2014年07月10日

息をするように〈屁〉をこくのは可能か

 多くの場合、我々は無意識的に活動している。例えば意図的に止めることができる呼吸なども意識しないからといって止まることはないし、心臓の拍動などは普通はどう念じても意識的に止めることはできないわけだ。歩くとか走るとかは意識的・意図的にやっているように見えるが、歩いたり走ったりする動きのメカニズムは意識せず自動化されている。

 それでは〈屁〉はどうか。つまり〈屁〉をこいたり〈屁〉について考えたりすることは意識的行為であるといえるか? まあ、これも歩くとか走るのと同じように意識的・意図的にやっていると見えるわけだが、一方で我々は〈屁〉について無意識的に振る舞っているね。

 一般に文芸の表現精神においては〈屁〉は意識的にも無意識的にも忌避されてしまう。もちろん表現の領域で〈屁〉は立派な主題であり題材であると主張することは不当ではないが、屁文学あるいは屁文芸を吹聴するといった権威はない。

 表現は意識的・意図的なものだが、そこには無意識的な振る舞いもある。さらには意識的・意図的であることを越えて受け取られる(影響を与える)ものがある。次は〈屁〉に着目(意識)した古川柳である。どう振る舞っているか。

◎賑やかさ道頓堀に屁が絶えず

 大阪・道頓堀の賑やかさを行き交う人々の放屁で詠み込んでいるわけだが、そもそも大阪といえども、当たり前のように〈屁〉をこきながら歩く人など(ほとんど)いないけどね。しかし、ここでは歩く人がみんな〈屁〉をこいているという奇矯な見立てをして、いかにもそれらしく、とぼけた笑いを生んでしまっている。 

 このときの〈屁〉は息弾ませる雑踏のお喋りのように往来でぶつぶつと絶えることがないのであり、半ば無意識に発散されているわけである。あり得ない情景ながら、省察すれば我々にとっての〈屁〉の理想とはそういうこと(とらわれずに恬淡と〈屁〉をこくこと)ではないかと思わないか。それゆえ我々はある種やすらぎの笑いをすらこの古川柳に覚える──のではないか。

 このとき〈屁〉は厚かましくも息のように、いわば息(呼吸)をするように振る舞うことを理想として新たな相貌を得ようとしているともいえるね。しかし──

「息」=普通は意識しない自律(勝手に生じる)運動だが意識すれば制御することができる
〈屁〉=普通は意識する自律(勝手に生じる)運動だが意識しても制御できないことがある

 息と〈屁〉を比較すれば、このような違いを観察できる。まあ〈屁〉は自律運動とはいっても不連続な発生と放出であり、 呼吸のように規則的なものではないのである。存在しなくともぜんぜん困らないが、存在すると制御しにくく始末に困るのが〈屁〉なのだ。

 呼吸が制御系の生理現象であるのに対して〈屁〉は非制御系である。このときの制御系とは明確な身体機能(目的を持つ制御)の系統であり、心身のバランスをとるために組み込み込まれている。一方の〈屁〉は明確な身体機能とは言い難く、心身の不規則なアンバランスを伴う生理として非制御的な系統になっている。このことによって〈屁〉は息とは本質的に別物とはっきり区別されるわけである。それでも──

◎めでたうと門過ぐる子の放屁こそ
         年の初めのおとし玉かも


 息でないとすれば〈屁〉は言葉のようにはなり得るだろうか。この狂歌のように〈屁〉を新年の挨拶言葉と見立てながら、子供からの連想でおとし玉と屁玉を結びつけ、洒落ている。いかにもありそうな門前の微笑ましい情景ながら、子供の無邪気さにかこつけて〈屁〉のイメージアップをたくらんでいるね。

「言葉」=普通は意識的に発して相手に意図や考えを伝える音声のまとまり(無臭である)
〈屁〉=普通は意識的に隠して相手に気づかれないよう振る舞う異音の放散(異臭がする)

 そもそも〈屁〉がめでたい挨拶になるなどあり得ない話ではあるが、もし〈屁〉が何かの意義深い合図(信号)のように指定されるなら、存在意義は格段にアップする。そういうことが人情の希求としてはあってもよいではないか──つまりは〈屁〉の言葉への接近である。しかしまあ、それはおふざけか嫌味か可笑し味の世界になってしまう。ならば──

◎燕(つばくろ)のあたまへひゞく二階の屁

 ひたすら〈屁〉に無頓着を決め込むのはどうか。軒下にあるツバメの巣の頭上で〈屁〉の響きがとどろいたのだろう。二階の住人の〈屁〉への無頓着ぶりが笑えるが、このときの〈屁〉は、はた迷惑な大音量のステレオサウンドと同じだね。我々の〈屁〉が息でもなく言葉にもなりえないとすれば、それは数多ある「騒音」の一つへと紛れ込もうとするのである。

「騒音」=意識的・無意識的に人間自身が発し、かつまた人間界を覆い尽くしている人工的な生活音
〈屁〉=意識的・無意識的に人間自身が発し、意味もなく人間界に跋扈して自他を仰天させる身体音

 しかし、ツバメにはそれが騒音でも人間には〈屁〉であるという現実はつきまとう。ツバメは驚いたかもしれないが、とどろきが〈屁〉であることには(屁とも思わず)無関心。それは平気でとどろかす二階の住人も同じだが、この情景を見た(聞いた)人には、仰天の〈屁〉の音響に可笑し味が漂う。

 以上のように〈屁〉を「息」「言葉」「騒音」というように、そもそもの〈屁〉の属性を無化し(別のものに見立て)てしまうという表現志向は、いわば〈屁〉というものの否定性を越える理想郷を求めているのだ。しかしながら〈屁〉の強固な存在感は残るので、いずれも可笑し味から逃れることはできない情景になっているね。

 このときの笑いは底抜けに笑うより(屁が何にもなり得ないという)諦念まじりになってしまう。つまり表現の意図としては最初から、なり得ないもになろうとして挫折する笑いを狙っているのだが、人間の表現精神は決して〈屁〉を笑いものにしようとしているのではないだろう。そこで──

◎馬が屁をひり乍(なが)らゆく春野かな

 馬に仮託されてるとはいえ〈屁〉はのびやかな春の風景の主題にまでにじり寄る題材となっている。こうなるとただ単に笑いを狙ったとも言い難いレベルである。ここには、ことさら意識して無理やり〈屁〉の否定性を越えようとする姿勢はないようだ。自然体に近いね。

◎おと(音)もか(香)も空へぬけてく田植の屁

 馬ではなく人間の〈屁〉になると音も香も生々しく(人の振る舞いとして身近に)なるわけだが、ここでは広々とした田園風景の中で空に向かって解き放たれている。その運動感と解放感によって〈屁〉の生々しさは無化され、これも自然体に近い感懐を抱く。まあ、風流かどうかは微妙だけどね。

◎風流の初(はじめ)やおくの田植うた(芭蕉)

 奥州路で田植歌に心動いた芭蕉の句だが、音成には田植歌も〈屁〉も表現精神からはほとんど等価に見えてくるんだけどねえ。(芭蕉と〈屁〉の関係は明らかではない〜)

 さて、以上のように見てくると表現の領域で我々は、意識的にも無意識的にも〈屁〉の呪縛から逃れようと呻吟していると言わざるを得ない。我々が〈屁〉にさいなまれるのは〈屁〉の否定性(その異音異臭が及ぼす影響)ゆえである。

 繰り返せば、我々の〈屁〉とは、普通は意識してしまう自律(勝手に生じる)運動だが意識しても制御できないことがあるのであり、意識的に隠して相手に気づかれないよう振る舞う異音異臭の放散が、意味もなく人間界に跋扈して自他を仰天させる身体音として存在している。

 それを文芸の題材にするには、恥や嫌悪のあからさまな笑い(哄笑、苦笑、微笑、嘲笑、憐憫、談笑、失笑、冷笑、歓笑、ユーモア……)を意図したり覚悟したりしなければならないわけだが、さりげなく〈屁〉を息や言葉や騒音に見立てたり、表現の(無垢な)題材に見立てようと試みても、どうにも意図や覚悟に足を取られてしまう困難な道なのである。

 そこで意識しようがしまいが自他のどこかで笑いが現象してしまうのは見てきたとおりだが、かくも〈屁〉に対する自他の根深い偏見(意図や覚悟)は抑制しがたく抜きがたい。自分だけ一方通行に悟っても〈屁〉は他人を巻き込んで現象するし、こうなったら唯我独尊の悟りはやめてしまおう。


posted by 楢須音成 at 11:40| 大阪 ☔| Comment(6) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「言葉」=普通は意識的に発して相手に意図や考えを伝える音声のまとまり(無臭である)
〈屁〉=普通は意識的に隠して相手に気づかれないよう振る舞う異音の放散(異臭がする)
とありますが、屁の達人になると、空気を肛門からすいこみ、それを放出することで、屁としているので、くさくもないし、いつでもすきなときにできます。
Posted by 屁の達人 at 2015年07月22日 13:17
まさしく達人の〈屁〉とはそのようなものだと思います。そして〈屁〉の芸人とはそれを芸域まで高めた人だと思います。そういう〈屁〉は一般の〈屁〉とは区別され、歴史的にもまれなる存在として音成は尊敬します。
Posted by 楢須音成 at 2015年07月23日 17:34
https://www.youtube.com/watch?v=lOgSlbTEYgg
この動画は私なのですが、どうでしょうか?
Posted by 屁の達人 at 2015年07月24日 20:38
追伸:

楢須音成さんは、自在に屁をこくことができますか?

このブログ、いつも見てます。
Posted by 屁の達人 at 2015年07月24日 20:39
動画拝見しました。いいですね。荒削りのままではもったいない。芸の真髄を極めるまで大いに可能性を秘めていると思います。さらに精進を重ねられんことを。芸となると、単なる〈屁〉の巧拙だけでなく、その演技や技能の巧拙が問われます。洋の東西の〈屁〉の芸人たちの中ではビジネスが成立した人が名を残していますが、現代の挑戦ではどうでしょうか。なお、私は屁の達人ではないです。
Posted by 楢須音成 at 2015年07月26日 10:16
とても詳しい回答ありがとうございます。
わかりました。がんばります。
Posted by 屁の達人 at 2015年07月29日 09:01
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