2008年02月01日

同質と異質のオナラ三国志

 人間の放屁が文化現象であるという認識は、それが単なる生理現象ではないという「気づき(視点)」によって明らかとなる。放屁という行為のただ事ならぬ様子について、日本、中国、韓国の差異を考察する一章を用意した『裸の三国志――日・中・韓 三国比較文化論』(金文学著、1998年、東方出版刊)によれば、三国のなかでよくオナラをする順番は、一位が中国、二位が韓国、三位が日本であるという。

 日本人=人前で放屁する人をほとんど見かけない。
 韓国人=駅のトイレとか銭湯など、放屁をする人を割合よく見かける。
 中国人=路上、バス、地下鉄、映画館、教室、パーティなど、どこでも放屁する人を見かける。

 このように金は三国のそれぞれの放屁を観察しているが、こんな現代小咄も紹介している。
 公共の場所で誰かがいきなりポーンと鳴らしたとする。このとき、日本人ならば当事者は顔を赤らめ、まわりの人たちは默ったまま笑おうともしない。むしろ自分が疑われるのではないかと心配する人もいる。
 韓国人なら当事者が赤面しながらニッコリ笑い、まわりの人も悪気なく笑う。
 中国人なら放屁をした人が笑いながらまわりの人に向かって「いったい誰がやったんだ」と陽気に話しかける。
 さすが「放屁文化」の大国、中国人だねぇ。

 これらの観察は日本人はあまり屁をしない(頻度が低い)ということを示しているわけではないと思うね。人前ではしないだけ。もともと(草食性の)日本人はよく屁をする民族である。この三国の差は羞恥心のあり方を示しているように思われるわけさ。

 金は特に中国人の放屁についてその文化の特性を語る。東洋一の放屁文化だと言っているが、その理由の一つを中国人の食性に求めている。豆類、ジャガイモ、サツマイモ、饅頭などの油っぽい中華料理はよく屁が出るというわけだ。また、韓国人は日本人より肉食を好むと指摘している。この食性と屁の関係の論議は大雑把すぎるにしても、三国の比較は面白いと思うね。誰か志のある専門家に是非検証してもらいたいものだ。

 金が描く中国人の放屁は他国の他人事として見ればスゴイ光景になっている。
 (至る所で中国人が放屁することを述べて)ことに蒸し暑い夏に、満員電車に乗ると、体臭や口臭、靴の臭いにオナラの臭いまで混ざって死ぬ思いになることもよくある。
 「誰がこんなガスを……場所柄を考えてよ」と、たまらず文句を言い出す若者もいる。
 銭湯での放屁の風俗図は最も見物だ。衛生状態があまり良くない銭湯の中で平気でオナラをする人が多い。湯船の中でオナラをすると気泡が起きて水面に上がってくる。それが面白くて若者たちが放屁試合をする光景にもよく出会う。
 日本人や韓国人の目には、中国人がいかにも不衛生に映るかもしれないが、それは生活感覚、生理感覚の違いなので、速断するのは誤解を生じるもとになりがちである。きわめて清潔好きな日本人や韓国人と違って、中国人にとっては余計な排泄物を体外に排出してしまうことは恥ではなく、日常生活の習慣そのものなのである。

 中国では街中でタン(痰)を吐く人が多く、北京オリンピックを前にして、北京市内でタン吐き禁止キャンペーンが始まったとか聞くと、屁についての金の説明がかぶってくるね。もちろん、国や民族によって生活・生理感覚の基準が違うわけだから、屁やタンをまき散らすことが直ちに不当ということではないにしても、外国人を意識したエチケットに照らして禁止を強制せざるを得ないことにもなる。

 しかしまあ、放屁禁止キャンペーンというのは聞かないねェ。そもそも屁は見えない物体であるし、実害といっても一過性のものであるし、ゆえに後始末がウヤムヤではあるわけで、屁(ごときもの)で、まなじり決してキャンペーンを張っても腰砕けになりそうだ。笑っちゃう? (タンでも十分笑えるんだけどさ)

 金は放屁がお盛んな中国人は「屁」の字と縁の深い民族だとも指摘して例をあげている。
 毛沢東が『人民日報』一九七六年元旦の社説で、旧ソ連修正主義に対して発した「不許放屁(デタラメ言うな!)」というのはあまりにも有名な話である。敵の理論を「屁」で攻撃したのは中国人にふさわしい発想ではなかろうか。

 中国語では「屁」を使った表現が多いようだ。金が挙げているのは次のような例。フツーに日常的表現で「屁」という字が躍っているが、どうやら軽んじて馬鹿にした感じをこめて使われているようだね。

 屁股=尻
 屁話=つまらない話・くだらない話
 屁事=つまらない事
 屁眼子=尻の穴(肛門)
 你知道個屁=(相手をけなして)何がわかるかッ
 你放狗屁=馬鹿なことを言うなッ
 狗屁不値=何の値打ちもない
 狗屁不通=理屈に合わない
 有屁就屁=話があれば言え

 こう見てくると、日中韓の屁の文化は興味深いテーマだね。この三国は〈屁〉においてそれぞれが個性的なのだ。少なくとも三国三様の姿(心的構造)は思想風土をも深く深く支配しているに違いない。そういう〈屁〉の民族的実態は究められてもいいはずであ〜る。


ラベル:三国志 中国 韓国
posted by 楢須音成 at 23:25| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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読書の梅 02182008
Excerpt:  その評論が正鵠を射ているかどうか、どこで判断したらよいのだろうか。俗耳に入りやすい、時流にのった論説があり、正義を声高に叫び、糾弾調の論議もある。すべての問題は二律背反、単純な善悪論で割り切れないの..
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