2009年12月03日

続続続・〈屁〉が臭いのを恥じる人と恥じない人がいるのは何でだろ〜ヵ

 我々が〈屁〉を恥じるか嫌悪するかというのは明確な二者択一ではないね。両者が表出する割合というか度合いというか、現実には恥と嫌悪が混濁した中での振る舞いが現象している。

 それでも恥の極致と嫌悪の極致は全く対極的なものだ。そして、ある観点から見ると両者は振る舞いが似ている。その一つは、恥も嫌悪も他者ばかりでなく自分に向かっても発動するところなんだけどね。

 自分を恥じること(自恥)と嫌悪すること(自己嫌悪)はもちろん違う。粗相した〈屁〉を恥ずかしく思うことと、その〈屁〉のあまりの異臭異音に自己嫌悪することは違うのであるよ。そりゃまあ、異臭異音によって羞恥が倍加され、粗相して不覚をとってしまったことによって自己嫌悪が倍加されるという相互関係はあるのだがね。

 一般に恥も嫌悪も自分に向かうか他者に向かうかという二つの方向性があるわけだが、もともと恥は「自分に向かう」心的運動から出発し、嫌悪は「他者に向かう」心的運動から出発していると考えられる。それが反転して方向を変えてしまうと、人のしたことを恥と思い、自分のしたことを嫌悪する現象にもなる。

 例えば、外出先で音成が〈屁〉をすると(自分がしたわけでもないのに)嫁は恥ずかしがるし、人のいない自室で音成が一人で〈屁〉をすると(恥ずかしくはないが)異臭異音がヒド〜イと自己嫌悪する。まあ、このように恥と嫌悪は他者に向かったり自己に向かったりするわけだ。

自己の不快な異態に対する反応(自恥)から→→→他者の不快な異態に対する反応(他恥)へ変移
他者の不快な異態に対する反応(嫌悪)から→自己の不快な異態に対する反応(自己嫌悪)へ変移

 ここでまた〈糞〉なのだが、かくして〈屁〉は初動段階から恥を強く内包し、一方〈糞〉は初動段階で強く嫌悪を内包して現象する(ことが多い)のである。つまり〈屁〉と〈糞〉において、恥と嫌悪が起動するベクトルが対照的なのだ。

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 我々の〈屁〉の恥は、前回検討したように基本的に「相手の不快」を意識して起動するわけだが、この不快は「相手が感じている嫌悪」に等しい。つまり、自分が感じる(自分の)恥は相手が感じている(自分への)嫌悪に起因し、相手が感じる(その人自身の)恥は自分が感じている(相手への)嫌悪に起因するのだ。

 自分が(自分または他者に)感じている嫌悪そのものは、不快なものを前にして生理的な「自分の不快」をそのままストレートに反映している。だから「不快=嫌悪」であり、恥のように相手の思惑など構っていないで起動するのが(本来の)嫌悪である。

 このように見てくると不快なものを前にして、恥は観念性が高い反応なのであり、嫌悪は身体性が高い反応といえるのだ。だからこそ恥は理念化しやすく、嫌悪は感覚化しやすい。恥は規範的に(つまり規範を立てて)自己制御をめざし、嫌悪は直接行動で鼻を押さえて対象物の回避に走る。

 結果的に両者の振る舞いは同じように見えてしまうことがある。恥じているのか嫌悪しているのかわからない場合があるのである。再び引用するが、次のアラブ人の例は嫌悪だろう。しかし恥と言われれば、そう解釈できるように見えるかもしれない。
……一アラビヤ人屁迫る事急なるより、天幕外遠隔の地へ駈け行き、小刀で地に穴掘り、その上に尻を据(す)え、尻と穴との間を土で詰め廻しとあるから、近年流行の醋酸(さくさん)採りの窯を築くほどの大工事じゃ。さていよいよ放(ひ)り込むや否や直ちにその穴を土で埋め、かくて声も香も他に知れざりしを確かめ、やっと安心して帰った……
(南方熊楠『十二支考 馬に関する民俗と伝説』)

 こういう振る舞いは〈屁〉への嫌悪に発して(やがて嫌悪を自分に転嫁して)自己嫌悪となり、恥と見分けがつきにくくもなってくるのさ。しかし先にも触れたように、嫌悪が恥と違う点は、他者の思惑(不快=嫌悪)など意識することなくストレートに起動することだ。もちろん、嫌悪と恥は混濁することが多いのだから、表面の振る舞いだけからは内実はわかりにくい。

 ともあれ、恥と嫌悪は付かず離れずの関係だ。次の説話は〈屁〉と〈糞〉の恥と嫌悪が集団内(お寺の講話の最中)に混濁して現象している例だ。〈屁〉のつもりで〈糞〉をしてしまった粗相を描いているね。音成のテキトー訳で引用する。
 ある説経師が招かれて、いつになく素晴らしく格調も高く説法しようとしたとき、うんこがしたくなったのだが、そのうち大変な緊急事態となり、大慌てで布施も貰わずに帰って、履き物を脱ぎ散らかして大急ぎで便所に駆け込んだ。ところが屁ばかりが出てうんこは出ない。「こうだと知っていたら、高座の上でしばらく我慢して説教を続けたものを」と悔しく思っているうちに、その次の日も人に呼ばれた。説教をしていると、またまたうんこがしたくなったのを屁だと思って透かしてやろうとばかり、ちょっと座り直すようなふりをして透かしたのだが、まことのうんこが大量に出てしまった。この僧、万事休すと為す術もなく「昨日はうんこにだまされて屁をし、今日は屁にだまされてうんこをしてしまいましたぞよ」と言いつつ、高座を走りおりて逃げ出すと、うんこが上の袴からたれ落ちて堂の中がよごれてしまった。聴聞の人は鼻をおさえて興ざめした。まったく滑稽なことだわ。
(藤原信実『今物語』1239年〜)

 僧の赤恥と衆生の嫌悪という構図のドタバタであるが、人前で〈糞〉まみれになった僧が自己嫌悪に陥るのは想像に難くない。まあ、我々はこういう話を聞くと笑うわけだが、現実の場面で遭遇した場合には、恥と嫌悪のルツボに放り込まれることになる。実に切実な状況なのだ。

 今回も回り道だが、ここまでをまとめておこう。

 拠って立つ存在様式は違うにしても〈屁〉と〈糞〉はともに異態(普通と違う異様)なものには違いないね。その異態には一般に不快を感じざるを得ないのである。〈屁〉の場合には「相手の不快=嫌悪」を意識してしまい、多くは恥が起動する。〈糞〉の場合には圧倒的存在感で多くは嫌悪がそのままストレートに起動する。もちろん〈屁〉で嫌悪が起動したり〈糞〉で恥が起動したりすることもあるだろう。一般に恥と嫌悪は相互に関係し混濁して現象するものである。

 そこで〈屁〉である。

 恥は理念的で観念性が高く、嫌悪は感覚的で身体性が高い心的運動(反応)だ。我々の〈屁〉の恥は「屁をしてはいけない」というような規範(理念)を自ら生成して自ら逸脱するという自壊の心的構造を持ち、そこに(嫌悪があれば)嫌悪を取り込みながら増殖していく…。

 このあたりに屁が臭いのを恥じる人と恥じない人がいる根拠の一歩を探そうとしたのだが――というところで、あとは次回。


ラベル: 嫌悪
posted by 楢須音成 at 07:12| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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