2008年08月10日

動物の屁と人間

 人間だけが屁をするわけではないが、自然界の動物にとって屁とは何なのだろうか。人間は〈屁〉をしてしまい、さまざまに振る舞うのだが、人間になついた動物ほど人間の屁に近い振る舞いになるように観察される(かな)。

 スカンクは敵に遭遇すると、肛門近くの腺から悪臭の分泌液を発射することで知られている。肉食獣にはスカンクと同様の肛門腺があり、これは縄張りを主張するマーキングなどに使われているという。スカンクはそういう肉食獣一般とは一線を画し、身を守る威嚇的な放射能力を発揮し、発散するニオイの強烈さにおいて群を抜いているのである。

 しかし、これは厳密には屁とは呼べないだろうね。屁はあくまで気体でなければならないものである。「何で?」と言われても困るが、水を氷とは呼ばないわけだしね。

 ヘヒリムシ(カメムシ、ミイデラゴミムシなど捕まえると悪臭を放つ昆虫)も放射するのは霧状の液体のようだ。付着してニオイが残る。

 動物が(気体の)屁を放発する話はいろいろと散見されるのだが、最近、ドジョウの屁の話を見つけた。原文に句読点を補足し、読みやすくして引用してみる。
病氣や死ぬる話ばかりで講話が陰氣になつた故、今日は餘談(よだん)として夏季の遊戲「泥鰌(どじょう)の放屁(おなら)」と云ふ話をして見やう。余は今、泥鰌の放屁を見たと云ふても、世人は必らず之(これ)を信ぜぬであらう。況(ま)して其(その)臭(におい)を知つて居ると云ふたら、世人は余を以て狂人と云ふであらう。併(しか)し其れは決して六(むづ)かしい事では無い。余は今、諸君に其法を傳授(でんじゅ)しやう。諸君、試みに子供と共に泥鰌を二三尾捕へて細いガラス瓶に入れ、水を九分目程入れて安置して暫(しば)らく眺めて居て見玉(みたま)へ。泥鰌は苦し紛れに時々放屁をする。其時泡が立つから直ぐ分る。但し口から吹き出す泡と間違へてはいかぬ。二三時間経つた後、瓶の栓を開けて嗅(か)いで見玉へ。一種の臭氣があるから。呵々。
以上は笑ひ事ばかりではない。胃癌や胃潰瘍患者の枕元に硝子瓶入りの泥鰌を据えて置けば、滑稽で面白く、時々其の放屁を眺めて病人が退屈せず慰安にも成り、從つて精~的治療法の一端にもなるので、余が老婆心から醫師として、全國各地の重病者に見舞として贈呈する心づくしの進物である。願くば看護の人々よ、余が微意(びい)を容れ僅(わずか)の手數を忍んで、之を病者の枕元に備へて下さい。御願(おねがい)です。(田村化三郎著『胃腸の衛生』1909年、読売新聞社刊)

 これは可笑しい話だ。ドジョウの屁が何を目的としているのかはわからないが、屁をするとはね。それを面白がって病人の枕元に置き、つれづれの慰みにしようというわけである。ポコポコと泡立つ屁を待って、ガラス瓶の中をいつまでも眺めて生物観察する人間がそこにはいる。ささやかな小さな屁の楽しみを求めて…。

 デカイ動物の屁もある。何かの本には、象は図体がでかいのに、とても小さい屁だと書いてあったが、誤りである。
 象は小心者である。あんなでかい図体をしていながらとおかしくなるが、草食動物の悲しさだろうか。
 しかし、おならは図体にふさわしく、動物のなかでもいちばん大きい。
 ブーッ、ドカーン!! ブーッ、ドカーン!!
 象が象舎の中で一発放つと、部屋じゅうが揺れる。隣に寝ている象も目をさますほどだ、とこれは到津動物園長の森友氏から聞いた話。(中村全享著『おなら説法』1981年、祐学社刊)

 とても迫力がありそうだ。音成はまだ聞いたことがない。雁屋Fの『スカトロピア』によると、1960年代に象の屁を録音した(紙とビニールの)宣伝用レコードが出回ったという。「さあ、それではアンコール、象のおなら、ビタミンプーですよ、はい、も一度象のおなら、ビタミンプー!」とディスク・ジョッキー役の林家三平が絶叫して、ドッシャーンと象のおならが響き渡る。雁屋は可笑しくて可笑しくて、腹を抱えて悶絶する。ここには人間を超える屁が存在するという、自然界の大きな異変に対面した人間の、驚きと笑いの姿がある。人間の屁など全く問題にならない、想像を絶するがゆえの悶絶の笑いだね。

 より身近なのは犬猫の屁だろうか。まあ、犬猫を飼っているからといって、彼らの屁を聞いた人は少ないようだが、音成は犬については「ブスッ」という、多分そうだと思うのだが、屁らしきものを聞いたことがある。屋外だったせいかニオイは感じなかった。
 いつだったか私の両脚の間に顔を突っ込んで、いい機嫌でいる時私が放屁した。(犬の)アコは飛び上がった。私は床の中で笑いがとまらなくなった。その話を友人にしたら、
「そりゃ驚くよ、犬の嗅覚ってのは人間の三千倍だからね」
といった。
「物凄い音がしたのだから、さしてにおわないはずだがな」
といったら、
「音に対しても聴覚は三千倍、だから飛び上がるはずだ」
という。三の字のつくのはあてにならないが、アコが飛び上がったのは事実である。
 その後時々やらかすが人畜無害とわかったのか、身動きもしなくなった。
 (中略)
 朝になって寝ている私の肩のあたりから(アコは)潜りこんだものの、頭しか入らない。アコの肥満した臀部が私の顔の前にあった。寝ぼけている私の耳にプシュッという音が聞こえたようだった。
 私は嗅覚は人並みだが、犬のおならはたしかに三十倍くさいようである。寝返りしたとたん、私はソファベッドから転がり落ちた。見事に敵を討たれたようである。(秋山庄太郎『文藝春秋』1964年)

 この話はほのぼのと笑う。犬の屁は臭いようだが、臭い屁が可笑しさを醸しているのではないね。主人の秋山が犬の前で屁をするようになってから、アコも屁をするようになったのである。主人に倣う犬の肛門のゆるみ具合が何とも可笑しいのだ。ここには屁を交歓する人間と犬がいるわけである。お互いのとぼけた態度が可笑しい。

 これが猫になると、少々すさまじい。うーむ、猫はあまり好きになれないな。
 ある時、知人の家に招かれて、食事もすんで、ぼくらはお茶など飲んで、四方山話をしていた。そこの家の女主人と言うのが猫好きで、茶色の虎毛の大きな猫を飼っていた。話をしながら、ぼくは女主人に対するお世辞の意味もあって、猫を膝の上に抱いて、喉をなでたり、肩をなでたり、尻っぽに爪を立てたり、唇をめくって歯ならびの点検をしてやったり、ひそかにひげを抜いてやったりしていたのだ。ところが、あろうことか、恩知らずにも、猫はぼくの膝の上でへをたれた。それも、ブォッと言う音のかなりすさまじい屁なのだった。
 (中略)鼻先に立ち昇って来た猫のおならの、すさまじい悪臭をまともに吸ってしまって、ぼくはむせて、猫を膝から放り投げた。猫は床の上に放り出されて、いやらしくも、ニャン、とないた。猫のへのにおいと来たら、硫化水素どころじゃなくて、スカトールと、魚のはらわたのくさったようなにおいのまじりあった、頭の芯までつらぬくようなやつだった。ぼくは、思わず手をばたばたやったので、においは、周囲に広がった。みんな、思わず顔をそむけ、手で鼻をおおい、顔をしかめてぼくをにらんだ。もうだめだ、とぼくは観念した。何で今さら、実はへをたれたのはお宅の猫ちゃんで、と言えようか。(雁屋F著『スカトロピア』1972年、ブロンズ社刊)

 猫と犬の性格の差は大きいね。遠慮会釈のない傍若無人ぶりは、透かし屁をして人に罪をなすりつける姑息さをはらんでいる。女主人は猫の恩知らずの振る舞いを知らない。彼女らの関係は悪意の一方通行だ。猫の屁みたいな振る舞いは卑怯であ〜る。

 とまあ、いろいろな動物の屁があるわけだが、ここに人間が絡むと、動物の屁も奥行きのある不思議な現象になるようだね〜。


posted by 楢須音成 at 13:48| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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