2013年08月31日

〈屁〉が生理現象の鬼子なのは何でだろ〜ヵ

 我々の〈屁〉が厄介なのは、それが不随意(意図せず)に発生して時に制御不能(発生を我慢できないもの)になってしまうからである。しかも、それが何のためのものか(意義のあるどういう意味付与ができるのか)よくわからない現象なのだね。

 もちろん、身体の生理現象であるから何の意味もないわけではないのだが、その発生は清浄感には縁遠い糞便が出てくる肛門であり、それ自体は異音異臭の存在を隠蔽する透明な気体であることで他者を巻き込み、深刻な影響(不快)を及ぼして自他ともに忌み嫌う現象になっているのである。

 別に〈屁〉ばかりが異音や異臭の生理現象ではないものの、無意味(無意義)という点では卓越した存在感を持つ現象ではないだろうかねェ。そのうえ、異音や異臭を伴う生理現象にはなぜか恥ずかしさがつきまとう。なかでも〈屁〉は格別だ。前に紹介したことがあるが、電車の中で(つまり公衆の面前で)やらかした9項目の生理現象について、どのくらい恥ずかしいかを探った調査があった。それによると@おならA鼻水BいびきC腹の音DげっぷEしゃっくりFあくびGくしゃみHせき──の順で恥ずかしいのである。(菅原健介著『人はなぜ恥ずかしがるのか』1998年、サイエンス社刊)

 この調査は統計的にもしっかりしたものなので十分根拠のある順位といえる。ただ@〜Hまで並んだ順位にどんな理由を見出すかは難しい。まあ確かに電車の中で〈屁〉をこくよりは、咳をする方が恥ずかしさの度合いはかなり小さいとはいえるんだけどね。このことはあとで触れたい。

 菅原の調査は羞恥心という社会心理学的観点から生理現象を観察している。これに対して生理現象を(社会的観念に位置づける)習俗という観点から観察した論文があった。この文化人類学的な論考では、クシャミ、咳、アクビ、屁が取り上げられている。(小野地健「身体音と声の体系的分析への予備考察―クシャミ・咳・あくび・屁―」2010年、年報『非文字資料研究・第6号』神奈川大学日本常民文化研究所刊)

 観察は生理現象が「単なる個人の身体の生理的反応を超えた次元のものとして受け止められている」という観点であり、例えばクシャミをすると誰かが自分のうわさをしていると解釈したり、ついには「人間の意識を超えた存在である神や異界からの交信や兆候」とまで考える。そういう社会的観念が習俗化して世界中に現象しているわけなのだ。

 小野地はクシャミ、咳、アクビ、屁のような生理現象を身体音としてとらえ、それと言語との対比に着目している。当然ながら音声となった言語もまた身体音であるが「言語は発声を分節して、音声に差異をつくり、抽象的な記号として機能させることを主とする点で、他の身体音と一線を画す」とし、ほかの身体音と区別することで対比しているわけだ。なかでもクシャミについては「習俗としての次元でも、普遍的といってよい大きな共通性が人類社会にみられる」と中心的な論点になっている。

 ともあれ、習俗の次元の詳細はひとまず脇に置いて、身体音としてのクシャミ、咳、アクビ、屁などを音声言語と対比して観察すれば、それらは意図せず発生するという不随意性と、制御しにくいという非操作性が強調される現象である。逆に人とのコミュニケーションをになう言語は、意図を示す随意性と自由に扱える操作性が強調される現象だね。小野地は身体音の能動面(意図的な発声と操作)と受動面(不随意な発声の抑制)がどのようにバランスしているかに注目し、クシャミ、咳、アクビ、屁の本質的な差異を見ようとしている。
(中略)咳の分析で論じたように、咳はこの両面(能動と受動)が非常に極端である。咳払いとして意図的に発するときは、相手に何かを促したり遮ったりと、かなり細かいニュアンスまでこちらの意思を伝達していくことが可能である。一方、受動としてわきおこる喘息の発作などでは極めて制御困難で、その非操作性の極に至れば生命の危険すらあるのである。能動における繊細な操作性と、受動における強力な非操作性が咳を特徴づけている。

 それに比べると、あくびは能動、受動ともに操作性が高く容易であるといえるだろう。そのために、あくびの抑制はマナーとして要求され、これを遵守できるかどうかが、その人間に対する直接的な評価ともなる。うっかりと公的な場であくびをしてしまうことは、それを抑制できなかった当人に対する非難とも繋がっていく。逆に、わざとすることで、相手に対するマナーを無視したことを明示し、侮辱の意味を伝達することにもなる。あくびは能動においても受動においても、本人の意図と結びつけられる度合いが強いのである。

 クシャミは、そこまで操作性が高くないため、あくびほどにはマナーとしての抑制は要求されず、わざとしてみせることで相手に積極的に何かを伝達できるという度合いも低く限定的である。そういった操作性の低さが、クシャミに意図によらずに突然起きるという神秘性をもたらす一因となり、クシャミに対して呪いごと唱えごとを行ったり、噂や想いの受信手段であるという観念へと繋がっていくことはすでに指摘したとおりである。

 屁は能動的に発音を求められる場面は稀有だが、能動、受動ともに一定の操作性を持つ。ただし屁の操作性には個人差が大きく、それが福富長者や屁ひり爺のような屁の名人の話を生み出す背景にあると思われる。また、そういった名人の話に付随して、貴人の前で屁の芸に失敗して破滅する者の話があるように、屁は他の身体音よりも強いタブーと抑制が要求される度合いが強い。特にそのタブーは、公的な儀式や貴人の前など、身分や場面、場所の区分といったヒエラルキーに大きく関与している。逆に言えば、屁を放つことは、そのような区分に対する最も強力な撹乱手段となる身体音だ。屁が大真面目に行われている儀式を一気に弛緩させて興ざめにしてしまうという例は、屁の分析の項目で述べた。こうした点において、屁はクシャミや咳、あくびと比べて、政治性の強い音声であるといえるかもしれない。

 これらの観察を単純化してまとめてみると、意図的にその身体音を発する能動面においては、おおむね咳、アクビ、クシャミの順で操作性が高い(操作しやすい)。ただし、不随意(発作的)に襲ってくる本来の生理的な身体音を抑制する受動面おいては、おおむねアクビ、クシャミ、咳の順で操作性が高い。そして屁の位置づけなのだが、能動面、受動面ともに「個人差あり」ということで別格(曖昧)になっている。

 さて、以上の小野地の観察を借りて音成の愚考を展開してみたいのである。小野地が指摘した能動面と受動面における操作性は確かに重要な鍵であると考えられる。操作性──いかにそれを制御するかという我々の振る舞いは本源的な心的運動に根ざしている。制御が「できる/できない」は心的には(何かを思い描く)観念化の重大な契機になっている。我々は「できるものができる」「できるものができない」「できないものができる」「できないものができない」というような場面に直面して心的に思い描くことはそれぞれ違うね。我々はその違いの中で現実に対峙し、心的振る舞いが微妙に揺れ動いて構成される。

 ここでもう一度、身体音と操作性について検討してみる。身体音というのは本来、何らか身体上の原因があるのであって、生理現象として不可避に発生するものだ。風邪を引いたから咳が出る、眠いからアクビが出る、花粉症でクシャミが出る──というように何かの症状として我々の意図に関係なく一方的に現象するのである。つまり、本来的に生理現象というのは我々には受動的なものとして立ち現れる。だから我々が能動面の操作性というときには、生理現象である身体音(症状)の疑似再現の容易さを指している。言葉を替えれば真似しやすさということになる。

 一方、受動面の操作性というのは本来的な生理現象を抑制することである。時と場合により症状が激しければ抑制(我慢)は困難であり、我慢しやすいかどうかは個人差も大きいだろう。

 以上をふまえて、これまでの身体音の観察を整理すると次のようになる。

能動面(ワザと意図し真似しやすい順)=咳→アクビ→クシャミ ──(屁)
受動面(不意の発作に我慢しやすい順)=アクビ→クシャミ→咳 ──(屁)

 つまり平均的な現象の比較においては、咳、アクビ、クシャミの三者のうち、咳は最も我慢しにくい現象であるが、真似(再現)しやすいのである。しかしまあ、アクビとクシャミでどちらが真似しやすいか我慢しやすいかは微妙なところかもしれない。ここでは真似と我慢の相関において身体音(生理現象)は存在している(我々はその相関を暗黙に認識している)と指摘しておく。

 しかし、どうも曖昧なのは〈屁〉である。この〈屁〉という現象は能動面(真似)においては、咳、アクビ、クシャミなどとは、やや異なった様相を呈する。真似するといっても直接的な再現(肛門を使う)はできない(しない)のである。唇を震わせて鳴らしたり、ブーブークッションなどを使った間接的な(しかし結構リアルな)真似をするわけだ。(もっとも、肛門を使うのは必ずしも不可能ではない。肛門から空気を吸い込んで出せばいいのだが、一般には難しい)

 受動面(我慢)においては、その時の体調もあり身体内のガス量(お腹の張り具合)によっても左右され、肛門の締まり具合は体力とともに放屁ポリシー(抑制レベル)の個人差が大きく影響している。要するに我慢の実現はほかの生理現象に比べて身体的・心的な不安定さに同時にさらされているのであるが、普通は誰でもしっかり我慢している(のではないかねェ)。

 かくして〈屁〉はほかの生理現象とは若干(あるいは大きく)違った点があるのではないかと考えるわけである。肛門(屁)と口腔(咳)という対極的な発生場所もあるが、ここで〈屁〉と「咳」という生理現象をひもとくことで相違とカラクリの構造が見えてくるのではないかと着目したのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 22:02| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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