2006年11月05日

歴史観で〈屁〉を語るのは難しいもんだ

 階級闘争の史観で〈屁〉を語るとどうなるか。「おならの歴史」(1952年初出)というエッセイが『百姓一揆の伝統』(林基著、1955年、新評論社刊)に収められている。残念なことに、賛同しかねる論が展開している。短い一編だが〈屁〉についての論議の一つとして取り上げてみよう。

「封建時代の農村の女性、ことに嫁はおならもうっかり出来ないのであった。
 大分県直入郡の昔話にこういうのがある。
 あるところに嫁が来た。姑がつれて村歩きをしていたところが、ある家が嫁さんがおじぎをした時に、ついおならをしてしまった。その家の人が、『おへまでちょうだいしてありがとうございます』といった。庄屋かなにかの意地の悪いかみさんだったのだろう。それで嫁は村歩きがすんで帰るとすぐ首をくくって死んでしまった。
 それで大騒動になって、意地の悪いことをいった人もとうとう首をくくらざるをえなくなったというのである。
 今でも低賃金と職制の圧迫で工場でぎゅうぎゅういわされている労働者は、そのうっぷんをパチンコや焼酎ではらし、その尻ぬぐいは全部女房におっかぶせることが多いのだが、封建時代でも女房というものに社会のあらゆる矛盾がしわよせされたのであった。おならも出来ないというのは、このような女房のありさまの一ばんよく出ている話であったのだ。
 今日の労働者たちがいたるところでこのようなありさまとたたかっているように、封建時代の農民の女房たちも、もちろんよくたたかったのである。この昔話もそういう闘争の中から生まれたのである。
 他人の女房のまちがいを意地悪くとがめるようなものは後が悪いぞというのである。こういう話を寝物語に子供たちにきかせていた女房たちの気持が思いやられるではないか」

 前にこれに類する話を紹介したけれど(「結婚式に〈屁〉はあるまじきは何でだろ〜ヵ」参照)、もちろん音成は林が紹介しているこの民話に、このような解釈はとらない。林は階級闘争の図式(解釈)の上に立って封建時代の「嫁」の関係性を論じており、そこでは生々しい現象である〈屁〉の音やニオイはどこかに吹き飛んでしまっている。というか、林は話を単純化して、闘争の中から生まれた教訓話にしてしまっているわけさ。おいおい、それじゃ「嫁」が浮かばれませんよ。

 そもそも「階級」とか「闘争」とかは近代的な概念であり、何の手続きや留保もなしに、これを使って雑駁な図式で歴史や社会現象を解釈しようとするのは皮相に過ぎるんじゃないか。

 このエッセイの一番の欠陥は「なぜ自殺したのか」という嫁の心に到達しようとしていないことだね。音成の立場で、そういうスタンスが端的に表れていると思うのは、エッセイのどこにも「恥」という言葉が全く登場してこない(もちろん引用の記述の中にもない)ことだよ。「恥」がすべてではないものの、大事な分析の視点を見失っているのである。(林の分析の視点は「闘争」一辺倒だね)

 階級闘争を持ち出すのならば、封建時代の「嫁」の闘争を掘り下げて語ってほしいものである。その上で〈屁〉ならばそこに、あらゆる人間関係を縦断し横断する入り組んだ「恥」の闘争を見据えて欲しいもんさ。〈屁〉は複雑な様相を呈するはずである。(音成は「闘争」の代わりに「恥」と「世間体」という視点を使った)

 林は現代の(1950年代の)労働者の女房と封建時代の「嫁」を同列に見なしている。というか、闘う労働者の夫婦像や女房の方に封建時代の「嫁」を手繰り寄せ、強引な論法(飛躍と附会)で話を進めている。その論理をたどってみる。

 (50年代の)労働者はパチンコや焼酎でうっぷんをはらし、その尻ぬぐいを全部女房におっかぶせてることが多い(そうだろうか? そういう奴もいたかもしれないけどね)→このように労働者の女房には社会のあらゆる矛盾がしわ寄せされている(そうだろうか? 尻ぬぐいの迷惑は大半は夫の問題じゃないのか)→それは封建時代も同じである(そうだろうか? 矛盾のしわ寄せとは、どこを比べて同定しているのだろうか)→おならも出来ないのは、矛盾をしわ寄せされた女房の立場をよく物語っている(そうだろうか?〈屁〉をして自殺するのは将軍の女房にもあるんじゃないか)→現代の労働者がよく闘っているように封建時代の女房もよく闘った(そうだろうか? 「よく闘う」「よく闘った」を「よく頑張っている」「よく頑張った」と読み替えれば、心情レベルの話としては意味の通りがいいけどね)→そういう闘いの中からこの話は生まれた(そうだろうか? 嫁の「闘争」または「頑張り」の中からこの話が生まれたにしては落としどころがなさ過ぎないか)→この話は他人の女房の間違いをとがめるのは後が悪いぞと言っている(そうだろうか? この話は単に間違いをとがめる愚を諭す教訓話か)→こんな話を寝物語に子供たちに聞かせていた女房たちの気持が思いやられる(まあ、これは同じ立場の女房には確かにやりきれない話ではあるね)

 ともあれ、全体はまるで「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論法である。これをすんなり受け入れるのはかなり偏頗な正義の階級闘争史観を持っている人だけではあるまいか。
 林は〈屁〉が自由にできないのは階級的に虐げられた底辺にいるからだと考えて、こんな論を起こしたのだが、〈屁〉が自由にできないのは本質的に階級に関係ないさ。

 さて、このエッセイではもう一つ「屁ひり嫁」という民話を紹介している。こんな話である。
 ──嫁の顔色が悪く元気がないのでどうしたのか聞くと、屁を我慢しているのだという。遠慮はいらないと言うと嫁は喜んでこいたのだが、姑をうまやの天井に吹き上げてしまった。亭主はこれはかなわんと離縁してしまうことにした。嫁が実家に帰る途中に、川で米俵を積んだ船がつかえていた。嫁が屁で動かしてみせると言うと、それができたら米俵を全部やると言われる。嫁は屁で船を動かして米俵をもらう。嫁はこの米俵を持って亭主のところに戻り、復縁を頼むと姑も亭主もこれは重宝な嫁だと、また家に入れた──

 林の解説はこうである。

「この話になると、もうおならぐらいなんだ、働きのある女房ならけっこうじゃないかというような気持がはっきりと出ている。
『上州名物、かかあ天下に空っ風』というような女房の発言権が封建時代の終りに近づくにつれて強くなったのは、こういうたたかいの成果であったのである。今日の労働者も昔の女房に負けないかどうかを、はっきりと示すのは、今後の大闘争をどうたたかいぬくかにかかっている」

 冗談ではなく本気で言っているところが、エッセイを書いた当時(50年前)はともかく今になってみると可笑しいね。「屁ひり嫁」とは「闘争」の話ではあるまいに。林は民話の中に「〈屁〉で自殺=女々しい」と「〈屁〉で闘う=雄々しい」と対比させ、そこに歴史の進化を見て、負けずに闘えば成果があると、闘争史観によって労働者に向かってアジテーションしているわけである。民話を語るに政治的にして皮相な解釈と議論だね。

 しかしながら、真面目に言うが〈屁〉における階級性の分析は、ちゃんと取り組めば案外面白いテーマではないかしらん〜。(笑)


posted by 楢須音成 at 12:19| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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