2006年06月24日

〈屁〉の五段階論が人間を語る〜

 漢籍などの語句の音韻や字義を解説したのが「音義」であるが、『放屁音義』という文書が発見されている。伴林光平が『楢の落葉物語』(1851年)の関係資料として付け加えたもので、物語の主人公の仏雛上人(ぶっすうしょうにん)または登場人物の儒学者、菅辺足人(すがべのたると)の作であろうとしている。(もちろん、そういう来歴からして戯作なんだけどね)

 『放屁音義』とは屁音と字義の考察である。〈屁〉談義の議論をもって〈屁〉が人間界に根拠を持つゆえんを解き明かそうとしているわけさ。
 〈屁〉を採り上げた音義は「和名(わみょう)類聚抄」(931〜938年)「和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)」(1712年)「善庵随筆(ぜんあんずいひつ)」(1850年)などにも見られるが、これらは戯作ってわけではない。(江戸の儒学者・漢学者、朝川善庵による『善庵随筆』の記述は伴林に刺激・影響を与えているかもしれない。転矢気=屁を考察している)

 『放屁音義』の戯作ぶりを見てみよう。わざとらしく一部虫食いありの漢文で書かれていて、なかなかの傑作である。概訳を試みる。(浅学にて解らんところは“超訳”で...笑)


 ──大体において物事は穏やかならざれば音を発するのである。草木に声はないが風が乱せば鳴る。水に声はないが風が動かせば鳴る。岩鉱石に声はないが強く叩けば鳴る。人体の五つの穴においても同じである。嘔吐、咳き込み、耳鳴り、くしゃみの類も(穏やかならざるために)止めることができずに鳴るのである。その急な切迫した状態にさらされたり、その烈しさを必死におしとどめたり、そのあまりの数の多さに虚脱することもある。

 放屁は体内にこもったものを外に排出するのである。放屁の原因になるものを食べればよく鳴らすことになる。甘い果物や菓子餅、辛いものや酒肉の仲間はよく鳴らすものである。食べ過ぎれば夕べに鳴らし、飲み過ぎれば朝に鳴る。その(音の)大小、高低、遅速、緩急というものは、必ずや穏やかならざることが原因となっているのである。

 《虫食いあり》放屁は転失気(てんしき)とも言い、俗にオナラとも言う。これは「御鳴る」の意味であろう。放は放散転失の意味である。放屁は胸のあたりを塞いでいる汚毒を転失し、胃のあたりに鬱結している臭気を放散する。かくして心のよどんだものが去り、体は安らかになって、穏やかさを取り戻すのである──


 さて、ここから独自の「音義」が展開される。


 ──屁は比(ひ・び)である。大人はその音が宏大であり、子供はその音が微小である。字の形は「比」が「尸」に従う姿になっている。字体も発音も同じ意味を示しているのである。屁の音は五つある。一つは「文(ぶん)」、二つめは「武(ぶう)」、三つめは「鄒(すう)」四つめは「窮(きゅう)」、五つめは「毘(び)」。

 文とは分(けじめ)である。およそ君子は飲食において《虫食いあり》絶対無理をしない。まず臭いものは食べないし、切った面が崩れたものも食べない。このように飲食が正しければ、動作はよろしく整い、五臓はその本分に安んじ、水分や穀物はその本分によってすみやかに動く。ここにおいて心身は常に和平を得て、この音(文)を発するのである。その音は宏大であり、温和である。おおいに君子の安らかに楽しむ品格がある。

 武は部(区分け・節)である。飲食が節度を失わず、動作がよろしく整っておれば、生気は滞ることはなく、臓腑はその編成を失することはない。水分や穀物の汚臭の気が内にこもって停滞することなく、この音(武)を発するのである。その音は豪烈であり、単直である。あたかも壮士の怒りが発する気品がある。

 鄒は数(数の多さ)である。動作に節度がなく飲食に節制がなくなれば、水分や穀物もその本分を失ってしまい、これがために臓腑はバランスを欠き、生気は閉塞し、やっとのことで外に排泄する音がする。かくしてその音は数多く分散し、乱雑でけじめがない。君に仕えて多く発すれば辱められ、朋友に発すれば拒絶される。小人のよこしまで正道から外れている音と言うべきである。

 窮は丘(行き詰まり)である。およそ卑しく下品な田舎者は家が貧しく財産が乏しい。いつもは豊かで滋養のあるものを食べることができない。粗末な菜食を有り難がり、貧弱なあつものをよしとする。たまたまお祭りや婚礼のおめでたがあると、幸いにもその席に並ぶ。そこでは珍味がたくさん積まれ、美酒がふんだんに出される。満面に笑みを浮かべ、これまで抑えていた欲を解き放って腹一杯食べる。かくして手足はだるくなり、心も腹も膨満し、一気に食べ過ぎた報いが胃腸を動き回り、しきりに外に排泄されんと欲するのである。その危急を我慢して言うこともできない。ついには抑えることができずに、突然のように漏らすのである。かくしてその音は窮迫し、鄙俗(ひぞく=いやしくて俗っぽい)である。主人も客人も顔を伏せ、あまりのことに左右に首を回す。そのはなはなだしく厭うべき事態は、ここに窮まるのである。孔子は言った。小人が窮すれば、すなわち乱れると。確かにそうである。

 毘は微(衰弱)である。《虫食い》 多淫で精力を失った連中や腹一杯食べた下痢腹の客は、常にこの音を発する。かくしてその音は淫らにして哀しく、衰弱していて虚しい。おおいに小人の国を滅ぼす音韻である。《以下、虫食い》──


 このように屁音を五段階に分けて考察しているわけであるが、〈屁〉というものの音の背景を観察して「文(ブン)・武(ブー)・鄒(スー)・窮(キュー)・毘(ビー)」の等級をつけたわけだね。説明されてみれば「なるほどね(でも、なんかウソ臭いー)」と笑ってしまう。

 こういう考察はどこかで読んだような気もする。ありましたねー。サルバドル・ダリの『天才の日記』の中にある『「放屁の術、または陰険な大砲に関する概論」の抜粋』がそうだった。ここでも〈屁〉というものの因って来たるところを身体との関わりで延々と説いていたね。それに比べれば伴林の論は以上に紹介した内容に尽きており、とても簡潔でわかりやすい。

 両者の比較はしないが、それぞれ〈屁〉を語って「人間」を語っているのである。そこが戯作たる根拠なのだけれど、〈屁〉談義においては、観察された〈屁〉は深く深く(そしてウソ臭く)人間を語る。ここが明確な実体を持つ糞などと違うところなのさ。

 一言=確かに音成の周りにもブンな奴、ブーな奴、スーな奴、キューな奴、ビーな奴がいるわい〜。


posted by 楢須音成 at 19:41| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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