2013年11月30日

続続続・〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 我々の〈屁〉とか咳とかクシャミとかアクビとかの生理現象は人前ではしないことが一般的マナーである。マナーが突出する(服従せざるを得ない)のは、より厳粛にしてより高貴なる公の場であることは言うまでもない。そういう場での不覚は懲罰ものである。

 結婚式でうっかり〈屁〉をこいた花嫁が恥ずかしさのあまり自殺したという話さえ現実にある。マナーからの不覚の逸脱(粗相)がもたらした悲劇である。1940年頃の話として『屁珍臭匂臭(まるへちんぷんかんぷん)』(1986年、泰流社刊)に紹介してある話は、著者の山名正太郎が転勤先の岐阜で耳にした事実なのだという(参照)。

 いまどき式の最中に〈屁〉をこいたくらいで死ぬやつがいるのかと思うかもしれないが、結婚式よりもっと極度に緊迫した公の場だってあるだろう。そこで犯した醜態が死を呼ぶ──そういう社会はあるのだといわざるを得ない。

 しかしまあ、厳格な禁止ルールではないまでも、我々の日常には屁、クシャミ、アクビ、シャックリなどの生理現象に抑制や隠蔽がついて回っているね。自分の生理現象は他人には不快だとわかっているし、もちろん他人の生理現象は自分には不快である。気づきたくもなければ気づかれたくもないのだ。程度の差はあれ人の目にふれないようにする(少なくともそう努力する)ことは各人の世間的なマナーになっている。

 やたら〈屁〉をこいたりクシャミをしたりアクビをしたりシャックリしたりするのは、どんなにおおらかな集団であろうと(素知らぬ顔、当たり前の顔をしていても)それを「無」にはできない現象だ。世間では屁、鼻水、イビキ、腹の音、ゲップ、シャックリ、アクビ、クシャミ、咳のような生理現象は人前ではタブーなのだ。自他ともに不快なのである。失礼、無礼なものとして抑制(我慢)し隠蔽するわけである。

 少し脇道に入って話を進めたいのだが、前回、電車内で恥ずかしいと思う生理現象についての研究を紹介したね。そこでは生理現象が次のようにグループ分けされていた。

Aグループ=屁、鼻水、イビキ、腹の音、ゲップ
Bグループ=シャックリ、アクビ、クシャミ、咳

 このグループ分けに何の意味があるのか。音成はBグループが呼吸として連携する体組織の動きから派生した現象であることに着目した。Bグループは正常な呼吸ではないものの、体組織的には呼吸からの派生なのである。そもそも呼吸は制御するものだ。それに対して、Aグループは何らか我慢するにしても、身体に組織された明快な制御の用意がない。つまり、Aグループは非制御系(そもそも制御していない)、Bグループは制御系(もともと制御している)と愚考したのだ。(参照

 公衆の面前でこれらは恥ずかしい生理現象だね。研究が指摘するところでは、AグループはBグループよりも恥ずかしく感じる生理現象である。恥ずかしい順位は@屁A鼻水BイビキC腹の音DゲップEシャックリFアクビGクシャミH咳──となっていて、Aグループが順位の上位をきっちり占める。〈屁〉はもっとも恥ずかしい。そして年を取るとAグループの羞恥度は低くなり、Bグループの羞恥度が高くなるというのである。老人になるにつれ〈屁〉は恥ずかしさが減少し、逆にクシャミや咳が恥ずかしくなるのだ。

 なぜそうなるのかについて以前にもエントリしているが(参照)、要するに加齢による身体の衰えが影響している。全体の平均的な恥ずかしさの順位はあくまで@〜Hとなっているが、制御系のBグループは老化によって制御しにくくなって、制御の衰えを自覚するのである。この身体的自覚(できていたものがうまくできない)は隠微に影響して羞恥度を高める。対するAグループはもともと身体的に制御が考慮されていない。つまり制御の身体的自覚に乏しいものなので、年を取ってだらしなくなってもあまり関心が向かないのである。羞恥心が欠けてくるというより、アッチが高くなればコッチは低くなる──相対的にAグループの羞恥度は低くなるのだと考えられる。

 このことは羞恥が制御(我慢)という心身運動によって増減されることを示している。端的にいえば(制御すべきものを)制御できないのは恥ずかしいのである。何事においても下手糞というのは羞恥心を掻き立てるではないか。

 以上、我々の生理現象の制御(我慢)との関わりについてまとめてみたが、前回までに生理現象の我慢と真似との考察から、我慢から倫理性、真似から侮辱性が出てくるのだとしてきたね。ここで羞恥性もまた我慢との関わりの中から出てくると観察されたわけである。

 この羞恥は生理現象を完全に隠蔽している限りは基本的に生まれない。生理現象が人の面前に露出したときに恥ずかしいわけで、不覚にもうっかり現象させればとても恥ずかしい。このときの制御(我慢)のゆるみが羞恥度を上げる。

 ここで再び脇道に入るが、そもそも不快な生理現象の「不快」とは何なのだろうか。この不快現象の構造を考えておこう。

 人間にとって快・不快は身体行動や心的運動における取捨選択や判断基準の基本的な指針になる原初的な情動だと観察される。それは一過性の反応かもしれないが、甘受するだけの感覚から一歩踏み出した分別の情動なのであり、我々の身体行動や心的運動を導いている。要するに人は快(楽)に引き寄せられ、不(愉)快から遠ざかる。

 では、我々の振る舞いを方向付ける指針の第一歩が快・不快であるとして、生理現象とはそもそも不快なのであろうか。いやいや、我々は〈屁〉をこくと──まずは気持が良いのではないのかねえ。ゲップ、シャックリ、アクビ、クシャミなども、まわりに誰もいなくて、過度の発作でなければ必ずしも不快なばかりではないだろう。

 しかしそのときそれが、自分にとっては快(または、どうでもいいこと)であっても、他人がそれを身近に現象させるのは気持のいいものではないね。近くで〈屁〉をこかれたり、ところ構わずゲップ、シャックリ、アクビ、クシャミなどされると不快(または、やめてほしい)と思うのである。

 他人の生理現象が不快なら、他人も自分の生理現象は不快なはずだ。我々が自分の生理現象の露出を我慢しようとするのは、他人が感じるであろう不快を観念(意識)するからにほかならない。例えば〈屁〉の不快は次のような関係を構築している。

 他人の〈屁〉=自分が嗅いで「不快」になる
 自分の〈屁〉=他人が嗅いで不快になるのが「不快」
 
 我々の心的運動には常に他人の存在がまとわりつき、何事につけても他人はこう「感じる・思う・考える」と観念してしまう。他人の〈屁〉の異音異臭が不快なら、自分の〈屁〉も他人には不快なはずだと「感じる・思う・考える」のである。

 このように他人の存在にとらわれるのは、我々が世界の観念化を進めるうえで身についてしまった、どうしようもない性分である。というか、まさに他人の存在とは観念(として形成されたもの)そのものだ。自他の生理現象が不快というのは、つまりは各人が他人が不快がっていると「感じる・思う・考える」ところからくる共同幻想(観念)なのである。

 こう見てくると、不快(や快)とは単なる感覚の現象ではなく観念的な心的運動の始まりなのだとわかるのだ。もちろん他人の〈屁〉は(まずは感覚として)その異音異臭が奇なもの異なものとして識別できる現象であり、その尋常ならざる奇異ぶりは生で聞いて嗅いで嫌悪の対象にもなる。自分の〈屁〉だって常軌を逸した奇異なものではあるのだが、放屁はスカッと気持いい(とも感じる)わけなので、観念化の心的運動はそういう不快と快が揺れ動く不安定な感覚域において始まる。そこでは、もちろん他人の〈屁〉は不快だが自分の〈屁〉が「不快を与えることが不快(他人が不快になることが不快)」という観念的不快が萌芽しており、ついにそれは我々相互の共同幻想となって当初の感覚的不快と同調する。かくして「不快」は観念的に増幅される。

 心的運動が生物的な快・不快から「感じる・思う・考える」という人間的な快・不快の段階へと踏み出していく過程は、観念化を次第に論理的にしていく過程である。その一つが、人前で〈屁〉をこいてはいけないというようなルール(規範)の設定である。ルールというのは、他人の存在(との協同)を観念することで、暗黙に、あるいは明示的に、他人と(共存していく)約束の取り決めを抽出したものだ。

 自他ともに不快である生理現象には我慢し合うという暗黙のルールを対峙させるわけである。ルールは常態化すれば無意識に沈み、人前で〈屁〉を我慢するのは強い弱いはあれ人類共通の血肉化したルールになっている。

 さて、話を戻す。我々は先に生理現象の倫理性、侮辱性を検討したのだが、そこには羞恥性という側面もあったわけで、これら三つの人間の価値観の根底にある振る舞いに注目してきたのだった。つまり、我慢が倫理を生み、真似が侮辱を生んだと考えたが、生まれた倫理ゆえに我慢し、生まれた侮辱ゆえに真似するという観念の相互干渉が増幅しているわけである。羞恥の場合には、我慢にもかかわらず(不覚にも)制御できずに取りこぼして恥入るのである。羞恥は不覚(制御失敗)の行為から生まれ、羞恥ゆえに隠蔽する。

 例えば〈屁〉における倫理性、侮辱性、羞恥性を考えてみよう。そもそも〈屁〉は人前でこいてはいけないはず(ルール)である。まずは我々はルールを遵守して我慢する。たいていはこれで事なきを得る(私は屁などこきませんよ〜というような顔をしている)のである。しかし対座する相手がアホな軽蔑すべき奴だとすれば、からかってやろうとルールを無視して〈屁〉を真似て(あるいは実際にこいて)侮辱することがあるかもしれない。逆に相手が恋している人であったら何としても我慢するわけだが、ルールを逸脱して不覚にもこいてしまえば羞恥のどん底に落ちる。隠蔽できるものなら隠蔽したい。

 この三方面からの構図は多かれ少なかれ、ほかの不快な生理現象にもいえる。我々は相手との関係の中で「我慢─真似─不覚」という振る舞いのトライアングルを行きつ戻りつしているのだ。。

我慢」によるルール遵守倫理の実現(現実化する)
真似」によるルール無視侮辱の具現(具体化する)
不覚」によるルール逸脱羞恥の発現(現出化する)

 この振る舞いの三者関係をみると、我慢とは我々が他人と生きていくときの基本になる中核のスタンスであり、我慢を前提にそこから真似も不覚も派生しているのだと観察される。言葉を換えれば我慢の崩壊現象が真似と不覚なのであると考えられる。

 我慢できずに〈屁〉をこいて恥をかき、我慢できずに〈屁〉をこいて相手を侮辱する──要するに、我々は我慢する(制御を保持する)存在だといえるのであるが、その我慢の保持(倫理)はいつも腹を立てたり(侮辱)ウッカリしたり(不覚)して崩壊の危機にさらされている。

 自他の生理現象における相互の関係をあれこれ詮索していささか錯綜してしまった。もう少し整理して生理現象の中の〈屁〉の独自性について示さなければならないね。


posted by 楢須音成 at 23:28| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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