2011年07月17日

屁糞という虚実の間

 室町末期の武将、太田道灌(1432-1486)の「山吹の里」のエピソードは有名だ。鷹狩りに出かけた道灌がにわか雨に遭い、農家に駆け込む。蓑(みの)を借りたいと申し出ると、幼い少女が「七重八重花は咲けども山吹のみ(実)のひとつだになきぞかなしき」と古歌を詠んで山吹の花の小枝を差し出したというのである。道灌は何のことだかわからない。結局、蓑は借りることができなかったわけだが、歌の意味をあとで知った道灌は、自分の教養のなさを深く恥じて歌道に精進したという。晩年には主家の抗争に巻き込まれて暗殺されたといわれている。

 この話がネタになって格好の屁話になっているのである。次の「似屁(にへ)物語」もそんな話の一つ。読みやすく句読点を付けて引用する。
昔(むか)し太田道灌となん云へる豪穴(ごうけつ)はすぐれて屁道を熟(じゅく)されけるが、一日(あるひ)の事(こと)狩に出(いで)られ腹のすきたる儘(まま)弁当をシコ玉(たま)食(くら)へ込(こま)れしゆゑ、腹はりて大便頻(しきり)に萌(きざ)し来(きた)れど、然(さら)ばとて野雪隠(のせっちん)とやらんも如何(いかが)なり。然(しか)るべき厠(かわや)は無きかと尋ね廻られけるとき、山の麓に細小(ささやか)なる白屋(くさや)ありければ、道灌は打よろこび尻をモヂモヂとして飛入り給ひ「俄(にわか)に用事にて難儀いたす。厠あらば借(か)し候へ」と音信(おとづれ)しかば、内より美しき少女(おとめ)立出でつ。「見そなはす如き見苦しき場所なれど厭(いと)ひ給はざれば沢山(したたか)垂(たれ)させたまへ」と応答(いらへ)しにぞ「得たりや応」と厠の中へ飛び込(こま)れ矢庭(やにわ)に尻をまくりてウンと気張れど、如何(いか)がなしけん大便は少しも出ず、大なる屁の七ツ八ツも放(はな)たれける。今や為方(せんかた)なしと衣(ころも)を下(おろ)して立(たち)たまふを、少女は何おもひけん、籬(まがき)に咲ける山吹の花一枝おり取(とり)て道灌の前へ捧げしかば、道灌は不思議におもひ「如何なる心にや」と問はざれければ、少女は恥かし気(げ)に、
  七屁八屁鼻にうげども山吹の
         実の一ツだに出ぬぞおかしき
と答へたるに道灌は赤面して恥入り「我身(わがみ)屁道のみを知つて歌道を知らざるが故に斯(かか)る辱(はずか)しめを得たり」と、其後(そのご)は只管(ひたすら)に敷島(しきしま)の道のみに心をよせ名歌あまさ詠み出でられぬ。後に到りて主人上杉氏の為に忌(いま)れ浴室(ゆや)にて毒屁あまた放掛(ひりかけ)られて殺されんとなしけるとき、少しも驚かず、
  斯(かか)る時さこそお屁(なら)のくさからめ
         かねて鳴る屁とおもひ知らずば
これを一生の最後屁として敢(あえ)なく屁をすぼめけるとなん。
(痩々亭骨皮道人編『楽み草誌』1889年)

 もとのエピソードと同じ趣向なのは、歌を突きつけられ歌道を知らないのを痛感してしまい、その後は発奮して歌道に精進したというところである。道灌が突きつけられる歌は後拾遺集にある「七重八重花は咲けども〜」の歌だが、「山吹のみのひとつだに」の解釈(もじり)がポイント。

 屁話の「似屁物語」では、もじり(山吹の実→黄色の糞)がなかなか強力なパターンになっている。虚実という言葉があるが、〈屁〉が虚ならば「糞」は実。ここには「屁糞」の現実を見据えた「虚実」の認識があるわけだ。

 前にも紹介したが、「屁糞」の「虚実」をパターンにしたこの歌のパロディには、すでに四方赤良(大田南畝)による狂歌があった(参照)。「実」を「糞」としている点は同じである。そもそも赤良がヒントになっている「似屁物語」である。では、本歌と「屁糞」の歌を比べてみよう。

(本歌)七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞかなしき(中務卿兼明親王)

(1)七へ八へ屁をこき井出の山吹のみのひとつだに出ぬぞよきけれ(四方赤良)

(2)七屁八屁鼻にうげども山吹の実の一ツだに出ぬぞおかしき(似屁物語)

 まあ、昔から「七重八重」つまり「ななえ(へ)やえ(へ)」が〈屁〉を連想させたのは間違いない。本歌は言葉の意味通りに「たくさん重なって」という情景だが、(1)や(2)では〈屁〉が前面に出た〈屁〉の歌になってしまう。ただし(1)と(2)では若干情景が違うね。

(1)たくさん〈屁〉をこいても「糞」が出ないのはめでたいなぁ→糞は出てほしくないから

(2)たくさん〈屁〉が出て鼻をうがつが「糞」が出てこないのは可笑しいなぁ→糞が出てほしいのに

 同じパターンでもちゃんとヒネリがあって中身が違うわけだ。二番煎じにはなっていない。さらに「似屁物語」はもとのエピソードのパロディによって道灌の暗殺までを〈屁〉で締めくくるという趣向になっている。道灌は一生の最後屁の辞世で「このような時こんなにも屁は臭かったのか。前からいつも鳴っていた(主君の)屁がこんなとは思いもしなかったよ」と嘆じている。

 さて、先の(1)と(2)が歌い込んだ「屁糞」の「虚実」であるが、〈屁〉を虚とし「糞」を実とするのは一般的に受け入れられるものだろう。見えない実体なき〈屁〉が虚であるのは仕方がないね。しかし、(1)にしても(2)にしてもただの虚ではないところが〈屁〉の〈屁〉たるゆえんだ。〈屁〉の虚とは、まあいかにも思わせぶりな虚なのであるね。

 虚(A)=糞かなと思わせて(糞でなく)屁
 虚(B)=屁かなと思わせて(屁でなく)糞

 今回は〈屁〉が主役になる虚(A)が該当する。出てきたのが〈屁〉であるのが虚(A)だね。この虚(A)で「糞」を望まず〈屁〉を望んだのが(1)であり、「糞」を望んだのが(2)である。出てきたのが〈屁〉である虚(A)の世界は、あまり実害がないのが特徴になっている。ブウブウと〈屁〉が鳴っても世界はそんなに変わるものではないからね。

 しかし、虚(B)になると多分に実害が生じるケースが多いはずだ。放置すればよい〈屁〉と思って糞が出ては処置に困る。『今物語』に〈屁〉と思って糞を粗相する法師の話があったよね(参照)。

 幸いなことに我々は事前に〈屁〉が出るのか「糞」が出るのかを概ね察知することができるので、虚(A)や虚(B)の状況になることはあまりない。それだけに、いきなり制御不能の〈屁〉の虚(A)や虚(B)になると心的動揺(あるいは感動)は大きいものとなる。他人からみれば、それは滑稽であるし、可笑し味を喚起する状況である。

 ──狂歌や屁話(つまり芸術のようなもの?)が虚実の間に成立するとは、まるでそこなんだねェ。


ラベル: 山吹
posted by 楢須音成 at 01:58| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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