2013年07月31日

異音異臭に〈屁〉の法則

 我々の〈屁〉は見えざる異音異臭であることによって(他人にも自分にも)脅威となっている。しかも耳元や鼻先に(意図しないのに)いきなり出現してしまうのであり、制御不能とまでは言わないが、制御しにくいものであることは経験するところだね。

 もし〈屁〉が無音無臭であったなら、我々は〈屁〉にまったく違った態度をとり、あるいはこの世界で〈屁〉を称揚する別の価値観が支配していたのかもしれない。(しかしまあ、放出の場所が肛門というのは逃れようもない現実なので、まったく清浄無垢なイメージの形成は困難かもしれないねえ)

 ともあれ〈屁〉の異音異臭は我々にとって厄介なものだ。我々はこの世界に対峙して感覚器官によって現実を把握するわけだが、このときの五感のうち異音異臭は聴覚と嗅覚によって抽出される認識である。(逆にいえば、我々の〈屁〉は視覚、触覚、味覚はスルーしている)

 一般に我々にとって(現実を映像化する)視覚がもたらす別格の構成力は、現実を外在(言語)化していく契機と考えられるが、一方でそもそもの原初的な五感がもたらす感覚は内在的な身体感覚となって残存し、我々を鼓舞してくる。それらは視覚がもたらす映像性ほどには分別(言語化)はないものの、身体に与える影響は大きく、直接的である。

 そして我々の〈屁〉とは、視覚を欠いている(見えない)がゆえに言語化以前に身体感覚として高い純度で発現してくる現象である。それは不快を掻き立てる負の感覚に包まれている。他人や自分の〈屁〉の異音異臭は、暗黙に直接に、立場や状況に左右されて散々に我々を苦しめるわけなのだが、こんな計測しがたい五感のありようはすべて個人の「主観」なのであろうか。

 確かに「うるさい」とか「臭い」とかの身体的な個人差のある感受を客観(数式)化するのは困難に思える。しかし、外的な刺激に対する我々の感覚(五感)の対応関係が定量的に計測できるのなら、それをまったくの主観とするわけにもいかないのである。

 我々の感覚の法則性についてやさしく解説した本がある。『面白くて眠れなくなる数学』(桜井進著、2010年、PHP刊)から引用する。
  嫌な匂いを減らしても……
 私たちは、感覚をたよりに日々生活しています。五感といえば、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚です。実はこの感覚の中には法則があるのです。例えば「匂い」の場合を考えてみましょう。
 閉め切った部屋の嫌な匂いや、おならの匂いを消臭剤や空気清浄機で半分まで減らしたとします。ところが私たちは「あぁ、半分の匂いになった」とは感じません。「ほとんど変わっていない」「やっぱり匂う」と感じます。実は「半分になった」と感じるためには、匂いの90%を除去しなければならないのです。
 「音」もそうです。私たちは虫の音とコンサートの大音量を同じように聞く(感じる)ことができます。これはよく考えると面白いことです。
 もし人間が、音量の絶対値を感じ取ることができるとすると、虫の音は小さい音量なので感じ方も小さく、コンサートの大音量であれば感じ方も大きいことになります。でもそうではありません。
 私たちは、小さい音も大きい音も同じように感じることができます。音の大小にかかわらず感じ方(感覚)は同じなのです。
 10のエネルギーを持つ音があるとき、何倍にすれば人間は音の大きさ(感覚)が倍になったと感じるでしょうか。
 普通に考えると「倍だから、エネルギー量は20では?」と考えるでしょう。けれど人間の耳はそんなに鋭くありません。「2倍になった」と感じさせるには、実際には10倍の音の大きさにしなくてはなりません。「10」の音が「100」になって、ようやく「2倍」と感じます。

 人間の感覚は定量化できる
 言ってみれば、人間の感覚は足し算ではなく、かけ算で感じていることがわかったのです。これが1860年の「ウェーバー=フェヒナーの法則」です。

      R = k log S/S0

   R:感覚の強さ k:刺激固有の定数 S:刺激の強さ(S0は感覚の強さがゼロになる刺激の強さ)

 「感覚の大きさRは刺激の大きさの対数に比例する」。これは「精神物理学」といわれる学問の発端となった発表でした。
 「精神物理学」は、心理学者ウェーバーが「心理学の世界を定量化できないか?」と考えたことからはじまりました。人の感覚というのは、とても主観的なものです。
 しかし何もかも「主観だ」と言っていては学問になりません。それでは芸術の世界になってしまいます。心理学者ウェーバーは、こうした目に見えない人の気持ちや感覚を定量化するために様々な研究を1840年代に行いました。
 そして1860年に、物理学者フェヒナーが数式化に成功したのです。心理学発祥でありながら、「精神物理学」の法則といわれるゆえんでもあります。
 つまり、私たち人間の感覚は、けっしていい加減なものではないということです。定量化できるということです。
 激しく変化する環境、つまり刺激を「ウェーバー=フェヒナーの法則」によって実にうまく、そして正確に感じとっているのです。
(「おならの匂いは半分でもやっぱり臭い?」から)

 我々の五感の原初的な構造を定量化すれば、「感覚の大きさRは刺激の大きさの対数に比例する(感覚量は刺激量の対数で求められる)」という法則に従うわけである。これは、臭い〈屁〉のニオイが半分になったと感じるためには「100の刺激を10(10分の1)」にまで減じなければならず、〈屁〉の音量を倍に感じるためには「10の刺激を100(10倍)」にしなくてはならない──というような関係だ。

 つまり「人間の感覚は足し算(等差)ではなく、かけ算(等比)で感じている」というわけだ。(10の刺激が20になったときの感覚量と20の刺激が40になったときの感覚量は等しい)

 かくして、いったん気づいた〈屁〉のニオイはいつまでも残存する(臭気を感じる)のであり、少々拡散しても嗅覚は敏感に臭気をすくいとってしまう。その一方で、いまより少々ニオイがきつくなっても無頓着(鈍感)だったりする。放屁音を微音で聞き分けたり、逆に少々の音量の大小に鈍感だったりするのだ。我々に備わっている「感じる力」はこうやって個人の身体能力に合わせて場面場面で調整されていると観察されるのである。

 ちなみに、臭気指数は感覚量をその刺激量の対数に対応させて次の数式で表されている。Nは感覚量(感じる臭気)で、Sは刺激量(物理量の臭気)となる。Nが大きいと臭気は強い。

   N=10 Log S

 N:臭気指数、S:臭気濃度(無臭の清浄な空気で希釈したとき,無臭になるまでに要した希釈倍数)

 さて以上のように〈屁〉の異音異臭は定量化され数式として表現可能となるのだが、ここで再び最初に戻れば、やっぱり〈屁〉は主観的な現象となっていると思わざるを得ないんだね。

 かつて音成は「自分の〈屁〉が臭くないのは何でだろ〜ヵ」というエントリを書いたことがある。他人が自分と同じ臭気指数を示す〈屁〉をこいたとしても、我々は他人の〈屁〉の方をより臭く感じるのである。詳しい理屈は以前のエントリを参照してほしいが、そこには逃れられない心的な振る舞いがあり、「我々の〈屁〉の臭さは客観基準に対応せず、対面する他者の存在(意識)が隠微に関係している」と結論づけたのであった。

 今回、そういう主観的な〈屁〉のニオイの感受を「ウェーバー=フェヒナーの法則」をふまえ改めて考えてみたのだが、この物理法則そのものこそが(主観性や客観性を揺れ動く)心的運動の振る舞い(構造)の根拠を示していると鼓舞されたのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 16:14| 大阪 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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