2007年07月02日

〈屁〉における民族派と国際派

 我々の〈屁〉は恥を喚起するが、羞恥論において〈屁〉を扱ったものはまれである。また、屁の化学分析がどんなに究められても、それが世界に変化をもたらしている兆候はない。〈屁〉がどこまで我々の世界を規定しているかについては、あまり根拠が明らかにされているわけではないねー。

 それでも、屁そのものというより〈屁〉的なものの存在が我々を脅かしていることはないだろうか。


 アラノ星(PLANET ARANO)では屁は凶器となり得るものであった。というのも、屁に強力な殺傷力があったからであるが、このために屁は厳重に自己制御することが義務づけられていた。屁がもたらす殺傷は「臭殺」と呼ばれていた。

  ♀♂屁で人を殺(あや)めてはならぬ〜☆△

 このような屁の自己制御がアラノ星最大の道徳律となったのは当然である。アラノ星の聖者ヘリストが布教したヘリスト教においては、屁はすべての人が持つ原罪であった。なぜならば、屁をしない人はいないからである。

 アラノ星人は、自分の屁は自分に無害だった。そして、二親等までの血族に対して屁は忌避すべき臭気を伴ってはいるものの、人を死に至らしめるものではなかった。だからそこには、まだ笑いがあった。
 ところが、血族関係が希薄になるにつれ臭気は強烈に作用し始め、アカの他人に対しては殺傷力が出てくるのだった。それでも同じ民族の場合には、意図的・継続的に屁を嗅がせなければ死に至らしめること(事件)はそう滅多にあるものではなかったが、民族が違うと、屁の一発はほとんど即死状態を招く毒性を発揮した。

 このようなアラノ星においては、国際関係や夫婦関係の中の屁がデリケートな問題となって歴史を形成したのは当然である。なぜならば、屁を下手にすれば相手に死をもたらすからである。もちろん、自分も命を落とす恐れがあった。

 夫婦はほとんど国内結婚(嫁入婚)に限られたが、家族の中で嫁は屁に関して(自分の子供の屁をのぞいて)脅威にさらされ四面楚歌であった。また逆にその他の家族(子供をのぞく夫や義父母など)にとっては嫁の屁が脅威であった。

 家族や血族は複雑に絡み合う屁の脅威を孕んで形成されていた。というか、屁(の脅威)こそ血族や家族関係の核心(構造)であって、逆説的だがそれがなければ、家族や血族は活力のない死んだに等しいような集団であったに違いない。屁なしには哲学や文学や芸術は生まれなかった。

 生か死の二者択一に等しい異民族の屁は、国際結婚において極めて危険度が高く、絶無に近い特殊・特異なケースであった。そもそもアラノ星の国際社会は国家間の人の交流は最小限に制限されており、根底には屁をめぐる疑心暗鬼が悪夢のように存在していたのである。

 古代国家間における激烈な屁の闘争を経て、やがて宥和主義的な時代になっても、国際社会は屁がもたらす深刻な危機を懸念し、ほとんどの国が鎖国政策を実施してきた。アラノ星では近代科学における屁の処理が発達しても、国外に出るときは防衛ガスマスクは必携であり、外国人の入国に際しては臀部に特殊なガス吸収タンクの装着を強制した。国際関係は屁(の脅威)に対する個人的・国家的防衛が前提になっていたのである。

 このように世界の根底が屁によって規定されているアラノ星においては、最大の倫理問題は屁の人体からの駆逐の是非であった。科学の発達や平等主義は屁の駆逐(屁をしない人間の創出)を予見させ、進歩的な国際派が屁の放逐をめざせば、保守的な民族派が激しく抵抗する潮流が生まれた。

 民族派の抵抗する心には、屁を抹消するとアラノ星人ではなくなるのではないか、という根源的不安が湧き起こっていたのである。屁が存在しなくなるとは、宗教的にも問題で、「屁で人を殺めてはならぬ」という至高の道徳律が全くの空語(意味不明)になる世界を招来するのであった。屁がなくなったら、屁の原罪はどうなるのか。

 そこに天国を見るか地獄を見るかでアラノ星人は論争に明け暮れた。

 そんないま、民族派と国際派が争うヘッポン国は鎖国1000年の童貞夢から目覚めようとしていたのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 06:59| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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