しかし、よくよく聞けば(言葉にすれば)ヘヒリムシとは露骨な名前だねェ。〈屁〉とくれば、高尚な感興において一般には、口にするのもはばかられる(ハズである)が、屁ひり虫においては全く意に介するところがない。(もっとも、この語を採用するしないで人を選ぶけどね)
俺よりは遙か上手ぞ屁ひり蟲(おれよりははるかじょうずぞへひりむし) 一茶
屁ひり蟲は智なり蟷螂は勇也(へひりむしはちなりかまきりはゆうなり) 鳴雪
屁ひり蟲俗論黨をにくみけり(へひりむしぞくろんとうをにくみけり) 虚子
清少のすさびに漏れて放屁蟲(せいしょうのすさびにもれてへひりむし) 紫影
秋風に尻やぬけゝん屁ひり蟲(あきかぜにしりやぬけけんへひりむし) 太虚
蟲の屁のいつまで臭き我手哉(むしのへのいつまでくさきわがてかな) 田士英
一燈の秋を惜めば屁ひりむし(いっとうのあきをおしめばへひりむし) 燕郎
草の葉の蟲の屁よりや黄みけん(くさのはのむしのへよりやきばみけん) 瓦全
此蟲を屁ひり蟲とは申すなり(このむしをへひりむしとはもうすなり) 蘇子
以上は溝口白羊の『屁の喝破』に紹介してある俳句である。こうならべてみると、屁ひり虫の奇妙な存在感は思いのほかあるね。
といっても、万人にとって(見たことのない人は)屁ひり虫の詳しい実体は不明であって、「屁をする臭い虫がいるんだなー」という程度のものであろう。辞書を引くと「ゴミムシ・オサムシ・カメムシなど、特にミイデラゴミムシのように、捕えると悪臭・ガスを放つ昆虫の俗称。へっぴりむし。へこきむし」(広辞苑)とある。要するに臭い昆虫が存在しているのであるが、それが人間の屁と結びついた命名になり何やら滑稽なものを醸している。そこには(人間の)屁の属性をふまえて存在感を見ているわけだ。
そして、なぜか〈屁〉が虫に結びつくことによって発想が広がっていくのである。たかが虫一匹に情緒も政治もイジケもユーモアも虚無も…一切を封じ込めることが可能さ。〈屁〉の含蓄は兜(かぶと)に勝るのであり、そういう芸当はカブトムシではできません〜。
ここが〈屁〉の不思議。〈屁〉が結びついたのは悪臭の小さな虫であるが、虫に〈屁〉を封じ込めて(見えない〈屁〉を虫に仮託して)表現の幅を広げるのである。〈屁〉の視覚効果とでもいうべきか。虫を見て、虫以上の〈屁〉の展開(表現)を妄想するのである。虫は擬人化も可能だしねー。
もちろん、俳句や川柳には〈屁〉を直接詠んだものもある。
雛棚や隣りづからの屁のひびき(ひなだなやとなりづからのへのひびき) 一茶
馬の屁に吹きとばされし蛍かな(うまのへにふきとばされしほたるかな) 一茶
竹の屁を折節聞くや五月闇(たけのへをおりふしきくやさつきやみ) 其角
作者で判断すれば、このあたりが俳句。次は川柳。(音成にはどれがどちらやら区別がつかんのだが)
馬の屁にころりと落ちた玉椿(うまのへにころりとおちたたまつばき)
にぎり屁のように早わらび草をわけ(にぎりべのようにさわらびくさをわけ)
音も香も空へぬけてく田植の屁(おともかもそらへぬけてくたうえのへ)
屁のような月を息子は内で見る(へのようなつきをむすこはうちでみる)
屁ひり虫の句に比べると、〈屁〉の含蓄が薄れて(表現は)ストレートな感じ。これならいっそ〈屁〉を口にせず、次のような川柳の表現こそが数段面白いと思う。
こたつから猫もあきれて顔を出し(こたつからねこもあきれてかおをだし)
見えない〈屁〉を猫の所作だけで表現しているわけだね。
一言=つまりは、物言わぬ屁ひり虫の所作に、能弁な人間の〈屁〉が託されているのであ〜る。