2005年12月09日

年取れば恥も忘れるおならかな

 放屁は数ある生理現象の一つである。恥ずかしいとされる生理現象だね。『人はなぜ恥ずかしがるのか』(菅原健介著、1998年、サイエンス社刊)の中で、羞恥を感じる生理現象の調査が紹介されている。これは大変ユニークな調査である。

 菅原たちの調査は「電車に乗っているとき、他の乗客たちに目撃されたり聞かれたりしたときにどの程度恥ずかしいか」という質問を用意して、9項目の生理現象について世代別に聞いているのだが、嬉しいことに、この9項目の中に「おなら」があるんですよ。
 興味深いねえ。〈屁〉的現象を究明する立場からはその着眼と分析を高く評価したい。

 音成はこれまで羞恥に関する本は多少目を通しているが、特に〈屁〉的現象に触れたものはなかったし、実に新鮮だったのである。(もっとも〈屁〉が出てくるのは「高齢者の羞恥心」というテーマの一節の数ページだけなのですけどね)

 菅原たちの調査によると、電車の中でもし聞かれたとしたら、全体平均で@おならA鼻水BいびきC腹の音DげっぷEしゃっくりFあくびGくしゃみHせき──の順で恥ずかしいという結果になっている。
 これを因子分析によって分析してみたら、@〜CのグループとD〜Hのグループの二つに大別されることが判明。また、性差では女性が羞恥をより強く感じ、年齢差では@〜Cのグループ(おならなど)は年齢とともに羞恥度が減少し、D〜Hのグループ(げっぷなど)は年齢とともに羞恥度が増加しているというのである。

 面白いねぇ。放屁は年齢とともに恥ずかしくなくなっていくんだよ。なぜ?

 ここで菅原は明確な解答を与えておらず、@〜Cのグループは「声帯と無関係な生理現象」であり、D〜Hは「声帯を介した生理現象」であると指摘するにとどめている。これは何を意味するんだろうか。そりゃ、放屁は声帯とは関係ないさ。

 突っ込んだ解答は、同じ調査を紹介した『羞恥心はどこへ消えた?』(菅原健介著、2005年、光文社新書)の中に見つけた。考察が深まっている。

「この結果についてはいろいろな解釈ができる。たとえば、『お腹の音』や『げっぷ』は身体から発するのでコントロールできない。一方、後者は声なので我慢が可能だ。我慢できない現象は仕方がないが、コントロールできるはずの『あくび』や『せき』を人前で我慢できなかったのは自立性の欠如を示すことになる。(音成注:できるはずのものができないのは恥ずかしさにつながるね)これが高齢者の社会的地位を脅かすというものだ。しかし、我慢できる『げっぷ』もあるし、どうしても止められない『せき』もある。この説明は決め手にはならない」

 音成は「決め手」になると思うね。菅原の「コントロール」を音成は「制御」と読み替えて次のように考えてみた。(菅原の調査をもとに音成が別に書いたものからの引用なので括弧で括らせてもらいます)
 
「制御力が旺盛な若い人は制御しにくい『おなら』がとても恥ずかしい。制御力が衰えた老人は今まで制御できていた『しゃっくり』が制御しにくくなっていることに気づき恥ずかしいのである。『おなら』は相対的に順位を下げる。
 生理現象のとらえ方は身体の衰えによって変わってくるのである。羞恥心は加齢による身体の状況(制御の可否)に左右されて変化をきたし、揺れ動くことを示している」
 
「加齢による身体の衰えによって『制御』に対する心的動機の軸足が変わるのである。つまり、歳をとれば、無作法な生理現象全般に対して身体は制御不能に傾斜していく(老化)。そうなると、逆に『制御できたものを制御できない』ことで羞恥度が増すのである。
 若いときの羞恥の軸は『制御できないものを抱えている』(制御力が高いがゆえに制御できないときの危険度も高い)ということにあり、老いてからの羞恥の軸は『いままで制御できたものを制御できない』ということにある。この軸足の変化によって羞恥度の逆転現象が起こると見なければならない」

「欧米では〈屁〉よりも『げっぷ』の方が恥ずかしいというのである。なぜか。これは食生活の違いからくる生理現象の頻度が影響している。端的に言えば肉食性か草食性かの差異である。
 肉食の場合は「げっぷ」が出やすい。〈屁〉は臭い。草食の場合は『げっぷ』より〈屁〉が出やすいが、ニオイは肉食ほどではない。こう見ると、恥ずかしい生理現象の頻度が高い(制御に追われる)ものほど羞恥度が増すのである。このときニオイは二の次であるといえる」

 補足すれば、「おなら」も「しゃっくり」も恥ずかしいことには違いないのである。ただ制御の力関係の変化が相対的に羞恥度の順位に影響してくると思うのである。

 制御するってことは危険なもの(恥)を抱えていることと同義である。制御力が高いと、より制御しにくいものへの羞恥度が高くなり(制御すべきものを、もし制御できないなら恥ずかしい)、制御力が弱まると、今まで制御できたものへの羞恥度が高まる(今まで制御できてきたものを制御できないなら恥ずかしい)わけである。

 若者も老人も制御のたがが外れる危険を感じて羞恥の心的な防衛に走るんだけど、その方向が同じではないんだね。〈屁〉的現象において、このことは〈屁〉の羞恥の相対性を示しつつ、一様でない現象の展開を示唆するんだよ。

 さて、菅原の本は生理現象に限らず人の羞恥のメカニズムを社会心理学の立場から様々の学説や独自の調査を通して幅広く考察している。社会、行動、感情、表出などのダイナミズムを解きほぐしながら羞恥の構造や機能に迫っている。
 最近作の『羞恥心はどこへ消えた?』は前著をベースに路上に座り込むジベタリアンの羞恥心の解明を試みている。面白いよ。


posted by 楢須音成 at 20:03| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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