2007年10月06日

江戸が熱狂した曲屁ショーよ、もう一度

 世の中には〈屁〉の名人と呼ばれる人たちがときどき出現するね。名人のタイプについては前に分析してみたが、日本の歴史における最大の「放屁漢」は江戸にあらわれた福屁曲平であろう。昔語花咲男(むかしがたりはなさきおとこ)と名乗って、安永三年(1774年)に両国広小路の見世物小屋で(ビジネスとして初めて)曲屁(きょくひ=曲芸の屁)を演じたのである。

 興津要の『江戸娯楽誌』(1983年、作品社刊)は講談社学術文庫に文庫化されて、江戸の町のナマの娯楽をいろいろ紹介している。「見世物」の章で「屁ひり男」が登場しているのだが、当時、どんな見世物(芸)があったのかといえば、なかには奇人変人そのまんま芸というような人もいるわけさ。落語とか講談とか相撲のような繰り返しの伝統芸になって今に至っているものもあるが、多くはその場の新奇さが趣向の見世物として興行されたようだ。

 見世物として紹介されているのは、軽業、籠抜け、綱渡り・竿竹渡り、乱杭渡り、曲馬、曲枕、手品、力持ち、女力持ち、屁ひり男、蛇つかい、鬼娘、鍋食い男、初音耳作、提灯男、外国産動物の見世物、小動物の芸、講談、落語、八人芸、謎解き、相撲…などである。
 興津は見世物についてこう言っている。
 観覧場は、むしろ掛けの小屋であったにもせよ、そこで展開された技芸は、修練の極をしめすあざやかさ、多様さによって、ひとびとの目をうばっていた――そこには、大劇場では見られない演者と観客の交流があった。

 さて、「屁ひり男」であるが、まあ、この人も奇人変人の人であるね。彼のショーの最初の登場が1774年だから、フランスの屁ひり男、ムーラン・ルージュの芸人ジョゼフ・ピュジョールのショー(1891年)よりも100年以上年先行している。福屁曲平は出身や本当の名前など素性は一切知られていないのだが、実在の人であったことは間違いない。

 この『江戸娯楽誌』は、当時の小咄、戯作、随筆、川柳、狂歌などに描かれた娯楽を渉猟して、その評判を追いかける体裁で書かれている。「屁ひり男」では冒頭にこんな小咄を紹介している。
 はなし好きなお姫さま、腰元衆へ、「なんと、ちと、めづらしいはなしはないか」とおっしゃるに、おそばの腰元衆、「このごろ、両国へ花咲き男と申して、屁にて、いろいろの曲をひります」と申し上げれば、お局、そばから、「おっと、へのはなしまではよけれども、この字はならぬぞよ」(安永4年刊『豊年俵百咄』)

 ここで「へまではいいけど、この字はだめ」というのは「屁ぐらいならいいが、へのこ=睾丸・陰茎の話はだめよ」という意味。それはともかくとしても、当時〈屁〉が往来の見世物小屋にたち、しもじもだけでなく武家の婦女子まで興味をそそられてオープンな話題になっていたことがわかるわけさ。普段は口を噤んでいる〈屁〉であるだけにその新奇さ、そのインパクトはほかの見世物などよりも大きかったのではないだろうかね。

 そもそも世の中の何事も、社会現象化(流行)して(パターンとして)深く広く認知されるのであ〜る。〈屁〉のタブーが留保され、男女や階級をこえて曲屁が膾炙したのは、このときが初めてであろう。福屁曲平たちが両国の見世物小屋の一つに登場させて、ショービジネスとして成立させたのである。〈屁〉のマーケティングの成功というわけで、こういうことは時代の空気を読まないとね。

 このときの演技を記録したのが平賀源内の『放屁論』(1774年)で、これが感動をこめた、なかなか素晴らしい見聞の記述なのだ。興津は源内の『放屁論』を下敷きに紹介している。
 囃子方(はやしかた)とともに小高いところに座したこの男は、中肉で色白く、髪を撥鬢奴(ばちびんやっこ=髪の毛を、耳の上を細く、後ほど広くし、三味線の撥のようなかたちにした髪型)に結い、うすい藍色のひとえのものに、緋ぢりめんのじゅばんを着て、口上さわやかに、囃子に合わせて屁をひりわけて聞かせた。
 その演技は、囃子に合わせて、最初が、めでたく三番叟(さんばそう)屁「トッパ、ヒョロヒョロ、ヒッヒッヒッ」と拍子よく、つぎが夜明け鶏の声を「ブブ、ブウーブウー」と、ひりわけ、そのあとが水車で、「ブウブウブウ」と、ひりながら、自分のからだで車返りというアクロバットを見せ、はしご屁、数珠(じゅず)屁はもちろんのこと、きぬた、すががきなどの歌舞伎の下座音楽から、犬の鳴き声、花火のひびき、長唄、端唄、メリヤス、伊勢音頭、一中節、半中節、豊後節、土佐節、文弥節、半太夫節、外記節、河東節、大薩摩、義太夫節など、あらゆる曲節を合奏したというから、その特技はすばらしいもので、絶大な人気を博したのも当然だった。

 安永の屁ひり男の文化的影響は相当なもので、当時の屁に関する文献のあちこちにあらわれている。もともと〈屁〉が狂歌や川柳や小咄の格好のネタになるような時代背景(空気)があったのである。それに、井本蛙楽斎の『薫響集』(1757年)に見られるように、巷の〈屁〉談義を奥義の理論へと祭り上げる風狂な時代精神も先行していたのであって、そこに待ってましたとばかり実見できる〈屁〉の芸が登場したのである。源内の手放しの「感動」は奥義通りの高度な放屁芸を見たことにあるのさ。(噂の燃屁を初めて見るのと同じような感動だね)

 見世物として成功したことの理由の一つは、福屁曲平の屁は臭わなかったのではないかと思われることである。興津はこんな名人も紹介している
 とんだ屁の名人が来て、ひりました。先(まず)一番に、十五畳敷きのひりづめ、それより立ち屁、中腰かけ屁、地道屁、かづ鞠屁、だんだんとひつて、鼻をふさいだ上で、今一曲と望む。今度は九ツばしごの曲屁なりとて、毛だらけになるしりをまくり、だんだんとひりのぼつて、九ツ目に足をかけると、びちびちびち。(安永二年夏序『出頬題』)

 この一節に興津は「まさに実のある大熱演だが、これには、見物客も興フンした」と評をつけている。こちらの名人は福屁曲平の両国デビューより前の人のようだが、どうも品がよろしくないね。これじゃ、小屋は異様な臭気に包まれてたさ。実を出したり、臭ってしまっては(ホンモノの)芸にはならないのである。福屁曲平の屁はフランスのジョゼフ・ピュジョールと同様に、肛門から空気を吸って腸にためてひり出すものであったと思われ、まあ、アコーディオンのように屁を操ったのであろうね。(この特異な技能は医学的に検証されている

 福屁曲平は大阪興行も行い、四年後に江戸に戻ってくる。このときは采女が原(銀座)で興行したが、なぜか客の入りは不入りだったという。「まさに、それは、屁のような人気だった」と興津は締めくくっている。〈屁〉談義がすぐ飽きられるように、曲屁も同じ運命。曲屁に限らず、消えていく芸はあるわけだが、社会現象となった江戸の屁ひり男が消えた後、〈屁〉は未だ散発芸としてしか伝承されておらんねー。

 この本を読むと、テレビなどない時代のリアルな娯楽の興亡が面白い。ひるがえって、テレビでは〈屁〉は全然リアルじゃないと思うけどね。


posted by 楢須音成 at 18:09| 大阪 ☀| Comment(4) | TrackBack(2) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
Posted by 屁こき小僧 at 2015年05月15日 09:18
肛門の中の筋肉をひっこめることで、空気が入ってきます。そしてそれを放出することで屁が出ます。
Posted by 屁の達人 at 2015年06月11日 17:05
こんな人に私はなりたい
Posted by 屁の達人 at 2015年07月01日 18:49
ぼくもできます。
肛門の中に空気をためて、一気に噴射すると気持ちがいいです。音成さんはできますか❓
Posted by あさちゃん at 2015年10月14日 17:18
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