2007年02月19日

討論番組は放屁合戦という現象

 芸とは本来、話芸に発祥したものだそうだ。話芸と言えば、テレビでよくやっている討論番組、これも話芸だね。少し前にテレビで団塊世代をテーマに討論番組をやっていた。たまたま途中から見たんだけどね。やはり、面白可笑しく浮き立つのは参加者の芸風である。

 ここでは参加者は芸人なんだね。まあ、討論番組だから参加者の論争の盛り上がりを味わうのが正しい鑑賞法だろうさ。しかし、番組意図は必ずしもそこ(定年退職を迎えた団塊の世代が国家経済や地域社会に及ぼす影響とか問題とか課題とかを論ずる)にはないね。テレビでは毒舌も正論も漫談になるわけさ。

 討論会場(スタジオ)の論者集団は「団塊世代の一般人」「非団塊世代の一般人」「評論家や事業家の著名人」というグループ構成で、ここに「団塊−非団塊」「一般人−著名人」という対立軸(?)がクロスして、これが微妙に言動の不協和音(論点錯綜)を醸すという、わかりやすい構成になっていた。

 思えば団塊の世代は、出生数が多い世代という特色(だけ?)で標的(論争の対象)にされてきた「幸せ」と「不幸せ」を背負っている。団塊(ひどく数が多い)という、戦後世代の中でも明快ゆえに特異な存在理由で、いまだに毀誉褒貶かまびすしい。

 それにしても、世代論にはまりこむと、どの世代も自分たちが一番損な世代だと思い込んでいる貧乏根性を丸出しにするのは、何でやろねー。その割には、随分なナルシシストなんだけど。

 しかし、そういうことも芸風ということである。

 激しさを競う討論(論争)番組では(どこの番組や…笑)芸風がクッキリとあらわれる。偉大なる論者といえども、その芸が及ばず「下品」「わがまま」「恐喝」「デタラメ」「馬鹿」の言動に零落する。卑小なる論者であっても、その芸の巧妙さによって「上品」「謙虚」「忠告」「正論」「賢者」の言動に躍進する。芸風の乱舞をもってハチャメチャ混乱のうちに終わるのは面白いけどさ。

 もともとテレビという媒体は出演者の立居振舞(言動)を鑑賞するところから始まっている。昔は居ずまい正して観たもんやという。そこには観られることを意識して芸があったはずではないか。ならば、もっと盛り上げねばならん。面白くなければいかん。演出やがな。やらせやがな。と、テレビがエスカレートするのは芸がはらんでいる宿業であ〜る。

 テレビが先導した討論のワザがあるね。著名人がやると迫力がある。まずは「人の話を聞かん(さえぎる)」「自分を過信する(どなる)」「曲解する(一で十を判断して嗤う)」「相手にしない(わかるように無視する)」「生き様を脅す(相手を否定する)」という、我が子だったらお尻ペンペンする振る舞いである。

 最近は一般人にまで(公の場で)それが浸透し始めておるわ。

 いろんな芸があって上手い下手もあるように、屁にもいろいろあるもんだが、討論番組はまるで放屁合戦であるね。意外だったのは、その放屁合戦の幕間に、シンガーソングライター(嘉門達夫)が団塊世代をパロった替え歌メドレーを披露したとき。いつもはバタ臭く現金に世相・世代をおちょくる嘉門の歌声が、何と清らかな聖歌のように聞こえました。笑ったわい。これが、ホンマもんの芸や。それまで臭気ぷんぷんの会場やったけれど、歌い終わった後に一瞬臭みが消えた。

 放屁合戦が終われば参加者は、ただの人に戻るんだろうな。いや実は、知り合いが出演しているのを見て驚いてしもうたんやがなー。


posted by 楢須音成 at 23:56| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月07日

ある大統領の〈屁〉的分析

 映画やテレビドラマに〈屁〉が登場すると、お笑いになってしまうね。まあ、単に下ネタに堕するというだけでなく、どうも〈屁〉は映像表現になじまないのである。見えないもの、におうものは、存在は確かだとしても映像にはならないのであるから、音をたてるものとしての〈屁〉がブザマに響くだけ。響くだけならいいが、我々はそれを聞きながら、〈屁〉の姿もニオイも想像してしまうのであ〜る。

 さて、遅まきながら、1週間かかってアメリカのテレビドラマ「24(トゥウェンティーフォー)」のシーズン5を観終えたのさ。この作品に一発の〈屁〉も登場しないが、シーズン5では強烈な「透かし屁野郎」(比喩的に言っているわけですね)が登場して、最後の最後までその臭みを残すのである。演技賞ものである(と思う)。

 演じられたその人物とは、こともあろうに合衆国大統領なのであった。

 このドラマは、熾烈なテロとの戦い(ここでは防衛に回る国家と攻撃に走る過激組織との手段を選ばぬ激闘)を眼目にしている。
 しかしまあ、戦いの根拠や展開は「愛国」「正義」「信念」「良心」といった崇高な《信条》をまとってはいるが、実際にやっていることは「裏切り」「残虐」「思い込み」「保身」「冷酷」「隠蔽」「野心」「自爆」「秘匿」「誘拐」「嫉妬」「強要」「中毒」「暗殺」「加担」「功利」…と、腹立たしいほど偏狭な振る舞いであって、あきれるくらいジコチュウな人間群像が足を引っ張り合ってひしめいている。それがまた意外性を畳みかけ、お見事なサスペンスアクションになっているわけさ。(この世は、お先真っ暗かい)

 頂点に立つ人物として描かれるローガン大統領は、最初の登場から、こんな珍奇な人物もあまりいないと思わせる描きようだが、最高の権力者であるがゆえに、いよいよ際立つ狭小な振る舞いは周りのジコチュウな人間たちからもあきれられるくらいのもんである。

 肝心な決断(判断)場面では(迷いに迷って)他人の主張に飛びつくわ、(よかれと思って)最悪の指示は飛ばすわ、(事態が悪化すると)開き直るわ、(ヤバくなると)責任をなすりつけるわ…まあ、新たな事態に追い込まれるたびに、恥ずかしげもなくブレにブレれていく姿は、まさにシーズン5の展開の眼目になっておるよ。

 いるよねー、現実に、こういう人間が。

 しかも、立場あるローガン的(芸風の)人間は自分では一貫した《信条》の持ち主であると思っているのかもしれんよ。自分ではブレているなどと思っとらんし、最高の(とまでいかなくとも、人に説教を垂れる程度には)権威者(リーダーとか専門家とか知識人とか…)であることを自覚しているから、ごく自然に他人の手柄(主張)は自分の手柄(主張)なのである。(もちろん広い世間には、節を曲げ一貫性もなく引きずられていく自分を自覚し、深く恥じ入っている人はいる)

 我々は一貫性に価値を置いている(ブレていないと自慢する)ために、変節漢に見えるローガン的人間を馬鹿にするかもしれないが、果たしてそれでいいんだろうかね。我々はローガン大統領のような無様なブレはしないと、自分に高をくくっているだけじゃないのか。あるいは、我々はローガン大統領(悪や恥の見本となる他者)を否定することによって、自らのローガン的心性を隠蔽しているのじゃないのか。

 さて、透かし屁である。

 こっそり、音なく放出する屁が透かし屁だね。これにニオイが付随し(正体不明のまま)出現することによって状況に変化をもたらすのである。これは@意図せず放出してしまい誰にも気づかれぬよう悪臭を隠蔽したいA意図をもって放出し(正体を隠しつつ)悪臭の効果をねらう…という、正反対の場合があるわけさ。

 現実の政治家が透かし屁をするのは日常茶飯事に見かけることだけれども(比喩的に言っているわけですね)、ローガン大統領がブレまくって節操がないという点では@を連発しているわけである。ただし、この大統領は悪臭に鈍感なので、てんで恥じるところがない。まあ、それだけで終われば、単にお笑いであるが、実はAを仕込んでいるという点で彼は暗黒系の人物像になっているのである。

 透かし屁を放って(愛国的な)結果を期待するという確信犯的な陰謀を仕込む振る舞いは、それが大統領という権威的立場ゆえに、ほかのローガン的人間を凌駕している行為となる。それによって横柄にしてあまりに卑小な、どこから見ても珍奇な小物にしか見えない人物が次第に謎めいてくるところに、緊迫したドラマの物語構成の妙味があるのさ。この大統領、ついには夫婦関係まで破綻させるほどの強烈な透かし屁を連発していたことが明らかになっていく。いやはや。

 かくして、大統領は透かし屁のAにおいて一貫しており、ブレずに《信条》を保持した人だったのであ〜る。(今後のシリーズでどうなるかはわからないけどね。まさか転ばないだろーな)

 思うに、もともと我々があがめる《信条》とは屁みたいなものであるさ。といって我々は屁なしには生きられず、いったん出したら、その〈屁〉による振る舞いが自他によって問われる存在である。そして、我々が自慢する《信条》というものの音やニオイ(のようなもの)が「自分の屁は聞こえず臭くもない(におっていない)」というローガン大統領の姿によって現象していると言わねばならん〜。
posted by 楢須音成 at 15:28| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月24日

『2001年宇宙の旅』に〈屁〉の誕生を見た

 原始の昔、もともと屁は自由に放散されていたに違いないのである。ブッブッブー、ブッブッブーと、いつでも放埒に出たかどうかは知るすべもないが、人類の起源から、ことあるごとに屁は出ただろうさ。激しく体を動かせば呼吸が乱れるけれど、同様にその日の体調加減の体の動きで、ごく当たり前に屁は発生したに違いない〜。

 ここで思い浮かべるのは、アメリカ映画『2001年宇宙の旅』(1968年)に出てきた類人猿のシーン。類人猿たちが夜の底知れぬ闇や、厳しい雨風を避けて洞窟に身を潜め合っていたね。その洞窟はまだ住居でもなく、そもそも彼ら自身がまだ人間でもない。そういう段階から、彼らは荒野に屹立する謎めいた巨大な板にインスパイアされて道具の使用(モノの獲得と闘争と生産)に目覚めていくのであるが、人類へと進化していく原初の段階が鮮烈なイメージによって印象深く描かれていた。残念ながら、そこに屁が登場していたわけではないのだが。

 しかし、洞窟の中の彼らは屁をしていた(に違いない)のであって、立ち上がろうとしてブー、押し合ってスー、つまずいてピー。それは意味づけのない自然(生理)現象であり、誰も気にすることもない屁であったのだ。もちろん、彼らには言葉なんかないので屁の概念はない。恥もない。道徳もない。まるで屁は存在しないに等しい。ブー、スー、ピーは彼らが時々発する(お互い意味のない)唸り声と同じである。そのように彼らは洞窟の中で身を寄せ合って、我知らず無意味に屁をしていたのであ〜る。

 ところがあるとき、ふと屁を気にした奴がいたんだね。それは自分の屁だったのか、他人の屁だったのか。彼は何かにインスパイアされて、とにかく屁に意識(のようなもの=怪訝)が向けられたのである。やがて、そういう怪訝な気持ちは仲間も抱いているみたい〜と気がつくうちに、屁は次第に仲間内で意識されてくる。

 そのときの屁は、ほかと差別化された音(異音)であり、ほかから際立ってくるくさ〜いもの(異臭)だった。しかも見えない。どうやら出てくる穴は決まっているようだ。彼らはもどかしく〈屁〉の存在を感じたに違いない。屁は〈屁〉へと架橋され始めた。

 なぜか自分がそういう〈屁〉をするのは気持ちがいいのだが、仲間の〈屁〉を聞いたり嗅いだりするのは気持ちよくな〜い。何だか〈屁〉はヘンだぞ〜。

 かくして洞窟の中で、いきなり登場(意識)した〈屁〉なのであった。
 しかしそれは、まだかすかな意識(認識の端緒)の段階だったので、すべてはモヤモヤした霧のように複合した原初的な感覚あるいは感情といってもよかった。

 やがて意識は自己増殖して次第に〈屁〉としての観念化を進めていく。彼らが洞窟を捨てたとき、すでに〈屁〉は制御すべきもの(みだりにしてはいけないもの)としてあった。

 ──まあ、これが〈屁〉の発生の経緯である。音成の妄想だけどね。
 『2001年宇宙の旅』は人類自らが作り出した(制御できなくなった)コンピュータとの闘いを描いている。そして映画は神秘的な結末へと謎を深めてエンディングとなるね。ここで妄想を深めればコンピュータ「ハル」は、まさに〈屁〉(のようなもの)なのであるさ。

 人類と〈屁〉とは、何と因果な関係であろうか〜。
ラベル:映画 類人猿
posted by 楢須音成 at 00:04| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月02日

〈屁〉における民族派と国際派

 我々の〈屁〉は恥を喚起するが、羞恥論において〈屁〉を扱ったものはまれである。また、屁の化学分析がどんなに究められても、それが世界に変化をもたらしている兆候はない。〈屁〉がどこまで我々の世界を規定しているかについては、あまり根拠が明らかにされているわけではないねー。

 それでも、屁そのものというより〈屁〉的なものの存在が我々を脅かしていることはないだろうか。


 アラノ星(PLANET ARANO)では屁は凶器となり得るものであった。というのも、屁に強力な殺傷力があったからであるが、このために屁は厳重に自己制御することが義務づけられていた。屁がもたらす殺傷は「臭殺」と呼ばれていた。

  ♀♂屁で人を殺(あや)めてはならぬ〜☆△

 このような屁の自己制御がアラノ星最大の道徳律となったのは当然である。アラノ星の聖者ヘリストが布教したヘリスト教においては、屁はすべての人が持つ原罪であった。なぜならば、屁をしない人はいないからである。

 アラノ星人は、自分の屁は自分に無害だった。そして、二親等までの血族に対して屁は忌避すべき臭気を伴ってはいるものの、人を死に至らしめるものではなかった。だからそこには、まだ笑いがあった。
 ところが、血族関係が希薄になるにつれ臭気は強烈に作用し始め、アカの他人に対しては殺傷力が出てくるのだった。それでも同じ民族の場合には、意図的・継続的に屁を嗅がせなければ死に至らしめること(事件)はそう滅多にあるものではなかったが、民族が違うと、屁の一発はほとんど即死状態を招く毒性を発揮した。

 このようなアラノ星においては、国際関係や夫婦関係の中の屁がデリケートな問題となって歴史を形成したのは当然である。なぜならば、屁を下手にすれば相手に死をもたらすからである。もちろん、自分も命を落とす恐れがあった。

 夫婦はほとんど国内結婚(嫁入婚)に限られたが、家族の中で嫁は屁に関して(自分の子供の屁をのぞいて)脅威にさらされ四面楚歌であった。また逆にその他の家族(子供をのぞく夫や義父母など)にとっては嫁の屁が脅威であった。

 家族や血族は複雑に絡み合う屁の脅威を孕んで形成されていた。というか、屁(の脅威)こそ血族や家族関係の核心(構造)であって、逆説的だがそれがなければ、家族や血族は活力のない死んだに等しいような集団であったに違いない。屁なしには哲学や文学や芸術は生まれなかった。

 生か死の二者択一に等しい異民族の屁は、国際結婚において極めて危険度が高く、絶無に近い特殊・特異なケースであった。そもそもアラノ星の国際社会は国家間の人の交流は最小限に制限されており、根底には屁をめぐる疑心暗鬼が悪夢のように存在していたのである。

 古代国家間における激烈な屁の闘争を経て、やがて宥和主義的な時代になっても、国際社会は屁がもたらす深刻な危機を懸念し、ほとんどの国が鎖国政策を実施してきた。アラノ星では近代科学における屁の処理が発達しても、国外に出るときは防衛ガスマスクは必携であり、外国人の入国に際しては臀部に特殊なガス吸収タンクの装着を強制した。国際関係は屁(の脅威)に対する個人的・国家的防衛が前提になっていたのである。

 このように世界の根底が屁によって規定されているアラノ星においては、最大の倫理問題は屁の人体からの駆逐の是非であった。科学の発達や平等主義は屁の駆逐(屁をしない人間の創出)を予見させ、進歩的な国際派が屁の放逐をめざせば、保守的な民族派が激しく抵抗する潮流が生まれた。

 民族派の抵抗する心には、屁を抹消するとアラノ星人ではなくなるのではないか、という根源的不安が湧き起こっていたのである。屁が存在しなくなるとは、宗教的にも問題で、「屁で人を殺めてはならぬ」という至高の道徳律が全くの空語(意味不明)になる世界を招来するのであった。屁がなくなったら、屁の原罪はどうなるのか。

 そこに天国を見るか地獄を見るかでアラノ星人は論争に明け暮れた。

 そんないま、民族派と国際派が争うヘッポン国は鎖国1000年の童貞夢から目覚めようとしていたのであ〜る。
posted by 楢須音成 at 06:59| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月27日

あっちとこっちの〈屁〉の家族

 あっちの家族では、放屁はひとまず禁じられた行為であった。というのも、放屁音が彼らの鼓膜を通じて強い頭痛をもたらすため暴力行為と見なされ、それが家族内に発生することは避けられたのである。もちろん、だれ〜も一発の屁もしないというわけではなく、あっちの家族では音を殺した透かし屁はした。それは、まあ、別に屁のニオイなんかはどうでもよくて、ため息のようなものであって、だれかが目立たず屁をすると、「あら、どうしたの何か心配事でも?」とか「なによ、具合でも悪いの?」とか、そのタイミングとか様子が気になるだけであって、ただニオイは全く意に介していないのであった。

 こっちの家族でも、放屁はひとまず禁じられた行為であった。というのも、放屁による悪臭が暴力行為と見なされ、それが家族内に発生することは避けられたのである。もちろん、だ〜れも一発の屁もしないというわけではなく、こっちの家族では音に全く頓着しないだけで屁はした。それで、まあ、放屁はニオイを封印するため個室における個人の秘め事でなければならないのであって、個室の屁ならかりに隣室の放屁音を聞いて、「おや、気張り過ぎだな」とか「えー、なんか元気ない〜」とか、放出っぷりの論評はあるにしても、音響とどろき渡ろうが抗議に出向くことはさらさらなかった。

 かくして屁に向き合うこうした姿勢が家風の違いをもたらすのは当然である。あっちの家族は音さえしなければ屁は自由であり、こっちの家族はニオイさえなければ屁は自由(ただし、一人のときに限る)であったが、ここには、すでに「自由」に対する思想的姿勢の違いがこめられているわけである。もちろん、二つの家の「自由」がぶつかり合う場面は文化衝撃として現象することになる。

 ある時、こっちの家族が引っ越してきて、二つの家族は隣同士で住むことになった。

 最初の訪問は、こっちの家族がみんなで挨拶に出向いたときだった。そのときはちょうど、あっちの家族の酔っぱらって帰ったお父さんが玄関でスウスウ透かし屁をこき、お母さんが「まあ、お父さん、お酒くさいわァ」と出迎え、酔って帰るとき必ず土産を買ってくるお父さんであるので、子供たちもスースー喜びの透かし屁をこきながら「ああ、お父さ〜ん、おみやげ〜」と飛び出してきたところに、こっちの家族がピンポ〜ンとチャイムを鳴らしたのであった。

 ドアが開け放たれたとき、こっちの家族は隣家の異様なニオイに驚愕した。それと同じくらい、あっちの家族も隣家の異状な振る舞いに驚きを隠せなかった。こっちの家族は顔を引きつらせ鼻をつまんで、ストップモーションでのけぞり返っていたのである。

 あっちの家族とこっちの家族はお互いの顔をよく知らぬまま断交状態になった。

 とはいうものの密接した隣同士であったので、あっちの家族はこっちの家族の放屁音に悩まされ、こっちの家族はあっちの家族のニオイに悩まされ続けることになった。こっちの家族では「屁(のニオイ)はしてはいけない→自分にだけ囲い込んだ(自由)の屁」という抑止的礼儀作法を、あっちの家族に強制しようと町内会に訴えた。要するに、ニオイを外に出すな、ということである。あっちの家族では「屁(の音)はしてはいけない→みんなで(自由に)する屁=透かし屁OK」という解放的行動規範を、こっちの家族に強制しようと町内会に訴えた。要するに、音を立てるな、ということである。

 あっちの家族の主張=透かし屁こそ正義である。そこには解放と、お互いを認め尊重する平和がある。大体、音を立ててはうるさく迷惑千万ではないか。静かな屁の自由を束縛してはいけない。

 こっちの家族の主張=屁は囲い込むのが正義である。そこには克己と、お互いを認め尊重する礼儀作法がある。大体、ニオイを漏らしては臭くて迷惑千万ではないか。屁は垂れ流してはいけない。

 そこに屁はあまりしないのだが、イビキと体臭のきつい、そっちの家族が引っ越してきて「まあまあまあ」と仲裁に入った。あっちの家族は豪快なイビキに驚倒し、こっちの家族は鼻もモゲそうな体臭に卒倒したが、そっちの家族はそんなことは一向におかまいなし。

 そっちの家族の主張=いい加減にしたらどうでっか。相手の嫌がる屁をしないように努力しなはれ。ちょっとは我慢もいるんちゃいまっか。音やニオイやて、そんなもん慣れますやろ。嫌やー、嫌やー、思うから嫌なんでっせ。半分は気のせいでんがな。

 あっ、あっ、どこがあっちでこっちでそっちなのか。我家においても〈屁〉はひとまず禁じられた行為であ〜る。
ラベル: におい 家族
posted by 楢須音成 at 13:38| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月08日

屁は放棄すべきものか否か

 アラノ星(PLANET ARANO)では屁は自分自身(と嫁を除く家族=一・二親等の血族)には無害だが、他人には(その他人度が増すほどに)有毒だった。だから民族が違うと屁は極度に危険であり、簡便にして有効な国家間攻撃の武器ともなり得た。

 ところが、絶対平和主義のその国では、たとえ無害であったとしても、自分よりほかの人様の前で絶対に屁をしてはいけなかった。それは至上の道徳であり、最も厳しい戒律になっていたのだ。

 禁屁(きんぴ)の徹底ぶりはすさまじく、とにかく他人に屁を想像させてはいけないのだし、屁というものがこの世に全く存在しない「かのように」振る舞わなければならないのだし、この世界に屁があるのを絶対に無視するのであるから、屁は決して存在を明かさない透明人間のようなものだった。しかし確かに、昨日も今日も明日も屁は国民一人ひとりの大腸のどこかにうごめいているのであった。

 その国では、憲法においては「屁をしないことを心の欲するところとし、国家および国民間の屁武装を個人の責務において放棄することを宣言する」とあり、これがかの陶酔的絶対屁和主義と呼ばれる屁武装放棄宣言だった。(隣国あるいは多くの国では憲法において屁武装中立を宣言しており、同じ平和主義でも屁をめぐって国家方針が違うのだ)

 それで、禁屁のその国では、止めることのできない屁の処理はどうしたのかというと、個室で便所で野原で山で森で海浜で…孤独に一人こっそり素知らぬ顔でしたのである。しかし禁屁の一方で、そのすさまじく隠蔽された屁は実に実に快楽だったのだ。お尻から解放されるとき(音がし)、解放されたあと(ニオイがし)、たちまち屁はすこぶる快感な物質として機能した。もちろん、これは自分だけの陶酔境の深〜い密かな愉楽である。

 アラノ星人にはそもそも他人を殺傷する屁は罪深いという認識が見られ、これにまたその背徳めいた快楽は欲深い汚れという、とぎすまされた原罪意識があり、そのために罪と快楽を止揚するへリスト教がその国では広く深く信仰されていた。聖者とは全く屁をしない人であるばかりか、超絶した精神をもって腸内に屁を発生させない人のことであり、そのことによって罪と快楽から解脱した聖者の判定がなされ得るとした。

 その国では屁は存在しない(ようにみなす)ことが至高の輝きだった。

 もちろん、にもかかわらず、「あら〜、そこにいるのねェ、やっぱり〜」というのが屁の暗くしぶとい存在感である。無視すればするほど、人は屁と向き合うことにならざるを得ない。しかも、そうやって心のどこかで屁と向き合っていることすら隠さねばらないのであって、当然のことながら心にもお尻にも締まりのない人というのはいるものだから、そういう人は犯罪者となったのである。

 禁屁を犯した者は二つのタイプがあった。
(1)確信犯=わざとやる人
(2)粗忽犯=うっかりやる人

 このうち、どちらが多いかというと、ほぼ半々であるが、国民の約十五パーセント(人口比)が犯罪を犯す中で、その三分の一が禁屁令違反であった。ほかの犯罪と違って、禁屁を犯した者はその一発が人を殺(あや)めることになるかもしれない危険人物であって、理由を問わぬ重罪であり、裁判もなしに即収監されて塀の向こうに隔離された。

 収監される先は禁屁を犯した者たちだけのブーピースー監獄であり、そこで裁かれた囚人たちには誰一人個室が与えられず、お互いがお互いを大腸に充填した危険なガスで威嚇しながら大部屋に同居していた。誰かの過ちや信念の一発はとても危険だったが、それによって誰かが死んだとしても監獄側はおかまいなしであり、危険分子の好ましい消滅ぐらいにしか考えていなかった。

 しかしながら、囚人同士は自己防衛の危機管理によって、大部屋におけるお互いの秩序は存在していた(安定していた)のであり、言ってみれば、それぞれが屁武装中立の不干渉主義をベースにせざるを得なかったのである。

 ただし、確信犯と粗忽犯は分離して収監されていたのであるが、というのも、粗忽犯の場合はお尻の締まりがないために、いつも暴発の事故・事件が発生するのである。そこで確信犯の側から部屋を分けるように強い要求があり、それが今に続いているのであった。

 そもそも粗忽犯は本来、屁の一発の意図性はない、重度のうっかり者だと考えられているのだが、それだけに制御の利かないお尻は常に(不意に暴発する)危険という側面を持つわけであるので、被害の度合いは結構大きなものがあった。しかも、粗忽犯は余儀なく時には我知らず屁をするのであるから、それを悔いる限りにおいては善意の人であるという点で、悲惨なものがあった。

 かくして概して平和なのは確信犯の大部屋であり、いつも問題発生しているのは粗忽犯の大部屋であったけれど、部屋の空気はどちらも緊張していた。とにかく他人の屁の一発に、赤の他人同士の囚人たちは身構えていた。その国の道徳によって「屁を肯定し操ること」を悪と見るならば、確信犯の大部屋には「悪意の緊張感」があり、粗忽犯の大部屋は「善意の緊張感」が空気となって漂っていたわけである。

 隣国の屁武装中立主義者からは、その国は人権(人が生来持つ屁の権利)を否定する暗黒国家としか見えず、ブーピースー監獄は人権無視の象徴的存在として非難されていた。

 しかし、その国は憲法の下に、屁を認めていないのだし、ブーピースー監獄の連中を認めでいないのだし、屁を固く固く禁じているのである。だから、その国では誰も屁をしない(ように見える)のであった。
ラベル: 道徳 憲法 監獄
posted by 楢須音成 at 17:28| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月11日

屁をこく自由の国の一家

 例によってアラノ星(PLANET ARANO)では屁毒が問題だ。最悪の場合には致死に至るのだから、それに屁なんて誰でもするのだから、その一発が危険極まりないのである。最近も事件発生。シャイナ国の屁衛生管理の悪い食品会社が、ウカツにも冷凍芋に他国の屁毒を付着させて売り出したため国中が大騒ぎになった。

 もっとも、シャイナ国は歴史的に多民族国家で、国民相互の屁の免疫性はとても高い国民性ではあったのだ。ゆえに、付着した程度の屁毒にあたっても食中毒症状程度で済んだのだが、たまたまシャイナ国を訪れていた外国人は致命的なダメージを受けて死者が続出してしまった。この事態に弱腰になった(?)政府は第三国の報復を恐れて国境線に軍隊を配備して屁武装した。

 アラノ星では国家間の人や物の行き来は厳しくチェックされてはいたのである。何しろ微量でも異国人の屁にあたると死んでしまうのだからさ。アラノ星において国際的であること、すなわち屁衛生的であること(人前で絶対屁をしない)は国家間における近代的マナーなのであって、この恐ろしい自分たちの屁の取り扱いを巡ってこそ同盟や協定が結ばれ、平和が維持されるという屁の政治力学が展開しているわけである。

 今回の冷凍芋だが、芋の原産は芋作りが得意な隣国のチョイナ国だったのである。シャイナ国はそもそも原産国チョイナにおいて屁毒汚染が行われたと主張した。ふむふむ、チョイナ国では屁毒を濃縮した屁爆弾を実験しており、大気の屁毒汚染が問題視されていたのだからね。そりゃ怪しいわー。

 チョイナ国ではこの指摘に激しく反発し、国境に屁武装の軍隊を配備して「陰謀だ。あり得ない。無実だッ」と断言した。するとシャイナ国は、採取分析された屁毒がチョイナの毒であることを明らかにし、さらに一歩踏み込んで「友好を阻害し我が国を混乱に陥れようとする(チョイナの)浪漫派へロリストの仕業だッ」と主張した。

 この浪漫派とは、農業国チョイナ国の貧しい芋作農民から台頭した秘密結社で、屁の自由を求め「屁をこく自由の国」を標榜し、所構わず屁をこく社会の実現を主張する一派だった。もちろん、「その言や愚の極みぞ、やたら屁をして死んだらどうするか、あほッ」と激しく弾圧された。そりゃそう、屁毒がきつい(一番くさい)のはチョイナ国人の特徴なんだからさ。自由な屁を許したら下手すれば亡国の主張にもなりかねないのである。

 自由を求めるあまり(確かにアラノ星人にとって放屁は極上の快感だが…)、現実(相手に死を含むダメージを与える毒性)を忘れた(かのような)チョイナ浪漫派の主張は、周辺国でも警戒された。というか、享楽的でアナーキーな危険思想にしか見えなかったのである。しかし彼ら浪漫派は、屁の自由を通じて人間性の解放を夢見ており、敬虔な芋作によって日々の糧を得つつ、主ヘリストを讃美して放屁高吟・放屁三昧する「浪漫生活」を理想とした。

 もともとチョイナ国特産のサッツマ芋はアラノ星人の一番の好物であるのだが、くさい屁毒をエネルギッシュに産出せしめる危険と背中合わせの要注意食品である。それゆえにサッツマ芋を麻薬のように扱い、輸入を禁じている国もあるほどだ。治安が安定して国民も冷静なシャイナ国では禁輸はしていないものの、加工パッケージされた冷凍芋として準薬物扱いで販売されていた。

 さて、冷凍芋の騒動では、チョイナ国もシャイナ国も過敏になって、相手を非難するばかり。閉鎖的なアラノ星の国家間においては、何もしていない振る舞いが無罪の根拠であり、被害者であることが優位の証しでもある。もともとの芋自体には問題はないとすれば、考えられる推理は次の通りだ。

(1)そもそも、チョイナ国民は屁毒が強く、国はそれを濃縮して兵器開発を行い国土を汚染している。サッツマ芋が汚染されていた可能性は高いだろう。ただし、チョイナ国は国外に持ち出されるものすべてにチェック体制は万全と宣言し、芋は完璧なクリーン環境で洗浄済みだったと主張しているのだ。

(2)だがだが、冷凍芋の屁毒がチョイナ国のものであることは明らかである。もちろんだからといって、輸出の主要な相手国という友好関係があるのだから、チョイナ国の意図的な悪意の行為があったと見なせるものではないだろう。

(3)まてまて、それではシャイナ国の食品会社の工場の意図または過失という疑いはなかったのだろうか。そりゃ疑いはあるわけだが、企業が自滅するような悪意は論外であろうさ。食品会社は完璧にクリーンな環境を公開したし、さらにまた食品に屁毒を盛る自虐的な自国のヘロリストの侵入は絶対不可能とする施設と警備を強調した。だから、恐らく最初からサッツマ芋に付着していたのだろう。

(4)はてさて、ではシャイナ国が主張したチョイナ国の浪漫派による仕業という説は一方的すぎないか。この説は自分の国が原因ではないと主張する割には、何ら明確な証拠(事実)を提示していないし、歯切れが悪いね。察するに多分、チョイナ国に潜り込ませているスパイ情報に基づく憶測ではないのか。強硬に主張してしまうと、情報ルートがバレる恐れがあるに違いないから、ここは嫌疑を匂わせる先制的なサゼッションによって、チョイナ国の対応(不手際の反省)を求めたものであろう。

(5)いやいや、以上は事件の真相の表面を穏健に解釈するものだ。この事件が落着する筋書きには、実はシャイナ国の深い策謀があるに違いない。真相は逆にシャイナ国のヘロリストが国内攪乱を意図してチョイナ国の屁毒を持ち込んだらしいのだ。これを隠蔽するためシャイナ国はチョイナ国の仕業として転嫁しようとしているのだろう。

(6)ほおほお、そんなことが言えるのなら、この事件は、チョイナ国の防諜機関がシャイナ国に滞在する第三国の外国人を謀殺するためにやったのだという情報があるぞ。ネライはシャイナ国ではなく第三国の攪乱だ。チョイナ国でのサッツマ芋の出荷の段階か、潜入したシャイナ国の食品工場の段階か、どちらかで屁毒の混入が実行されたのだろう。

(7)ふむふむ、さすれば事件は陰謀だ。しかし、事実は何がどっちでこっちやねん。両国ともに国境の軍隊を増強しているが、戦争になるんか?

 その頃、チョイナ国の芋作農民の一家が緑の丘陵をのんびりピクニックしていた。眼下には広大な芋畑が広がっている。父親が朗々とヘリストを讃えて高吟しながらブウと一発こくと、母親と三人の子供たちも尻を振り振り明るく屁をこいて笑い合った。一家の屁は山からのさわやかな風に乗って芋畑の方にずんずん流れていった。そこでは屁は自由だった。どんな音もニオイも許し合えた。もたらされるのは極上の快楽だったのである。もちろん、そういう屁の毒性は強い。
ラベル: 軍隊 浪漫
posted by 楢須音成 at 22:29| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月11日

アブナイ屁こき三人組の未来

 とても臭いので、周りのみんなが閉口して鼻をつまむ。アイツとコイツは顔つきあわせて、しょっちゅう屁をこくのである。二人は屁を我慢できないし、屁をこくたびに奇妙なやりとりを始める。

 ハタ目にも二人はギクシャクしている。性格というか性癖というか、二人が屁をこいて応酬する振る舞いの違いは顕著にあらわれる。アイツとコイツは陰に陽に不思議な葛藤を繰り広げるのだ。少々見苦しい。なのに学校が引けると、二人は共通の友人であるソイツの家に行っては屁をこき、ソイツを入れて三人で延々と遊んでいるのであった。

 ソイツにしても屁をこくにはこく。三人は同類の仲間なのであり、二人と同じく我慢できないタチなのだが、ホントに臭いアイツやコイツとはイガミ合うような関係にはない。ソイツは自分の屁が最も良質である(ニオイがカルイ)ことを願っているし、信じている。まあ、ソイツが遊び場として部屋を提供しているのは、そういう優位な自分を二人に認知させるためもあるのである。もちろんソイツはいつも中立者であり、また部屋を提供する太っ腹な大人ぶりを見せており、どちらかに肩入れするような態度は一切見せることがない。

 その日もアイツは屁をこいた。
 それはいつものこと。アイツは知ら〜ん顔。アイツは平然として自分の屁を認めようとしないのだ。そのときコイツも一発やらかした。するとすかさず(自分の一発は棚に上げ)アイツは露骨に嫌な顔をして「おまえ、臭え〜」とコイツを非難した。アイツは自分の屁はともかく、他人の屁は許せないのである。コイツは「ごめん〜」と極めて素直に謝る。コイツはアイツの屁はともかく、自分の屁が許せないのだ。涙目になって意気消沈する。

 ソイツはいつも思う。客観的に嗅ぎ分ければアイツもコイツも同じ程度に臭いんだけどな、と。しかし謝るのはいつもコイツ。同じ臭さなら屁の罪深さはアイツも同じじゃないか、とは思うが、ソイツはそういう評価は言わないで黙っている。アイツとコイツはいつまでも堂々巡りのやりとりを繰り返し、ソイツはソイツで「おれのが一番臭くねえなァ」と密かに自画自賛している。(といってもソイツのも臭いのには変わりない)

「おまえの臭さは鼻がもげるのう。ナントカしろ」
「あー、スマン〜。十分反省してる」
「いや、してないな。してない」
「じゃ、もう一度。ゴメン、な」
「じゃあ、そのミニカーくれ」
「仕方ない、やるわ」
「そっちもくれ」
「…こ、これもか」とコイツはデロリアンを隠そうとする。
「反省してるのなら、くれるもんだろ」とアイツは脅しにかかる。すると、
「あ、あ、あ、そ、それは、おれが欲しいな〜」と突然ソイツがワガママな横ヤリを入れるのだ。
「ダメダメ。こっちが先ィ〜」とアイツは慌てて防戦する。デロリアンを奪おうとする二人に攻められてコイツは困っている。
「…しかし」とソイツは落ち着き払ってアイツを指さし「君のも臭いよなあ。オー、くさ」と不意打ちの一言。アイツはイタク傷つく。
「――か、帰るわ」とアイツは消沈して舞台を降りてしまう。
 
 いやはや、三人組のやりとりは毎度この調子。それぞれに傲慢、自虐、狡猾とかになるのだろうが、三人とも屁をこくことには変わりない。五十歩百歩、目くそ鼻くそのレベルであるにしても、彼らにとっては内なるプライドの闘いである。(プライドとは自分が一番スバラシイと自分に誇ることであるさ。そのスタイルは三者三様)

 加虐的な正義派のアイツ=(ソイツの屁は不問に付しつつ語らぬ)全くコイツの屁は臭くて迷惑だ。許せん。
 自虐的な倫理派のコイツ=(アイツとソイツに文句は言わぬ)自分の屁はとても臭くて迷惑かけてる。ゴメン。
 利己的な現実派のソイツ=(アイツとコイツの差異は認めぬ)全く二人の屁は臭くて迷惑だ。自分がベスト。

 ところで、コイツの密かな夢は(三人の未来に続く葛藤をカットして)バック・トゥ・ザ・フューチャーしてみることだ。未来ではコイツがその高い倫理性において二人に勝利しているはずなのであ〜る。そのためにもミニカーのデロリアンは手放せない。そーなのか?
posted by 楢須音成 at 00:04| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月17日

アブナイ屁こき三人組の過去

 仲が良いとか悪いとか、力が強いとか弱いとか、そのとき築いていた友人関係というものも何年かあとになると、すでにその関係は崩壊していたりする。デロリアンの争奪をめぐって紛糾したアイツとコイツとソイツの場合、そういう争奪があったことすら忘れてしまい、さらにさらに時が流れて老人倶楽部のビリヤード台の前で、三人は枯れて平和な会話を続けている。

 その日は初夏だけど朝から太陽が照りつける異常気象の猛暑日。しかし部屋はギンギンに冷房がきいていた。まあ、老人の特徴はいろいろあるのだろうが、若い若い頃との一貫性というか、固い固い節操というか、そういう心の遍歴が希薄(つまり時間が薄めてしまったわけ?)になっているのが見受けられる。しかしまあ、だからこそ何を言われても平気の平左の揺るぎのなさも老人の特徴であって、それを若者たちはボケとかオワタとか言う。そのとき、冷房のきいた密室で三人は何気もなく、それぞれ大きな、小さな、かすかな屁をこいた。

「ふふ、焼肉食って、ひっそり透かした肉屁じゃよ。くッさ〜。あらっと、そっちは品のいい大根屁。ほお、ほお、君のはこれまたド派手な芋屁だね〜」と鼻をうごめかせてソイツが軽やかに分析する。ソイツはここまでの生涯を、おならヒョーロン家として鳴らしてきたのであった。冷静に屁を分析した。「自分で言うのもナンだが、我が肉屁にはシシトウとラッキョが混じってるのわかる? 君の芋屁はフツーに芋でしょ? で、君の方の大根屁だが、納豆入りだな。ギョーザもありかな?」
「君ィ入れ歯で焼肉とは消化に悪いぞ。臭いはずだ。罪なものを食っとるわい」とコイツは鋭い(少々偏屈な)目つきでソイツをにらむ。
「いやいや、別に好んで食い回っているわけではない。夜の巷の生態研究でね」とソイツは達観した素振りでコイツをいなす。「研究といっても、老人としてすべてこの世間を味わってみた感じからすると、ま、世間がどうとか今更どうでもいいんだけどさ」と要するに世の中を分析(クサ〜)しながら飲み歩くのがソイツの老いの流儀。
「あー、スマン。ちょっと大根臭かったかァ?」と頓狂に、孫の写真を持ち歩いている半ボケのアイツが陽気な声を上げる。一方、自分の大きな芋屁は棚に上げてコイツがム〜ッとしているのは、二人の屁が臭いからだ。
「き、君ィ、大根屁だからって、全く君のは臭い肉屁と同罪だ。君は、配慮というものが昔からないんだよ。昔から。おれはそのくッさーい被害に泣いてきたんだ。臭いのを我慢してきたんだ。せめてこれからは遠慮というものを示してほしい。いや示すべきだ」とコイツは毅然として言う。
「昔のことは反省してるさ。謝罪する。しかし君の芋屁は、ほがらかないい音だなあ。臭い焼肉を思い切り透かした屁よりナンボかいい」とアイツは語彙を混乱させ、ひたすら明るく明るく笑顔を見せる。「君のはいい音だなあ」
「何を言ってる。君は反省なんかしていない。してないな。誠意をもってキチンと謝罪しろよ。俺はホントに傷ついてきたんだッ」とコイツは暗く暗く、しかし威張っている。
「まあ、まあ、お互い屁はするもんだし、いーじゃないか、えーじゃないか、へーじゃないか」とソイツのノリは極めて軽い。そしてアイツとコイツの鼻先に強烈な、新たな怪しいにおいの波を送った。
「ウゲ、何だこりゃ、こりゃ、肉屁の焼肉は透かしてへー加減にしろ〜、くッさ〜」とあまりの臭さに錯乱したアイツとコイツが思わず声をそろえ、ソイツに向かって絶叫した。

 過去を悔いているアイツ(だがボケが始まっている)=小さな音の大根屁(臭さ普通)
 過去を恨んでるコイツ(だが被害妄想が進行している)=大きな音の芋屁(臭さ微少)
 悔いや恨みの世間を分析し臭気を味わうように語るソイツ=音なしの肉屁(臭さ強烈)

 老人は多くのものから超越して(多くのものを忘却して)いるのだ。ただ、屁に関しては老いても変わらず出てくるものなので、超越(忘却)を実現するには、意思によって無視するしかないのかもしれない。しかし、こんなありさまでは一生かかっても、アイツもコイツもソイツも屁を(こき回って)忘れることはないだろう。人生ってどこまでも賑やかで香ばしい〈屁〉的な文化現象なんだね。

 さて、デロリアンで過去からやってきて、老境に達した今日の三人を目撃したのは誰なのさ?
posted by 楢須音成 at 12:05| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月01日

挙国一致という〈屁〉の悪夢

天真爛漫期
○いない、いない、ばー。あっ、笑ってる、笑ってる。グブー。あっ、何それ。君の屁なの? あー、くちゃいね。オオ、くちゃい、くちゃい、ブー。うわッ、ホントくさい、あはは、笑ってる。よーし、君もするから、ボクもするぞ。競争だぞ、どうだ。ぶわー、ぶわー。いやぁ、これは、くさくないな。…あァ? あれ、何で泣くのさ。ビックリしたの? 泣くなよ。いない、いない、ばー。くちゃい、くちゃい、ブー。おい、おい、泣くなってばさ。

平穏無事期
○♪おならさんあなたはどこからきたの? ♪どーしてそんなにおとがするの? ♪どーしてそんなにくっさいの? ♪やっほー、ぶりぶりぶり。♪けっこー、ばりばりばり。♪あっちゃー、すーすーすー。♪こりゃ、うるせ。♪なんじゃ、くさい。♪そりゃ、におう。♪あッら、ははもする。♪そッら、ちちもする。♪いッらー、あにもする。♪こッらー、いもーともする。♪では、ぼ・く・も・す・る。♪やっほー、ぶりぶりぶり。♪けっこー、ばりばりばり。♪あっりゃー、すーすーすー。♪ん〜ふしぎだな。

信仰勃興期
○朝まだきの静寂の中でそっと尻を持ち上げひそかに透かす屁をお許しください。神を知らぬ多くの人はみな罪の意識なくそれを犯しますが私は罪の恥じらいをもち透かしています。汚れてくさく耳ふさぐ喧噪の俗世において私は神様とともに歩む超俗の生を得たい。私は屁が爽快でキモチいいにもかかわらず隣人をして不幸に陥れる人生の背理がいつか信仰によって克服されることを信じているのです。どうか神様きょう一日が静かでくさみのない屁でありますように。不埒な欲望の萌え出ずる春を神様とともに…。

自由躍進期
○我らは健やかな心身の成長を願い、大いなる飛躍を志すのである。我らは自由と連帯を掲げて、思想を錬磨し、人生を謳歌するのである。嗚呼、自由の人生のシンボルは屁である。屁の我慢は心身の健康を損ない心を蝕むのである。放てよ、さらば与えられん〜。怠惰な我慢ではなく、厳しい規律と節度によって屁をば快楽し、他人の屁は我慢という主観を、評価という客観へと転換して受容するのである。我々は快楽と我慢を調和させ、人類繁栄へと雄々しく橋を架けるのである。屁は我らの自由と成長の証なのである。合い言葉はいつも「屁」なのである。

過剰放屁期
○何だかさ、最近うざくね? あちこち屁こくのはいいんだけどさ、あんまりブリブリやられてもねェ。ちょっとさ、うるさすぎ。自由はき違えてんじゃね。やっぱ、お他人様の節度がないのってさ、腹立つわ。そんな奴、最近多くね。目の前でブリブリ左右衛門されて、こっちもやりかえそうと思うんだけどさ、そんなには出ねえしよ、いきむと実がでるみたいでさ、まあ、尻すぼみってやつ。そいで、口で注意するんだけどさ、自由や権利の侵害とか言われると、これうざいわな。何だかさ、最近こきすぎでね? あ、君もそう思う? でも、わしら少数派?

説教発生期
○いくらなんでも君の屁はやりすぎだ。いくら自由だから、権利だからといって野放図でいいわけがない。たまたま俺が忍び入ってビックラかまされたわけだが、君は眠りながらとどろく屁をこいていた。いかんよ。人目がないからって、ブウブウやっちゃ。何だって、眠ってて覚えてない? おいおいダメだろ。屁こきのモラルが厳しく問われる時代なんだよ。寝てようが起きてようが肛門の意志を固くしないといかんだろ。意志を示せ。しかし、君の家は金目のものがなーもないな。こらーッ動くな。この出刃すごく切れるんだぞ。刺すぞッ。早くカネ出せ。

放屁論争期
○「どうして屁をしちゃいけないの」「絶対いけないとは言いませんわよ。私、遠慮して、って言ってるの」「してますわよ」「あなたの主観はそうかもしれないけど」「けど、どうして私が責められますの」「ご主人の屁はあなたの屁です〜。二人で一人。連座よ。人がいるときしちゃダメ」「まあ、そもそも遠慮して『しない』のではなく、遠慮して『こく』のが自然じゃありません? だって、屁はこくもの」「あきれた、しちゃいけないの」「そんなー、どこでもだれでも屁は平等にこきたいわ」「とにかくダメダメなのッ」(賛同の拍手わいて鳴りやまず)

迫害発生期
○菜良署は尾菜良区の路上でオナラをした男性(50)に言いがかりをつけ突き飛ばして負傷させたとして25日、暴力容疑で屁草井区の会社員、御楢伊矢男(35)を逮捕した。「あたりかまわずブリブリこき回るので腹が立った。うるさかった。耳が痛かった」と供述しているという。被害にあった男性は「いきなり怒鳴られ、殴られた。それほど大きな屁ではない」と憤慨。同署ではオナラをした人が暴行を受ける事件が多発しているところから、路上放屁をしないよう注意を呼びかけている。

放屁矯正期
○朗報! おなら革命「ブリブリクリーン」新発売。飲めばスッキリおならが消える。無理なく腸内ガスの発生を抑えます。「ブリブリクリーン」は生薬配合の体にやさしく、効き目抜群の錠剤。一日3錠朝昼晩。これで腸内ガスの発生を99%抑止可能。飲んだその日から悩み解消です。これなら芋、豆などの放屁促進食品も安心。いつもお腹が張って不安な人、ついついウッカリしてしまう人、何でも安心して食べたい人――にピッタリです。※飲み込んだ空気の非ガス化はできません。ガス発生を100%おさえるものではありません。服用は容量を厳守のこと。

町内駆逐期
○地下商店街「芋野街ロード」へようこそ。芋野街は自主的に完全禁屁を実施しています。通路、階段、トイレなどの公共施設内での放屁は禁じられております。また、各店舗、飲食店においても禁屁を実施しております。地下街でオナラをすることは絶対におやめ下さい。皆様のご協力をよろしくお願いします。地下商店街「芋野街ロード」へようこそ。芋野街は自主的に完全禁屁を実施しています。通路、階段、トイレなどの公共施設内での放屁は禁じられ――ブーブリブリブリ、ブリブリ――あれ、ナンダ、ナンダ、放送が屁だぞ――

放屁有料期
○ま、なんだな、へのいっぱつ1000えんというのはべらぼうじゃねえか。ほれ、あそこにも、にんかされた「ゆうりょうほうひルーム」があるわ。まあ、だれにもじゃまされず、じぶんひとりのスペースでへをこくことはできるが、1000えんはべらぼうじゃねえか。こしつにひとりじゃ、へもひっこむわな。へはひろびろとしたところで、みんなでこきあうのがすばらしいんじゃねえか。なにい、となりのしではいっぱつ2000円だあ。そりゃ、ふびょうどうぼうりのさくしゅだあァ。

嫌屁蔓延期
○我が放屁撲滅党は嫌屁権の確立をめざして放屁ルームを閉鎖し、完全禁屁の法制化を要求するッ。我々はみだらな放屁の横行を許すことはできないッ。昨今の放屁の無礼はとどまるところを知らず禁屁ゾーンでの放屁が後を絶たないッ。屁は大腸ガンを誘発し、耳と鼻、さらには精神生活に有害であると断定されているッ。厳しく法によって取り締まる以外に方法はないッ。――イテッ、何するかッ! あ、くさー、くさー、お前、屁権擁護団体の回し者だなッ。屁武装中立などと理想論を振りかざし、屁による自殺を肯定するニヒリストめッ! 恥を知れ〜。お前ら死刑だッ!

禁屁強制期
○その残り香は明らかに屁だった。まだ屁をする馬鹿者がいるのだ。嫌われ蔑まれても屁をする者。その宿痾によって姿を消さねばならない。身を潜めねばならない。…すでに授業は始まっており、校舎の階段に人影はない。においの主は生徒だろうか、教師だろうか。いずれにしても校則違反である。私は困ってしまう。犯人捜しは柄ではない。つい足取りも萎えてくる。ああ、嫌だ嫌だ。私の若い頃は屁は自由だった。屁は転落してしまったのだ。「先生、校長先生」うつむいた私の背後から、ふいに憲兵大尉の怒気混じりの声がした。(暗愚小説『屁の道』より)

禁屁抵抗期
○禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、絶対はんた〜い! 放屁は人類の権利だー。糞や尿が許されて、なぜに屁が許されないのかー。出てくるところはいっしょだー。おかしいじゃないかー。禁屁はんた〜い。禁屁にするなら糞もさせるなー、尿もさせるなー。そんなことしたら死んでまうー。三兄弟の屁をいじめるなー。いじめだー。屁は老若男女、貴賤富貴がない人類の宝物だー。糞尿屁は平等だー。禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、絶対はんた〜い!

禁令発布期
○人の面前又は面前でなくとも人に影響を与える放屁をしたる者は、放屁の重罪とし、10年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処す――うむ、これでは甘い。甘すぎる。いっそのこと、無期懲役又は死刑に処す、次はこう改正してほしいもんだ。法で禁止された腹いせに屁こきの過激派が出没しているのだ。した、していないと言い争う冤罪も増えている。まったく物騒な世の中だ。とにかく止めさせるためには厳罰がいる。わしの自慢は100メートル先を嗅ぎ分ける鼻であるが、定年間近の老骨には、屁こきだらけの治安悪化地区の交番勤務は辛い。

地下放屁期
○あら〜、いらっしゃ〜い。地下倶楽部へようこそ。はい、おしぼり。いいのよー、ここだったら存分にやってね。ほーら、おしぼりあてがって。キモチいいでしょ。ふふふ、遠慮しないで。あらー、大きいわね。男らしいわ。すごい放出。我慢してたのね。あらー、スゴイにおいじゃない。大丈夫よ。平気、平気。我慢は体に悪いわよねー。もう一発いく? あ、すぐはダメ? いいのよ、待ってる。男らしい一発出してね。ドキドキしちゃう。へえ、あなた公務員なの。ここに来るのは背徳ね。でも、大丈夫。ここは一流の秘密のおなら倶楽部よッ。

過激放屁期
○にらみ合いが続いています。デモは首相官邸に近づくことはできません。あっ、デモ隊に動き。なんですか、あれは? あっ、すごい。次々にお尻を燃やしながら突入です。自爆です。あっ、すごい。あれは、オナラに火をつけている。三列で守りを固める機動隊の隊列へ自らが巨大な屁炎放射器となって突撃ッ。あっ、遊撃放水車が一斉に放水を始めました。だめ、だめ、だめ、だめだァ、火は消えて蹴散らされているゥ。屁は不発。屁は不発です。あー、これでは機動隊の壁は破れません。いやー、屁は燃えるんですねェ。すごい。初めて見た〜。

放屁戒厳期
○「屁は自由の権利である」と屁権を主張して抵抗運動が展開されたが、ことごとく制圧され、禁屁は国民的合意になっていった。ところが、金屁羅930年頃になると、いったん衰微していた屁権を主張する不穏な勢力が再び台頭して過激化し、国内各地で暴動が発生するようになった。国民の間に不安が広がり世情不安となったため、政府は警察力の強化に合わせて軍の出動を検討するようになった。首都では各所で機動隊と「おなら爆弾」で武装した集団が衝突を繰り返し、ついに金屁羅931年9月31日、戒厳令が布告され軍が出動した。(『嫌屁の歴史』より)

脳内駆逐期
○今や我々にそれの生きた記憶はないのである。それが存在したということ、そしてそれが文化となり、やがて争乱の歴史になったということを我々は知っているのみである。しかし、もはやそれは存在しないのである。我々の身体にそれは存在しないし、あるいは外部にあって身体に影響を与える存在でもないのである。国家の方針によって、十分に処置された我々の身体はそれを根本から断ち切ったのである。身体がうずくこともなく存在しないものは文化にはならず歴史にもならないのである。ないものはないのであり、それはないのである。確かに、誰もいなくなった…。
posted by 楢須音成 at 00:25| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月12日

妄想する〈屁〉と〈性〉のお馬鹿天国

 こんな記事を見つけた。オナラで部下にセクハラしたという、信じられないイギリスの話。少し笑った。女性に限らず相手が誰であっても、オナラが威嚇や侮辱になることはあり得るけどな。新聞はこう報じた。
おならで迷惑 慰謝料100万円
 英国の裁判所はこのほど、南部ケント州の人材データ会社の女性社員(43)に日常的におならの迷惑をかけて精神的苦痛を与えたとして、女性の上司に慰謝料五千ポンド(約百万円)の支払いを命じた。

 英タブロイド紙によると、上司はいすから腰をあげて女性に向けておならをする行為を繰り返したほか、女性がコンピューターをうまく使えなかったときに「私はシンプル」と書いたバッジをつけさせたことも。女性がトイレについて不満を申し立てたときは「だから女は雇いたくないんだ」との電子メールを同僚に送ったという。

 女性の「とても屈辱的で落ち込んだ」との訴えに対し、裁判所は「もし彼女が男性だったらこんな仕打ちを受けることはなかっただろう」と判断した。

 女性が所属していた営業部では、この女性を除いて全員男性社員だったという。(ロンドン・池田千晶)
――2008年5月25日 東京新聞朝刊

 読んで、少々ガッカリ。この記事によると「上司はいすから腰をあげて女性に向けておならをする行為を繰り返した」のである。記事のトピックな部分はここにある(と読者は思うであろう)が、記事を最後まで読むと本当のトピックな部分は日常的な多種のセクハラにあって、「おなら」はいくつかあるうちの一つだったということがわかる。「おならで迷惑 慰謝料100万円」は釣りだったのであ〜る。屁の一発で100万円か! と興味津々だった音成の読後感はちょっとガッカリだったわけだ。

 しかし、オナラの釣りがなかったら読まなかっただろうし、オナラなしでは面白くもないセクハラ裁判記事だったろうな。オナラ一発! 記者にしてやられた感じ。タブロイド紙からちょいとオナラをつまみ食いしたこの人って(名前から察して)女性記者? まあ、音成としては「日本にはこんな職場あるかなー」とか「同じケースなら日本では慰謝料はいかほど?」とか比較文化が気になったのだ、と釣り込まれた言い訳はさせてもらうわけだが。

 ところで、ニュースのソースは「英タブロイド紙」とある。この手の新聞記事の信憑性ってどこまであるのだろうか。ついこんな疑いを持つのも、世界に開かれた毎日新聞の英文サイトが「引用」と称して「ニッポン〈性〉のお馬鹿天国」みたいなHENTAI(タグ付きの)記事を創作し長期に掲載した騒動のせいである。このオナラ記事の場合も、特派記者がタブロイド紙から拾ったネタであり、直接取材したものではない。そういう書き方(引用・伝聞)がしてある。この場合、読者は(又聞きの話であるにしても)東京新聞を信用して読むわけだね。「へえ、そういうことがあるんだねー」と。もちろん、信用できる新聞社なのだから、ニュース価値は高いさ。なぜだか、信用してしまうと扱うネタが下品であっても(というか下品であればあるほど)我々は価値を見出して(報道を信じて)笑ったり眉をひそめたりする。報道は発信元の信用性や思想性にかかわってなされるのであり、我々は意識せずともそれを分別して(否定も肯定も)受け入れるものだ。

 新聞は客観をめざして「事実→取材→報道」という流れに沿う。このオナラ記事もご多分にもれず客観を装っているが、実は「事実」も「取材」もソースはタブロイド紙。その名前は明らかにされないから、少々眉唾っぽい印象がないではないな。この点は記事の限界(一次取材・資料の欠如)が露呈している。いや、その辺は任せてよ(信用してよ)というわけなのだね。取材源の秘匿とか大それたものではないのだが、そこを留保すれば一応、見てきたごとく取材してきたごとく、それなりのスタイルは踏んでいる。まあ、どう転んでもタブロイド紙からの二次組み立てになるのではあるけどさ。(ソースを全く伏せて直接取材してきたように書くこともできるが、この記事はそんなことはやっていない)

 音成は疑ってみる。この話ホントかよ? もし読者から「ニュースは捏造じゃないのか。イギリス人がそんなオナラをするはずがない」とか苦情があったらどうするのか。すると新聞社は「タブロイド紙からの引用です」とか言うんだろうね。確認不十分ならば「事実関係を調べた上でご返事します」とか言えるな。で、その結果が最悪の場合、「事実ではありませんでした。チェックに遺漏はあったものの、我が社も被害者です」などと弁明することができる(か?)。あるいは「セクハラの事実はありました。しかしオナラの話は捏造でした。記者個人に問題がありました」などと人ごとのように弁明することができる(か?)。――あああ、それでは情けないだろう。報道の主体がこういう風に(微妙にして露骨に)自分を無化する弁明によって「事実」を伝える責任を回避する(隠蔽する)振る舞いをすれば、たちまち記事の信用性や思想性は瓦解するのであ〜る。(まあ、このようなオナラ記事の場合、かりに嘘100%であっても、アホか〜とあきれるだけで、別にどおってことないかな。ま、信用は瓦解しても、ありそうな面白い話を考えたなーとか思うけどねェ)

 もちろん、これは冗談で言っているので、オナラ記事は信用してるさ。何と言っても発信は東京新聞であるし、ロンドン特派記者の実名入りである。情報元がタブロイド紙であるにしても(厳密な事実性はともかくとして)ネタは「公の」裁判所で取材したもの(裁判があった)と推定されるのであるからね。一つ、ちょっとだけ気になったのは、ホントにオナラは付け足し(創作)じゃないのよね〜、ということだけ。そこはありのままだという前提にすれば、むしろ実に興味深い記事として感じ入るではないか。

 それは女性記者がオナラに反応したということだ。セクハラの話だから、それはわかる。で、さらにオナラがまつわるのだが、そこんとこはどう直感したのだろう。思うに女性記者の反応には「女性とオナラ」という実存の深淵があるのではないか(な?)。事実を淡々と書いてある記事だが、そのオナラは男性のオナラが女性に向けられたのであって、男女の性的な深淵を現出させている(のかな?)。いやいや、これを書いた記者には、オナラを武器に転化して女性を侮辱する(暴力化する)男性に対する性的な反撃の底意があるんじゃないか…。

 とかなんとか、音成の妄想はさておき、彼女は極めて職業人であ〜る。選択眼はどう働いたのか。(1)オナラで女性を侮辱するなどもってのほか(2)世の中にセクハラの種は尽きない。許せない(3)しかし、オナラのセクハラは新ネタとして意外性がある(4)大の男がお尻を持ち上げてオナラをする超お馬鹿な可笑しさがある(5)これは怒りと笑いの記事になる――という感じであろうか。(無心に「アッこれ面白い〜」と小ネタを書き飛ばしただけかもしれないけどさ)

 そう見てくると、オナラで侮辱というアブノーマルな話ではあるが(記者はそれを釣りにする職業意識と作文のワザを用いたのだが)、妄想をふくらました音成が一読してガッカリするくらい、記事の最終誘導(セクハラ)は至極まっとうな常識的センスに落ち着いているのである。最後は「慰謝料100万円」でオナラ(の振る舞い)に値段(決着)がついたというオチなのさ。(いやホント、この記事は、正統な手法の真面目な記事だよ)

 どこぞの馬鹿が記事をヒントに妄想を捏(こ)ねるとすれば、「イギリス〈屁〉のお馬鹿天国」みたいなオナラが暴走する変態一色の記事にすることはできるだろうね。職場のセクハラの側面は全くスポイルし、「東京新聞によると、イギリスの職場では男性はオナラのし放題。オナラで卒倒した女性に慰謝料100万円を払うほど」というような…。細かい描写は、あることないことチョチョイノチョイ。このとき東京新聞という出典があれば(事実性において)箔が付くもんね。もちろん、名前を出された東京新聞は怒るだろうねェ。捏造だと抗議するに違いない。記事が巷で問題になればなおさらのこと。「イギリスの職場では男性はオナラのし放題」などと国民性をパターン化した逸話や事実にしてしまい、そういう恣意的な刷り込みを流布する結果にでもなると、オナラ国際問題(になったりして)。しかしまあ、これはオナラの話だからねェ。文句も抗議も萎え萎えだよね〜笑。

 元の記事に戻るが、これは冷静なお笑いのオナラ記事であるさ。サラリと書いて、告発にもフェミにも自虐にもイギリスの揶揄にもなっていないところは、万人向け新聞らしい毒のなさだ。しかし、記事の背後に広がる世界をあれこれ想像(妄想)することは自由だ。うむ、妙に隠微にオナラのインパクトがあるんだよなー。
posted by 楢須音成 at 00:35| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月21日

禁じられた〈屁〉

 ムシュー国では〈屁〉をするのはマナー違反であり、従って〈屁〉はしてはいけない建前になっています。しかし、実際にはムシュー国は放屁大国なのです。そもそも人であるなら〈屁〉はしないわけにはいかないのですからね。ムシュー国の人たちは〈屁〉を極めてよくする国民なのです。そこで、他人に厳しい道徳志向性の強いムシュー国では〈屁〉のマナーはこうなります。

(1)あなたは絶対に人前(特に、私の前)でしてはいけない。
(2)あなたは人前(特に、私の前)ではしないときも、絶対に人(特に、私)に気づかれてはいけない。

 ――と、他人の〈屁〉を強く責めるのですが、民族性分析の定説としては、そのマナーの深層に「絶対に〈屁〉は臭くてはいけない」というご先祖様からの申し伝えが存在しているというのでした。だから〈屁〉は臭いから禁止なのですが、たとえ臭くなくてもしてはいけないというルールに強化されているのです。こうなると、ムシュー国人の〈屁〉は、ほとんど透かし屁ですね。

 それに比べれば、クッシャー国のマナーはおおらかそのものです。人前でも〈屁〉はOK。臭い〈屁〉でもOK。何でもアリで〈屁〉はOK。もっとも、クッシャー国人はあまり〈屁〉をしないのですが。(賢明にもムシュー国とクッシャー国には国交はありません)

 透かし屁天国のムシュー国では〈屁〉を脱臭する商品がさりげなく普及しています。さまざまな脱臭・消臭・芳香剤が生活空間を覆い尽くしている一方で、消臭・脱臭ネライの薬品・サプリ・食品がどこでも売られています。これらの商品はさりげなく売られ、さりげなく買われているのです。

 さて、ムシュー国にコッソリ家とヒッソリ家が隣り合って住んでいました。実はこの両家は随分と仲が悪いのです。しかも両家のガキであるコッソリ臭作とヒッソリ音作はイジメっ子(臭作)とイジメられっ子(音作)の関係にありました。コッソリ家は貧乏でヒッソリ家は金持ちでしたから、臭作がなかなか買ってもらえないオモチャを音作はたくさん持っていて、いつも見せびらかしてイジメの原因を作っていました。

 自分の〈屁〉は臭くないという説があります。どうもそうらしいですね。臭作は自分の〈屁〉が臭いとは思ってもいません。だから、平気で透かし屁をしました。音作にしてみたら臭作の〈屁〉はかなり臭いのでした。もちろんこの場合、エチケットとして脱臭対策をした臭作の〈屁〉が、です。

 一方、臭作は音作の放屁音を聞きつけては怒りまくっていました。もちろんこの場合、エチケットとして音を殺したはずの音作の〈屁〉を、です。なぜか音作の透かし屁は、ヒューヒューと山おろしが木の枝をしならせるような音がするのでした。(臭作は、そういう音作の〈屁〉は臭いはずだとも信じていました)

 音作はマナーに従ってこっそり透かすわけですが、なぜか臭作はすぐに聞きつけます。臭作は音作の一挙一動がとても気になっているのです。音作にしてみたら、自分の部屋でこっそり人知れず透かしているのに、臭作は怒りを露わにして窓越しに音作の〈屁〉に抗議してくるのです。このとき怒りのあまり臭作もまた思わず透かしているのですが、音作は窓越しにニオイを感じてしまいます。これが臭〜い。

 こういう場合、両君の力関係によって流れが決まります。臭作はいつも強気であたり構わず声が大きく、音作はいつも弱気であたりに気を遣い声が小さいので、臭作の主張が大いに幅を利かすのです。通りすがりの第三者は臭作の主張を真に受けてしまい、音作は無作法者だと考えてしまいます。そして、臭作の〈屁〉のニオイを音作のものだと思ってしまうのです。その間、音作はなす術がありません。

 ここからが問題なのですが、臭作が騒ぐのを聞き付けたヒッソリ家の主(音作のお父さん)は、驚き慌ててしまいます。そういうマナー違反の騒ぎは近所に知れると一家の恥なのです。何ともはや、このお父さんは極度の事なかれ主義なので、音作に対して、臭作に謝罪するように命じます。しかも音作が大事にしているお気に入りのオモチャを、臭作にあげるように言うのでした。

 これはたまりません。
 しかし、こういうことの繰り返しで、二人は奇妙なイジメっ子とイジメられっ子の関係を続けているのです。それにしても、なぜ臭作は執拗に音作をイジメ続けるのでしょう。一つ考えられるのは、そもそも両家の仲が悪いこと。つまり、親同士の反目が影響を与えていると考えられるわけです。

 親の因果が子に報う――とはよく言ったもので、両家のお父さん同士、お祖父さん同士…とさかのぼっていくと、同じように仲が悪かったことが判明します。さらになぜ両家の闘争が続いてきたのかを探ってみると、ある事実が浮かび上がってきます。

 ムシュー国では〈屁〉というものについて、誰もがニオイと音の隠蔽に傾注するわけですが、両家の長年の闘争は両家の隠蔽のあり方に深くかかわっています。というのも、コッソリ家(臭作)の人間は鼻が悪く、ヒッソリ家(音作)の人間は耳が悪いのです。このため、隠蔽が不徹底なのです。

コッソリ家=鼻が悪いので、ニオイが漏れているとは気がつかない。自分の〈屁〉はにおわない。耳が発達して他人の〈屁〉はとてもうるさい。
ヒッソリ家=耳が悪いので、音が漏れているとは気がつかない。自分の〈屁〉はうるさくない。鼻が発達して他人の〈屁〉はよくにおってくる。

 要するに、相手は見えても自分が見えないという、自己中心的呪縛にとらわれてしまうのです。これは世界の中心で〈屁〉を語る振る舞いに、自分を見失ってしまう現象といえましょう。社会的に固く〈屁〉を禁じた同一のマナーに從っているように見えても、身体条件(身体性)によって認識や振る舞いが変わる現実がここにあります。

 しかも、お互い相手に対して厳しく〈屁〉の禁止を求めてしまいます。他人との溝は絶望的に深い。なぜこんなことになってしまうのでしょう。

 どんなに禁じても〈屁〉というものは、たまってくれば、つい放発せざるを得ない特質があるわけですね。出てくるものを、出してはいけないと禁じるのは、容易なことではありません。人は〈屁〉からの圧迫(屁意)が高まってくると(その危機感が高まるほどに)厳しく自分を律します。強く強く我慢するわけですね。この身体感覚こそが他人に求める厳しい禁止の根拠となります。

 なぜなら、いまにも〈屁〉が出そうな自分の危機(我慢)を認識し、その切実な抑止のレベル内に踏みとどまっている状態は不安(定)なものです。それは相手も同じでしょう。自分がいま陥っている我慢以上の我慢を要求しないと、相手は〈屁〉をしてしまうかもしれないのです。だから安心するには、自分に〈屁〉を禁じる以上に他人に厳しく禁じることになりますね。

 ある晴れた日のこと。学校からの帰り道で、どうしても我慢できなくなった臭作と音作は相手に気づかれないように、こっそりと〈屁〉を透かしました。全く二人同時の〈屁〉だったので、臭作も音作も相手の〈屁〉には気がつかずビックリ仰天。自分の〈屁〉と同時に、臭作は音を聞き、音作はニオイを嗅いだのですからね。臭作は自分の〈屁〉が音を発し、音作は自分の〈屁〉がニオイを発したと固く固く思い込みました。

 これは通常は相手に帰属する(最も嫌ってきた)負の属性を、自分がさらけ出した状態です。他人に対して向ける厳しさを自分に向けることになり、二人はそれぞれ敗残の思いで言葉もなく顔を見合わせました。そして、相手の意気消沈ぶりを誤解してこう思いました。「こいつめ、俺を馬鹿にしているな」と。

臭作の思い「ちょ〜っと間違っただけさ。お前のいつもの〈屁〉の方がうるさいだろォ。ん〜何で黙ってる?」
音作の思い「ちょ〜っと間違っただけさ。お前のいつもの〈屁〉の方が臭いだろォ。ん〜何で黙ってるの?」

 人の〈屁〉は聞きたくない、嗅ぎたくないという思いは〈屁〉を禁じるマナーに転化するわけですが、このようにマナーが自己崩壊し追いつめられると、自分の〈屁〉は人よりうるさくない、臭くないという思いに反転するのです。これは何としても〈屁〉からの無実を求める怨念の旅路であり、ムシュー国人の行動規範を深く縛っているものといえます。
posted by 楢須音成 at 04:58| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月14日

罪な〈屁〉から脱却するという神話

 人間にとって〈屁〉は厄介者でありましょう。私は〈屁〉を研究してまいりましたが、その正体を知るにつけ、必ずや我々は〈屁〉を克服しなければならないと信ずるに至りました。知らぬ間に腸に宿る〈屁〉は罪深き人間の宿痾であり、秘すべき恥部であります。

 しかし、誰でも〈屁〉をしちゃうんですよねえ。いやいや、するだけでなく、それを我慢できない。私は〈屁〉に対する人間の歴史を辿ってみて、その罪深さに愕然としたのであります。一番の罪は自分の〈屁〉を棚に上げ、他人の〈屁〉を駆逐しようとすることであります。そりゃまあ、他人の〈屁〉はくっさいんですよねえ。正直なところ。

 いやいや、そうじゃないですって、私が言いたいことは。それではいかんのですって。他人の〈屁〉がくっさいとか言っちゃうと、自分の〈屁〉のくささも認めてしまうことになりますから。

 え〜、そのう、つまり、我々の〈屁〉というものはくっさいからこそ、あなたにとっても、私にとっても、まるで必要ないのであります。そのことの理論的根拠をはっきりさせたいのであります。

 いきなりですが、クサカ家では〈屁〉をめぐる紛争が絶えませんでした。まあ、何と申しましょうか、家系的に〈屁〉がくっさいということがありまして、第一次放屁合戦が勃発すると、続いて第二次放屁合戦になり、しかもどうやら、この家族の〈屁〉にメタンガスが混じっていたということもありまして、これが家屋全焼というすさまじい結果になりましたのです。

 隣近所は大いにあきれ、果ては怒り狂ってクサカ家を糾弾しました。そしてまあ、隣近所からの訴えにより裁判所が屁武装解除と申しましょうか、クサカ家全員への(人の面前での)放屁禁止を申し渡したのです。こうしてクサカ家は平和な時代を迎え、隣近所も安心できるようになりました。

 とはなったものの、実はクサカ家の平和はまだまだ完成の域には達していないのです。そもそもクサカ家の屁争いの発端とは、自分の〈屁〉と相手の〈屁〉が同じ系統であるか否かの主張であり、それによって家族内の血縁関係を誇示することにあったのです。クサカ家の構成は祖父母、父母、娘2人、息子1人の一家をなしていますが、祖父ゼンベはクサカ家の祖母クサコと結婚した婿養子であり、その息子である父コキベのもとに母ウヘコが嫁いできて、双子の娘ブウコとビイコが生まれましたが、末子の息子ナイベは親戚からの養子です。そして、クサカ家ではいつもくっさい屁のニオイに満ちていました。

 放屁合戦の原因は祖父ゼンベの言葉でした。「わしの屁はくっさくない〜。コキベもブウコもビイコもくっさくない〜。なぜなら、わしのくっさくない〈屁〉のDNAが伝わっているからじゃ〜」(実はこれがまた存分にくっさいので問題なのですが)

 これにはブウコとビイコが「おじいさんのDNAと私たちの〈屁〉は関係な〜い」と猛反発です。ブウコとビイコは祖父ゼンベの〈屁〉がくっさければくっさいほど、自分たちの〈屁〉とは無縁だと主張するのでした。

 母ウヘコは遠慮がちに「ブウコとビイコは私に似ているのですよ。娘ですから〜」と言えば、父コキベは「娘は男親に似るというからなあ、俺に似てるんだろ〜」と話をこき混ぜ、父系の流れを強調。すると祖父ゼンベは「そうじゃな、そうじゃな」と目を釣り上げて勝利宣言。すかさず祖母クサコが「ならばコキベは母親の私に似ているのじゃなかろうかねェ」とつぶやくのでした。(祖父ほど激烈ではないのですが、実は祖母クサコの屁もくっさいのですけどね)

 要するに、みんな多かれ少なかれ(とても)くっさいのでありまして、人のことなど言えた義理ではないんですが、なぜか自分(の系列だけ)はくっさくないと思っているのです。まあ、客観的に言いまして、クサカ家でくっさくないのは息子ナイベの〈屁〉でありましょう。彼はたまたま親戚の中でもあまりくっさくないのがチョット自慢の家系の出身。末席の養子に迎えられてから、この家族を観察してきた結果、放屁三昧の家族全員が自分の〈屁〉はくっさくないと思っているのに気づいてしまったのでした。

 第一次放屁合戦は誰の〈屁〉がくっさくないかを判定するために引き起こされました。「ゼンゼンくっさくないわい」と祖父ゼンベが力んでブー、ビックリした祖母クサコがのけぞってプー、「そんな馬鹿な〜じっちゃん〜くっさ〜」と娘ブウコ&ビイコが飛び上がってブブブー、「どれどれ俺も」と父コキベが片尻を持ち上げブリ、「あれまあ私は遠慮したいィ」と言いつつ母ウヘコが思わずブッと出せば、クサカ家はたっぷりと混合した臭気に包まれ、何が何やら鼻もげるニオイの激戦場となってしまったのであります。

 しかるに、このとき息子ナイベは平和論者として屁武装を放棄するガマンの〈屁〉を選択しました。そのうえで「全員くっさいのだから、それを責め合ってはいかん〜」と一人だけ道徳家の風情をしてみんなを批判したので、たちまち鼻つまみとなり、その場から叩き出されてしまいました。

 クサカ家の全員が、自分の〈屁〉だけはくっさくないと信じており、いまこの家がくっさいのはくっさい(系統の)者のせいだと断言するのでしたが、祖父系と祖母系と母系と息子系というように混合していてどれもくっさいわけですから、わけがわからん状態であるわけです。

 この放屁合戦は接近戦のため全員の嗅覚が馬鹿になって麻痺してしまい、疑心暗鬼のまま一応の終息を迎えますが、御近所迷惑はなはだしく、クサカ家の周囲はしばらく異様なる臭気に包まれたままでした。

 第二次放屁合戦はそれから数日経って夜中に勃発しました。娘ブウコがベッドでふと目覚めるとツーンと刺激的にくっさいではありませんか。誰の〈屁〉かはわからないけど、それはまぎれもなく〈屁〉です。二階の祖父母か、廊下の向こうの父母か、はたまた隣室の弟なのか。しかし、まさかねえ、平和論者の弟ではないでしょうなあ。ブウコは同室のピイコを起こしていっしょに廊下に出ます。

 そこは〈屁〉の海。いや、ガスタンクの中のようなものでして、クラクラと卒倒しそうな臭気に満たされていました。そのとき父コキベもトイレにでも立ったのか、どんより寝ぼけ眼で部屋から出てきたのはいいのですが、くわえ煙草でライターをシュボ、シュボッと点じたからたまらない。炎が爆発的にふくれ上がり、こもった〈屁〉をすべて巻き込んで、そこは熱風と火の海。いや、もう、何それ、たちまちクサカ家は炎上してしまいました。

 まあ、我々の〈屁〉が燃えるのはメタンガスが成分になっているからですが、このメタンは誰の〈屁〉にもあるわけではなく、腸内にメタン発生菌を持つ人だけの特技です。だから、巷には〈屁〉が燃える人と燃えない人がいるわけですね。そもそもクサカ家の場合は、燃えない家系だったのですけどねえ。(合戦後の調査の結果、どうやら息子ナイベが燃える家系だったようで、クサカ家は全員が彼の発生菌に感染していた模様です)

 クサカ家の全員が炎の中から奇跡的に脱出したものの、その恐怖は今なお冷めやらぬところであり、理由の如何を問わず〈屁〉は固く固く御法度。何人も犯すことのできない封印の掟とはなりました。

 息子ナイベは自分が持ち込んだメタン発生菌が原因となった結末に深く深く動揺し自省し、それからはいっそう〈屁〉を憎み嫌い忌避するようになり、鉄壁不屈の平和論者として、屁武装を完全放棄するガマンの〈屁〉の唱道に邁進するようになりました。(クサカ家はもはや完全に息子ナイベの支配下にあります)

 追究すべきは〈屁〉からの脱却です。確かに自分の〈屁〉も他人の〈屁〉もくっさいんですから、脱却には若干の努力が必要です。我々は成長しつつ経験を積みつつ〈屁〉を脱却する盤石の理論を組み立てるわけですが、しかし一方で相対する一人一人の〈屁〉のニオイに耐える力は次第に衰えていきます。脱却理論の自信が鉄壁であっても、麻痺と疲労によって亀裂が走ると〈屁〉は遠慮なく忍び込んできます。我々は油断することなく防御姿勢をとりましょう。くっさい〈屁〉に膝を折る一歩手前で踏ん張るだけの体力はあるものと信じます。
 人間が共存するのに〈屁〉は必要ありません。必要なものはチョットだけの我慢と英知でありま〜す。

 ――ええ、そうですよォ。私は息子ナイベです。
posted by 楢須音成 at 10:11| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月10日

〈屁〉が禁じられた悪夢の時代だよ

 まるでぬかるんでいる急な坂だ。後ろから押されて坂を転げ落ちている気がするのだが、我々は〈屁〉という文化を本当に廃棄していいのだろうか。異音異臭の〈屁〉の放出が我慢できなかった時代には(まあ多少は嫌がられながらも)確かに〈屁〉は文化だったと思うのだよ。

 それは腸内に不可避に発生して膨満したのだし、望もうが望むまいが結局、外に出てくるのは仕方がないことだったのだからね。人間にとって〈屁〉の発見は太古のはずだね。我々は否応なしに〈屁〉と親しく付き合ってきた。心のカンバスには〈屁〉をめぐって、喜怒哀楽の果ての悲喜交々の人生模様が描かれてきたのだよ。

 例えばそこでは、春子の恋が燃え、夏男のダンディズムがあったのさ。二人が会って抱き合うときはどちらからともなく、目立たぬように尻をそらし、そろそろと〈屁〉をすかして、そっと顔を背け鼻をつまんで口で息をしたものだけれど、それは密会する男と女の〈屁〉の作法なのであった。夏男はそういう二人の秘められた真夏の恋をダンディな詩にして春子に捧げた。春子と夏男は〈屁〉を乗りこえて結ばれるロマンのカップルなのだった。そのとき〈屁〉の否定性こそは情熱の証だったのだよ。

 ヘンな音とかイヤなニオイとかは必ずしも否定すべきものではないのだ。いやむしろ、それが心地よい瞬間があったりするのであり、音や臭さを我慢したあとにくる愉悦(ほがらかな気持とおおらかな笑い)は何ものにもかえがたいのである。そしてどんなに耐えがたくとも、誰にとっても〈屁〉というものは一過性のものなのであり、過ぎてしまえば音も臭さもさっぱりと消えてしまう。いつまでもリアルに耳の鼓膜や鼻の粘膜に残ったりしないのだよ。

 もちろん、だからといって音や臭さが記憶から消去されるわけではない。ただ、こうは指摘できる。つまり〈屁〉は煙のようには目に見えないので、余韻を残す残存記憶(観念)に視覚の裏付けがないんだね。だから、これ幸いに我々は、過ぎてしまった異音異臭の想起において〈屁〉に独特の観念化を発動するのだよ。

 どんな観念も後付けでさまざまの連想的な意味と妄想が付与されるわけだが、我々の〈屁〉の場合には、異音異臭の度が過ぎる(つまり否定性が高い)ほどに愉悦が大きいという心的現象になっているのだ。春子と夏男の臭い臭い恋が燃えたのは当然である。どんな恋も心の盲目的な反応だが、どんな〈屁〉も身体の盲目的な反応といえるだろうね。このときの「恋=屁」という観念は、心身がいっしょに燃え上がった状態だ。まあ、実際にも〈屁〉は燃えるんだよ。

 考えてみると文学史において屁文学が興隆したとはゼンゼン言えないのだが、ジャンルを越えて、文学的描写のあちこちで、さりげなく〈屁〉が添えられ配置されることは、人生の余情を醸す有効なスタイル(所作)であった。例えば「ウインド」という映画では、コミカルに〈屁〉の重さを量る振る舞いが一挿話として入っていたが、零落した無欲な数学者の生き方をほのぼのと伝えていたものだよ。

 そこには〈屁〉の文化があったのだ。文化とは我々の精神活動が成し遂げる様式である。あなたもすれば私もする〈屁〉はそのような精神活動の共有財産だったのであり、そもそも我々は〈屁〉の文化性を疑ったこともなかったのだよ。

 しかるにいまや〈屁〉は、ほぼ完全に駆逐され忘れられている。というか、我々の身体から〈屁〉というものを駆逐する(ことが可能)という医学的(かつ精神的)な成果によって、いつしか〈屁〉はうとまれ始めていたのである。しかもその医学的な成果は制度化(法制化)され、すべての人が処置を受けるように義務付けられてしまった。確かに過度の〈屁〉は体に悪いのだし、身体の〈屁〉を制限する発想(健康)には一理あるのかもしれないが、我々の身体はその外科処置によって〈屁〉が出ないよう可能になっただけでなく、何と〈屁〉をすることを次第に悪徳と思うようになったのだよ。

 確かに体に悪いだけでなく、外部に漏れ出た異音異臭は迷惑千万だ。この〈屁〉を駆逐する心的運動は自分の身体の(屁をしないという)健康の根拠を、迷惑禁止という自分自身や他人への心的攻撃に転化して、誰も反対しない道徳を導いてくるのだ。禁屁(きんぴ=屁をしたらいけない)はカルト的な内向きの正義ではなく、外向けの正義であり魔女狩り的な告発と規制となって社会運動化している。みんな(全体)で渡らなければ安心できない――そうやって〈屁〉を忌み嫌う風潮が蔓延してきたのだよ。

 そりゃなるほど〈屁〉は多少迷惑かもしれないが、誰も〈屁〉をしなくなったら、異音異臭の否定性に媒介された〈屁〉という(貴重な)文化が崩壊してしまうじゃないか。ヘンな音やイヤなニオイだからといって、我慢を忘れて〈屁〉を制限(駆逐)したら文化性を失ってしまうじゃないか。あの春子と夏男の真夏の恋はまったく不可解な現象になってしまい、あの映画の〈屁〉の重さを量る無用の知恵は精神の謎になってしまうのだよ。

 そうじゃないはずだ。我々は〈屁〉をすることによって生きてきたのだ。それは文化である。多文化主義を唱える人が文化を破壊してはいけないだろう。差別を告発する人が他の文化を差別してはいけないだろう。そういう自分のダブルスタンダードに気がつかない連中は、外科処置によって絶対に〈屁〉をしなくなった新人類に違いない。しかしだね、自分が〈屁〉をしないからといって、余儀なく〈屁〉をする人を軽んじ圧殺してはいけないのだよ。

 いまや〈屁〉をしない新人類たちは傲慢にも、余儀なく〈屁〉をする旧人類を駆逐しようとしているのである。いまや〈屁〉をしないことは健全であり自慢になっているが、控え目で遠慮がちでも〈屁〉をしたら変態であり重罪と決めつけるのである。世の中には〈屁〉に寛容な新人類もいないではないが、彼らは自分はしないものだから隠微な優越感が前提なのだよ。

 そもそも〈屁〉をしたらキモチいいんだよ。いったい〈屁〉をしないってそんなにいいことなのか。我が家でも、そんなことはないはずの旧人類である嫁がまた世の中の風潮に毒されてしまっている。世論を背景になかなかに厳しい態度をとるのである。――この国はもう〈屁〉はオシマイかもしれないぞ。ああ、ベランダで初夏の風に吹かれ、オレは今日も空に悲しいお尻を突き出すのだよ。
ラベル: 禁止 文化 否定性
posted by 楢須音成 at 23:32| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月24日

江戸の活気は〈屁〉のアンビバレント

 知識人といえば、高い知識や教養がある人ということになっている。インテリゲンチャとか知識階級とか大上段に構えると、歴史から説き起こして、チト面倒くさい議論になるのかもしれない。しかし、昨今では誰でも(その気になれば)情報機器のパソコン類など手にするようになり、世界にあふれ返る情報を背景に、地域や社会階層間の文化的・知識的な格差はどんどん減退してしまった。ホンモノかどうかは定かでなくとも、いまどき知識や教養に満たされた人はどこでも見かけるよねえ。

 そんなご時世であるとしても、一等知識人であるためには、厳しいプロの道があるだろう。それは今も昔も「プロ=玄人=商売」として開店していることではないかねえ。そういう人たちは知識を「商品」にして商売が成立し、生計を立てている人たちということになるんだな。質的にも量的にもいろんな「商品」がある(だろう)し、怪しげな詐欺師もいる(ような気がする)のだが、とにかく「商売人」という観点で推量すれば、詩人とか作家とか評論家とか学者とか教師とか宗教者とか…にも、身過ぎ世過ぎの商品化の苦労があるのだろうねえ。

 一等か二等かは別として知識人が、組織人であるのとフリーであるのとでは商売への勤しみ方が違ってくるだろう。組織人でないと(売れる「商品」なのに)在野とか民間とか言われて無視されることがあり、(売れない「商品」なのに)組織にしがみついているばかりだと妬まれることもある。それでも知識界には「商品」を毀誉褒貶する評価や実績のランキングが明快に存在しているから、評価を上げ実績を積めば、一等知識人へとステップアップするチャンスを得て、すこぶる商品価値を上げるんだねえ。

 身過ぎ世過ぎしても、どうにも商売が商売になっていない人もいれば、そもそも商売にしていない人もいるだろうし、そういう人はビギナーとかアマチュアとか判定されている。世間では一般に、知識(商品)の品質は「プロ → 優」「アマ → 劣」と思われているから、「さすが(プロだ)」とか「(プロのくせに)アホか」とか「(ビギナーにしては)やるじゃないか」とか「(アマだからやっぱり)バカだ」とか、プロ・アマの分別は(身分制の桎梏のように)上げ下げの評価につきまとい、多くは罵倒語の誕生になってしまうわけよねえ。

 しかしまあ、プライドとしては一応、身過ぎ世過ぎは(商品の)評価や実績とは関係ないのであり、自分が世に問う商品には商売気がないように振る舞うのがスマートであろう。つまりそこには、例えば「新発見の人生の深遠なテーマ」があるだけなのだね。確かにそういうものに金銭のニオイ(商売気)を嗅ぎつけると、しばしば評価は反転してしまい、下げ方向に仮借ないものになることもある。金銭のニオイとは、例えば次のような認識を生む何物かだ。寺門静軒の『江戸繁昌記』を教育社新書(竹谷長二郎訳)から引用する。まあ、これは自分を責める自虐的な例だねえ。(原文は漢文)
 武士は頭を地に付けて「拙者は天性武を好み、馬を馳せ、剣を試み、『武教全書』(兵書。山鹿素行著)を右にし、『武門要鑑』(越後上杉流の兵書)を左にし、今は甲州流と越後流の兵学の奥義をきわめております。…(略)…(しかし)考えてみると、兵学二流の奥義はすべてその(儒者の七書の講義の)範囲内にあります。私が秘訣と称していたものは、実際はへのようなものでありました。しかるに誓いをたて、神をいつわり、長い間このへのような秘伝を伝えて多くの金を得ていたのは、紙上の空談で、いばって世をあざむいていたのです。今にして思うと、心がどきどきして冷や汗が出る思いです。…(略)…」と言う。

 自分がきわめていた兵学の上に、さらに上があったという慙愧の念が表明されているわけだよね。静軒が描くこの武士は、自分が〈屁〉のような秘伝で金を得ていたと、上野・寛永寺へ大師参詣して告白しているのである。やっとここで〈屁〉が出てきたのだが、ははは、ちょっと引っぱり過ぎたかねえ。

 寺門静軒(1796-1868)は江戸末期の儒者で、ついに仕官がかなわず民間の学者として終わった知識人である。水戸(常陸国)の出身。貧乏からの脱却が『江戸繁昌記』を書いた動機とされ、江戸の世態風俗の繁昌ぶりを漢文で記した「戯作」という評価だ。しかし戯れ文のようではあるが、一貫して武士・僧侶・儒者など、当時の知識人たちへの批判や現実風刺に貫かれていて、しかも格調が高い。筆が過ぎて風俗紊乱で何度か発禁処分を受けつつも、よく売れベストセラーになって影響を与え、当時の「繁昌記もの」の元祖とされているんだよねえ。

 報われない(仕官できず、金もない)境遇の知識人として身過ぎ世過ぎする一方、静軒の批判や風刺にはしばしば金銭のニオイへの嫌悪が露出する。報われている知識人は意識的にしろ無意識的にしろ金に強欲に見えるのである。もちろん、静軒とて金が欲しいわけなので、それがために他人の商売気が強く強く気になるんだね。まあ、だいたい当時も今も、浮世離れした無欲博学のボランティア知識人なんていないわけだよねえ。
編中に収録した友人の漢詩は、みな私の記憶していたもので,その得意の作ではない。なぜなら、もしはじめからこのことを告げると、採録することを許さないのを心配したためである。そのうえ、私には文学の才能がなく、もちろん一字も訂正することができないので、現在有名な詩人某の集の中にある、銭の多少によって美しく磨き立ててつくった金玉の作のごときものではない。さらに聞くところによると、その金玉は銅臭を帯びている(金銭のにおいがする)という。私はそこで試みにその集を借りてかいでみると、はたしてそれはほんとうであった。作者の小伝の中で、文意が高く意味が深いところにいたると、臭気がもっともはなはだしい。おもしろいことだ。しばらくして最後にかっぱのへのにおいをかいだ。そこで私は鼻をおおい慨嘆して、「かっぱも水の物である。水は元来金を生ずる(五行説)。かのかっぱのへのにおいが変じて銅臭となったのは、理由がないことではない」と言った。この都の繁昌は、このへを集めて太平を鳴らしているので、そもそも物質的反映なのだ。今でも「はしごっぺ」といって連続するものもあり、最後の一発はいつ放つかわからない。近ごろ物価は次第に高くなってきて、銭湯の料金の十文が、今は二文を増した。への価もそうであろう。しかし詩をつくってもらう金の値上げは一首が幾銀かは知らない。ただ聞くところによると、今年たくさんのへのなかでもっとも大きなへを放った者は十五両を出したという。ああ砲術家の仲間がこれを聞いたならば、かれはかならず「もしこの費用を私にくれたら、大きな敵の船を粉砕できるであろう」と言うだろう。ああへも太平の物で、かつこれらの大きなへを放つやからは、この江戸以外にはどれほどもないであろう。都下の繁昌は、かいで知ることができるのだ。

 言わんとするところはこうだ。――昨今は学芸を銭の多少によって磨き上げる。そういう美しい金玉(きんぎょく)のような作品は、銭のニオイ(銅臭)を隠すことができず、最後には河童の屁のニオイが漂ってくる。金を生じるという水の中に棲む河童の屁のニオイが銅臭なのは当然としても、オレたちは人間様だ。なのに江戸の繁昌はこの「河童のような屁=銅臭=金銭のニオイ」に満ち満ちて、しかも梯子屁(連続する屁=際限のない欲望)となって蔓延している。実用よりはデコレーション。兵器なんぞに金を使わない太平の世だからこそ横行する風潮だ。こんなところは江戸以外にはあまりないが、左様にも都市というものの繁昌ぶりはクンクン嗅いでみればわかるわい…。とまあ、こんな感じだよねえ。

 静軒とて金は欲しいのだから、こういう批評はアンビバレントなものだ。ビンボーからの批評精神(金が欲しい)は都市住人であった平賀源内も同様で『放屁論』ほかを書いている。だいたい人間は必ずしも「言ってること=思っていること=していること」は同じではないし、必ずしも自分の深層の意図(ホンネ)を把握していない。そこが(他人に)におう。自分のニオイは自分じゃ気がつかない振る舞いが、知識人は知識(商品)にまつわって現象する(におう)わけだねえ。

 知識の完成度(真理への道)は金銭とは関係ないという幻想もあるだろう。もちろん、知識は身の不遇とも関係ないはず。なので知識は本来(金には)潔癖なものであるはずだが、では知識は〈屁〉をしない聖人君子なのか。いや聖人君子は〈屁〉をしないのか。静軒は詩人の〈屁〉を批判しつつ、それが江戸に充満している活気そのものなのだと気づく。都市住人としてその活気にあやかろうとしているのは静軒も同じ。そういう意識下のアンビバレントな認識を乗り越えるために、静軒は「おまえらはへだ!」という思いを、これまたアンビバレントな〈屁〉に封じ込めて解放しようとしたのであ〜る。

 だからまあ、何というか、そういう〈屁〉は誰でもするわけですよねえ。
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2009年07月05日

みんなのヘデオロギー

 こころやおしりをひらっきっぱなしというわけではないにしてもにんげんはたえずにおいをはなっているものだ。そのほしではそれをへとよんでいる。

 しかしまあなんというかへがくさいとかくさくないというのはたぶんにきのせいらしい。なのにおまえのへがくさいといっぽうてきにしゅちょうするこころのうんどうをヘデオロギーというんだな。

 ひとはみなじぶんのへは(それほど)くさくないとおもっているわけだがもちろんあいするひとのへもくさくないのである。だからヘデオロギーというにんげんのふるまいにはじぶんをちゅうしんにしてあいをさけぶせかいかんがあるのだ。

 そりゃまあへがくさいのはおたがいさまだろう。たにんのへがなぜくさいのかといえばかれがじぶんのなかまではないからだ。つまりなかまとはへがおなじにおいということなのだ。そしてにおいがおなじということはにおいがないこととおなじである。これこそがヘデオロギーのいちばんのとくちょうといえるだろうさ。

 われわれはこういうヘデオロギーのとりこになってへがくさいやつをけぎらいしてにくむのだ。くさいのはきのせいだなんてぜったいにおもわない。ほんとうにくさくかんじる。すくなくともじぶんのへよりそのひとのへはくさいのである。あいてによってはきぜつするほどくさいのであるよ。

 むちのくにおちゃんのヘデオロギーはあほのたろうちゃんにむけられていた。もちろんたろうちゃんのヘデオロギーはくにおちゃんにむけられている。ということはくにおちゃんはたろうちゃんのへがくさい。たろうちゃんはくにおちゃんのへがくさいのだ。もともとふたりはなかのよいなかまだったのだがあるひとつぜんへがくさくなってしまったのである。

 あほのたろうちゃんはいじめっこのせんぱいのよしちゃんにつかまってしまったのだ。たろうちゃんはくにおちゃんといっしょにつくったりゅうせいのけんをよしちゃんにむりやりうばわれてしまった。よしちゃんはじぶんのゆうせいのけんをたろうちゃんにおしつけた。あほのたろうちゃんはしかたなくりゅうせいのけんのかわりにゆうせいのけんをふりまわすことにしたのだ。

 これがいけなかったね。りゅうせいのけんはせいぎのしょうちょうだがゆうせいのけんはじゆうのしょうちょうだ。くにおちゃんはじゆうなんかよりずっとずっとせいぎがすきだったのだ。このときからたろうちゃんとくにおちゃんのあいだのヘデオロギーのへんしつがはじまっていた。

 わかものがねっしんにけんのうでまえをみがくのはけんしのなつのたいかいにしゅつじょうするためである。たいかいはでんせつのけんせいたけぞうのせいけんをめぐってあらそう。たけぞうのせいけんをだっしゅしたものこそほんとうのけんしなのだ。なつのたいかいはほんまつグループのけんしがにんきだった。ほんまつグループにはきょうごうけんしのよびごえたかいずるのいちろちゃんやあいのゆきおちゃんがいてひょうばんになっていた。それにひきかえ(なかまわれしそうな)てんとうグループのあほのたろうちゃんやむちのくにおちゃんはにんきのほどがいまひとつ。

 ずるのいちろちゃんはだいじなじぶんのおそまつのけんをおってしまったのでゆきおちゃんのゆうあいのけんをひとふりもらってのりかえていた。ほんまつグループはゆうあいのけんでしっかりまとまっていた。ほんまつグループはせいけんをめざしてゆうあいでだんけつしているのだよ。だからすこしばかりなかまのへがくさくてもがまんする。しかしゆきおちゃんはいみふめいのあいのけんけつをやりすぎてしんこくなひんけつにおちいっていた。せとぎわのたいりょくかいふくにこれつとめているんだよねえ。

 いっぽうあほのたろうちゃんがまとめるてんとうグループはゆうせいのけんとりゅうせいのけんのしゅうだんにぶんれつしてあらそいがはじまっているんだよ。そしてとなりにいるなかまのへがすこしでもくさいとおおさわぎしておこりだすのだった。たろうちゃんはおまいらいいかげんにせーよとおもいつつもぶんれつのかちゅうでひたすらはなをふさいでにんにんのこどくをあじわうのだった。

 グループないのヘデオロギーとグループかんのヘデオロギーがからまりあってけんしのなつのたいかいはうだるねっきとはなのもげそうなにおいにつつまれてそうぜんとしてきた。けんしたちはひっしのぎょうそうでたたかいにとつにゅうしていくのであった。たいけつまぢかのゆきおちゃんとたろうちゃんがやがてそこにくるだろう。

 けっしょうせんのふたりのへがきわだってくさいのはとうぜんだろうね。かいじょうにいるぜんいんがふたりのにおいをむんむんとかんじながら「くさいぞくさいぞくさいぞお」とさけぶだろう。そしてあいてのへがくさいということのしょうめいはじぶんのへがくさくないことのしょうめいなのだ。ふたりのけんはあいてのきゅうしょであるよわりめやたたりめにきびしくうちおろされることひつじょうだ。

 しょうぶのゆくえはどうなるのかね。かいじょうをおおうヘデオロギーがしぶんごれつしてでんぱしていくさまはそうかんだろうねえ。ヘデオロギーのカオスはすべてのにんげんのしゅくめいでありかつりょくのげんせんなのだ。あほらし。
ラベル: ヘデオロギー
posted by 楢須音成 at 06:34| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月19日

あんたが大将の〈屁〉の世界

 だいたい人は集合すると自分を褒めて貰いたいわけだよな。この世間は、功名心にかられた者たちのパフォーマンスによっていつも、オレがワタシがと押し合い圧し合いしている方舟なのさ。そういうオレやワタシの心性を、世界の中心で目立ちたい心の渦巻き志向っていうんだけどね。要するに強くも弱くも他人様に構ってほしい(人とかかわっていきたい)わけ。だからさ、たとえ褒めてもらえないときでも慰めてほしいし、いけないことをしたときはやっぱり叱ってほしいのよ。

 ふつふつと湧き起こる功名心がせめぎ合う世間という方舟には、腕前や手柄を評価してもらうことを希求するという需要があり、それに応える供給があるのよ。功名心の方舟には、のど自慢大会やら、書道大会やら、大運動会やら、発明大会やら、舞踊大会やら、作文大会やら、演劇大会やら、論文大会やら、お絵かき大会やら、青年の主張やら、模擬テストやら、早食い競争やら、やらやらやら…まあ何が飛び出してもいいんだけど、功名のチャンスという各種の人生場面に幾多の賞が華やかに用意されているのよ。というか、そんなものが派手にあるから功名心という奴がふつふつ湧き起こるのかもしれないねェ。

 しかしまあなかには、ちょっとこれは得がたいの〜という希少種の賞もあるんだけどさ。こういう賞は功名心があるといっても常識の詰まった蚤の心臓では受け取れないわなあ。それは例えば「あなたの屁は臭いのよ大賞」みたいな、な〜んてね。(あ、聞いたことない、そうですか…)

 しかし、目立ちたがり屋のお父さんはなりふり構っちゃいないよ。そういう賞は家族内か、せいぜい仲間内でしか存在し得ないにしても、きょうも「大賞」をねらって、盛んにパフォーマンスを繰り返すお父さんがいる。そこには、それに応えようとする家族の愛や理解があるに違いないのさ。もちろん、一般に〈屁〉に対する愛とか理解などというものはないのだから、贈られる「大賞」は極めて暗黙性(止めてほしいのだが仕方なく認知せざるを得ない)や隠蔽性(外には発表したくない、してはならない)や架空性(あってはならない負のファンタジー)が強いものとなるわけだよねェ。

 まあまあ、何だかんだいっても「大賞」なのだから賞には違いないけどさ。クサイ家のお父さんときたら褒められる(見つめられる)ことがわかると、実に実に熱心に〈屁〉をするようになってしまった。この場合、褒められることと嫌がられることは同義だよ。しかし、褒められるってことは認知されて通行証を得たようなものだから、おおっぴらに〈屁〉ができるのさ。いやまあ、嫌がられながらもあえて〈屁〉をするお父さんなわけだね。

 ひのき舞台の表の賞に対して、そういう裏舞台の暗黙の賞があるってことは、人生における暗黒面を示唆するものだよ。お父さんの〈屁〉は家族とか仲間とか限定的な場所でしか認知されない(封じ込められている)が、それは一定の許容値の範囲で行われる行為であることを意味しているね。つまりは、それ以上の暗黒面の増長を阻止するために、集団の防衛的な振る舞いが表出していると判断されるのよ。要するに「お父さんの〈屁〉が一番一番クサ〜、お父さんが大将(大賞)です〜」と顔をそむけて祭り上げる決定なわけ。

 このように〈屁〉が臭い順という負の序列を暗黙のうちに作り出し、その末番の席に座ろうとする家族の心的振る舞いは、自らの無罪性を求める密かな野望だ。誰の〈屁〉だって臭いのだから無罪はあり得ないのだが、少なくとも、人にニオイを嗅がせない限りにおいて無臭であり無罪だろうよ。まあ、臭い順の序列があるというより、実際にはお父さんの一番席以外は全員末番席にいる、二つに一つの状況なわけだけどさ。

 こういう「あんたが大将(大賞)」の暗黙性・隠蔽性・架空性が全く発動しないとしたら、クサイ家は全員が不幸になるだろうねェ。誰もが幸せになるために大将(大賞)は用意されるのさ。お父さんは一所懸命に〈屁〉をすることで救われる(目立つ)のであり、周りの者は嫌がりながらも〈屁〉を賞賛することで救われる(無関係を強調できる)のであるよ。かくして、

 表舞台→大賞はみんなの賞賛と嫉妬を生む
 裏舞台→大賞はみんなの賞賛と安堵を生む

 ただし、こう比べてみれば、同じように評判を気にする賞賛でも方向が違うんだね。表舞台の賞は正の価値のものに与えられるのだし、裏舞台の賞は負の価値のもの与えられるのである。

 ここで何の因果か、世の中には表舞台と裏舞台を取り違える人が往々にしているんだよねェ。クサイ家のお父さんは何を思ったのか、家の中だけでなく、外に出て〈屁〉を始め出したのであるよ。まあ、確かに表舞台と裏舞台の境界は見定めがたいグレーゾーンもあるわけで、お父さんの〈屁〉が広く世間の注目を集める可能性がないわけではないだろう。昔から放屁芸というのは世間に存在してチャレンジされているんだよ。平賀源内の『放屁論』の一節。
……昔より言い伝へし梯子(はしご)屁数珠(じゅず)屁はいふもさらなり。きぬたすがゝき三番叟(さんばそう)、三つ地七草祇園ばやし、犬の吠き声鶏(にわとり)屁、花火の響きは両国をあざむき、水車の音は淀川に擬す。道成寺(どうじょうじ)菊慈道(きくじどう)、はうためりやす伊勢音頭、一中半中豊後(ぶんご)節、土佐文弥(ぶんや)半太夫、外記(げき)河東(かとう)大薩摩、義太夫節の長きことも、忠臣蔵矢口渡(やぐちのわたし)は望み次第、一段づつ三絃(さみせん)浄瑠璃に合せ、比類なき名人出でたり……

 とまあ、1774年頃の江戸・両国に出現した放屁漢、霧降花咲男(福屁曲平)の芸のレパートリーを紹介している。これはもう立派な音楽のパフォーマンスだ。

 しかし、肛門と口腔の違いは歴然としていて、合唱大会は全世界であまねく開催されても、放屁ショーや放屁大会となると現在ほとんど皆無である。だから、お父さんはボランティア活動をしている職場の博愛合唱団にテノールで参加しているのだが、もちろん〈屁〉がデビューするチャンスはなかったわけだよ。

 やがてお父さんは「合唱」と〈屁〉という評価が正負のものを、どちらも日の目を見るよう願い始めたんだよねェ。それはこんな経緯だ。

 合唱団には、歌がうまい(と自分では思っている)のにレギュラーメンバーになれないで不満を持っているイチロさんがいたのさ。イチロさんはなぜか団長の機嫌を損ね疎まれていたのだが、ある日お父さんはイチロさんの〈屁〉を聞いてしまったのだよ。

 実に素晴らしかった。それはパンパカパ〜ンと元気に弾む無臭性のほがらか屁であって、お父さんのような半分すかし屁の悪臭性の陰鬱なものではなかったんだねェ。

 いやまあ、そのときお父さんは練習が終わって団員が退けた人気のない公会堂に響いたパンパカパ〜ンに痛く感動したのだった。チャレンジングな二人のプロジェクトが始まった。ついに二人は〈屁〉と融合した合唱という新しいレパートリーを創案し団長に提案したのさ。

 まあしかし、こういうことがすんなり認められるかというと(常識的に)厳しいわけでね。二人の一途な錯乱ぶりは〈屁〉に起因するが、何がいけなかったって、一番の問題は団長が〈屁〉はしてはいけないというモラルの持主であったことだよな。

 何事もこんなふうに致命的な一線を見誤るのはいけないにしても、致命的な一線を狙ってチャレンジする人はいるわけさ。考えてみると、両国で放屁芸を興行した霧降花咲男のチャレンジは素晴らしいねェ。日本でビジネスとして成功した最初(で最後?)の〈屁〉なのだよ。

 お父さんとイチロさんは異端視され、博愛合唱団を叩き出されてしまうことになる。どこまでも「あんたが大将」の階段を登ろうとしたお父さんとイチロさんを突き動かしたものとは…あなただってする魔性の〈屁〉さ。
ラベル: 大将 屁芸
posted by 楢須音成 at 10:42| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月11日

イタチの初屁と最後屁

 イタチの屁についてこんな江戸の川柳がある。
鼬(いたち)の子初屁こかぬと心配し
※イタチの親がいつまでたっても子どもが初屁をしないと心配している〜。初屁=生まれて最初の屁。

 まあ、何というか屁をこくことを初潮か精通かのように見立てれば、初めて屁をこくのは身体の機能を開示する重要な証しになるわけよね。親イタチがそんなことを心配するはずもないが、一応イタチにとって屁は大事な身体機能(追いつめられたときに放つ悪臭という武器)とみなされているんだよ。

 人間の場合、初潮や精通による機能開示というのがある。それは多分に心的にも成長の目覚めを伴うものであり、ここから繁殖行動の機能を発揮する段階に突入していくのである。つまり、そこには何らかの性行動が発現するわけだが、このとき人間はさまざまに逡巡する。というか、そもそも人間の〈性〉というのは最初から文化的な制御の枠組み(制度)に絡め取られているので、そのまま即セックスというわけには参らぬのであるよ。

 制御というと何だか機械の制御のようだが、人間の制御は身体と観念に相互にかかわって現象する。しかも制御の主体性の軸足をどこに置いているか(意思があって制御するのか、されるのか…とか)によって、もたらされる気分は楽園にもなれば桎梏にもなるわけよ。

 性行動における制御という現象の観点(ないしは実体そのもの)を指示する言葉として、例えば「処女」とか「童貞」とかを使う状況がある。なぜ処女や童貞が制御なのかといえば、どちらも堅持したり放棄したりと、意図する(あるいは「意図しない/できない」圧迫の)対象となる現象だからだよ。

 ところが、人間にもたらされるそういう制御は、動物のそれとも違って勝手な観念的な意味づけがなされているわけであるから、処女や童貞は単なる性の未経験であることを越えている。社会的にも個別的にもさまざまな意味内容を内蔵してしまう。思いが溢れれば、一編の詩にも小説にも論文にも、はたまた道徳にも宗教にも――なってしまう。というか、なっているよ。

 イタチの場合、処女とか童貞というのは(多分)意味のあるものではない。そういうことを区別(意識)しないし、もちろんそれを指示する言葉もなく、何も問題にならないわけさ。実際には初屁も同様で、それは人間の側から見た観点(ないしは実体そのもの)なのである。つまり川柳では、イタチを「擬人化」した可笑し味が眼目になっているわけだよ。

 もっとも、人間にとっても普通は初屁に格別の意味があるとは思わないよねェ。そもそも屁なんぞはない方がいい(無視したらいい)のであるよ。

 いやだから川柳は、もしもイタチが人間だったら子供の初屁(つまり成長)を気にする親心が働くはずだ、ということなのだが、川柳作者は〈屁〉にかこつけて人間をイタチにしてしまった。だからこれはむしろ「擬鼬化」なのよ。

 しかしまあ初屁はともかく、人間は〈屁〉をすること自体を(成長過程のある時期から)ひどく気にすることはあるだろう。自分にも他人にも「したらダメ」と固く固くタブーにする人もいるわけで、そういう人の前でうっかり粗相したら一生許してもらえない憂き目にあうことがあるよ。

 もちろん〈屁〉を気にするといっても、処女や童貞を気にするのとはちょっと違うのさ。

 処女や童貞は、その意義や価値を認めるにしろ認めないにしろ、人生のステップのある段階(一度きりのの経験)を経て、しかも以後の人生はどこか何かが変わるような気がする(岩石のように決して動じることなく変わらない人もいるかもだが)。とにかくまあ、一般に幻想(妄想や感想)は新たな段階に突入するはずよ。

 一方、初屁はどうだ。かりに人間が初屁をしたとして、それは確かに人生の一度きりの体験ではあるものの、それ自体ほとんど意味がないので、屁こきの汚名を着るとかしない限りその後の人生の妄想や感想が変わるわけではあるまいよ。臭いだけだろよ(臭くない人もいるかもだが)。

 そうなのだ。我々が〈屁〉を気にするのはその場の快や不快(の感覚)はもちろんあるが、末永い「屁こきの汚名(という不快な観念)」を(顕在的に)気にするからなのだよ。それにまた、我々が〈性〉を気にするのはその場の快や不快(の感覚)はもちろんあるが、末永い「子孫の繁殖からの逸脱(という不快な観念)」を(潜在的に)気にするからであるよ。

 そういう点では〈屁〉も〈性〉も心的振る舞いは似ていて、人間はこの世間では、望んだからといって即セックスとは参らぬが、即屁とも参らぬのだよねェ。

 イタチが初屁を完成して、屁を機能的な身体の道具(武器)として痛烈な最後屁に至らんとする姿は、理想の心身合一のストレートな人生道といえよう。しかるに人間が初潮や精通を完成しても、グダグダしたりギラギラすることで処女や童貞の喜怒哀楽に逡巡して、紆余曲折の人生道にはまるのはいかなる理由だろうよ。

 そういう人間という存在は、どこまでもストレートに屁に生きるイタチとは違う。成熟したイタチは運がよければ何も考えずに最後は用意万端なのだよ。
鼬の屁かなはぬ時のすてかまり
※イタチはいよいよの苦しい土壇場にはとっておきの最後屁がある〜。すてかまり=予備の伏兵のこと。

 またしても勝手にイタチに〈屁〉を思い描く川柳だが、その可笑し味には人間の思いがこもる。そこには臭い臭い処女と童貞の最後屁があったりするよ。

 ははは、実際にはイタチの最後屁というのは(ガスではなく)スカンクのように肛門腺からの悪臭の分泌物らしいが、明白な武器として敵を撃退するほどの脅威はないらしい。イタチの屁とはこれまた人間の叶わぬ幻想――なのかねェ。
ラベル:イタチ 最後屁
posted by 楢須音成 at 18:23| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月01日

その〈屁〉、いかがなものか

 お偉い人が屁をこいたら周りはとても気を遣うものだが、お偉い人は屁をこいても、とんと気にする風はなかったりする。福富織部の『屁』にあったこんな小咄。いやいや、若殿は屁をこくため便所に行くほどのお偉い人…なのね。
 若殿、便所に行つて、手も洗はずに、さつさと立去る。浄水番の小姓、何か気にさはつたものと心得、伺ひに出る。すると、若殿笑つて曰く「なあに大事ない、わしは屁を放りに参つたのぢや」

●お偉い人が屁をこいたら、たいてい周りは黙ってますわな。どんなに臭くても、とどろく音を立てても。そりゃもう、お偉い人なんだから少しばかりの粗相はいい…んだからさ。
 周りの人「(殿様ァ、ま〜たやったなぁ! ま、いいけど、くさか〜)……………………」

○お偉い人は屁をこいても、たいてい黙ってますわな。どんなに臭くても、とどろく音を立てても。そりゃもう、お偉い人なんだから自分の屁に全く気がついていない…んなわけないか。
 お偉い人「(あれ、私いま出した? 出たの〜。出たか。そうか。なるほど〜)……………………」

●お偉い人が屁をこいたら、お偉い人が好きな人はたいていかばいますわな。その屁がにおえばにおうほど、うるさければうるさいほど…それ必死なんじゃね。
 好きな人「(殿様のためなら…)いやぁ、すんまへん。やったのはこの私です、私。ホ、ホント…です」

○お偉い人は屁をこいても、たいてい自分のじゃないみたいな言訳しますわな。その屁がにおえばにおうほど、うるさければうるさいほど…他人事。
 お偉い人「これはこれは、芋屁か、大根屁か、納豆屁か。いや〜、摂取状況からすると混合比が一番多いのは芋か。ウーム臭気が激しいのはラッキョ〜」

●お偉い人が屁をこいたら、お偉い人が嫌いな人はたいてい批判しますわな。臭けりゃ臭いほど、とどろけばとどろくほど。そりゃもう、お偉い人なんだから…許さんよ。
 嫌いな人「(な、なに、このニオイ…)人としてあるまじき暴挙。(殿様の)立場ってもんがあるでしょ。人倫にもとる許し難い破廉恥です」

○お偉い人は屁をこいても、たいてい自分を責めたりはしませんわな。臭けりゃ臭いほど、とどろけばとどろくほど。そりゃもう、お偉い人なんだから…めげない。
 お偉い人「あ〜もう(私のお尻が)やっちゃった〜。なんだかお腹がグチュグチュだなぁ。ど〜しちゃったんだろ。(私は)絶対がまんしなくてはね。がんばりますよ〜」

●お偉い人が屁をこいたら、たいてい周りは笑いませんわな。どんなに臭くても、とどろく音をたてても。そりゃもう、お偉い人なんだから笑ったら失礼…なんだからさ。
 周りの人「(殿様ァ、またですか。も〜)…(無表情)…」

○お偉い人は屁をこいても、たいてい無表情ですわな。どんなに臭くても、とどろく音を立てても。そりゃもう、お偉い人なんだから不用意な笑いは命取り…になるかもさ。
 お偉い人「(あんたら、こっち見たらいけません、絶対に)…(無表情)…」

●お偉い人が屁をこいたら、お偉い人が嫌いな人はたいてい馬鹿にしますわな。その屁がにおえばにおうほど、うるさければうるさいほど…顔見るのもイヤ。
 嫌いな人「(何こいてるの。バッカじゃね、バカ殿)あ〜ヤダ、オレの鼻と耳つぶれた。涙で目までつぶれた〜」

○お偉い人は屁をこいても、たいてい反省しませんわな。その屁がにおえばにおうほど、うるさければうるさいほど…澄まし顔で人のせいにする。
 お偉い人「(芋を食わせたあんらたに…)あーんたらに非難されたくありません」

●お偉い人が屁をこいたら、たいてい周りは泣きますわな。臭けりゃ臭いほど、とどろけばとどろくほど。そりゃもう、お偉い人なんだから下々は泣き寝入り…なんだからよ。
 周りの人「(ウヘ、殿様の今日のオプーは何てヒドイんだろ…)涙が出る悲しい日でございますな」

○お偉い人は屁をこいても、たいてい中傷されたと主張しますわな。臭けりゃ臭いほど、とどろけばとどろくほど。そりゃもう、お偉い人なんだから…微妙に追及をかわす。
 お偉い人「(黙れ、見るな、私をだれだと思っているのか、このアホ〜が)便所に行ったわけでもないのに手を洗えなどと、そのような讒言(ざんげん)は訳がわからぬ」

 ――ご乱心どころの話ではない。
ラベル: 殿様 偉い人
posted by 楢須音成 at 00:13| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月27日

イチロクサイサイな〈屁〉の人

 ニオイというやつは見えないから、しばしば発生元が不明のまま不意打ちで鼻先にやってくる。あんまり臭いと「くさ〜」とか思わず声を発してしまうことはあるが、普通は黙って耐える。悪いニオイは言葉にはしにくいし、あまり口にしたくはないのだ。

 この悪いニオイというヤツ、発生元が目に見えれば(確認できれば)嫌々ながらでも(仕方がないと)半分は納得できる(腑に落ちる)場合もあるのだが、まったくの発生元不明で漂ってくるのは勘弁してほしいのである。それは人間関係を揺るがす疑心暗鬼を生む怪しいニオイだ。

 しかし、そういうニオイってヤツを自分が発しているとしたら――これは困った問題よ。

 知られたくない事実(ニオイ)に突っ込みが入った場合には、何らかの対処が迫られるわけで、その人がニオイを発していると周囲が断定(証拠の提示)に到っていない段階であれば、彼はいかにその疑惑の濃霧から抜け出せるかどうかが頑張りどころとなるね。おならイチロさんと奥さんがパーティ会場で疑惑の渦中にあったときのイチロさんの思いはこうだ。

(1)もしかして私は疑わしい挙動をしているにしても、ニオイを発していることをけれん味のない態度で否定し、何らやましいところはないと主張します。
(2)仮に私の周辺からニオイが発生しているとしても、ニオイはまったく私には関係がないと言って、何らやましいことはないと主張します。
(3)仮にニオイを疑われた周辺の者がたとえ私の嫁であっても、ニオイは私にはまったく関係がないと言って、何らやましいことはないと主張します。
(4)仮にニオイを疑われた嫁が(自分じゃないと)否認しても、ニオイは私にはまったく関係がないと言って、何らやましいことはないと主張します。
(5)仮にニオイを疑われた嫁が(自分であると)認めたとしても、やっぱりニオイは私には関係なかったのだし、まったく知らなかったのであり、何らやましいことはないと主張します。
(6)もしかしてニオイを疑われているのが私であったとしたら、やっていないものはやっていないと言って、何らやましいところはないと、不当な疑いによる冤罪を主張します。
(7)もしかして万が一、私以外の赤の他人がニオイを疑われているような場合には、そっとその人のそばを離れて知らぬ顔をして身の潔白を守ります。

 しかしまあ、ニオイの犯人の特定に関する証拠の提示は困難なので言い逃れには力が入るのである。もともとイチロさんだって別に嫌われるためにやっているわけではないのだし、そりゃあ、それだけのことをするには体力・精力もいるのだし、それを養うためには、みんなが警戒するイモ・ニラ・ニンニクが大好物であって何の不思議があろうか。加えて近年は御禁制の珍獣肉も(隠れて)ふんだんに入手できる財力も手にしたのだし、バリバリに張り切って美食して、鼻もげる臭気の海をさっそうと泳ぎ切る体力は万全なのだ。

 イチロさんがまだまだ小僧のときは、早すぎる傲慢さや強引さが災いして嫌われ役を一身に引き受けて、まあ時には見込み違いの失敗もしたので芽が出ない時期もあったのだが、どういう加減が幸いするかわからんもので、番頭になりやがて旦那様になるに及んで商売繁盛、カネはホイホイ向こうからやってきて、カネがうなるところには人が集まるわけで、イチロさんは次第にお偉い人になっていったんだよね。

 イチロさんの金満ぶりや、あれよあれよの権勢の発展は、そこから発する臭いニオイがだんだん大きくなることにもなっていったわけで、それはまあ、仕方のない必要悪(というか派生してしまうニオイ事情)としてまわりも認めざるを得ないわけで、しかもまわりはしっかりイチロさんにしがみついて(イチロさんを信奉して)かなりの余禄に与っていたわけである。そういうイチロさんのもとに参集(支持、支援や礼賛)する「おならグループ」の存在は一大勢力であって、サロン界を席巻していたが、そういうギンギラギンのあからさまな連中とは距離を置いて、個人的にイチロさんと草野球を楽しむだけにとどめている者たちもいた。

 彼らはイチロさんの野球技術の素晴らしさや肉食動物的なカンの鋭さに心酔していて、われら草野球界の「至宝〜」とまで持ち上げる心酔者もいたのだが、当のイチロさんは「そんなことないんでネ」と冷静に謙遜していた。

 しかしまあ、いまや天下一品の臭さとなると「これは何だ」と疑問をはさむ者もいるわけで、ニオイがヘンだとか怪しいとかの段階を超えて、パーティ会場のイチロさんは真黒黒助の風貌なのに、真白白助みたいな顔して(1)〜(7)の主張を振り回し始めているのだから、次第に警戒する人もあらわれるよ。とにかく言ってるそばから臭いんだからさ。

 もちろん「おならグループ」の面々もニオイを感じないわけではないが、かなりニオイにマヒしていることは確かで、というか「いやこれは、むしろいいニオイだ」とか「人間である限りニオイというものはあるのであり、不可避の必然だ」とか「ニオイは何もイチロさんだけの話ではない」とか「証拠もないのに無法だ」とか「いや、まったくの濡れ衣だ」とかの主張をし、なるほど、イチロさんのように偉い人がにおう場合には、相手の思いを先走らせたり黙らせる威厳と説得力が伴うのである。

 しかしまあ、こういう威厳もニオイ次第でほころびることもある。そのときのパーティ会場における威厳に満ちたイチロさんのまわりには「おならグループ」の一団がその威光に照らされて仁王立ちになっていたのだが、さすがに臭いので、彼らは自らもニオイを発してイチロさんを守っているのだった。それを囲んで人々の疑いの目と鼻はうごめき、その間を縫って無関係のお喋りな連中は「イチロクサイサイ」と呪文をささやき合った。

 そりゃ、イチロさんだってニオイには忸怩たるものがあるには違いないよ。そんな臭いものは無ければ無いに越したことはないからね。しかしなあ、ひとたび美食してしまった人生の食生活はそう簡単に変えることはできないよ。それは自ら引き受けた男の生き方そのものなのよ。まさに〈屁〉の人生そのものなのよ。
ラベル:臭い におい
posted by 楢須音成 at 07:13| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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