2009年07月25日

〈屁〉が放つ貴種流離譚がある〜

 いわゆる貴種流離譚(折口信夫の命名)は身分の高い貴人が試練となる流浪の末に苦難を克服し、尊い地位を獲得するというものだ。説話のパターンとして、なぜかこのパターン化は日本人の心をとらえるようだね。まあ、例えば「かぐや姫」なんかもそういうモチーフで解釈ができるわけである。

 我々がよく「可愛い子には旅をさせろ」というのは親が意図して(教育の)試練を与えるのだが、貴種流離譚では意図せざる運命によって(余儀なく)試練に投げ込まれる。最後は(ほとんど)ハッピーエンドとはいえ、その根底には、不可避にして過酷な運命を受け入れざるを得ない(究極の人生を想像する)リアル感があると思うね。

 柳田国男の『海南小記』(1921年)に「久高の屁」という民話が紹介されている。これは柳田の語り口で語られている。(久高島は沖縄本島知念岬の東海上にある島)
 東西古今の屁の文献の中で、哀絶また艶絶なるものが久高(くだか)の島に残っている。久高では外間の根人(ねびと)真仁牛(まにうし)に、女の同胞が二人あった。姉の於戸兼(おとがね)は外間の祝女(のろ=女性の神職)で、島の御嶽(うたき=聖地)のお祭りに仕えていた。妹の思樽(うみたる)は巫女であった。首里に召されて王城の巫女となり、日夜禁中に住んで神の御役を勤めているうちに、国王の御心にかないすなわち入って内宮の人となった。性貞静にして姿は花よりも更に美しかったゆえに、一人の寵愛と幾多の恨み嫉(ねた)みと、ことごとくこの君の身に集まり、宮中の眼を峙(そばた)てて物言い交わす友とてはなかったところに、どうした悪い拍子であったか、多勢のいる中で、とんでもない不調法な音がしたそうである。

 神に仕える家柄の巫女から王に召され、寵愛を独り占めするほどの抜きん出た貞淑さと美貌。そういう女性だって〈屁〉をするのだ。あまりの完璧さに周囲の嫉妬が沸点に達しているときのブザマなアクシデント。まさに運命としか言いようがないね。

 そもそも〈屁〉なんぞ人生に何の意味があるのかわからない代物だ。わからないながら、一発の〈屁〉が確実に人生をぶち壊すことがある。破壊の根拠を与えてしまうのだ。

 一発の〈屁〉の失態にここぞと周囲は驚喜し嘲笑した。我々の〈屁〉は完璧には制御できないから恐いのである。ついに思樽は耐えかねて暇を賜り故郷に戻ってしまうが、久しからずして王子を生む。名前を思金松兼(おもいがねまつがね)と付けた。父を失う不運を母の〈屁〉で招いた王子の誕生である。
 思金松兼八歳の童子となって、日夜にわが父は誰ぞと母に尋ねたもう。人は皆父ありて生まるるに、我ばかり母一人の子という道理はない。必ずこれを匿(かく)さるるならば、生きても味気なしと食事を絶って、憤りかつ哭(な)いて御責めあるゆえに、是非もなく昔の宮仕えのつらかった日の話をした。さりながら田舎のはてに人となりたもうも御運である。とても都に出て、父の王と御名乗りかわしはかなうまい。詮もない素性語りをしなかったのもそのためと、あながちに諌め申されたが、王子はこれに耳をも掛けず、ただちに伊敷泊(いしきどまり)の浜に出て、七日の間東を向いて神々に祷(いの)られた。
 その七日目の夜明け方に、沖の方から光り輝いて寄って来る物がある。衣の袖を展(の)べ掬(すく)い取って見ると、不思議や黄金の瓜(うり)であった。

 王子は黄金の瓜を懐にはるばる首里をめざす。王城の門に立って父である王との対面を(子であることは隠して)申し出る。願いはかなう。
(中略)髪は赤く衣は粗く姿はしかも気高い童子が、かくかくの次第と聞こし召して、何事の願いぞと御前近く呼び上げたもうに、懐中よりかの黄金の瓜を取り出し、これはこの国家の宝、天甘雨(=慈雨)を降し沃土すでに潤うの時、かつて屁をしたことのない女をして、この種を播かしめたもうものならば、繁茂して盛んに実を結ぶべしと申し上げた。国王大いに笑いたまい、そんな女がこの世にあろうかと仰せられる。しからば屁で御咎めを受ける者もないはずと、まず御心を動かし奉る。やがて内院に左右の人を遠ざけ、御尋ねによって詳しく久高の母が歎きを言上した。この王、他の御子とてはなかったゆえに、後に思金松兼を世子(=世継ぎ)と定めたまい、ついに王の位に登って百の果報を受けたもうと語り伝えている。

 貴種流離譚の中でも〈屁〉が原因の流離というのはいささか突飛なものだろうが、この話をまとめてみるとこうなる。

(1)発端:神職の家柄の巫女が王の内宮に入って寵愛を受けるが、人の面前で〈屁〉を粗相して恥じ入り、自ら身を引いて故郷に帰り、ひっそりと王子を生む。
(2)探究:八歳になった王子は父がいない自分の境遇に謎を感じ、母を問い詰めて真実を知る。父王に会おうと浜に出て神々に祈り、光り輝く黄金の瓜を得る。
(3)覚醒:王子は父王に会い、黄金の瓜によって、この世に〈屁〉をしない女などいないこと、人は〈屁〉で断罪されるものではないことを悟らせる。
(4)認知:父王は我が子と知った王子から、その母の歎きを聞く。
(5)回復:後に王子は世継ぎとなり、ついに王となる。

 島の御嶽、祝女、祭り、美しい巫女、王城、宮中、神々、黄金の瓜、百の果報などなど、散りばめられている物語を構成する要素には霊妙な神性や宮殿の絢爛さが満ちている。不調法な〈屁〉がいかに恥ずかしいものであるかも、ここに際立つわけだ。まして周りがあしざまに囃し立てるとなれば。

 こういう不覚の〈屁〉はしばしば女性に不幸をもたらしている。佐藤清彦の『おなら考』(1994年、青弓社刊)にはこういう話が紹介してある。

 ある武士の娘がお茶会でかわいい音を鳴らしてしまった。周りは心優しく知らぬふりをしていたが、会が終わってもその娘だけ起ち上がらない。娘は姿勢を変えることなく舌をかみ切って死んでいた――というのである。佐藤はこれをつくり話だとしている。いくら武家の娘とはいえ、舌をかみ切って不動のまま死ぬなど話ができすぎているからだ。しかし、この話が伝えていることは、武家の娘には人前での〈屁〉は死に価するほど恥ずかしいことだったのだと指摘している。

 ここで深読みすれば、そのときの恥が死にまで至らない「久高の屁」の場合には、やはり子どもを身ごもっているということが伏線になっているだろうね。そこから恥を忍ぶ母と子の流離の運命が始まるのだ。

 王子が真実を知り、神に祈って得た黄金の瓜は象徴的な実体だ。なぜ神は瓜を与えたのだろうか。黄金はそれだけで宝だが、黄金の瓜は国家の宝だと強調される。なぜなら〈屁〉をしたことがない女が種を播けば繁茂して実を結ぶという、あり得ない話の種になっているわけなのだ。そして、その話の種がきっかけになり、王子と母は果報を得る。ついには王子は王になり百の果報を得るのである。

 まあこれは逆説的に〈屁〉をした王子の母が黄金の瓜を育て、王族の継承と繁栄をもたらした話なんだよねェ。この流離譚の劇的な円環が〈屁〉によって社会(や世間)と人間の関係を構造化しているとみれば、ここには〈屁〉というもののしたたかな存在感があるではないか。ははは、牽強付会と言うなかれ。つまり〈屁〉は人間界に不可避に現象して喜怒哀楽を醸し、その天国(聖)と地獄(汚)は人生流離の運命を象徴する(こともある〜)。恥にまみれた〈屁〉こそは黄金の瓜(であって欲しいという希求そのもの)なのだ。

 こういう話は背景をなす共同体の階級性(支配構造)を抜きにしては語れないだろうが、貴種(貴人)がもてはやされる風土には、神やその世界秩序への畏怖が浸透し潜在している。本物の貴人は神に近い人たちなのである。

 一言=そういう貴人だって〈屁〉をするさ。でも選ばれし者のそれは黄金の瓜なのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 07:11| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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