2006年07月29日

妻のオナラに含羞と含蓄をこめて

 久しぶりに書店をのぞいたら『妻のオナラ』(三浦朱門著、2006年、サンガ新書)という本が目に入った。これは一応、見分せねばなるまいと手に取った。副題に「夫婦のための幸福論」とあり、内容は〈屁〉を通じた洞察をもって老年を迎えた夫婦の関係を論じたものであった。

 そこに〈屁〉はどう登場するのか。
 最初に「はじめの寓話」として紹介している夫婦に〈屁〉が登場するのさ。話に登場する夫は毎朝、目覚まし代わりに妻の放屁で目を覚ますのである。そういう夫婦の〈屁〉にまつわる馴れ初めから「(旅の宿でバイクの空ぶかしで目が覚めて妻の放屁を懐かしみ)あの音を来世でも聞くことになるのか」と達観するまでの「深い関係」について語っている。

 〈屁〉が登場するのはそこまでで、あとは〈屁〉が通奏低音のように響いてはいるものの、〈屁〉の議論があるわけではない。それにしても、「妻のオナラ」とは直截な書名であるね。音成的にはいい書名と思うが、一般的には〈屁〉をここまで(書名に)出すもんか? 「妻のクセ」「妻のイビキ」「妻のネゴト」「妻のハギシリ」でもなく、「妻の特技」「妻の荒技」「妻の出番」でもなく、「妻のオナラ」なのである。

 ここでは〈屁〉が夫婦の絆の媒介物として扱われているわけさ。その扱われ方が象徴的であるとともに、具体的に〈屁〉なんだね。「はじめの寓話」での〈屁〉とはこんな具合である。(新刊本のネタバレごめんなさい)

 @婚約前に彼女の奇妙な振る舞いに戸惑いを覚えた。(デートのときに、具合が悪そうにちょっと休みたいというので、慌てて休む場所を探してきて案内すると、もう平気なのでもっと雰囲気のいいところに行きたいと元気を取り戻していた)
 A新婚旅行中に思い出して問いただすと、妻は恥ずかしそうにオナラがしたかったのだと告白した。
 B結婚して半年後、ある日の夕食後、食器を持ち上げようとした妻が屁をしてしまった。彼女は台所に駆け込んだかと思うと、夫に早くこちらに来いと呼ぶ。何だと思って行くと、ニオイをかがれるのが嫌なのだと言う。夫はそれは俺にとって香水みたいなものだと妻を気遣った。
 Cそのうち妻には毎朝目が覚めると屁をする習性があることを知った。妻は朝のトイレでそれをやっていた。
 Dやがて妻は目覚めとともに轟音を発するようになった。夫が轟音で目を覚まし身動きすると、妻は平然と「お目覚めになった? そろそろ起こさなければ、と思っていたの」と言うのであった。
 E旅の宿でバイクの音に目覚めたとき、妻のそのオナラを懐かしく感じた。

「つまりこの本は、そのようになった夫婦、もはや異性としての相手への興味はなくなったものの、別の絆で深い関係を結ぶようになった男女の間が、どのようになるのか、またどのようになったほうが、楽になるかを書こうと思っている」と三浦は述べている。

 この夫婦の〈屁〉のエピソードは多角的な分析の視点を内包している(と思う)が、〈屁〉の羞恥や夫婦の秩序(関係)は変遷していくものだということを具体的にわかりやすく物語っているわけである。

 もっとも、@からEに至る夫婦の姿はこれだけでは一面的である。まったく男の視点だし、夫は妻の前で屁をしなかったのかとか、子供たちはどうだったんだとか、〈屁〉をめぐる家庭環境にチェックをいれたくなるね。(それでも〈屁〉をもって夫婦論を展開しようとした意図は素晴らしいといわねばならん〜)

 この本は夫婦間の〈屁〉の変遷(臭い仲)を前振りとして、老年を迎える夫婦のあり方を多岐に論じる。その根底には〈屁〉のエピソードでうかがえるように、男女の性的な関係が色濃く影を落としている。〈屁〉が媒介する関係にはそういう含羞と含蓄があるということだけれど、それは〈屁〉が人間の前で多様に立ち現れてくる一つの道筋なのさ。

 まあ、そう力んでみたところで、〈屁〉を掘り下げていっても夫婦論にはならず、夫婦論を掘り下げていっても〈屁〉論にはならんだろうねー。


posted by 楢須音成 at 15:00| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。