2011年07月27日

なぜか〈屁〉とは言いたくない

 恥ずかしい行為はあまり口にしたくない。それを言葉にして発声することは、恥ずかしさに直結しているのである。もちろん〈屁〉もそうだ。かりに〈屁〉はこいていなくとも、他人様の前では単に「屁」と発声することすら憚られる。恥ずかしい単語なのだ。

 まだしも「おなら」という方が恥ずかしさは緩和されるかな。上品で教養もあるような人が〈屁〉などと口にすると野卑に感じるが、「おなら」なら許せるかもしれない。「おなら」というと、まるで〈屁〉が他人事のように勝手に鳴っている感じがする(よね?)。行為の連想から少しは遠ざかるわけだ。まあ、女性は〈屁〉とはあまり発声しないようだしねェ。こうした背景には羞恥心の微妙な動きがある。

 フランスの小話を一つ。
 パリへ女中に行っていた娘が三人、田舎に帰ってきて、やがてざんげしなければならなくなったが、タクシーの運ちゃんやバーのボーイや肉屋の御用聞きなんかといたずらをしたことは云いずらい。そこで、なんとかうまくごまかす方法はあるまいかと考えて、「トラッタッタをした」といおうときめた。
 牧師は何のことやら分からなかったが、パリの新語だろうと思って、二人目までは聞き流しておいた。が、三人目も同じことをいうので、これはくさいと勘づき、嵩にかかっておどかしてみると、簡単に白状してしまった。そこで、三人は改めてざんげ所に呼び込まれ、さんざん油をしぼられた。
 三人の娘はほうほうのていで教会から逃げ出したが、百メートルばかり来ると、知り合いのマルチーヌ婆さんに出会った。
「お婆さん、どこへ行くの」
「教会さ行くんだよ。どういうもんだか、このごろ屁ばっかりでてね、やりきれないんだよ、もしかしたら悪魔がとっついてるのかもしれねえので、牧師さんに相談ぶつべえと思うだよ。だけど、屁が出て仕様がねえともいいにくいでのう、思案してんのさ。なにかうめえ文句はあんめえかねえ」
 娘たちは顔を見合わせて、
「それじゃ、トラッタッタをするといいなさいよ、いまパリじゃ、そういってるんだから」
「そうかね、そりゃありがてえ。トラッタッタだね」
 婆さんは教会へいって、そのとおりにいった。牧師はびっくりして、
「いやはや、お婆さん、お前の年になっても、まだそんなことをするのかね! あきれたものだ!」
 婆さんは真顔で答えた。
「でも、仕方がねえですよ、牧師さん。おしりばかりはなかなか云うことをききませんでのう!」
(田辺貞之助『ふらんす風流さんげろく』1957年)

 娘たちが都会の男と(セクシャルな行為して)遊んだことをごまかすために「トラッタッタ」という意味不明の言葉を作り出して使い、それを〈屁〉にも流用させたのである。

 人間の〈性〉や〈屁〉は恥ずかしくて(ときには罪なものとして)隠蔽されようとするのだが、この話は〈屁〉的な観点からいうと、人間のそういう心的運動の何とも象徴的で対比的な展開になっているんだよねえ。ここで対比されているのは次のようなことなのだ。

娘たちの性的放縦への罪悪感→(あるかに見えて)実際は罪悪感なし
婆さんの屁的放縦への罪悪感→(あるかに見えて)確かに罪悪感あり

 つまりは〈性〉と〈屁〉の対照的な関係が展開されているのである(関連参照)。キリスト教の文化的背景から、ここは羞恥心というよりは罪悪感が表に出ているのであるが、一般に懺悔所などない日本においては、文化的には表層に羞恥心が出てくるだろう。(人間の心的運動では羞恥心と罪悪感はともに行動抑止の振る舞いを主導する)

 ここでは行動抑止(自己規制)という観点から、羞恥心も罪悪感も同じ(ようなもの)として扱うことにする。そこで娘たちも婆さんも教会の存在が倫理基準となって陰に陽に自己規制しているわけだが、両者は自らの行為の罪悪感(≒羞恥心)によって告白を強いられているね。

 しかし〈性〉と〈屁〉ではその心的な背景が違っていると考えられるのだ。結論をいえばこうなる。

〈性〉=肯定性の罪(≒恥)
〈屁〉=否定性の罪(≒恥)

 もともと〈性〉というものは動物の機能として生殖から喚起されているもので、原初的な否定性はないうえに、相手との身体的な「快」をもたらす究極の相互性を持つ現象である。ただ、観念妄想(つまり人間の文化現象)によって「快」が暴走して「快楽」へと突入しているため規制が必要になっている。例えばここでは教会がある。娘たちは教会を意識したとたんに罪を強いられるのである。

 一方の〈屁〉は動物の機能としてはほとんど無意味に属するもので、原初的な肯定性(根拠)は曖昧だし、ただただ相手への異音異臭の「不快」をもたらす最悪の相互性を持つ現象である。もちろん、他者への異音異臭のバラまきは観念妄想をふくらまして相互の「不快」が暴走する。根拠なき〈屁〉は忌むべき存在である。制御できない〈屁〉は悪魔の所業(悪魔が取り憑いた)とでもいうほかないのである。

 恥ずかしい行為(を示す言葉)を口にしたくない人間の習性から娘たちや婆さんの意味不明な「トラッタッタ」は生まれた。しかし、このように〈性〉と〈屁〉の心的背景の構図には違いがある。どちらも直接的な行為を示唆する言葉を避けようとするのは、深層はともかく表層の罪悪感や羞恥心を隠蔽するためだが、言い換えによって生まれる心的な状態は次のようになっているだろう。

娘たちのトラッタッタ=もともと肯定性があるので解放感が生まれる→〈性〉の擬似的自由を取得
婆さんのトラッタッタ=もともと否定性があるので遮断感が生まれる→〈屁〉からの擬似的隔絶を取得

 この話では〈性〉と〈屁〉が入れ替わる喜劇になってしまっているわけだが、牧師は娘たちの(にやけた下心の)トラッタッタのつもりで婆さんのトラッタッタをあきれて聞いている。実際には、婆さんのトラッタッタは〈屁〉から顔を背けたい一心の呪文なのである。婆さんの言訳は深刻だ。「でも、仕方がねえですよ、牧師さん。おしりばかりはなかなか云うことをききませんでのう!」という言葉は能天気に言っているわけではなく、真摯に止まらぬ〈屁〉を懺悔しているに違いないのである。

 ──つまりは〈屁〉の方が存在論的に罪深い現象なのであ〜る。


ラベル: 羞恥心 罪悪感
posted by 楢須音成 at 00:14| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。