2013年09月28日

続・〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 自らの存在を示すために(ワザと)咳をして人の注意を向けさせることはよくあることだ。しかし、自らの存在を示すために〈屁〉をこく人はまれだ。そんなことは我家においてもありえない(あるはずもない)この世の大珍事なのであ〜る。

 前回、我々の身体が発する音の振る舞いについて文化人類学的な議論(小野地健「身体音と声の体系的分析への予備考察―クシャミ・咳・あくび・屁―」2010年)を通じて、その内実を対比的に抽出してみたのだったが、音成の妄想では、どうも〈屁〉は身体音の中でも特異な(別格の)振る舞いを示すのではないかと思われたのである。

 身体音を観察する観点として受動面と能動面があった。受動面というのは、身体音が発せられるのを我慢する局面に立っている。このとき身体音は自分の意思に関係なく発作的に発せられる生理現象として存在し、しばしば(肉体的・精神的)苦痛を伴う。

 一方、能動面はその身体音を真似して発する局面に立っている。このとき身体音は(生理現象ではなく)制御可能なワザによって擬似再現された(そっくりの)音として現象している。

 この受動面と能動面という観点から各種の身体音を比べてみると、身体音ごとの違いが現れてくる。クシャミ、咳、アクビについては振る舞いの難易度について前回、次のように図式的にまとめてみたのだった。

 受動面(我慢しやすい順)=アクビ→クシャミ→咳
 能動面(真似しやすい順)=咳→アクビ→クシャミ

 クシャミの発作は我慢しにくいが、身体症状としては概ね軽いし、我慢できることもある。咳のように時に痛みまで伴って連続的な咳き込みに至る深刻な症状は(あまり)ない。咳やクシャミに比べれば、アクビは「かみ殺す」というように意識すれば発作を最も我慢しやすい。咳の発作がけっこう始末に悪いね。

 しかし、そういう我慢しにくい実際の発作に関係なく、自在に真似しやすいのは咳なのである。子供の頃、同情を買わんがため風邪の仮病をコンコン(軽症)、ゴホゴホ(重症)とやっている奴がいた。こんな真似ならアクビも口を開ければいいだけなので容易だ。ただこれは身体音というよりしぐさの要素が大きく、動作には演技力が少しいるね。クシャミは上手に真似できないことはないが、ワザとらしくなりがちであり、動作も音声もタイミングもそれなりに真実味を得るための演技力がいるだろう。

 こういう我慢と真似は我々の日頃の振る舞いの中で行っている身体制御だ。生理現象の「(発作を)止める」「(動作を)進める」という、身体音にまつわるコントロールである。しかし、我慢と真似は一続きの振る舞いではなく全く別系統の身体制御だ。

 我々の生理現象である身体音を「止める(我慢する)」とは、その発作を無理やり「止める」のである。これに対して「進める(真似する)」とは発作と関係なしに同様の(発作に似た)動作をワザと「進める」のである。よくよく考えると、これらは密接につながった同質の振る舞いではなく、行為としては似て非なるむしろ断絶(独立)しているものなのだとわかる。

 我慢=生理現象あり/不快が現前している実態の抑止/内向きの理由・意図(隠したい)
 真似=生理現象なし/不快を再現している擬態の推進/外向きの理由・意図(示したい)

 我々がある種の生理現象を「止める(我慢する)」振る舞いには、他人から生理現象を隠蔽する内向きの理由や意図が潜むと観察されるのだ。対面しているのに眠くなるのは、相手への関心が薄れていると見なされるし、不摂生な生活すら疑われるかもしれない。アクビは(相手に気づかれないよう)かみ殺さねばならないのである。

 それに対してワザと生理現象を再現(真似)するのは、他人に芳しくない何かを発信する振る舞いだといえる。そこには他人に向けた外向きの理由や意図があるわけだ。眠くもないのにワザとアクビをすれば、相手に対して興味が失せ退屈になっている露骨な態度となり、侮辱ともなってしまう。


 以上、少々くどくなったが、生理現象の真似と我慢について整理してみた。ここで改めて我慢と真似の制御しやすい順位に注目して議論を進めてみたい。まず、我慢から。

 我慢しやすい順=アクビ→クシャミ→咳

 ここに〈屁〉を加えてみると、我慢のどこに順位付けが可能だろうか。順位は時と場合により微妙であり、あくまで経験的なランク分けに過ぎないが、〈屁〉を加えれば順位はさらに微妙になる。前回に引用した小野地の論考では能動、受動ともに「屁の操作性には個人差」が大きいとしていたことが思い出される。

 我々にとって〈屁〉は確かに個人差がある。自分に限ってもアクビより我慢しやすい場面もあるし、咳より(あるいは咳くらい)我慢しにくい場面も心当たりがある。そういうことを言い出したら順位なんか何とでも言えるじゃないか、となるのだが、まあそういうことだね。いくら綿密に順位付けをしたところで、手に負えぬ発作から軽い自覚まである生理現象(アクビ、クシャミ、咳、屁など)の我慢は、要するに人さまざまなのである。

 とはいうものの、何事にも平均的な傾向値というものはあるわけで、だいたいの経験から我慢しやすい順を「アクビ→クシャミ→咳」とするのは納得しやすいのではないかと思うわけだ。こういう認識は、美人コンテストで決めがたい順位を決める評価のようなものか。だれも美人には違いないが、いちおう評価させて頂きます、というような──たとえが悪いか。

 ともあれ、その頻度や程度において概して「アクビ→クシャミ→咳」の順で我慢しやすいのだとすれば、要するに我々の「我慢しなさい」という倫理的な要求もまた、その順位になるはずだ。なぜなら我慢できるものを我慢しないのは許されないのであり、我慢できるものほど許されない度合いが大きくなるだろう。そして我慢しにくくて、どうしても我慢できないものは「仕方がない(やむを得ない)」となるのである。

 一般に生理現象の表出は他人を意識した場合には秘匿する。そもそもアクビ、クシャミ、咳などのような身体表層において発現する生理現象は、他人がやるのを見るのは愉快なものではないね。公式な場となればなおさらである。相手に何かしら影響を与える生理現象の多くは(自分にとっても他人にとっても)不快現象化しているわけである。他人のが不快なら自分のも他人には不快なわけで、我々は暗黙のうちにそれを自覚している。アクビを我慢(隠蔽)するのは、関心がないのを知られたくない、嫌われたくない、寝不足を知られたくない、などと念じる不快な状況だからで、うっかりアクビをすれば(真似と同様の)侮辱する態度にとられてしまう。他人の眉をひそめさせる生理現象は隠蔽するべきものとして(我慢によって)多くは表面に現れることがないのだ。それらは人前では現象させないことがマナーだね。つまり、アクビをする方もされる方も不快なのだ。(自分の不快と他人の不快は区別されるが、この議論は別に行う)

 こうした我慢の心的な動機を小野地の論考は「あくびは能動、受動ともに操作性が高く容易であるといえるだろう。そのために、あくびの抑制はマナーとして要求され、これを遵守できるかどうかが、その人間に対する直接的な評価ともなる。うっかりと公的な場であくびをしてしまうことは、それを抑制できなかった当人に対する非難とも繋がっていく」と指摘していた。我慢できるもの(を我慢する行為は)は倫理性がより高い(高く要求されている)のである。

 では、アクビより我慢しにくいクシャミや咳は倫理性が低いのか。まあ、大切な公的な場で不可抗力でやってしまったとしよう。アクビよりクシャミや咳の方が「馬鹿者」と眉をひそめさせながらも「仕方がない」として免罪されやすいと思うのだが、どうだろうか。

 世間に対峙して我慢(しなければならないとする心的テンション)のレベルが高い(倫理性が高い)というのは、社会化したマナーとして強く要求されていることだ。そして社会化の範囲が広がるほどにマナーの普遍性は強く強く要求される。
 
 ただし、我慢しやすいならより我慢しなければならない(つまり我慢のテンションが高い)のだとしても、我慢しやすかろうがしにくかろうが、その生理現象の周囲への影響度合いがあまりに大きいと我慢のテンションは一気にハネ上がる。例えば〈屁〉である。人前での〈屁〉は存在自体が極めてタブーであり、必死に我慢しようとするではないか。〈屁〉の場合には「仕方がない」ではすまないのである。

 つまり、我慢しやすいから(より一層)我慢しなければならない(少し倫理性が高い)が、我慢しにくくても(絶対に)我慢しなければならない(かなり倫理性が高い)ものはあるわけだ。いずれにしても我慢から倫理性が発現してくるのである。


 こういう我慢のあり方によって倫理性の心的運動が発生する一方で、マナーを無視するという挙動もまた我々の振る舞いとしてある。小野地は「わざとすることで、相手に対するマナーを無視したことを明示し、侮辱の意味を伝達することにもなる。あくびは能動においても受動においても、本人の意図と結びつけられる度合いが強い」と指摘していた。この「わざとする」ということが真似である。真似しやすいのはこんな順序だった。

 真似しやすい順=咳→アクビ→クシャミ

 真似がすべてマナー違反(侮辱)ではないが、相手を不快にさせるようワザとやれば、倫理性をまとっているマナーを逸脱する侮辱行為である。(対人関係を意識した真似には、合図のように何か真剣なことを伝達するサインであったり、エンターテイメントのように笑いを狙ったものもあるが、別の議論になるので、ここでは触れない)

 先にも触れたように、真似が発生したときには真似の対象となった生理現象(の発生)とは直接関係がない。真似は一個の独立した振る舞いであり、生理現象の身体的条件がないところに本物のように再現してみせる行為である。また真似しやすい順位を「咳→アクビ→クシャミ」としてみたが、生理現象の深刻度と真似のしやすさも相関がない。あくまでも真似は(真似しやすいかどうかであり)生理とは独立した身体的条件の下にある。真似しやすい順位は我慢と同様に微妙であり、得手不得手の個人差も大きいが、一応「咳→アクビ→クシャミ」の順を標準としておこう。

 先に見たように対人関係の中で、我慢においては倫理性の発現があったが、真似では侮辱性の発現が指摘された。そこには発現レベルの高低があるものの、侮辱を意図している真似には次の傾向が観察されるね。

 真似しやすいものを(簡単に)真似する→侮辱性
 真似しにくいものを(敢えて)真似する→侮辱性

 例えば(ワザと)咳をする行為は侮辱性は割と低い。相手をさえぎるように激しく咳をしても妨害の意味が強くなるだけ。侮辱なら(ワザと)大アクビをしたり、激しくだらしなくクシャミをした方がいいだろう。真似しやすいとは簡単にできるということであるが、我々には難しいことを敢えてやる方が行為の達成度は高く思い入れも強いはずだ。真似をするかしないかは極めて恣意的(観念的)な行為であるから、対人関係の中で困難を押して侮辱するのはそれだけ怨みが深いのである。かくして侮辱性は高くなるはずだ。

 もちろん、真似しやすいものが相当に侮辱的であることはある。例えば、ここでも〈屁〉である。自由自在とは言わないが、音なら子供でも簡単に真似られる。しかし〈屁〉は人前では真似しにくい。それは〈屁〉の存在自体が失礼すぎて強く隠蔽されるものになっているからである。そこには(容易に真似できるが)禁止ルールが強固にあるので人前では真似しにくい(真似すれば侮辱性が高くなる)のである。真似しやすさとは身体的な条件のほかに、真似したもの自体の影響力の強さも加味されるということなのである。(咳は真似しやすいが、その存在自体がそれほど失礼というわけではない。そもそも病気あるいは体調不調の身体症状かもしれないわけで、抑止の歯止めはあるものの、それ自体の恥ずかしさはかなり薄い)
 議論は錯綜するが、以上のように見てきた生理現象の我慢と真似についてまとめておきたい。
(1)一般に生理現象を人目にさらすのは失礼だったり不快にさせるので隠さなければならない。

(2)生理現象には我慢しやすいものと我慢しにくいものがある。また真似しにくいものと真似しやすいものがある。

(3)生理現象の我慢と真似は身体的に格別の相関はなく、それぞれ独立した振る舞いである。

(4)生理現象の我慢(しなければならないとする心的運動)があれば(自他を律する)倫理性が発現し、真似(をワザとする心的運動)があれば(他人を貶める)侮辱性が発現する。

(5)失礼や不快を相手に誘発させる生理現象を我慢(抑止)できるのに我慢しないのは悪である。それは我慢すべきであり、その我慢のテンションは我慢しやすいもの(を我慢する)ほど高くなる。

(6)失礼や不快で相手を侮辱する生理現象の真似は悪の行使である。ワザと真似をするその侮辱のテンションは真似しにくいもの(を真似する)ほど高くなる。

(7)そもそも我慢したり真似したりするのは、これらの心的運動の動機になっている生理現象が、自他に失礼や不快を及ぼしてくるからである。この生理現象自体の不快の影響度(深刻度)は、その基底で我慢や真似のテンションを深く支配している。

(8)倫理性や侮辱性は「影響度」と「難易度」との相関の中で形成されてくる。表形式でまとめると次のようになるだろう。影響や難易という主観的なもの(認識の敏感や鈍感)を織り込みつつも、我々がたどる心的運動の大筋の動きと考えられる。

我慢と真似 .jpg


(9)かくして「我慢(隠蔽)」と「真似(侮辱)」の最大値は、倫理性と侮辱性のそれぞれの「強」が発現しているゾーン(表中の黄色)の中にあることがわかるのだ。

 さて、こうしたことから何がわかるか。我々が探求しているのは〈屁〉である。自他ともに不快な生理現象の中でも〈屁〉の扱いには困ることが多いし、どう対処していいのか(どう論じていいのか)よくわからない。我々がたどり着いた我慢と真似の構造の中のどこに〈屁〉は位置するのであろうかねえ。

 生理現象の中でも〈屁〉は失礼と不快に関しては影響度(深刻度)の大きいものだ。倫理性や侮辱性の発現は最大と言ってもよい強いものがある。そこで先の表中の黄色ゾーンが〈屁〉の中心的な居場所であるとひとまず考えでよいだろう。とすれば、我慢の難易度は(概ね)易しくなければならず、真似の難易度は(概ね)難しくなければならないはずである。このことは我々の実感と比べてどうであろうか。

 いやはや、実感としてはむしろ〈屁〉を我慢するのは難しい場面も多いし、真似するのはいと易しいではないか──となるのだが、どうだろうか。もちろん、容易に我慢できたり、大変な困難を押して真似することがあるのも認めざるを得ない。要するに、いろいろなケースがあるのだが、生理現象としての〈屁〉はアクビ、クシャミ、咳などよりも少々複雑で多様な現象のようではないか。ここはもう少し整理してみる必要がある〜。


posted by 楢須音成 at 16:39| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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