〈屁〉で法外な罰金を取るという事実に時代的な可笑しみを感じているんだね。可笑しみを提示する批評精神(パロディ)による建白書なるものも登場する。『一発』から(原文はカタカナだが、ひらがな表記で)紹介する。

「ご維新以来、新令朝暮に出で、御実行の立ちたるはすくなし。ひとり税則のみ、御実行相たち、雪隠・沐浴場の如き、至つてけがらわしきも、いとはせられず税をとり給う。恐れながら天皇は希世の聖明にて上に在り。官吏は抜群の賢良なれば、下々の疾苦は「屁」ともおぼしめさず、その(税を)取る事における、至らざる所なし。(中略)しかれども、いわゆる、鷹の目にも見落しとか申す如く、いまだ尽くさざるもの五ヶ条あり。
その一に曰く、盗人の税。
二に曰く、贋の楮弊(ちょへい)の税。
三に曰く、子産の税。
四に曰く、食物の税。
(以上の四ヶ条の細目は省略)
五に曰く、放屁する者の税を取るべし。
日々飲食し、いたずらに放屁をなす。方今しきりに開拓すれども、糞肥足らず。然るをみだりに放屁を発し、糞の精気をもらし、甚だ不埒なり。よろしくこれを厳禁し、肥料を足らしむべし。
もし過つて放屁する者は必ず税を出さしむべし。これ屁を放りて尻をすぼめるなり。古語を按ずるに、屁は体の作るもの、ぶうぶうとラツパを吹き、ぽんぽんと放発す。これがために金穀を費やし、肝心の時には糞の役にも立たず、是は無益とはじめて心付く。これをさして、尻をすぼめるとは云うが如し。放屁の税を取るの策をたて、よろしく皇国を肥やすべし。
右の条々、天下今日の急務なり。足下(横山正太郎)は無駄腹を切って建言せられしこと、世上に於て称賛す。足下にあらずんば、政府をせむる者や無かるべし。よろしく(政府に)ご執奏頼み入り候なり。
庚午(明治三年)十月
             桑奈井入牢青綬(くわないにゅうろうあおさし=貧しくて食えず、銭さしに銭もない)
             大木二古丸減三(おおきにこまるげんぞう=大きに困るけんぞう)
             宋竜甚六郎鼻垂(そうりゅうじんろくろうはなたれ=総領は甚六で鼻ったらし)
横山正太郎 殿
        泉下     」

(この建白書は、語呂合わせしたオフザケ三人組の連記。横山正太郎というのは薩摩藩士で、当時の日本を憂えて集議院に建白書を出し諫死した人。三人が横山に建白しているオフザケである。どうかと思うけどねー)

 福富織部の『屁』では彼らを操觚者(そうこしゃ=今で言うジャーナリスト)と呼び、〈屁〉を表現の対象にした一つの意図を次のように指摘している。

「(また一方で)屁は、操觚者の為に、重要視せられてゐた。いひかえると、政府攻撃の有力なる資料となつて居る。つまり、正々堂々と反對をするに於いては、直ちに捕へられて、牢獄にぶち込まれねばならない。そこで、屁といふ愛嬌者を捕へ來たつて、時事を諷刺することが多かつた」

 こういう状況が江戸の屁文学の延長にある〈屁〉を襲った文明開化の一つの波なんだね。日常生活における〈屁〉の突飛さや可笑しさが、時代の波に乗って事実への好奇心やナンセンス、パロディの批評精神によって掬い上げられたのである。戯作者崩れのジャーナリストたちが手練れの筆を振るって〈屁〉を取り上げたわけさ。

 もっとも、〈屁〉に関して近代的な批評精神がすくすくと育っていった形跡はなく、ただ可笑しいだけの衰弱した笑いに堕する面が強く、戯作者たちに発祥する(戯作という流儀の)〈屁〉の表現獲得の流れは途絶えていく。日本の近・現代文学における〈屁〉の作品との断絶感は否めないのである。

 文明開化で凋んでしまった江戸の屁文学(の系譜)ではあるものの、もちろん面白い作品はあるよ。近代を語るなら、こういう作品群も視野に入れて屁文学の大陸を探検してみないといけないのである。
posted by 楢須音成 at 00:09| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月04日

結婚式に〈屁〉はあるまじきは何でだろ〜ヵ

 儀式の場で〈屁〉はあるまじきものである。ことに結婚式となると事は重大で、花嫁の〈屁〉はタブーの頂点にある(とされたようだ)。それは死を意味したんだよ。
 歴史的な証言として最近の事例は、音成が知る限り1940年頃の話が存在している。山名正太郎の『屁珍臭匂臭』に著者が身近に見聞した話として紹介してある。

「ある良家の娘さんが結婚しました。晴れの結婚式で、花嫁になったその人が、放屁したのです。
 『出ものはれもの所きらわず』の諺もありますが、緊張したせいもあったでしょう。だいいち場所がわるかった。仲人などが、おやっと思う間もなく。花嫁の姿は席に見えない。花嫁姿のまま抜け出して、一目散に走りつづけ、木曽川に飛びこんだのです。
 岐阜というところは、織田信長に縁の深い町ですが、早くから城下町ではなくなり、町人の町になりました。四角ばったところもなく、自由の気があふれ、人情もよく、暮らしやすい。そんな町に起きた事件なのです。
 とにかく、花嫁さんはもとより、関係者にとっては、あきらめきれぬ、意外な出来ごとだったのです。
 昭和十五年の春でした」

 山名は新聞記者で岐阜に転勤したとき、まず聞かされた話だったという。当時、市中を駆けめぐっていた話題だったらしい。

 山名も指摘しているが、民話や明治の新聞記事などに、昔からこれに類する話はあるのである。〈屁〉的現象としては一つの典型なのさ。
 福富織部の『屁』には明治の大阪錦繪新聞(第55号)が載せた「花嫁の放屁」の記事が紹介されている。これは1875年(明治八年)頃の話である。

「相州江の島の漁夫松本作兵衛の娘おとらは今歳十九にて、片瀬村森田安次郎方へ同村寅次が媒酌にて嫁入なし、翌日親類へ巡り媒酌の家に行き寅次の女房おくめに挨拶せんとして思わずブウと大きな放屁を發せしが、おくめも默つて居ればよきに、これはこれは初めてのお出に何よりのお土産なぞといろいろ嘲けり笑ひしが、嫁は顔を眞赤にして、其場は宅へ歸りしが、親族へも恥かしく、人に笑はれるが殘念との書置をして死せしが、安次郎は大いに驚き、おとらの首を切、書おきと共に寅次が宅へ持行き、おくめに見せしに、おくめは見て驚きわたしが過言より花嫁を殺せし事言譯なしと自殺せしが、安次郎は寅次に言譯なしと身を投げしとぞ、放屁一つで三人が命を落すとは、落し所のわるい屁で有ると諸新聞紙の評なり」

 すさまじい連鎖の事件だが、花嫁の切迫した心情が際立つ。同種の話で落語に「満員」(三遊亭円馬)というのがあるが、こちらは「花嫁の放屁」で関係者が次々に井戸に飛びこんで自殺する連鎖を単純に笑い飛ばす話になっている(井戸が満員御礼になったというオチになる)。
 問題は発端となった「花嫁の放屁」である。

 一般に儀式の場で異音、異臭がタブー視される度合いは極めて強いと言わねばならないね。まあ、儀式でなくともタブーではあるのだが、緊張した場の雰囲気を根幹から台無しにするものとして、〈屁〉はとても強烈に作用する場合があるわけさ。

 その異質性は悲劇喜劇を生む。ここで〈屁〉がもたらすものは「恥」なのである。恥の心理は時代によって推移し濃淡を見せるが、「花嫁の放屁」は〈屁〉に内在する恥を、花嫁という社会的立場を通して提示している。(江戸時代の嫁の立場については前にも「江戸の嫁たちは〈屁〉に泣いた」で取り上げた)

 現代の嫁の立場(こういう言い方自体どうかねー)は昔とは違うにしても、少なくともこの記事に描かれた花嫁は(男性上位社会の社会性から見れば)一番の弱者である。花婿・花嫁は結婚によって世間に登場するスタートラインに立ったばかりで、厳しく世間体(礼儀・節度・体面・要領など)が要求される。花嫁の場合は(弱者であればあるほど)完璧でありたい(でなければならない)という内外の要求が強いのである。

 かくして「恥」の強度は増す。それが身も蓋もないのは〈屁〉であるがためである。たかが〈屁〉は完璧に制御するのが世間体である。されど〈屁〉は制御しにくいのである。糞や尿にくらべても「つい」取り外す危険性は高いという意味で、実のところ「恥」の強度は深刻なのである。弱者ほど恥は深刻でもある。だけど、実際に放出した後の影響度合いからいえば、誰が深刻な被害に遭うわけでもないんだね。

 ここに〈屁〉的現象の特異な相貌があるわけさ。異音、異臭の役立たずな(意味不明の)ガス体は下半身から突然(制御不能で)飛び出してくるのである。

 それにしても、なぜ花嫁は死に急がねばならんのか? 「花嫁の放屁」に類する話があちこちで繰り返し取り上げられる背景には、人間心理(恥)の絡み合いの深い構造があるようだね。そこは実に興味深いと言わねばならんよ。
posted by 楢須音成 at 18:07| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月09日

続・結婚式に〈屁〉はあるまじきは何でだろ〜ヵ

 花嫁は一発の〈屁〉によって死に急いだ。明治の大阪錦繪新聞に載った「花嫁の放屁」事件は関係者まで死に追いやってしまい、怪奇な様相を呈したのであるが、そもそも花嫁を駆り立てた動機は何だったのか。
 むろん、一発の〈屁〉は深刻な「恥」をもたらしたのである。

 大阪錦繪新聞から登場人物たちが引き起こした事態の推移を追ってみる。
 
 @花嫁・おとらは意図せずして屁を取りこぼした。
 Aおくめはおとらの不覚(放屁)を嘲った。
 Bおとらは恥じ、自殺をもって恥を封じ込めた。
 C花嫁の夫・安次郎はおとらの首を斬り、持参しておくめに抗議した。
 Dおくめは「自分の過言でおとらは死んだ、言い訳しない」と自殺した。
 E安次郎は「自分の抗議でおくめが死んだ、言い訳しない」と自殺した。

 こういう流れになるが、「恥」をめぐって深刻な心理の劇が展開されていると見なければならないわけさ。一つの解釈を試みる。

 @→花嫁は自分の不覚によって消え入りたいほどの恥を突きつけられた。このとき、逆におくめが同情して気遣い、何も言わなかったとしても、おとらは恥にまみれた(はずである。やっぱり自殺したかもしれないね)。

 A→おくめが基本的にお喋りで一言多い性格なのは間違いない。ただし、彼女の嘲りがどういう方向性なのか記事だけからはつかみにくい。おくめの人柄はいろいろに解釈できるわけである
 一体、おくめは「意地悪」な女であるのか、単に礼儀に厳格な「真面目」な女であるのか、根のない「ひょうきん」な女であるのか、「あっけらかん」とした豪放な女であるのか。こういった個人が引き受けているいろいろな存在様式(性格)によって、行動の意味づけは変わってくるはずだね。
 さらに、おくめが花嫁を見る目には世間体(礼儀・節度)というフィルター(基準)があるわけだが、おくめが世間体というものに、どう向き合っているかによっても意味づけは変わってくる。世間体に保守的・迎合的だったりする度合いが強ければ強いほど、指弾は厳しくなる(はずである)。
 もっとも、おくめがどういうスタンスであっても、おくめ(世間)という存在が花嫁の眼前にいる限り、きっちり恥は突きつけられているのさ。

 B→「結婚の儀式」を締めくくる場面での「不覚の放屁」は内に持つ世間体を破壊したのである。花嫁は自分自身が原因で、存在を揺るがすほどの恥の烙印を受けたと感じたのである。恥はプライドが高いほど深刻になるし、社会的立場が低いほど(そして上昇志向が強いほど)強く感じるのさ。それにしても、そこに死ぬほどのことはあるか。
 ともあれ、自殺するのは一生消えぬ烙印をすぐ消すためである。
 花嫁の心は「有り余る悲しみ」「有り余る絶望」「有り余る怒り」「(侮辱された)当てつけ」「抗議」「恥を忘れて楽になりたい」といった感情や思いの重層するルツボと化したのである。

 C→安次郎がおとらの首を斬っておくめに見せに行くという異常行動に出るのは、愛のためであるか? そうかもしれないが、彼の心は突然の喪失感から「有り余る悲しみ」「有り余る絶望」「有り余る怒り」「(妻を奪われた)当てつけ」「抗議」「おくめを苦しめる」といった感情や思いの重層するルツボと化したのである。

 DE→ここは、原因(相手から妻を奪った)を作った者同士が「言い訳しない」と責任を取って自殺するのである。おくめは安次郎に対して、安次郎はおくめの夫・寅次に対して謝罪の意味があるわけである。これは世間体の典型的な心理だね。

 こう見てくると、@ABにおける花嫁とおくめの心理劇は何やら根深いものがあり、いささか謎めいている。
 CDEは斬首や自殺の応酬という派手な異常行動の割には、世間体という尺度からみればわかりやすい事態といえる。引き起こされた事態や、引き起こした事態に対するリアクションとしては、少々エキセントリックではあるものの、「抗議」と「責任」という世間体の枠組みを逸脱するものではないね。

 それに比べ、@人前にさらした自分自身の理不尽な生理(放屁)がA世間体(おくめの目)に触れて恥の極みに追い詰められB情況を無化するために自殺へと走る...という精神の自滅運動は内にこもっていて、わかりにくいところがあるわけさ。それでもこれは、純粋に恥を背負った者が示す行動パターンなのである。

 人はしばしば自滅へと向かう精神の動きを示すが、同じように自滅しても、おくめや安次郎と、花嫁・おとらとの違いは、恥を背負っているかどうかにある。恥によって(恥の極みで)自殺することは、他人との関係(世間体)の中に身を置きつつ、自分自身の問題(自責する恥)なんだね。このことが恥をはらんだ〈屁〉的現象の構造を浮き彫りにするのである。

 それにしても、おとらの恥がとめどなく増殖してしまうのは、つまらない〈屁〉であればこそなのである。自責の念(恥)は、たかが〈屁〉の失敗であることによって、強く吹き上げてくる。それが、記念すべき結婚というスタートに際しての〈屁〉であることによって、強く強く吹き上げてくる。それを、ほかならぬ、おとらに笑われたことによって強く強く強く吹き上げてくるのさ。

 やはりトドメは、これから迎え入れてもらおうとしていた相手(おくめ)に指弾されたことによる絶望なのである。

 実は、花嫁・おとらの前に立ちふさがったおくめ(世間)は、巡り巡っていけば将来のおとらの姿なんだね。つまり、姑と嫁の関係と同様に、人は年齢を重ねてやがて役割は入れ替わっていくという世間の暗黙の道筋が前提されているわけさ。世間とはそのように囲い込まれた関係である。花嫁・おとらはここにつまずいた。〈屁〉という無作法な振る舞いを制御できないようでは世間はつとまらないのである。将来、おとらがおくめになったとき、花嫁の粗相を笑えないではないか〜。

 さて、この記事から「意地悪で醜悪な婆ァ→清純な美人の花嫁」という構図をイメージしてもよいが、仮にそれが「高潔で端正な老婦人→ 意地悪で醜悪な花嫁」であったとしても、@ABの恥の流れや結末が変わる理屈にはならない。〈屁〉の恥はあまねく平等なんだし、世間の役割は変わることがない。世間体の展開に人の「個性」は出てくるかもしれないが、人の「個性」に合わせて世間体が変わるわけではないからである。

 この記事で読者があきれるのは、一発の〈屁〉が引き起こした結末の異常さであろう。それにしても、なぜ〈屁〉はそれほどまでに無作法なのか。作法に照らして〈屁〉を恥とするのは世間体であるが、世間を血肉化することが人生の目標であるような世界では、人は〈屁〉と敵対せざるを得ないのである。たかが〈屁〉なのに、そこでは〈屁〉があたかも原罪のように立ち現れてくるんだよ。

 と思えば、〈屁〉は罪のない哄笑の対象にもなっておる世界がある。曲屁師が腰を振りながら屁芸を演じる娯楽の殿堂では、〈屁〉は誇らしげにキモチイイものとなる。ここには「花嫁の放屁」とは異なる心理の劇があるではないか。

 かくして、人は〈屁〉の光と影を背負って生きるのである。
posted by 楢須音成 at 01:08| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月08日

〈屁〉の存在感とは何だろ〜ヵ

 放屁は生理的には排泄行為であるが、糞尿の排泄とどう違うのだろうか。ここのところが、〈屁〉を考えるときにとても大事なポイントになるのだが、要するに様々な場面で糞尿とは扱い方が違うわけだね。屁の存在感は独特なのさ。

 糞尿の排泄といえば「便所」であるが、この便所というものも人間の諸相を照らす実に興味深い現象である。便所論の大家、李家正文の『厠(加波夜)考』(1932年、六文館刊)にこんな一節がある。(この本は名著だよ)

「一體、便所と云う語は大小便をするところ、ゆまり、くそまるに便利な所の意(南海寄師傳にも便利之事とある)であるが、此の便所に行くに就ては色々の異語が用ゐられている。例えば、便所にゆく、厠にゆく、おかはにゆく、せんちに參る、ばりをつく、タンボにゆく、ウラにゆく、お小用する、用足し、おかんじよする、御不淨する、ゴフにゆく、シンカク或はレーホにゆく等の隠語もある。(中略)或は漢語で上厠、登厠、赴厠、屋頭(「群書要語」に俗命如厠爲屋頭とあり)等々々異名と行く或は爲(す)ると云う動詞と結び合わせて如何程になるか分かつたものではなく、地方によつても此の用法は異なる。(中略)外國では便所に行く to go to the back(武信 New J.E.D.)to go to the water closet-lister(Stauderd J.E.D.)to go to wash one's hand(三省堂 GEM.D.)I have necessity to go stool等の月並式はさて置いて、米国のlet we go to church(教會に行く)や Let we go to Mrs Johnson 等のようにジョンソン女史がW・Cの代名詞となる如きは全く雲を掴む如き話で、これも亦隱語の一つであろう」

 つまり、ゆまり(放尿)やくそまる(脱糞)には(便所という)便利な場所が用意されているわけだね。しかも李家が示すように、便所に行く人間の動きに対する表現は、なかなかに多彩である。その多彩さの襞には人間心理の諸相がビッシリこびりついている。

 さて、人は誰でも便所は屁もする場所であると思っているのだろうか。李家は便所が屁をするところでもあると例証をあげている。

「上厠(じょうし)すると云う事は只に屎(くそ)まりゆまる所ではないといつた實證をあげる。

 昔々あつたとさフツポン國放屁の國のかたほとりに爺(じじ)と嫗(ばば)があつたとさ。夫婦かけむかいの遠慮なき暮しゆへ心置きなく屁を放るばかりが一つの楽しみに或日山へ臭かりに行き嫗は厠やへ屁を放りに行き、前の川にて手を洗はんとしける折節川より一ツの芋が流れて來たりしかば、拾ひとりて家に歸りける。夫婦は此の芋を食しけるより不思議や俄に若くなり、女房はだゞならぬ身となり程なく、臨月になりければ芋の如くなりたる男の子を安々と生み落としける(諺下司話説)

 この(文章は)生まれたる屁男と未來の妻なる放屁の舞と糞壺に落ちる迄も夫婦の契を結ぶと云う話のはしがきで、著者は山東京傳、寛政八年の刊行である。また、若殿が便所に入て手を洗わぬので小姓が尋ねると『屁を放りに參ったのぢや』と(いう話もある)。或は

 屁を放りに雪隱へゆく賢婦人

 と云う句もあり、大月隆氏の屁を論ずの中には(放屁のマナーを述べている)

 次に發する方法は以下の如し。
 第一法 雪隱に入りて發すべし、誰にも遠慮もいらずして宜し。
 第二法 成るべく人の居らぬ處にて發すべし。然らざれば臭きにヘイ口す。
 第三法 もし人中にて腹張て辛棒なり難き時は「御免」と斷りて而して後に發すべし。」

 以上のように放屁の場所として李家は便所を挙げている。ただし、糞尿(を出すこと)と比べれば何とまあ日陰者扱いであろうか。要するに便所は放屁の「避難所」であって、李家の実証にもかかわらず、屁が正しく場所を得たものではないわけさ。よくよく考えれば、屁はどこにも身の置き所がない。まあ、開き直れば、責任は持てないが、屁はどこで出そうとかまわんとも言えるのだね。

 表社会の日常生活において屁は厄介者である。屁を隠蔽した(仮面?)夫婦、恋人、きょうだい、隣近所…つまりは人間社会の有り様には、生理的な屁が社会化し精神的な〈屁〉に昇華して、社会関係や人間関係を複雑化しているところの〈屁〉的現象を内包している。

 糞尿のための「便所」は「屁」のために用意されたわけではない。屁の存在感をいうとき、排泄という類似性から便所と結びつけられやすいのだが、便所の奥深い文化性に包容されて屁は(希薄な)存在をそこで許されているに過ぎないのさ。

 本来的に「屁」は「便所」とは全く無関係である。
posted by 楢須音成 at 22:06| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月16日

続・〈屁〉の存在感とは何だろ〜ヵ

 そもそも屁を排泄するための場所はない。というか、屁の排泄はどこでもよいというのが本質である(もちろん、制限はあるけどね)。〈屁〉というものの存在感をたどっていけば、こういう「居場所のなさ」が根底にあることがわかる。

 糞尿が便所に居場所を見つけるのはなぜだろうか。
 便所によって、人間の身体内に発生した糞尿は身体外に出てくると同時に人間社会に受け入れられる構造になっているわけさ。この構造とは、物を生み出したり流通させていく社会の機能性と、それを担う人間が紡ぎ出す文化性も内包した生産の仕組みのことである。糞尿は決して否定されることなく堂々と存在してきた。つまりは、臭かろうが、汚かろうが、どうあっても糞尿は役に立つ(処理される)存在なのである。

 それに引き比べて居場所のない屁は無益だね。その無益さは徹底している。例えば、〈屁〉に関する用語を100語並べても(「〈屁〉の用語を分類してみた」参照)、そこに見えるのは、あまりに軽く扱われる(ように見える)〈屁〉の現実である。軽い笑い、さらには軽い負の評価が大半を占めるのである。軽いという現実は、〈屁〉はちゃんとした実学の対象にもならず(なりきれず)、表現の表層を流れているからなんだよ。人間社会における〈屁〉の機能性や文化性を見出し、糞尿と拮抗する存在感を打ち出すことは絶望的なのだろうか。

 糞尿と兄弟分の屁がこのような扱いを受けてきた歴史的経緯は屁の属性に起因するのはいうまでもない。その出てくる所や臭気(悪臭)において同じにもかかわらず、屁は「実用性→(ほとんど)なし」「可視性→なし」「異音→発生する」という現実を抱えているわけであるが、ここが〈屁〉の存在感の起点となっているんだね。

 屁の存在をわれわれが意識する過程を追ってみよう。まず、「見えない(透明)」という属性が第一のポイントである。次に見えない実体に「悪臭」があって独自の存在を主張するわけだが、同時に「異音」がして発生元を特定するわけさ。ただし、屁にはパターンがある。このパターンを経て屁は〈屁〉となるのである。

 パターンはこういう組み合わせである。
 @悪臭あり+音あり=発生元を示して存在を主張している(羞恥の極み。または無恥の極み)
 A悪臭あり+音なし=発生元を隠して存在を主張している(知らぬ顔は倫理的に問題)
 B悪臭なし+音あり=発生元を主張している(屁の芸人はこのタイプの屁のようである)
 C悪臭なし+音なし=存在しないのと同じ(本人だけの秘密)

 これらの組み合わせにはまり込みながら、われわれは屁に対する制御権があるようでない。屁の発生(ニオイや音)をコントロールしにくいわけだね。糞尿でも同様だというかもしれないが、屁では「ちょっとおトイレに」とは言えないし(言ってもいいけど、それは嘘になる→嘘は後ろめたい)、糞尿に比べて屁はかなり不定期発生物(いつ催すかわからない)である。つまり、居場所のなさや突発性を抱え込む屁はかなり制御しにくいといえるのである。

 やっかいなのは、このとき屁はわれわれの心的情況として隠蔽を前提とした存在(屁をすることは恥ずかしい)になっていることなのさ。糞尿の排泄も羞恥を喚起するというかもしれないが、人は(便所を用意して)糞尿の排泄をことごとく隠蔽はしない。屁とは羞恥の質が違うことに気づかねばならんよ。

 屁が糞尿とは違う羞恥を喚起する存在になった大きな理由は、人間の倫理性に根ざしていると思うね。われわれは単純に自他の「嘘」を嫌う。他人の嘘は許し難く、自分の嘘は後ろめたいわけだね。主義主張の以前に嘘は人間の関係性をそこなうアクションとして基本の前提(認識)なのである。

 〈屁〉の羞恥の深層はこの「嘘」に根ざすものなのさ。その羞恥は思いのほか深い。そもそも屁は見えないのに存在を主張するのである。姿を見せず(実体なし)に悪臭や異音で自らを際立たせようとする存在の形は、根底において狡猾であり「嘘」である。悪臭や異音だけは実に生々しいわけだね。ここに存在の隠蔽と存在そのものへの羞恥が表裏の関係で発生してくる。それが他人の屁だったら排他の材料になるのである。つまり「見えない」のに「臭う」「聞こえる」という三位一体の屁は、無作法という文化規範へと追いやられるのである。

 生理的な屁が人間の心的情況をまとって〈屁〉的現象となる(存在感を漂わす)とき、このような屁の三位一体に潜む「嘘」や、すでに触れたように、屁そのものが制御しにくいという意識下の危機感があるのである。

 〈屁〉の存在感は、その表層は軽いが、その深層は深く重いと言わねばならん〜。
posted by 楢須音成 at 09:56| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月07日

燃える屁の歴史的意義とは何だろ〜ヵ

 屁は燃える。これは屁の成分にメタンガスや水素が存在しているからである。ただし、屁が燃えること(燃屁=ねんぴ)が日本人の関心を引いたのは近代になってからのようである。それも昭和に入ってからというのが、音成の推定である。

 巷の〈屁〉を渉猟した溝口白羊の『屁の喝破』(1914年)や福富織部の『屁』(1926年)では、この燃屁についての具体的な記述は出てこないね。〈屁〉談義のネタとしては格好の話題なのに、社会現象としては無かったということなのか? 当時は屁が燃えることにリアルに思い至らなかったのか、燃えるだろうと思っても火をつけるような酔狂なことは考えなかったのか。何でも最初にやる人はエライと思うが、最初に屁に火をつけた人はエライぞー。

 燃費実験の記述は第二次大戦後になって出てくる(社会現象化する)のである。その先駆けとして(?)、佐藤弘人の『はだか随筆』(1954年)にある「放屁論」は屁が燃えるか燃えないかを探求して展開する。これを読むと、すでにこの時点で燃屁は知る人ぞ知る現象であったことがわかるのさ。最初、雑誌に発表された佐藤の「放屁論」に対して、読者からは次のような手紙が寄せられたという。

「処は満州、私は二十代の軍服青年。或る日、中隊附将校室で、屁は燃えるか燃えないかが問題になりました。発言者は古参のA中尉で、屁が燃えるものなら、これを空気中に無意味に、放散してしまうのは、国家経済上、また資源保存上から勿体ない話で、これを一億国民から回収して、生産動力源に活用すべきではないか。何しろ、松根油を航空燃料にし、家庭の鍋釜までが動員された時代であるから、屁もまた、これを活用すべきではないか、というわけです。
 さて、実験という段になったが、肝心の屁を如何にして採取するか。直接法による実験では、危険と効果の確認の困難が考えられるので、間接法によることとし、風呂の中で、あぶくもろとも採取しよう、ということに衆議一決。
 その晩は、いつも行きつけの旅館の風呂場の浴槽に、三人で身を沈め、延々一時間半、ねばりにねばって、コップに、三分の一程度を得たが、これを逃さないように、水中(湯中)でガラス板で密閉して、苦心惨憺の結果、ようやく外に引き出し、四人の異常な緊張と注視の中で、Y少尉がマッチを灯し、コップの下際を少し傾けたところ、一瞬ボッと云う燃焼音を発して燃えたので、四人一様に『燃えた!』と、思わず喚声を上げたのです。
 爾来、A中尉提案の放屁動力論も、実践の過程に入らないまま終戦になったので、断念せざるをえなかったでありましょう…」

 これは戦中のエピソードであるらしい。佐藤は続編の『いろ艶筆』(1956年)でも読者の反響を取り上げ紹介している。この中には『おなら粋門記』(1964年)の藤田保の手紙と思われるものもある。紹介してあるのは、屁の採取法や燃焼する理屈のほか、腸閉塞の手術中に点火して確認したという物騒な医者のウンチクなどである。

 佐藤の記述に敏感に反応した読者がいたわけだが、すでに燃屁が社会現象として膾炙している様子がうかがえるわけだね。1970年代になると「へもす会」という屁を燃やして楽しむグループが登場する。このグループについては関温穂の『へ調ウンチク辞典』(1986年)に詳しく紹介してある。メンバーは屁を燃して楽しむばかりか、写真に撮り画廊に飾って楽しんだのである。

「ここ本部の土井画廊には、ヘモスの成果を誇る記念のカラー写真が大事に保存されているが、いずれ劣らぬ傑作ぞろい。都市ガスの火柱を思わせるオレンジ・ブルーの炎が見事にキャッチされている。しかも、それぞれにキチンと愛称がついているところが心ニクイ。
 いわく──忍びの者、上り藤、下り藤、線香花火……。中には屁炎放射器なる物騒なものもあり、これはさすがに火柱三十センチもあろうかという超大物」

 さて、このような〈屁〉の歴史の道筋をどう見るか。長い歴史で屁は見えない存在だったわけさ。そこで「燃屁」というのは、屁が初めて人類の前に見える姿で現れた歴史的な事件なのであるよ! このことは強調しておきたいね。しかも、そこには「メタンは燃える」と理屈では分かっていても、「信じがたさ」と「驚き」が同居して受けとめられるのである。

 屁が燃える──この単純な出来事(現象)は史上初の屁の視覚化なのである。何と過激な降臨であろうか。
posted by 楢須音成 at 13:45| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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