2014年03月31日

続続続続続続・〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 我々の〈屁〉は忌み嫌われる場合がある一方で、人生の愛嬌者として哄笑と喝采の対象になったりもするのである。この落差は〈屁〉の両義性を示しているわけだが、聖と俗というような存在が放つ高尚な両義性ではない(ようだ)ねえ。

 例えば「糞」なんかの場合、スカトロジーをひもといてみれば、汚穢の中に神聖性を見出すという存在の不思議を体現する物体としてある(ことがある)。次のようなシーンで糞は、確固たる(聖なる)物体として汚穢から美の聖域へと迫っている。
 夜が明け離れる頃から、もう敵は射つて來た。私達は壕の後のクリークの水際まである僅かな斜面に出て、土を掘り、竈を拵へて、飯盒を掛けた。クリークの水は割合綺麗である。叉も我々は蒸し芋を始めたのだ。私は斜面に適當な場所を見つけて、秋空を映してゐるクリークの水を眺めながら、脱糞をした。頭の上を彈丸が過ぎる。クリークの向う岸でも堆土の蔭に蹲んで糞をたれてゐる兵隊が居る。兩方で見つけて、兩方から笑ひ、手をあげて、おうい、たつしやか、と叫ぶ。知らない兵隊である。戰場でのこれが小笠原流である。私は排泄したものを眺めたが、赤い色をして居なかった。ろくにものを食はないのに割合に立派な形をしてゐる。私は傍に咲いてゐた野菊の一輪を私の美しい糞の上にさした。それから、例のごとく、東方の空を拜した。朝になつて日輪に合掌することは我々の習慣になつてゐた。それはいろいろな意味を含めて缺かさなかつたのである。
(火野葦平「土と兵隊」1938年)

 ここには確固たる(汚穢の)存在感を持つ物体の聖と俗が表現されているが、脱糞や糞に嫌悪はなく下卑た笑いもない。糞は風景として直視され当たり前のように存在してしまう。これが〈屁〉をこいたとなると、非存在の異音異臭はひたすら嫌がられるか、軽々しい笑いのタネとなって増幅してしまう。我々の〈屁〉は見えない存在として物体性を隠蔽しているため視覚的な風景とはとらえられないわけだが、視覚がないぶん異音異臭の拡散は観念性を高めつつ、噂が噂を呼ぶように伝染性の嫌悪や笑いを巻き込んでいくのである。

 つまり、同じ生理現象でも脱糞と放屁では質が違うのだ。もともと「糞」と〈屁〉は出所が同じということで兄弟分とも見なされるわけだが、異音異臭だけで見えない現象としてあらわれる〈屁〉は、鮮明な物体である「糞」とは質的に区別される存在なのである。

 ところで、我々がこれまで検討してきた@屁A鼻水BイビキC腹の音DゲップEシャックリFアクビGクシャミH咳──は、鼻水を除けば、いずれも物体としては見えにくい現象(振る舞いで視認)であった。一般に生理現象は身体の表面では排出あるいは分泌が付随していることが多いが、そのこと自体はあまり目立たない場合もあるわけだ。しかし、振る舞いとしては派手にも隠微にも快や不快を伴っており、我々の心的運動に深い影響を及ぼしているといえる。

 このうち平穏を破る「邪魔」な@屁A鼻水BイビキC腹の音Dゲップ──は、身体の活動というには根拠が曖昧だ。そもそも制御のための身体的装置がない困った現象であり、制御しにくい。しかしEシャックリFアクビGクシャミH咳──は必然的な身体活動(呼吸)の「異変」と考えることができる。この「異変」とは目的を持って備わっている身体の制御からの逸脱である。

 この点をふまえて、生理現象は制御系と非制御系があるというのが前回までのまとめだった。心的運動への影響はこのことが反映してさまざまな場面で微妙な差異をもたらす。これは@〜Hの恥ずかしさの順番にも影を落としているわけだ。

 生理現象の@〜Hは物体としては目に見えない(見えにくい)現象であるが、歴然とした物体性を保持する糞(脱糞)のようには確固たる現象ではない。糞の特徴を挙げておけば、糞はしっかりした物体性を保持した制御系の現象である。こういう現象は落としどころがハッキリしていて、身体的のみならず社会的に有用性・必要性が認められ、便所のような場所が用意されているのだ。時にはその扱いはビジネス化されてもいる。しかも物体性の極北では、それは(時にすさまじい)汚穢にもかかわらず美の具現すらある。

 これに対して、非制御系で物体性がない〈屁〉はどこにどうあるのかわからない異音異臭のみで存在を示す現象である。我々は〈屁〉のようなこうした存在様式を普通は忌み嫌う。だいたい(スカシ屁のように)姿を見せずに異様な音とニオイで周囲を驚倒させるのは、どう転んでも卑怯と言わざるを得ないね。かろうじて許されるのだとしたら、誰がこいたかわかるときであろうが、むろん本人が悔いないのならば不届き千万のままだ。

 生理現象のA鼻水BイビキC腹の音DゲップEシャックリFアクビGクシャミH咳──は〈屁〉ほどではないにしても〈屁〉と同様の物体性の希薄さがある。端的には物体としては見えない(見えにくい)ということがある。このことに加えて非制御系の「邪魔」や制御系の「異変」という、正常なあり方からは反する(存在の)曖昧さは、正統にして確固たる糞とは大いに違うのである。

 先にも触れたように、非制御系の曖昧レベルは制御系よりも高い。非制御系はそもそも曖昧だが、制御系はもともと切実な身体の目的のもとにある。曖昧とはいっても制御系の「異変」は、目的を持つ制御器官の変調として根拠があるわけだ。

 さて、生理現象の@屁A鼻水BイビキC腹の音DゲップEシャックリFアクビGクシャミH咳──は、統計的に我々が公衆の面前で恥ずかしいと感じる生理現象の順位だった。最も恥ずかしいものは〈屁〉であり、最も恥ずかしさが減ぜられているのは「咳」である。まあ、日々の実感からいっても@〜Hの順位はほぼ納得できるものではないかと思うね。〈屁〉と「咳」を対比してみるとこうなる。

〈屁〉=肛門に現象する(非制御系→とても恥ずかしい)
「咳」=口に現象する(制御系→あまり恥ずかしくない)

 まさに両者は対極的な存在だ。この両者の間に鼻水以下の生理現象があるのだが、恥ずかしさのレベルは非制御系(屁、鼻水、イビキ、腹の音、ゲップ)のグループが優位なわけである。

 人間の快と不快の原則から、これら生理現象は(たとえ自分には快であったとしても)他人に不快を与える(ことを認識してしまう)から不快現象として立ち現れている。この時点で不快現象は共同幻想の領域に入って(みんなで)忌避する存在として共有されるようになる。例えば、我々にとって鼻水は汚らしく、イビキは異様に響くね。このときの不快の表現である「汚い」とか「異様」というのは共同幻想なのである。ここから「鼻水を見せない」「イビキはかかない」という暗黙の規範(つまり我慢)を自他に課しているわけだし、そんなものを見せる(聞かせる)ようなことがあっては恥ずかしく思うのである。

 多かれ少なかれ@〜Hの生理現象は人前で恥ずかしい。その先頭と後尾に〈屁〉と「咳」がきている。現象する場所が肛門と口だから、奇しくも身体の出口と入口ということになるね。羞恥心や不浄感の観点からいえば、いつも露出している口といつも隠している肛門では、なるほど肛門からの方が強烈に具現するだろう。肛門付随の〈屁〉がより恥ずかしいのは自然の成り行きである。

 もちろん肛門付随というなら糞も恥ずかしいのだが、糞の場合はその恥ずかしさを凌駕する(有用性があるのだという)言訳が用意されている。恥ずかしさは言訳で激減するのであり、その視認できる強烈な物体性は(言訳なしでも)逆説的な聖俗の結合すらもたらすのである。

 我々の〈屁〉は糞と同質の異音異臭をはらみながら存在しているが、非制御系の無用物としてある。何の役にも立たないものが糞のような異音異臭をはらんでは、いよいよ存在意義はない。異音異臭は言訳できない不快現象となってしまうのだ。

 まとめると〈屁〉は(1)制御系の「異変(咳き込み)」である咳と発生元が身体的対極にある(2)制御系の「目的(脱糞)」である糞と発生元が身体的同極にある(3)正統的な制御を持たない非制御系の「邪魔」な現象である──となる。要するに〈屁〉は、咳とは(制御上あるいは身体上)全く異質であり、発生時から糞と同じ属性を獲得しつつ(しかし物体であることを隠蔽し)糞の制御に寄生して発現(放屁)しているのである。

 生理現象の羞恥は基本的に先に検討したように自他に及ぼす不快現象からくる心的運動であるが、その根底には何かしら他人を驚かす不快があるね。そして非制御系の生理現象の中でも〈屁〉の異音異臭は不快が際立っているわけだ。なるほど〈屁〉の異音異臭の影響力は、鼻水(視覚)、イビキ(聴覚)、腹の音(聴覚)、ゲップ(聴覚、嗅覚)などが我々の感覚を刺激する以上に大きい。

 これまであれこれ強調してきたが、その不快現象をさらに増長する構造が〈屁〉にはある。つまり「スカシ屁」というものの存在である。考えてもみよう。鼻水やイビキや腹の音やゲップなどに「スカス」という行為はないのである。わからぬようスカシた場合には、他人にはそれは存在しない(も同然になる)のである。

 しかるに〈屁〉の場合にはどうだろう。残り香(臭)という奴が持続的に広がる。〈屁〉に限らず、見えずに(発生元が不明で)異臭が漂えば大騒ぎになるわけね。〈屁〉の場合には糞と同じニオイだから、発生元はその辺に糞が落ちていなければ人間(の屁)であると疑われる。このときの疑いは人に対する嫌疑であって犯人追及の意味合いを持っている。(ちなみに公害防止法は悪臭の取締が中心課題になっているが、ニオイの垂れ流しに我々は敏感に反応して断罪する)

 つまり〈屁〉は発生元がわかっていても迷惑千万な罪過だが、発生元なのに知らん顔していては、陰険な無差別テロに等しい卑怯きわまりない大罪となってしまうのだ。
 恥の上塗り
 ある田舎の娘、芝居に行き、衆人の中にて大いなる屁一つ放ちけり。余りの恥ずかしさに顔赤らめ傍らの老爺にかぶせ、己の罪をまぬかれんとし、老爺に向かひ、「おぢいさん、お腹が張りましたか」と言ひしに、老爺は睨みたる目付きにて、「さうさ、お前にとんだ御馳走されて大分腹が張つた」(福富織部『屁』から引用)

 このような状況をいろいろなケースで多角的に観察すれば、そこには強い倫理性、羞恥性、侮辱性の発現がみられる。倫理性に迫られて倫理を突き付けられ、羞恥性にとらわれて羞恥にさいなまれ、侮辱性に舞い上がって加害や被害の侮辱が横行するさまざまな状況を生む。それもこれも自他の一発の異音異臭に由来するのである。

 芝居に夢中の娘は〈屁〉のことなど忘れていたに違いないが、うっかり(それも大音響で)こいてしまった瞬間に(まわりにも娘にも)倫理性が意識の前面に躍り出てきただろう。緊張がまわりを包む。そして「人前でこいてはならぬ」という共同規範から逸脱したことで娘には強烈な羞恥が発現する。この窮地から脱出するため、自分の罪を老爺に転嫁する濡れ衣(自分はこいていない)という虚偽を発動させ、娘は羞恥を解消する(嘘を嘘とも思わぬ)欺瞞に踏み出したのである。老爺に対する行為は侮辱であるが、老爺にピタリと反撃される。まあ、娘の浅知恵(卑劣さ)などまわりはお見通しというわけだ。

 鼻水、イビキ、腹の音、ゲップには〈屁〉の異音異臭にまつわるような卑劣さはほとんどない。容易に発生元は特定され転嫁できないし、説得的な言訳も用意しやすく、異音はともかく異臭の影響は少ない。自他ともに不快現象を許せる根拠は〈屁〉よりも見出しやすいだろう。

 一発の〈屁〉の卑劣さは異臭の効果が大きいんだね。タダの異臭がトンデモない異臭になってしまうのが発生元のわからない「スカシ屁」なのである。この異臭はまことに居心地が悪いが、誰がこいたのかわからない疑心暗鬼によって、異臭はいよいよ醜悪なものへと祭り上げられる。その異臭は発生元であることを隠蔽した(誰ともわからない卑劣な)人間の存在を暗示している。見えないが確かに存在しているのだ。異臭はタダの異臭ではなく卑劣の色彩を帯びて漂うのである。

 まあ、たいていは〈屁〉の発生元はわかってしまうものなので、露骨に卑劣の色彩を帯びることはあまりないだろうが、先の小話の娘のように(まわりにお見通しなのに)恥ずかしさのあまり隠蔽に走ってしまうのは、卑劣なものを隠そうとして卑劣になってしまう悲しいアイロニーである。(政治家の違法借金の言訳みたいなものだ)

 繰り返すが、鼻水、イビキ、腹の音、ゲップにはここまでの隠蔽の衝動はない。〈屁〉が非制御系の生理現象の中で別格の存在になるのは、身体が発する見えない異音異臭(特に強烈な異臭)が誰かの肛門から出てくるという存在形態(現象)に起因しているのだ。まさに〈屁〉は老若男女の生理現象の鬼子であり、我々の精神性に深く関与しているのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 10:12| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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