2014年05月30日

補遺・〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 ひとくちに〈屁〉といっても、さまざまな形態(もちろん目には見えない)があるが、この世界でその異音異臭のあり方は千差万別なのであるね。老若男女の世代差、性差、身分差などに加え、時(time)と場所(place)と場合(occasion)の条件が複雑に絡み、人間界の振る舞いにおける〈屁〉的現象は人間の数だけ散在している。

 生理現象である〈屁〉が、生理現象の中でも特異な性格を持っていることを「鬼子」と言ったわけだが、まあ普段はその特異なところは潜在(隠蔽)して目立たないにしても、我々の精神生活や振る舞いに深く影響を与えていることは間違いない。

 自他の〈屁〉が及ぼす影響など信じがたい(信じたくない)かもしれない。しかし、我々が振る舞う〈屁〉的現象は至るところに存在している。

 一発の〈屁〉によって倫理性、羞恥性、侮辱性の発現が見られることはすでに検討した。もちろん我々の考察がある限界を持っていることは音成も自覚している。そこには個々人の〈屁〉の千差万別があり、集団でくくれば、例えば民族の違いもまた存在しているだろう。

 よく言われていることに「欧米では屁よりゲップが失礼(下品)である」というのがある。まあ、どちらも失礼な行為には違いないが、比較してどうだとなると、どちらかがより失礼なことはあるだろう。

 日本人の調査の一例がある。ネット上の調査(2013年、リサーチパネル)だが「オナラとゲップ、他人がしてより嫌なのはどっちですか?」と質問をしたところ、オナラ56.2%、ゲップ43.8%という結果になった(回答総数36,626件)。日本人では〈屁〉が嫌われている。

 しかし、この結果は〈屁〉が圧倒的に嫌われると思っていた音成には少し意外で、ゲップが(屁と比べても)こんなに嫌われているとはね。音成の感覚からすれば、目の前で他人に〈屁〉をこかれる方がよほど嫌だけどねえ。

 恥ずかしがるにせよ、失礼と思うにせよ、嫌がるにせよ──人前で我々が〈屁〉やゲップに感じる否定的な心的傾向はさまざまだが、それらは要するに生理現象を忌避している心的な振る舞いである。つど生じる心的傾向とその度合いによって、より恥ずかしいか、より下品と思うか、より嫌がるかが現象している。

 前に紹介したが、日本人について人前で恥ずかしい生理現象の順位をつけた調査があった。それによる順位は@屁A鼻水BイビキC腹の音DゲップEシャックリFアクビGクシャミH咳──であったが、ゲップは腹の音とシャックリの間にあるわけで、その恥ずかしさはだいたい中程度という感じだろうか。

 外国人を対象に調査をしたら@〜Hの順位は入れ替わる可能性は大きい。ゲップが上位に来るかもしれないわけだ。データとして議論できる順位に関しては統計的な調査を待たなければならないので何ともいえないけどね。

 ところで、自他に向けられる〈屁〉やゲップを恥ずかしく感じる、失礼(下品)と思う、嫌がる、というような心的傾向は、それぞれレベルの違うものだが、これまで同じようなもの(同様の忌避の心的傾向)として、ごちゃ混ぜに記述してきた。つまり〈屁〉やゲップが恥ずかしいのは、それらが下品で失礼極まりなく、誰もが嫌がるものだからであり、一連の心的傾向としてつながっていると見なしてきたわけである。

 しかし、そのつながり方をより原初的なものから辿るとすれば、嫌がることからスタートしていると観察される。動物として生きていく快と不快の選択的な最初の区別の段階で、我々は〈屁〉やゲップに対して快や不快を感じる。そもそも〈屁〉やゲップは生理的には放った瞬間は気持ちが良い(快である)のだが、その異音異臭は不快(ゆえに嫌がる)である。人前という他人の視線が介在する場面では、我々は快を封じ込めて嫌がることからスタートせざるを得ない。(最初の快と不快は二者択一のデジタル的な区別ではない。刺激に応じて可変的に強度がどちらかに変化する正負のバランスである)

 嫌がるというのは、もとを辿れば悪性の刺激に対する身体反応が誘発している心的傾向と考えられる。何かしら外界からの刺激によって、このとき感覚器官には化学的異変がもたらされている。例えば、鼻粘膜を刺激してそこに異変をもたらす激臭の〈屁〉があるとすれば、それは我々にとって極めて嫌なものとなる属性(悪臭)を保持している。我々は嫌がる。

 異音異臭が強烈に鼓膜や鼻粘膜を刺激すれば、単に不快だと嫌がるどころか、深刻な事態を惹起してしまうだろう。嫌悪に突入する。

 快と不快を経て最初の嫌がる段階で、このとき我々はこの世界に共存している他人を意識している。というか意識せざるを得ないのである。自分で自分の〈屁〉を嗅いでいるぶんには仕方ないにしても、このくっさい自分の〈屁〉を他人は嫌がるであろう!!という意識が芽生えてしまうのだ。臭ければ臭いほど他人の視線が強烈に意識される。(他人の〈屁〉は嫌なものだが、他人も同様に他人の〈屁〉を嫌だと感じるはずだ。我々は相互に相手の〈屁〉を嫌がるのである)

 一方で他人を意識する心的運動は〈屁〉のニオイを(実際以上に)強烈に臭いものとする。それは「俺のはそんなに臭くはない」「こんなハズがない」という(臭気を撒き散らしている現実を修復して自己回復したい願望からくる)現状否定の疑心暗鬼が(かえって裏腹に)嗅覚の感度を上げてしまうからである。(ニオイから鼻を塞ぐとしても、そういう忌避行動とは裏腹に嗅覚の感度は上がってしまうのだ)

 原初的な(快と不快の)不快から発した「嫌がる」という心的反応が、他人の存在を(無意識にも)意識して「嫌悪」へと増幅していく。その過程には他人という観念が無限の合わせ鏡となって「嫌がる」を写し込み、いっそう観念化を高進させている。嫌悪とは感覚のままのストレートな感情ではなく、幾重もの観念化(他人の意識)によって合成された感情の動きなのである。

 他者という存在はいろいろな観念となって我々を囲繞している。家族や社会の関係となって立ち現れているわけだが、そこに萌芽した〈屁〉の不快は他者にも不快だろうし、まして他者の〈屁〉は自分にはとても不快なのだから、他者も同様に自分の〈屁〉をひどく嫌がるだろう──かくして他者との多重な関係性の中で不快には、幾重にも他者が組み込まれ強い嫌悪へと増幅していく。

 要するにここでいう〈屁〉の嫌悪とは、社会化された、極めて観念的な感情の動きなのである。不快がこうした嫌悪に即座に突き進むには、痛烈に他人を意識してしまうほどの激臭が必要かもしれない。というか(激臭でなくとも)すぐに他人を意識してしまう敏感な人は嫌悪に陥りやすいだろう。そして嫌悪は(観念性を高めつつ)不浄感へと精錬されていく。(我々の心的運動において他者とはさまざまな関係性の中に「意識せずとも意識している」存在であり、そういう他者の意識なしには我々は存在し得ない)

 ともあれ、このように嫌悪が他人を意識した結果というなら、恥ずかしがるのも同様に他人の存在があるからだね。恥もまた〈屁〉の不快から発して、その不快を他者も感じると想像することで増幅されるわけだ。しかし〈屁〉を恥ずかしがるのと嫌悪とでは様相が違うではないか。どう違うか。

 生理現象〈屁〉の不快が(他者の意識を介し)嫌悪や恥に増幅されるとして、この二つは〈屁〉に対する不快に発する同根の感情の動きにもかかわらず別の性格を持ったものといえる。音成の観察では嫌悪はより身体性が高い反応として出現し、恥はより観念性が高い反応として出現すると考えられる。

 我々にとって身体と観念は表裏一体のものだ。身体なくして観念(の形成)はなく、観念なくして身体(を意識すること)はない。そういう意味では〈屁〉という不快を同根とする嫌悪と恥が、身体性と観念性をまとうことは当然であるが、両者は表裏一体の存在として出現している。

ken-o_haji.jpg 同様の図は以前にも使ったが、嫌悪と恥は一方が最小値なら他方は最大値という関係である。生理現象〈屁〉に対する心的反応は嫌悪と恥のバランスの中で出現していると考えられる。最大の嫌悪は身体性(異音異臭のような感覚)をストレートに反映し(このとき恥は吹っ飛び)、最大の恥は(いささかの嫌悪もなしに)観念性(礼儀作法のような規範)をストレートに反映しているわけだ。

 そういう両極端はともかく、誰かが〈屁〉をこけば嫌がるわけで、多少の嫌悪を伴いつつ、下品であるとか無礼であると非難することになるが、この段階ですでに我々は暗黙の了解事項である「放屁は禁止」という規範に縛られている。下品とか無礼の烙印は自分にも他人にも向けられる。そういう規範からの逸脱感(による自責、他責)が恥になるのだ。

 そこで規範意識(ルール化された社会意識)が強いほど恥が強く現れる。嫌悪が強いときは規範意識は弱まっているということになる。規範を気にするどころではないということか。ともあれ嫌悪と恥は、規範意識を強くも弱くもスライドさせ、どちらが勝るかというバランスで出現するわけである。

 面白いのは、この二つの心的反応が表出するとき、それぞれの態度振る舞いは似ていることだ。人が真っ赤になって〈屁〉に顔を背ける場面があるなら、そのときの心的反応が嫌悪なのか恥なのか外見にはわからないだろう。まあ、嫌悪と恥は同時に出現していることがほとんどであろうが、態度振る舞いに矛盾は生じないことになる。

 さて、横道にそれて理屈が長くなったが、一発の〈屁〉の快と不快は(他者の意識を介して)不快を嫌がることから嫌悪や恥へと増幅されていくのだった。嫌悪は身体性(異音異臭)を強くはらみ恥は観念性(規範)を強くはらんでいる。身体性と観念性がせめぎ合うときには規範意識の強弱が出現している──だいたいそういう理屈になるわけである。

 ここで〈屁〉とゲップのどちらが嫌がられるかという話に戻りたい。〈屁〉の嫌悪と恥の理屈は、ゲップの嫌悪と恥の理屈と同じである。ゲップもまた嫌がられる生理現象なのであるね。

〈屁〉=肛門から出る→異音異臭がある(強)
「ゲップ」=口から出る→異音異臭がある(弱)

 先の2013年のネット調査のように、日本人には〈屁〉とゲップとでは〈屁〉の方が嫌がられる(下品だ、恥ずかしい)のだが、その差は意外にもない。ゲップを嫌がる人がけっこう多かった(43.8%)。これには少し驚いたのだが、音成の感覚では〈屁〉の方に肛門からの放出や強い異音異臭というような悪条件があると思うわけである。

 先に紹介した1998年の調査では、恥ずかしさの順位が@屁A鼻水BイビキC腹の音DゲップEシャックリFアクビGクシャミH咳──だった。〈屁〉とゲップの間には鼻水、イビキ、腹の音が入っていた。つまり、それらがゲップより恥ずかしいのだが、音成にはこちらのデータがしっくりくる。これによれば、ゲップの恥ずかしさはかなり減ぜられているように思われるね。

 こう見てくると、ゲップが嫌がられる心的反応は問い方(あるいは条件)によって大きく動いてしまうのではないか。ゲップは不安定な(忌避される)順位を持っているのだ。欧米では「屁よりゲップが嫌がられる」という(伝説?がある)のも、それが何ゆえかはともかく(民族間でも)揺れ動く嫌われ方をされていることを示している。

 しかしまあ、嫌がられるという点では〈屁〉もゲップも僅差の現象には違いないわけで、人前で〈屁〉をこいたりゲップをしたりするのは、良識ある人にとって大いにはばかられる。礼儀を欠いた恥ずかしい振る舞いに倫理的には優劣はないが、ここはあえて〈屁〉とゲップの僅差を比較してみよう。

 前回までに〈屁〉と「咳」について比較して検討したが、身体的に非制御系の〈屁〉と制御系の「咳」という位置づけが基本にあった。ゲップは非制御系と位置づけられるので〈屁〉とゲップは、同じ非制御系の範疇にあるのである。

 制御系も非制御系も制御のタガが(不用意に)ゆるむこと(異変)によって(嫌がられる)生理現象として現象する。非制御系とは、身体的にはもともと制御する専任の器官などがないのでそう呼ぶ。実際〈屁〉は(たまたま)肛門から出るが、そこが〈屁〉の制御器官とは言い難いだろう。腸内ガスが発生し通過してくる腸と、放出される肛門とが制御器官と言えるだろうか。同様にガスが発生する胃と通過してくる食道と、放出される口が制御器官と言えるだろうか。

 まあ、そう言って言えないことはないにしても、それらの器官は付属的に〈屁〉やゲップを扱っているわけで、器官の主目的は別である。そもそも〈屁〉やゲップはそれ自体にあまり意味はなく、偶発的に発生する(寄生する)付属物なのである。

 このように、いわば身体的に望まれずに発生するという点では嫌がられる程度も高くなるというものだ。しかも制御(我慢)しにくいのであるから、いよいよ異音異臭は人に嫌がられるわけだ。

 嫌がることから嫌悪や恥になっていく道筋は検討したが、では〈屁〉とゲップでどちらが嫌か。発端になる異音異臭はまずは忌避される。それが嫌悪の方向に行くのか、恥の方向に行くのか、我々の心的運動は条件次第で行方が定まらぬ。しかし、どちらにしても異音異臭が強ければ忌避も強く生起するね。

 この忌避は隠蔽(しようとする振る舞い)にも重なるが、我々は異音異臭に少なからず動揺しているし、危機意識を持ってしまっている。動揺や危機意識が大きいほど嫌悪や恥もふくらんでいくのだ。異音異臭が強く、不用意に出てしまい、発生頻度が高く、発生元と特定されてしまう──といった、主には自分自身の身体的条件から吹き上げてくる動揺や危機意識の背景には他人の存在が控えている。他者の意識が介在して嫌悪や恥は現象するのだ。

 異様な音とニオイは自分が嫌うのみならず他人からはもっと嫌われ疎まれるし、不用意に出るとなると制御不能のだらしなさをさらけ出すし、それがしょっちゅうあるとなると危機感はつのるばかりだし、ごまかしもきかずすぐに発生元だと知れてしまうのであれば油断できない。そういう心的な緊張は嫌悪や恥を大きくするだろう。

 このように考えてくると「欧米では屁よりゲップが失礼(下品)なのか?」とか「オナラとゲップ、他人がしてより嫌なのはどっちですか?」という疑問へのヒントが導かれる。要するに〈屁〉とゲップ、心的な緊張が高いのはどちらなのか、ということを検討しなければならないのである。

欧米=〈屁〉よりゲップが嫌われる→ゲップの心的緊張が高い
日本=ゲップより〈屁〉が嫌われる→〈屁〉の心的緊張が高い

 なぜこういうことになるのか。前に音成はそれを食性の違いに求めて考えてみたのである。大雑把だが伝統的な食性を欧米は肉食系、日本は草食系ととらえてみよう。肉食系とは肉(動物質)をよく摂取し、草食系とは野菜(植物質)をよく摂取すると考える。現代日本では肉食は当たり前だが、明治より前は肉食は乏しかったのである。

 こういう食性の違いは体格(身体構造)の違いとなってくる。よく指摘されるのは肉食系動物の腸は短く、草食系動物の腸は長いということ。これは植物質の消化吸収に長い時間がかかるからである。草を食む馬は体の長さの10倍といわれ、獲物を追いかけるライオンは4倍である。体の大きい動物に草食が多く、小さい動物に肉食が多いのも消化吸収の構造が関係しているわけなのだ。

 人間の場合も食性は影響すると思われる。欧米人と日本人の腸の長さに差はないというデータもあって食性の違いは関係ないという人もいるが、欧米人との体格の違いは(特に明治以前と以後で)歴然とある。しかし動物の傾向とは逆になるが、同じ人間同士なら腸の長さが同じで体の大きさが違うのなら、相対的には体の小さい方が腸は長いことになる。

 それはともかく肉食と草食の消化吸収の違いから何が言えるのかというと、次のようになる。

肉食系=ゲップが数多く出やすい→〈屁〉は数が少ないが臭い(微量なので音が小さい)
草食系=〈屁〉が数多く出やすい→〈屁〉は数が多いが臭くない(多量なので音が大きい)

 焼肉を食べたあとの臭いゲップや〈屁〉を実感するように、芋を食ったあとの胸焼けや〈屁〉がよく出ることを自覚するね。このことから肉食系の欧米人は警戒心や危機意識がゲップに向けられ、草食系の日本人は〈屁〉に向けられる傾向を持つようになったと考えられるのだ。

 ここでは発生頻度が高いことが緊張を高めている(敏感になっている)といえるが、肉食系ではゲップが多量に出やすい一方で、あまり〈屁〉は出ない傾向なのである。そこで肉食系では多発するゲップに対するマナーが厳しくなり恥ずかしいことだとされるようになる。一方の〈屁〉は発生頻度が低いのでゲップに対するよりは関心が薄い。ただし微量で音は小さいが強烈に臭い。忌避されるのは変わりないが、制御しやすい。そこで恥というより嫌悪が先に立つ傾向になるのである。

 草食系では〈屁〉が多量に出やすい一方で(繊維が消化しにくいので胸焼けはあるが)ゲップはあまり出ない傾向にある。草食系はゲップに無関心になるが、多発する〈屁〉に対してはマナーが厳しくなり恥ずかしいことだとされるようになるのである。あまり臭くないので(といっても程度によるが)嫌悪よりも恥を加速する方向に行ってしまう。ガス量が多いので制御しにくく、派手な音が出て際立つのも恥を加速する。

 このように考えると「欧米では屁よりゲップが失礼(下品)である」という指摘はあながち間違いとは言えないだろう。規範(マナー)意識の芽生えが(より強く)どちらにあるかということが重要である。ただ現代日本は欧米人との食性の差はあまりない。日本人はよく肉を摂取するようになったのである。先の調査でゲップに対する忌避が多かったのもそのせいかもしれない。

 しかしそれでも、日本人の伝統的な食性(和食)は〈屁〉に対する向き合い方に、大きな影響を及ぼしていると言わざるを得ない。我々は〈屁〉を通して恥の文化を垣間見るのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 03:01| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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