2008年04月06日

死に臨む〈屁〉

 死に対して〈屁〉はどのように現象するだろうか。死んだあとは〈屁〉が出ない(現象できない)というのは自明のことのように見えるが、その通りである。ただし、間際の〈屁〉は残された者にとっては不可思議な余韻を残している。
さる道心者(=仏門の人)往生せられしが、「日頃は随分の(=身分相応によくできた)人にてありしが、臨終に屁を放られた」と語る。傍なる人聞いて「そのやうなこともあることさうな。先年われらが親仁(おやじ)の臨終の時、さる長老さまの仰せらるるは、必ず必ず臨終が大事ぢゃほどに、取はづし給ふなと、親仁に返す返す仰せられし。しからば取はづして、死ぬる人もあると見えた」
(『囃物語』1680年)

 笑っていいのかどうか迷ってしまう会話だが、臨終の〈屁〉を真面目に語っているとぼけた雰囲気。そういうことがあるのだ。ここで思い出すのが次の俳諧である。臨終の〈屁〉の滑稽なシーンとして詠んでいるのだが、単純に笑うわけにもいかない。しかし、親を受けとめる、何かおかしくも、やがて切ない深い気持ちにならないだろうか。
にがにがしくもをかしかりけり
  わが親の死ぬるときにも屁をこきて
(山崎宗鑑編『新撰犬筑波集』1530年前後刊)

 しかし、これには賛否両論あったようで、貞門派俳諧の元締め(松永貞徳)は手厳しく評している。
いかに俳諧なればとて、父母に恥を与ふるは道にあらず。儒道はいふに及ばず、仏道にも不幸はいましめ給ふぞかし(中略)人の親のと、せめてありたらば、この句よりもなほ付心もまさるべし。わが親ならばいかでかをかしかるべき。それををかしと思ふことの心あるものは人の子にてはあるまじ。畜生にもおとりたるものなり。……
(付句集『淀川』の中の評言。1643年)

 貞徳は怒り心頭だ。自分の親の〈屁〉を暴露して恥を与えるとは何事か。これが他人の親のことなら、まだしもその技量は認めてもよいが、自分の親ぞ。犬畜生にも劣るわい。というのである。

 儒者じみた貞徳を痛烈に批判した人はいた。例えば、屁文集『一発』(1977年、葦書房刊)をまとめた中重徹は道徳的に文学を語ってしまう貞徳の俗人ぶりをこう指摘した。
 この句がそれほど親不孝なのかどうかはの議論はともあれ、それを親不孝と思うところに貞徳の文学観のあさはかさとその俗人ぶりがうかがえる。そして皮肉なことに右の批判は結果的にはこの句の価値を一段と高らしめるにいたった。元来「をかしみ」は緊張が大なれば大なるほど効果的なのである。

 臨終という「緊張」が〈屁〉に対する無限の気持を現象させるのだ。その「緊張」の深み(臨終の人)からおかし味が現象してくる。死の間際の一発は残された者への最後の意図せざるプレゼント(粗相)なのである。

 しかし、この世にまだ未練を残してしまうと、なぜか〈屁〉は自分の存在を主張する実直さにしかならないようだね。そういう間際の〈屁〉を近代的なリアリストが目撃して記録している。
私たちはとうとう夫人を失った。私はその息を引き取るところを見た。彼女の一生は才気と思慮のある婦人のそれであり、彼女の死は賢者のそれであった。いとわずてらわず宗教上の義務をはたした清澄な魂、その点からは、カトリック教が私に好ましく思われたといっていい。生まれつきまじめなひとであったが、病気のおわりには、一種の陽気さを持つようになった。それもむら気のない、ごく自然なものであり、悲しい境遇を理性でまぎらせようとしているにすぎなかった。べったり病床についたのは最後の二日だけで、それもみんなとしずかに話すことをやめなかった。とうとう話ができなくなり、いよいよ臨終の苦しみとの格闘にはいったとき、一つ大きいおならをした。「よろしい!」ねがえりしながらいった。「おならが出るような女はまだ死んじゃいません」これが口にした最後の言葉だった。
(ルソー『告白録』井上究一郎訳、1764〜1770年)

 同じ臨終のおかし味でも、ここには「まだ生きていますよ」といっている〈屁〉があるのだ。このリアリストは淡々と見ているだけで、下手すれば皮肉ともとらえかねない目で「臨終の苦しみ=〈屁〉」として見ている。リアルといえばリアルだが、日本人のように恥を媒介とした臨終の深みは見えてこないように思われるね。

 そこではキリスト教社会と日本社会における臨終の様相の違いが〈屁〉の現象を通じて浮かび上がっている。残された者にとって、その〈屁〉は片や「理」「苦」を支えとしているのだし、片や「情」「恥」を支えとしているのだった。

 我々日本人は、死後の世界にまで「情」や「恥」を持ち込んでしまうんだね。江戸の川柳はこう言っている。地獄では〈屁〉は閻魔大王にきっちり報告されるのさ。
かぐ鼻はすかした迄も帳へ付け
かぐ鼻は眉をひそめて言上し
かぐ鼻は鼻をつまんで言上し
※「かぐ鼻」というのは、死者の生前の行状を地獄の閻魔大王に見る目(男の鬼)ととも報告する女の鬼のこと。

 このように地獄にまで〈屁〉がついてまわるのが日本人なのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 12:50| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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