2010年07月10日

〈屁〉の三徳という賛辞

 そもそも〈屁〉とはなんぞや。誰かが〈屁〉をしたときに、それを「ヘ」と呼んで「ハイそうだね」と平然と納得する人はいない。時と場合にもよるだろうが、ひとたび〈屁〉をしてしまうと自他の周辺に深くも浅くも波紋を呼ぶのである。まあ、ささやかであっても一般にそれは、隠蔽したい心的動揺を惹起する事件になるだろう。

 こういう〈屁〉がはらむ事件性は、例えば西瓜などにはないね。そこに転がる西瓜を「スイカ」と呼べば「ハイそうだね」とすんなり認知して納得するわけである。一般に事件(になる)とは言い難い。

 事件性をはらむのは、もの騒がせで嫌がられる〈屁〉の否定性に起因する。我々の〈屁〉は陰に陽に否定されている。そこにあってはならないのである。

 だが、にもかかわらず、我々は〈屁〉に対して賛辞にも等しい言辞を吐く(ことがある)。例えば、昔から〈屁〉には三つの徳があるなどと言う。それはいささか言訳じみている。そこにあるのは〈屁〉の復権を願う、限りない(叶わぬ)肯定性への希求のように思えるのである。

 明治の風刺雑誌『団団珍聞』から〈屁〉の一文を引用する。原文は漢文体。
人いわく、放屁は菩薩のあくびなり。形なく色なく妙なること神のごとし。此のもの元来、三徳あり。腹減り、気快く、尻の塵を取ると。

 ここでは〈屁〉の高貴さ(菩薩のあくび)、存在感(見えない存在)の神秘、備わっている徳(役立っている効用)を強調しているね。

 もちろん、これらは菩薩やら神やらへの関連性はあまりに一般の事実に反していて、おちゃらけで言っているわけだが、それでも現実に奇妙に符合してくるかのように見える可笑し味が現象している。

 こういうことを我家で嫁に言うと、たちまち馬鹿者扱いになって〈屁〉は追い詰められるのよねェ。まあ、我家では〈屁〉は次のような感じが実相なんだな。
人曰く、放屁は悪魔のげっぷなり。形なく色なく見えざること忍びの者のごとし。此のもの元来、三悪あり。腹張り、嫌気(いやけ)甚だしく、尻の威厳を損なうと。

 かくして〈屁〉を嫌う一方では、我々には〈屁〉を善きものとして昇華しようとする情熱があるのも事実なんだね。馬鹿者といえども、ちょっとばかり〈屁〉に徳を見いだそうとするのは、広量な人智といえないだろうか。(逆に賢者であろうと〈屁〉に悪を見い出すとは、何と狭量であろうかねェ)

 我々の〈屁〉には徳がある――とすれば、それは何を示しているのだろうか。物の本や言い伝えによって徳の表現は若干変わってくるのだが、〈屁〉の「徳」は「得」に通じる効用面が強調されているのが特徴である。(まあ、それしか言いようがないわけで)

 (1)腹が減る
 (2)気持よい(人に嗅がせて気持よい)
 (3)尻の塵を取る(ゴミを払う・掃除する)

 しかし、これら三つをあわせたところで何の役に立つのやら、卑小な自己満足にすぎない三徳(得)ではあるね。まあ、あえて注目するなら「気持よい」に本来の〈屁〉らしさがあるように思える。

 放屁を気持よく感じるのはもちろん自分の反応だが、自分でした〈屁〉が身体的な気持よさを呼び起こすほかに、人に嗅がせるのが気持よいという心的攻撃の観念的一面もあるのだ。そういう加害性(が気持よい)は賛否を呼ぶかもしれないし、誰もがそう思うとは限らないにしてもね。

 ともあれ〈屁〉の気持よさの起源は、まず身体(ガス膨満を解消して気持よい)にあり、やがて精神(他人を加害して気持よい)から発してくるようになるのである。

 腹が減ったり、尻の掃除をしたりするのは確かに効用だが、気持よいの二面性は、効用というより身体や精神に根ざした〈屁〉というものの本質的な振る舞いではないか。そして、否定すべき厄介者〈屁〉を内包した人間の、相互の葛藤の本質を現象させている。――なんてね。


ラベル: 三徳
posted by 楢須音成 at 01:10| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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