2014年01月31日

続続続続・〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 前回エントリから個人的な事情(病気の告知)で、だいぶ間があいてしまった。ようやくエンジンがかかったのだが、ここまでの流れを簡単に整理しておく。このエントリは〈屁〉は生理現象の中でも別格の鬼子であるという観点から始まったのだった。何事も前置きの長い音成としては、そもそも我々の生理現象とは何なのかというところから、ああだこうだとつつくことから始まったわけである。

 文化人類学的な観点や社会心理学的な観点など、聞きかじった専門家の所論を勝手に我田引水しつつ論を展開したのだが、それがまだ〈屁〉の鬼子たるゆえんには至らないうちに、たちまち年が明けてしまった。

 ここまでを単純化してまとめると、我々は生理現象(身体の内から表出する活動)を抱え込み、常にそれに向き合っているが、他人との関係においては生理現象は厄介なもの(不快現象)になっているため、人類共存のためにはそれにさまざまな意味づけをしなければならない。それが身体的にして心的な「我慢─真似─不覚」の振る舞いであり、そのトライアングルから「倫理─侮辱─羞恥」が奏でられている。そのときの我々の中核となる振る舞いが「我慢」である

 ──ということで、何の屁理屈だかね。後を続けることにしよう。


 子育てをしていると辛抱強く子供を観察することになるね。音成はもうそれは終わってしまったが、我々にとって幼少の子供たちの振る舞いの観察は、我身を振り返るいい機会であると思える。そして我々は、いくらかは忸怩たるものを覚えながら、子供たちに人生のいろいろな「我慢」を教えているわけである。

 例えば「泣くな」「嘘つくな」「屁こくな」などと大人が行使する一方的な我慢の指導は、子供たちを育て上げる肝心かなめの振る舞いとなっている。

 我々は成長の段階に応じて強くも弱くも躾られるのだが、そこには我々が日々獲得していく身体や観念の発達段階に応じた我慢が存在する。子供の我慢と大人の我慢は(出発は同じでも)違う振る舞いとなっているのである。それは〈屁〉に対する態度を考えてみてもわかるはずだ。

 赤ん坊にとって生理現象は「生理現象」ですらないだろう。それはひたすら快か不快の感覚域で発生している何物かである。赤ん坊にとって、どんな屁も〈屁〉ではない。大人の介在によって我慢と一緒に屁を〈屁〉と観念するようになるのは随分あとになってからだ。それも子供のうちは〈屁〉は許容ルールを主軸として観念し、大人になると禁止ルールを主軸として観念するようになる。

 許容ルールとは「やってもよい」と強調する規範であり、禁止ルールとは「やってはいけない」と強調する規範である。考えてもみよう。幼い子供に〈屁〉を禁止することなどできないね。せいぜい排尿・排便と同じように場所をわきまえる(我慢する)ように躾けるのにとどめる。許容も禁止も我慢が介在するルールには違いないが、その内実は微妙に違う。〈屁〉の禁止ルールは(肛門の締まりがよく)制御力が十分に備わってこそ強調されるのだ。

 しかし、どちらにしても我慢というものが、我々にとって重要な出発点であることが観察される。我慢には身体的制御(我慢する身体力)が関連し、そこでは観念的制御(我慢する意志力や意思力)の方向・強弱が形成されてくる。

 一般に幼い子供は身体的制御も観念的制御も薄弱であるね。もの心ついて〈屁〉が我慢の対象となる頃には、身体力も意志(思)力も相応に備わって我慢できるのだが、ここで重要なのは、身体の発達が観念の形成・進化をうながしていることだ。そして身体の制御という観点から人間の一生を見ていくと、概して幼少時代は弱く、壮年時代は強く、老年時代は弱い(衰える)──ということになるだろう。

 そもそも〈屁〉の我慢に限らず生理現象の制御は身体と観念の密接な相関において成立している。我々の成長過程において身体と観念は干渉し相補し合うのだ。身体は自己の(肉体的な)成長、観念は他人との共存(の広がり)を主たる根拠として干渉し相補し合うのである。そして身体の振る舞いが観念に根拠を持ち、観念の振る舞いが身体に根拠を持つようになる相関が、我々の生理現象(や行動)を覆い尽くすのである。

 身体と観念が(どちらに比重がかかっているにせよ)連携して我慢(制御)を演じる様子は、昔から生活実感(リアリティ)のある悲劇喜劇のネタになったものだ。それを江戸の〈屁〉の川柳にのぞいてみよう。
乳飲み子へおならのとがを塗り団扇(うちわ)
※赤ん坊にとがをなすりつけているズル〜イ大人の様子だが、赤ん坊なら〈屁〉は許される(まあ仕方がない)わけである。赤ん坊は身体も観念も未成熟な段階ゆえにとがはない。

どこでどうするか娘の屁を聞かず
※いつしか人の面前で〈屁〉は封印される。まして娘ともなれば決して〈屁〉はこかぬ。

時もときおならを叱る姉女郎
※うっかりこけば叱られる。人生のタイミングによっては〈屁〉は命取りにすらなる。このような経験則は共同のルールになり先輩から後輩へと受け継がれる。

屁をひった嫁は酒でも飲んだやう
※我慢の糸は時に切れざるを得ない。お尻の締まり具合は制御しがたいときがあるのだ。多少なりとも他人行儀な従属関係があるところでは、それは屈辱とも恥ともなる。

姑の屁を放ったので気がほどけ
※しかし従属関係においては目上の失敗は大いなる安堵である。失敗の可能性は自分にもあるが、現時点での制御力の優位は(暗黙に)誇示できる。一般に老年における制御力の衰えは(相対的に)若年の制御力の優位を暗黙に保証している。

屁をひりに雪隠に行く賢夫人
※単に身体的な我慢ができるだけでなく、場所柄をわきまえてうまく処理(制御)する意思力は、男だろうが女だろうが賢人にふさわしい。賢いとは身体的にも観念的にも自在な制御が利くことなのだ。こういう利発さを人は賢いと感じるのである。

すかしては小姓せっぷく道具なり
※しかし制御を利かしても愚かな人は人生を誤るのである。そっと(わざと)スカしてバレてしまうのは秘密(悪事)の露呈だ。発覚し、それが結果的に時と場所をわきまえぬ無礼な振る舞いになるのは、誠に不徳の致すところである。だいたい(制御の利く)若者が隠し事のスカシ屁をするのは不道徳なあざとさをにおわすよ。

南無阿弥陀仏と屁をひり芋を食ひ
※脳内の観念が肥大し限りなく自己肯定(して自己否定)する他力本願な人は、豪放磊落に〈屁〉をこくこともある。その姿は制御すべき〈屁〉を超越する解脱の振る舞いの一つだろう。ただし、こういう聖人の悟りとはほど遠い、ただの〈屁〉こきの凡人が世にはびこっているのが現実である。川柳の人物は聖人であろうか、凡人であろうか。

汝らは何を笑ふと隠居の屁
※ついに身体の制御が衰えて〈屁〉をこく(こかざるを得ない)老人は〈屁〉の恥(観念)もまた衰えている。川柳の場面は、子供たちが隠居老人の〈屁〉をはやし立てているのかもしれない。幼い子供たちも〈屁〉の身体制御は未だしであろうが、これから成長して学んでいく人と、これからは衰えて健忘していく人とでは、身体条件も〈屁〉への向き合い方も違う。老若のジェネレーションの質的ギャップは決定的だ。

 かくして、赤ん坊から老人までの人生行路において我々は〈屁〉をはじめ生理現象にさまざまに向き合う。多くはどうということもない日常の変化かもしれないが、そもそも我々の存在は幾多の生理現象のかたまりのようなものである。人生における〈屁〉を通してみても生理現象とは、身体と観念が相関して現象しているのだとわかるだろう。

 そこにある我慢(制御)は他人を観念(意識)したときの振る舞いである。この我々の心的運動の中核にある我慢の構造(身体と観念の相関による個体差)によって、我々の倫理性、侮辱性、羞恥性は複雑に現象してくるのだが、これらはいずれも傾向を持った共同幻想の類いにほかならないのだ。

 ここでちょっと念のために脇道にそれるが、倫理性が高いとか侮辱性が高いとか羞恥性が高いというのは、倫理的であるとか侮辱的であるとか羞恥的であるというのと同じ意味ではないね。倫理性が高いというのは(倫理的であろうがなかろうが)倫理が発現する緊張感の存在(の高低)を言っているのであり、その渦中にある(つまり、そこに倫理性がある)からといって倫理的に高潔であることを意味しない。

 倫理的に下劣な人間が高潔な人間を(倫理的に)攻撃することはあるわけだが、その状況は、下劣であっても(いや下劣であるがゆえに)倫理性に敏感になって攻撃的なのである。そうなると倫理性が高いほど、わずかな瑕疵であっても攻撃の対象になってくる。

 あちこちでこっそり〈屁〉をこいたり、平気の平左で迷惑な〈屁〉をこく人物が、正直者の不覚の一発を笑いものにして責めることはあるよね。この場合の「責める」「攻撃する」という振る舞いは、自らの非を隠蔽あるいは忘却し(つつも、倫理性の緊張だけはヒシヒシと感じる感受性があるので)目の前の他人の非は絶対悪として映じている激情である。そんな攻撃する人物が下劣であればあるほど激しい(そこには下劣さからの解放感がある)のであり、自らの下劣さを隠蔽する動機が意識せずとも存在してしまっている──人間にはそういう場合があるのである。

 音成が小学校時代にみんなの前で不覚にも〈屁〉をこいてしまったときに、真っ赤になった音成を口を極めてあざけった奴がいた。最初は誰が〈屁〉をこいたかわからない状態だったので、知らんぷりするつもりだったが、「やった、やった」とご注進する奴がいてバレたのである。こういう場合、人間は誰でも〈屁〉をこくものだとか、誰だってうっかり〈屁〉はこくだろうというような正論は、その場の激情には通用しないのである。音成は頭にきたよ。なぜなら口を極めてあざけった奴が、つい先ほど神聖なる図書館で極めてくっさいスカシ屁をしていたからである。(それを察知した音成はそっと注意してやったのだ)

 音成の〈屁〉は不覚の過ちである。みんなの前で暴露的に何もそこまで大騒ぎしなくてもいいではないか、と言いたかったわけだが、口を極めて声高に(つまり、倫理性をつり上げて)非難されたのだ。「お前だって図書館で…」という反撃は持ち出せず、まあ、こういうルサンチマン(怨恨)の応酬は激情するほどに品性下劣を露呈してしまうよねえ。そのときわかったのは、もっとも臭い〈屁〉をする奴がもっとも深く〈屁〉を憎む──ということであったよ。

 さて、このような「倫理性」と「倫理的」の関係、つまり倫理性が高いことと倫理的であるかどうかは別の意味である──ということは概ね侮辱性や羞恥性にもいえるわけである。

 先の音成のエピソードで暗黙に共有されている「人前や図書館で〈屁〉をこくのはいけない」という規範は倫理性の実現である。倫理性の緊張(高まり)を端的に表現している。小学生といえども、それにもとることは(不覚とはいえ)指弾の対象となる(ことがある)。しかも〈屁〉は羞恥性が高い。一般に〈屁〉は他人に発覚する事態になると倫理性も羞恥性も強力に発現してくるのであるね。もっとも、自ら〈屁〉を恥ずかしがるかどうかは人さまざまなので、羞恥性が高い(発現している)ことと恥ずかしがる度合いは一致しないわけだ。

 それに羞恥性は倫理性に比べると主観的なものとなる。倫理性は倫理という規範(基準)が言語化され曲がりなりにも共有されるが、羞恥性は羞恥という主観的な情動のままに明確な基準が失われている。恥ずかしさの基準というのは(あるようで)ないのである。

 このことは侮辱性にも共通することで、侮辱という主観的な情動には明確な基準がない。明言する言語化が揺れて難しく、どこがどこまで侮辱(と認識する)かは相互の主観的な感受に頼るのである。

 前回、音成は「我々は相手との関係の中で『我慢─真似─不覚』という振る舞いのトライアングルを行きつ戻りつしている」と指摘したが、この三方面からの構図は「倫理─侮辱─羞恥」に対応させて次のように図式化したのだった。

我慢」によるルール遵守=倫理の実現
真似」によるルール無視=侮辱の具現
不覚」によるルール逸脱=羞恥の発現

 この図式はルール(規範・基準)をめぐって「倫理─侮辱─羞恥」が現れることを言っている。しかし、この場合のルールとは、まずは倫理性によって生まれ明言されるものであって、本来的に侮辱や羞恥の側にルールがあるわけではないんだね。

 こう見てくると、言語化を伴う倫理性(我慢)というものが、我々の侮辱や羞恥の枠組みになっていることがわかる。侮辱や羞恥は倫理(ルール)によって囲い込まれている。だがしかし、倫理が侮辱や羞恥の(きっかけにはなっても)ルールではないのである。

 またもや、ああでもないこうでもないと議論が錯綜してきた。もう少し付き合っていただくとして、先の音成のエピソードでは、音成が〈屁〉をこいて他人を侮辱したわけではなかったね。他人から〈屁〉をこいたと暴露され侮辱され恥をかいたのであって、音成の〈屁〉は誰を侮辱したわけでもない──となるわけだが、この状況は立ち入ると少しばかり複雑だ。

 果たして音成はみんなを侮辱しなかったのか。音成は原因となる〈屁〉をこいたのであるが、そのことはみんなを侮辱したことにはならないのか。なぜなら人前で〈屁〉をこくなど、こかれた方にしてみれば侮辱以外の何ものでもあるまい。不覚にもやってしまいましたという事情はどうであれ(高い倫理性を醸している状況下では)不届きな行為である。例えば、神聖なる礼拝堂でブウとやってはバチが当たるというようなもんである。あるいは「すかしては小姓せっぷく道具なり」というように殿様の怒りに触れれば切腹ものであり、このとき殿様は侮辱されたと思っている。

 音成の場合、そのとき誰かを侮辱したなどとはつゆ思わず、ひたすら恥ずかしさに震えていたのだが、みんなの中には怒りに震えていた潔癖な奴がいたかもしれない。そう考えると我々の振る舞いにおける「倫理─侮辱─羞恥」というトライアングルは一つの解釈だけを許さない側面もあると気がつく。思えば、スカシ屁野郎の図書館での行為に音成は侮辱された(大好きな図書館の神聖さを汚された)と認識したのだが、みんなの面前で音成の〈屁〉を糾弾したそのスカシ屁野郎だって、音成からの侮辱を感じマジで怒り心頭だったのかもしれないのだね。

 いずれにしても、一発の〈屁〉がもたらす侮辱や羞恥は一面的ではない。侮辱や羞恥は人それぞれが置かれた状況によって相互に入れ替わることもあり得るし、個々人の意図(主観)を越える結果を招来する(こともある)のである。一方で倫理は理念的であり(概ね)広範な合意として明言し得るものなので、個々人の都合で簡単にはブレない。倫理性という枠組みの中で、倫理も侮辱も羞恥も発現するのだが、もちろん倫理性が高い(枠組みが強固である)ほど強く発現する。それは基本的な規範として倫理観になって存在しており、侮辱や羞恥はいわばその規範(倫理)へのさまざまな解釈そのもの(情動からの振る舞い)として発現している構造となっているのだ。

 それゆえ侮辱や羞恥は多分に個人的で身勝手で恣意的なものであり続ける。といって、まったく個人的なものかといえば、そうでもないわけで、侮辱や羞恥も、我々が集団化から逃れられないがゆえの共同幻想には違いない。ただ、倫理の理念(観念)性には及ばないし、規範としての理念(客観)にはなり得ない。侮辱や羞恥は、共同幻想という観念性の侵蝕を受けながら情動に根ざし、感情的であり主観的なのである。

 音成がみんなの前で〈屁〉をこいたのは我慢が足りなかったからだね。何かを我慢するとは、集団化を果たしている人間としての制御である。制御は身体的であることと心的(観念的)であることとが協業している。つまり〈屁〉の制御は身体的かつ心的バランスによって我々にもたらされている。身体は心的に影響を受け、心(観念)は身体的に影響を受けるのだ。音成は大腸ガスの膨満(身体的圧迫)に対して油断(心的弛緩)をもって対処し失敗したのである。

 あのとき仲間内ではごく当然のこととして「〈屁〉は人前でこくべからず」という暗黙のルールがあっただろう。当初は誰も〈屁〉など意識しない(意識下の)ゆるやかなルールであったはずだが、小さな過ちの〈屁〉を声高にご注進する奴の連呼によって、その場の倫理性は一気に高まり、たちまち雰囲気は緊張した。強く強く〈屁〉が意識されタブー化したのだ。その状況下では誰もが音成の失態を見て「いま〈屁〉をこいたら大変だ」と自らの危機感とともに思ったに違いない。さらに図書館スカシ屁野郎の音成への攻撃によって、さらに緊張(倫理性)は高まった。もうこうなると誰だって固まる。我慢しきれずそこまで出かかっていた〈屁〉も引っ込むというもんだろ。

 とまあ、怨みがましい思い出はさておき、生理現象の我慢、例えば〈屁〉を我慢するというような振る舞いから崇高な倫理が生まれる基本的な心的構造があるのだ。我々の心的運動はその仕組みの中で展開しているのである。単純に〈屁〉を「我慢する」というが、実はその振る舞いの奥深さを知らねばならない。 


posted by 楢須音成 at 00:00| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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