2014年02月28日

続続続続続・〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 生理現象の中でも〈屁〉が特異さを際立たせるのはなぜだろうか。生理現象は我々の身体反応の過程として現象しているわけだが、単なる身体の反応というだけでなく、それは我々の心的運動をつくり出し、心身の相関的な関係を実現している。一発の〈屁〉が単なる身体反応にとどまらないゆえんである。

 これまで検討してきた@屁A鼻水BイビキC腹の音DゲップEシャックリFアクビGクシャミH咳──は、生理現象の一部に過ぎないが、我々の振る舞いの特徴的なものだ。何というか、〈屁〉をこいては怒られ鼻水垂らしては馬鹿にされイビキをかいては迷惑がられ腹を鳴らしては笑われゲップをしては誹られシャクリをしては嫌がられアクビをしては注意されクシャミをしては顔を背けられ咳をしては心配される──というように、いったん現象すれば他人を巻き込んで波紋を広げる。現象させた自分自身もまた(普通は)大いに恐縮せざるを得ないのは生理現象の持つ影響力ゆえである。

 検討してきた@〜Hの生理現象は、その解釈をめぐっては大いに誤解されるものかもしれないが、良いも悪いも心的に我々を支配している、いわば身体の原発性の反応なのだ。我々は生理現象を通じて(それを意識することで)世界とつながっており、その積み重ねによって世界を心的に(観念として)構成している。

 というわけで、生理現象としての〈屁〉も我々を心的に支配しているのであり、世界を心的に構成していく現象なのだ。とても重要(特異)な──。

 さて、議論を蒸し返そう。検討してきた生理現象の@〜Hの順番には意味があった。この順番は電車の中(つまり公衆の面前)でやらかしてしまったときの恥ずかしさの順番になっている。いずれも恥ずかしいのだが、最も恥ずかしいのは屁、最も恥ずかしくないのは咳というわけだ。屁と咳の間にそれぞれ生理現象が並んでいる。

 これらの現象を観察して次のように二つのグループに分けられることがわかっていたね。

非制御系=@屁A鼻水BイビキC腹の音Dゲップ
制御系=EシャックリFアクビGクシャミH咳

 恥ずかしさを感じる順番の真ん中でグループ分けされる結果になっているのだが、年を取ると、非制御系の生理現象は恥ずかしさが薄れ、制御系の生理現象は恥ずかしさが増すのである。その理由についてはすでに検討したので参照して欲しい。

 要するに、制御系の生理現象は老化によって制御力が衰え、できていたものが(十分)できなくなるので恥ずかしい。非制御系はもともと(十分)制御していなかったのであり、老化で少々だらしなくなっても(それ以上あまり)気にならない。

 それは身体が現象をどう引き受けているのかという、身体が振る舞う生命維持の、いわば責任感のようなものであろうか。生理現象における非制御系とは、生命維持に直接的にあまり意味がない(格別の意味を見い出せない)現象である。このときの意味がないとは(無意味というわけではないが)生命維持の身体機能からすれば「邪魔」な産物であり、単に排除したい余計なものとなる。これに対して制御系(E〜Hは呼吸という身体機能の制御の中にある)は制御の「異変」という形で現象する。

 身体上の「邪魔」と「異変」では身体自体の向き合い方が違う。身体は「邪魔」ならば忌避や排除に向かうが、「異変」ならば身体毀損や制御不全の復元・修復に努める。
 
 @屁A鼻水BイビキC腹の音Dゲップ──は、身体の必然からは一般に「邪魔」の部類であろう。しかしEシャックリFアクビGクシャミH咳──は、尋常ならざる(呼吸の)「異変」である。身体は自らの維持のため何らか制御するという目的を持って機能しているので、制御ができない、あるいはできなくなる(つまり目的が達成できない)ことは、心的負い目を生む理由となるに違いない。非制御系のように制御機構がない(目的がない)のならば、制御を根拠にした(できるとかできないとかの)心的な負い目は生まれようがないだろう。

 もちろん我々は非制御系であっても、例えば鼻水を出さぬように鼻をすすって制御するだろうが、あまり根拠のある制御ではないのだ。手鼻をかんでもティッシュを突っ込んでも垂れ流しっぱなしでも飲み込んでも、とにかく何をしてもよいのであり、もともと制御機構がないのだから、その振る舞いは制御を根拠にすることができないのである。

 一方、EシャックリFアクビGクシャミH咳──が呼吸運動の「異変」と見なせるのは、これらが一貫して呼吸に関連して動く筋肉や臓器の動作から生まれているからである。つまり制御の範疇にあり、そこから逸脱した現象なのだ。

 かくして非制御系は制御できるか否かではなく、もともと身体的に制御の範疇にないのであり、制御系はそもそも制御すべき現象(から派生している)ゆえの制御といえるのである。

 非制御や制御のどちらであっても@〜Hの生理現象は我慢の対象になっているわけだが、恥という観点から見れば、これらは恥ずかしい現象であることには変わりはないね。

 公衆の面前で恥ずかしさの筆頭にある〈屁〉に戻ろう。しばしば老若男女を悩ませる〈屁〉は非制御系に属し、制御する機構の存在は曖昧だ。腸内ガスの発生は不規則きわまりないが、それを貯めておく制御系の身体の機構はないのであり、ガスの発生から処理まで統一的な制御の範疇を持たない。まあ、肛門の締まりの良さが我慢を支援する有力な身体力であるとしても、肛門自体は糞便制御の機構であることが一義なのである。

 制御の機構が備わって制御するのなら何かしら目的があるはずだが、〈屁〉にはそれがあるのか。そもそも〈屁〉とは何か。何のためにあるのか。車の排気ガスのような明快な制御機構は(神様の設計図には)考えられていないのだ。残念ながら〈屁〉の制御はあくまで「ついで」なのである。

 同様のことはA鼻水BイビキC腹の音Dゲップなどにもいえるわけで、これら非制御系は専従の制御機構が備わっていない。しかしながら、EシャックリFアクビGクシャミH咳のような制御系は、確かに〈屁〉のように突発的で不規則な発生なのだが、あくまで呼吸の「異変」としてその存在は呼吸機構に根拠を持つのである。制御は呼吸機構を動員して行われ、それは正しい出自の振る舞いになっているわけである。

 逆に言えば〈屁〉はどんな制御も根拠がないのだから、制御は(効果があれば)どんな手段でもいいということになる。かくして非制御系における我々の身体的、心的運動は潜在的にアナーキーなのだ。そういう手段を選ばぬ〈屁〉の制御(我慢)は音成にも心当たりがあるさ。

 我々が〈屁〉を恥ずかしく思うのは〈屁〉が他人に及ぼす異音異臭の影響ゆえだね。こういう生理現象の不快は、他人に不快を与えている不快という二重構造を持つ(参照)。誰かの前で〈屁〉をこくことは誰かを不快にするわけで、それを意識して不快であるということだ。そして不快の原因になることは(礼儀作法に反するから)恥ずかしい。こうやって羞恥は観念的な感情として育成されている。

 ともあれ、ここで〈屁〉が恥ずかしさの筆頭にあるのは、人前で強いタブー(禁止ルール)になっていることを示す。それは及ぼす不快の度合いが何にも増して深刻であるからにほかならない。このとき危機意識を助長するのは人を驚かす〈屁〉の異音異臭だが、それに加え、身体が放屁の危機に見舞われる頻度(自覚)が及ぼす影響も見逃せないね。生理現象の発生頻度が危機意識に直結してくるのは、例えば地震の発生頻度が高い日本における、地震への危機意識の高さを見ればわかるはずだ。

 異音、異臭、発生頻度によって構成される負の卓越性によって〈屁〉は恥ずかしさの筆頭に押し上げられている。しかしほかにも、理由がありそうだ。非制御系をつらつら観察するに、鼻水、イビキ、腹の音、ゲップには心理的な言訳ができる余地があると思えるわけだね。
 例えば──

鼻水=見苦しくても風邪や花粉症(の被害者?)とも見なされる
イビキ=強烈な異音だが(よく働いたので?)疲れているのだとも見なされる
腹の音=ひもじさを表す異音だが(むしろ飽食・満腹の日本では?)ご愛敬とも見なされる
ゲップ=満腹を表す異音だが(豊かさを誇示して?)満足感の表明とも見なされる

 まあ人それぞれだが、これらは総じて〈屁〉に比べれば言訳になる原因・理由(らしきこと)が推定される余地があるのである。何らかの理由付け(言訳)は恥ずかしさを減じる一法になる。しかし〈屁〉となると理由付けが難しい。何があっても〈屁〉は御法度──の禁止ルールは強固であろう。
 そもそも〈屁〉とはどんなものかといえば、

異音=時に強烈な異音あり、時に忍びの無音あり(例外は数知れず〜)
異臭=音高ければ無臭なり、音無ければ激臭あり(例外は数知れず〜)
頻度=イモを食って数多し、肉を食って数少なし(例外は数知れず〜)

 これにどんな意味(理由)があるのか。こんな〈屁〉をこいたらどう見なされるのか。まあ確かに、どうあがいても多かれ少なかれ〈屁〉は嫌がられるわけで、南方熊楠は『十二支考』の中でアラブ人の〈屁〉を取り上げ、フランス人や日本人を比較して〈屁〉の忌避・嫌悪ぶりを考察していた(参照)。これを読むと〈屁〉が古代から民族性を出して強弱さまざまにタブーを有していたことがわかるのである。

 熊楠が紹介しているエピソードに「アラビアのある港で一水夫が灰を一俵かついで屁を一発取り外すと、まわりの一同まるで無上の不浄に汚されたように争って海に飛び込んだ」というのがあったが、こういう〈屁〉はまさに何があっても御法度の段階にあるわけだ。鼻水、イビキ、腹の音、ゲップがここまで忌避されることはないだろう。

 人はみな日常生活で〈屁〉とは無縁(を装って)の振る舞いをしているのだが、もちろん人は誰だって目立たぬよう〈屁〉をこいていることを我々は知っている。誰でもこくからといって許されないのは〈屁〉が別格の意味合いを持っているからだろうね。

 このことについての検討は後でまとめることにするが、ここでは〈屁〉が非制御系の生理現象の中で一歩抜きん出た存在であることを見通して次回に続けたい。


posted by 楢須音成 at 22:37| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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