2013年10月31日

続続・〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 我々が〈屁〉を我慢したり真似したりするのはどんなときだろうか。常識(世間)的な一般道徳では、人は誰も〈屁〉をこくのは御法度なのであり「我慢する・真似しない」という振る舞いは自分にも他人にも強いるべき道徳律となっている。要するに〈屁〉は存在してはならないのである。

 前回までに検討した中で重要なポイントがあったね。我慢すれば倫理性が発現し、真似すれば侮辱性が発現する──ということなのだが、根底には身体に発生する生理現象が醸す負の影響(自他の不快)があった。その影響が甚大だと我慢の倫理性は高くなり、真似の侮辱性も高くなるのだが、倫理や侮辱を実現しようとする際に、身体条件からくる(生理現象の制御の)難易度によって心的運動の振る舞いが左右され、倫理性や侮辱性の強弱が生じるのである。以上をふまえ、今回はもう少し考察の間口を広げながら〈屁〉について考えていきたい。

 これまで我々が問題にしてきた生理現象とは、身体音という観点から見てきた咳、アクビ、クシャミ、屁──であった。このほか、生理現象についての考察には前に紹介したように、老若男女が電車の中で恥ずかしいと感じる順位の調査があった。この中に咳、アクビ、クシャミ、屁は入っているが、電車のような半ば密室の公衆の面前で恥ずかしい生理現象の順位は次のようになっていた。
 まず、全体の平均値として見ると、「おなら、鼻水、いびき、腹の音、げっぷ、しゃっくり、あくび、くしゃみ、せき」の順で恥ずかしいことがわかりました。因子分析という統計手法により、これらの反応を分類してみると、「げっぷ、お腹、おなら、いびき、鼻水」が一つのグループに、「せき、くしゃみ、あくび、しゃっくり」がもう一つのグループにと大きく二つに分かれることが示されました。一つの解釈として前者は「声帯と無関係な生理現象」であるのに対して、後者は「声帯を介した生理現象」と見ることができるかもしれません。「せき」や「くしゃみ」は、声帯を通して表出され、その意味で声の一種と見なすことができます。ところが、「おなら」や「げっぷ」は声帯とは関係のない、単なる体から出る「音」というわけです。(菅原健介著「人はなぜ恥ずかしがるのか」1998年、サイエンス社刊)

 菅原は生理現象の(声帯・非声帯の)二つのグループに気がついているわけだが、声帯が関与しているか否かに着目しているのである。

非声帯系=ゲップ、お腹、オナラ、イビキ、鼻水
 声帯系=咳、クシャミ、アクビ、シャックリ

 それぞれのグループの指標(生理現象)の羞恥度の和を求め、男女別に年齢との関係を調べてみると、@どの指標に関してもすべての年齢層で女性の方が男性より羞恥を強く感じているA非声帯系の生理現象は男女に関わりなく加齢とともに羞恥度が低くなるB声帯系の生理現象は男女に関わりなく加齢するほど羞恥度が高くなる──という結果になったというのである。
 なぜこのような年齢差が生じるのかはわかりませんが、重要なことは加齢に伴って羞恥心が薄れてゆくという一般的な考え方は明らかに間違っているということです。状況によっては高齢者といえども、あるいは高齢者だからこそ強い羞恥を覚えることがあるわけです。「おなら」や「げっぷ」など若い層が恥ずかしいと思う事柄に高齢者はそれほど強い羞恥を感じません。一方、若い層がどうでもいいと感じている「くしゃみ」や「せき」に対してはむしろ、高齢者のほうが恥ずかしさを覚えています。こうした感性の世代間格差が羞恥心に関する高齢者への偏見を形作る基になっていることは十分に考えられることです。

 この研究を初めて知ったときは大いに刺激されたので「年取れば恥も忘れるおならかな」などというエントリを書いたものである(参照)。それにしても、男女差や年齢差によって羞恥心が変化する──という発見が、生理現象の実証的な分析に基づいて踏み込んでいる点で強い示唆を与えるものだろう。

 さて、菅原が指摘した「声帯系」「非声帯系」という生理現象のグループ分けだが、これは何を意味するのであろうか。後に菅原は「この結果についてはいろいろな解釈ができる。たとえば、『お腹の音』や『げっぷ』は身体から発するのでコントロールできない。一方、後者は声なので我慢が可能だ。我慢できない現象は仕方がないが、コントロールできるはずの『あくび』や『せき』を人前で我慢できなかったのは自立性の欠如を示すことになる」(菅原健介著「羞恥心はどこへ消えた?」2005年、光文社新書)とも考察している。

 ここで前回まで我々が考察してきた我慢と真似を思い出したいのだが、その前に「声帯系」「非声帯系」の区別を掘り下げておきたい。

 声帯系の生理現象は咳、クシャミ、アクビ、シャックリが分類される。菅原はこれらは声帯に関係しているとしている。確かにいずれも呼気が喉を通って声帯を震わせるのだが、声帯の関与は本筋というより、たまたまそこに声帯があったというべきではないか。より本質的な説明として次のような記述がある。
せき、くしゃみ、しゃっくり、あくび、どう違う
 これらは、すべて呼吸運動の一種で、横隔膜、胸郭、肋間筋や呼吸補助筋、そして肺の動きで起こる現象です。
 せき、くしゃみがでるときは、内肋間筋や呼吸補助筋が収縮して積極的に息をはき出す体制の中で起きます。せきは、声門を閉じたままで息をはき出す体制がすすみ、ついには、閉じていた声門がムリヤリこじ開けられて、息がものすごいスピードではき出される運動です。一方くしゃみは正門が開いたところを、強く息がはき出される運動なのです。
 またしゃっくりは、横隔膜がけいれんして急に収縮するために、鋭く短い吸気運動が起こるものです。
 あくびは脳の酸素不足からおこる反射的な深呼吸で、あくびが伝染するのは、同じ場所でおなじように酸素不足をおこすためなのです。(雑学研究会編「おもしろ雑学百科」1991年、コスモ出版刊)

 つまり、咳、クシャミ、アクビ、シャックリは人間の呼吸運動の一種(特殊な形態の一つ)なのだ。呼吸運動は動物が外呼吸(酸素を入れ二酸化炭素を出すガス交換)する自律的な運動であり、横隔膜、胸郭、肋間筋、呼吸補助筋、肺などがバランスよく連携して運動することで生命維持する。咳、クシャミ、アクビ、シャックリはそれがバランスを崩した現象と考えられるわけである。

 呼吸運動は身体によって自律的(無意識的)に行われるが、意図すれば自分の意志で制御することも可能だ。息を止めたり、早めたり、大きく吸ったり吐いたりできる。もちろん、それは呼吸の継続を前提としたものであり、我々は生きている限り呼吸を放棄できない宿命ではある。放棄は死である。

 咳、クシャミ、アクビ、シャックリは正統な呼吸運動とは言い難いが、それでも呼吸に関連して動く筋肉や臓器の動作から見れば、何らかの身体的都合を原因として発作的(否応なし)に現象してしまう呼吸運動と見なせるのだ。

 我々は身体が健康で異常がなく、過激・過大にならない安定した身体活動の渦中にあるのならば、呼吸運動は増減・強弱をオートマティックに行って、特に悩むこともなく過不足感のない平常状態にある。安心している解放された状態とは、安心して呼吸している状態である。平静で極めて調和のとれた呼吸は特に重視される。丹田呼吸法などを見ると、横隔膜を鍛錬して呼吸を制御することが、心身の安定と活性化をもたらしていることがわかるのである。

 マラソンなどのような疲労困憊する(過激な)身体活動は苦行を自ら強いるものだが、呼吸という観点からいえば、荒れる呼吸を強い肉体と意志とで持続的に平常状態に保持する(呼吸制御の)競技である。

 咳、クシャミ、アクビ、シャックリの場合、それは発作的に制御しがたく現象する、通常とは違う奇形の非正統的な呼吸運動だった。できれば存在しない方がいいのだが、身体にそれを喚起する原因(病気や身体不調や刺激など)を抱え込めば、ほとんど避けることはできないわけである。

 これらの制御に難易があることは見てきたとおりだが、いろいろな呼吸の変調に対して制御を働かすのは同じ系統の筋肉や臓器の連携によるのである。従って声帯の関与というより呼吸という点に特徴を見たいわけである。そもそも呼吸は制御する(できる)ものとしてある。

 では、もう一つのグループであるゲップ、お腹、オナラ、イビキ、鼻水はどうか。このうちイビキだけは呼吸(の結果)とみなせるのだが、発生メカニズムもバラバラなこのグループをまとめている観点は「そもそも制御不能」ということにあるように思われる。

 ここでいう制御不能とは、前触れもなく異変を呈する(不意打ち)現象であることを意味しているのだが、咳、クシャミ、アクビ、シャックリのような呼吸運動をベースにした異変の不意打ち(制御の逸脱)とは異なり、いわば発生を制御する器官がそもそもないのである。ゲップは胃の中のガスの放出、お腹の音はガスの滞留、オナラは腸内のガスの放出、イビキは呼吸音の異常発生、鼻水は水洟の流出というように器官的にはまるで制御を放置されたものとして存在しているのだ。(これは全く我慢できないという意味ではない。我慢はできてもそれは本来の制御ではないということである)

 つまり、もともと制御しているものの逸脱と、そもそも制御していないものの逸脱という対比が、このグループ分けの本質であると考えられるのだ。  

 菅原の研究は羞恥心にスポットをあてたもので、生理現象が喚起する我々の羞恥の度合いを測定しているわけである。確かに生理現象には(人前で)恥ずかしいという側面があるのである。

 なぜ、ある種の生理現象は恥ずかしいのか。恥ずかしい生理現象は、例えばそれが〈屁〉ならば、他人に(自分にも)不快を与える発生元(原因)になることを意識するからだ。咳、クシャミ、アクビ、シャックリの発作も同様に、自分も不快・苦痛なら他人もビックリする異常現象の突出である。不快・苦痛なものは存在してはならないのである。存在しない(してはならない)ことが当たり前(平常)のところに、意図せず存在してしまうのは恥ずかしい。この恥ずかしさは自他が抱え込んでいるそういうものを隠す心的運動だが、突っ込んだ分析は後に回して、ここでひとまず、我々は生理現象に対して、羞恥性、倫理性、侮辱性の三つがあるのであ〜る、とまとめておきたい。


posted by 楢須音成 at 00:04| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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