2009年07月05日

みんなのヘデオロギー

 こころやおしりをひらっきっぱなしというわけではないにしてもにんげんはたえずにおいをはなっているものだ。そのほしではそれをへとよんでいる。

 しかしまあなんというかへがくさいとかくさくないというのはたぶんにきのせいらしい。なのにおまえのへがくさいといっぽうてきにしゅちょうするこころのうんどうをヘデオロギーというんだな。

 ひとはみなじぶんのへは(それほど)くさくないとおもっているわけだがもちろんあいするひとのへもくさくないのである。だからヘデオロギーというにんげんのふるまいにはじぶんをちゅうしんにしてあいをさけぶせかいかんがあるのだ。

 そりゃまあへがくさいのはおたがいさまだろう。たにんのへがなぜくさいのかといえばかれがじぶんのなかまではないからだ。つまりなかまとはへがおなじにおいということなのだ。そしてにおいがおなじということはにおいがないこととおなじである。これこそがヘデオロギーのいちばんのとくちょうといえるだろうさ。

 われわれはこういうヘデオロギーのとりこになってへがくさいやつをけぎらいしてにくむのだ。くさいのはきのせいだなんてぜったいにおもわない。ほんとうにくさくかんじる。すくなくともじぶんのへよりそのひとのへはくさいのである。あいてによってはきぜつするほどくさいのであるよ。

 むちのくにおちゃんのヘデオロギーはあほのたろうちゃんにむけられていた。もちろんたろうちゃんのヘデオロギーはくにおちゃんにむけられている。ということはくにおちゃんはたろうちゃんのへがくさい。たろうちゃんはくにおちゃんのへがくさいのだ。もともとふたりはなかのよいなかまだったのだがあるひとつぜんへがくさくなってしまったのである。

 あほのたろうちゃんはいじめっこのせんぱいのよしちゃんにつかまってしまったのだ。たろうちゃんはくにおちゃんといっしょにつくったりゅうせいのけんをよしちゃんにむりやりうばわれてしまった。よしちゃんはじぶんのゆうせいのけんをたろうちゃんにおしつけた。あほのたろうちゃんはしかたなくりゅうせいのけんのかわりにゆうせいのけんをふりまわすことにしたのだ。

 これがいけなかったね。りゅうせいのけんはせいぎのしょうちょうだがゆうせいのけんはじゆうのしょうちょうだ。くにおちゃんはじゆうなんかよりずっとずっとせいぎがすきだったのだ。このときからたろうちゃんとくにおちゃんのあいだのヘデオロギーのへんしつがはじまっていた。

 わかものがねっしんにけんのうでまえをみがくのはけんしのなつのたいかいにしゅつじょうするためである。たいかいはでんせつのけんせいたけぞうのせいけんをめぐってあらそう。たけぞうのせいけんをだっしゅしたものこそほんとうのけんしなのだ。なつのたいかいはほんまつグループのけんしがにんきだった。ほんまつグループにはきょうごうけんしのよびごえたかいずるのいちろちゃんやあいのゆきおちゃんがいてひょうばんになっていた。それにひきかえ(なかまわれしそうな)てんとうグループのあほのたろうちゃんやむちのくにおちゃんはにんきのほどがいまひとつ。

 ずるのいちろちゃんはだいじなじぶんのおそまつのけんをおってしまったのでゆきおちゃんのゆうあいのけんをひとふりもらってのりかえていた。ほんまつグループはゆうあいのけんでしっかりまとまっていた。ほんまつグループはせいけんをめざしてゆうあいでだんけつしているのだよ。だからすこしばかりなかまのへがくさくてもがまんする。しかしゆきおちゃんはいみふめいのあいのけんけつをやりすぎてしんこくなひんけつにおちいっていた。せとぎわのたいりょくかいふくにこれつとめているんだよねえ。

 いっぽうあほのたろうちゃんがまとめるてんとうグループはゆうせいのけんとりゅうせいのけんのしゅうだんにぶんれつしてあらそいがはじまっているんだよ。そしてとなりにいるなかまのへがすこしでもくさいとおおさわぎしておこりだすのだった。たろうちゃんはおまいらいいかげんにせーよとおもいつつもぶんれつのかちゅうでひたすらはなをふさいでにんにんのこどくをあじわうのだった。

 グループないのヘデオロギーとグループかんのヘデオロギーがからまりあってけんしのなつのたいかいはうだるねっきとはなのもげそうなにおいにつつまれてそうぜんとしてきた。けんしたちはひっしのぎょうそうでたたかいにとつにゅうしていくのであった。たいけつまぢかのゆきおちゃんとたろうちゃんがやがてそこにくるだろう。

 けっしょうせんのふたりのへがきわだってくさいのはとうぜんだろうね。かいじょうにいるぜんいんがふたりのにおいをむんむんとかんじながら「くさいぞくさいぞくさいぞお」とさけぶだろう。そしてあいてのへがくさいということのしょうめいはじぶんのへがくさくないことのしょうめいなのだ。ふたりのけんはあいてのきゅうしょであるよわりめやたたりめにきびしくうちおろされることひつじょうだ。

 しょうぶのゆくえはどうなるのかね。かいじょうをおおうヘデオロギーがしぶんごれつしてでんぱしていくさまはそうかんだろうねえ。ヘデオロギーのカオスはすべてのにんげんのしゅくめいでありかつりょくのげんせんなのだ。あほらし。


ラベル: ヘデオロギー
posted by 楢須音成 at 06:34| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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