2010年11月08日

見えない〈屁〉に注ぐ視線

 我々の〈屁〉は目に見えないわけだが、それを視覚的に語ろうとすれば描写しにくいものだ。音とニオイは特徴的なのだが、それは「音はすれども」「ニオイはすれども」いっかな見えないのである。

 一般に〈屁〉を語るスタイルはこうだ。多彩に〈屁〉の表現が試みられた狂歌をのぞいてみることにする。
(1)今朝見ればいつしかよべをひり置きていとどねぐさき床夏の花
 (朝起きてみるといつのまにか夜のうちに屁をひったままの激くさ〜い床・夏の花)四方赤良
 ※「今朝見れば露のすがるに折れふして起きもあがらぬ女郎花かな」(西行法師の歌)を下敷きにしている作品

(2)芋くうてふとして屁などひりやうづと人のわらひもはづかしひ茸
  (芋を食べてちょっとはずみで屁をひったんじゃないのと人に笑われるのも恥ずか・しい茸)其柳

(3)恋ひ慕ういもに逢はねばよもすがら落す屁にさへ香りとてなし
  (恋い慕う女に逢わないならば一晩中ひり続ける屁にも香りすらないんだわ)臥雲

(4)めでたうと門過ぐる子の放屁こそ年の初めのおとし玉かも
  (おめでとうと門を通り過ぎる子の一発の屁玉こそ年の初めのお年玉みたいだなあ)鶴州

(5)匂ひをば何と聞きけん屁の音に耳をふたいで逃るをかしさ
  (その匂いを何だと思ったんだよ屁の音に耳をふさいで逃げるのは笑っちゃうよ)金魚園

 こういう場合の〈屁〉は「くさい」「音がする」ということの結果が歌われているわけで、〈屁〉自体の視覚的描写というのは意識されていないね。(1)は寝床が激臭という事実、(2)は笑われて恥ずかしいという気持、(3)は無臭という事実と味気なさの気持、(4)は子供の放屁への感慨、(5)は一発を何かに勘違いした挙動─そういうものが表現として表出している。これらは〈屁〉そのものの指示としては〈屁〉の一語で足りてしまうわけなんだね。

 しかし、表現に潜む描写欲(視覚)は〈屁〉そのものを悩ましく追い求めるのである。
(6)いかづちのそれかあらぬか屁の音に臍を抱へてにぐる人々
  (雷の音と思ったのかどうか屁の音を聞くやいなや臍を抱えて逃げまどう人たちよ)平花庵東水

 轟音一発を雷に見立てて(かこつけて)いるが、まあこれは、耳からの音なので聴覚であり〈屁〉の視覚描写にまでは届かないものの、雷はピカゴロと光るのが見えるわけだから視覚性の萌芽を感じさせる。
(7)七へ八へ屁をこき井出の山吹のみのひとつだに出ぬぞきよけれ
  (七、八発も何発も屁をこいて井出の里の山吹の実のような色のうんこががちっとも出てこないのは清らかだなあ)四方赤良
 ※「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき」(後拾遺和歌集の中務卿兼明親王の歌)をもじっている作品

 これも、視覚描写には届かない〈屁〉であるが、兄弟分のうんこを連想させて何とか視覚の範囲に呼び込もうとしている感じ。しかし、まだ(6)も(7)も〈屁〉の姿をとらえていないね。
(8)湯の中の屁のたまたまに逢ふ夜半はみも浮くばかり嬉しかりけり
  (湯の中から浮かぶ玉になった屁に出逢う夜半おいらのまむしも浮き上がらんばかりに嬉しいぜ)読人不知

 いつから屁を屁玉と言うようになったか定かではないが、まあるく玉のようにイメージする視覚性が屁に付与されている。音成の想像では湯船につかる入浴の習慣の大衆化(江戸時代?)によって、屁は玉という視覚性を得たのであるよ。湯の中で〈屁〉をこけば玉(泡)になって浮き上がってくるんだからね。

 平賀源内は屁玉を視覚性によってこう批評している。「その音に三等あり、ブツと鳴るもの上品にして其形円(まる)く、ブウと鳴るもの中品にして其形飯櫃形(いびつなり)なり。スーとすかすもの下品にて細長くして少しひらたし」(『放屁論』の跋)と。なるほどねェ、見えない〈屁〉を見えるように語っているのである。言い得て妙。

 さて、このあたりまでが〈屁〉の視覚的なとらえ方の変遷の大筋であるが、次の狂歌に出会ったときに、音成はこれまでと違ったものを感じたね。
(9)蚊帳の穴すかしてぬける屁の烟は心太にや出でてゆくらん
  (蚊帳の穴を透かして抜ける屁のけむりはところてんみたいに出ていってるんだろかなあ)梅亭金鵞

 これは明治初期の作。梅亭金鵞は風刺雑誌『団々珍聞(まるまるちんぶん)』の主筆だった人らしいが、江戸の戯作者くずれだった。この狂歌の〈屁〉は「烟(けむ)」と「心太(ところてん)」に見立てられているね。見えない〈屁〉に視線が定まって姿をとらえ(ようとし)ているのである。

 このときの〈屁〉とは何だろうか。指摘されているのは「けむり(のようなもの)」であり、「ところてん(のようなもの)」である。ふわふわと漂い、やすやすと押し出される。見えない不定型な物体(気体)の認識がそこには語られ(ようとし)ているのだ。

 近代化の時代認識には自然科学という事物に対する認識の枠組みの変化があった。〈屁〉には直接関係ないが、西欧流の「瓦斯」という気体の認識が日本に流入すると(瓦斯燈が珍しがられたように)屁玉の〈屁〉もまた新たな視線を獲得して語られたのである。

 それが自然科学の分析的な認識には届かないにしても、気体としての姿を感じるほどには届いている。こういう地点に〈屁〉の描写が開けたわけなのだ。まあ、文学表現の〈屁〉にだって、こんな近代化の痕跡はあるんだよ〜。


posted by 楢須音成 at 00:43| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。