2013年06月30日

奥方の「へ」と「へへ」の真相

 誰もが認める厳然たる現実ならば、信ずるに足る事実である──それはそうなのだが、まずは信じたい現実を(事実と)信じる(吹聴する)というのが人間の基本的な悪しき(?)習性なのである。

 事実を争う場合には、それが事実だという思い込みによって相互が虚偽意識なしに(事実と)主張して泥沼(喧嘩)化することもあるね。二派に別れた応酬を論争とか討論と呼べば、ちゃんと分別ある検証ができるような気がするが、実のところ、事実性は二の次にして相手をやり込めることを目的化したディベートとどこが違うのかという結果になる(ことが多い)。

 特に政治とか経済における学説とか主張はその傾向が強いが、いまここに漂う〈屁〉が臭いとか臭くないという議論もまた泥沼の様相を呈するものだ。

 加えて〈屁〉という現実は想像力を刺激してあらぬ方向に飛躍し、時に悲劇喜劇の結末へと展開することすらあるのだ。巷の〈屁〉談義というのはだいたいが他愛もないのだが、そこには(信じがたき現実を目の当たりにして)信じたいとする人間の悲哀(習性)がこめられている。

 音成はかつて「〈屁〉の喧嘩に勝者はいない〜」というエントリを書いたことがあるが(参照)、そこで紹介したのは次のような小咄だった。
屁の様な争
 ある小身なる人の奥様女中二三人を候(とも)につれ、実盛役の斎藤森右衛門御候(おとも)して江戸橋辺りを通りしに、髪結所に若い者四五人寄居て、あの奥様はうまい尻だ、イア、あいつはくさいなどいふ咄(はなし)しが森右衛門の耳に入り、立ちどまつておのれにつくいやつ、人の御ともしてして行く大事の奥をくさいなどは法外千万(ほうがいせんばん)今一度ぬかして見よと、切刃(きっぱ)廻せど、江戸者の常にて、その位のおどしはびくともせず、なんのこつた赤鰯をひねくりまはしたとてどふする気だ、イヤにくいやつなぜくさいといひおつた。くさいからくさいといつたがどふした。とんだとんちきなべらぼうじやアねへか、あんな頬べたの赤い女に、くさくねへのがあつたら二つとない首をやるべい。イイヤくさくはない。イヤくさいと大喧嘩。奥様は橋の袂(たもと)に立つて居る内、懐よりそつと手をやりかいで見てコレコレ、森右衛門、是非はともあれ、どうでもけんくわは、こちがまけだ。
(福富織部『屁』に収録された江戸小咄)

 古文が煩わしい人は前のエントリの訳を見てもらいたいが、要するに武家の奥方の〈屁〉が臭いとか臭くないとかの他愛もない喧嘩である。これなど、誰も嗅いで確証をえたわけでもないにもかかわらず、奥方のニオイが臭いとか臭くないとか(信じたいがゆえに)頑固に主張して喧嘩しているわけなのだ。

 若い衆は奥方の様子から判断した論をなし、森右衛門は奥方に仕える立場から否定する論をなす。若い衆にとっては臭いことが奥方の風体からしてふさわしいのであり、森右衛門にとっては奥方の身分からして臭くてはいけないのである。事実は奥方のみが知っているわけだが、可笑しいことに奥方はあっさり自分が「臭い」と認めている。事実に対して正直である。

 音成は不都合な(恥ずかしい)事実に対して隠蔽のない奥方に感心してエントリを書いたのだが、まあ実際のところは奥方にとって信じるも信じないもない。「臭い」のは嗅覚が発動した厳然たる現実なのだからね。

 しかし、よくよく考えれば〈屁〉が臭いとは万人共通の現実であって、奥方のみが弾劾されるべきものではないね。この話が可笑し味をもって成立するのは、結局は「他人の〈屁〉が臭いのは許せない」という人間のどうしょうもないワガママが派手に衝突しているからだ。

若い衆の信念=(ことさらに主張して)あの奥方は臭いはずだ=(臭いのは許せないことだから)臭いのは笑うべき醜態である
森右衛門の信念=(ことさらに主張して)この奥方は臭くない=(臭いのは許せないから)臭いのは醜態だからありえぬ

 両者は〈屁〉が誰の〈屁〉も臭いことなどとうに承知の上で、こうあるべきだと信じる事実を主張しているのである。それを「ことさらに」やってしまう両者の関係は裏腹なものだ。若い衆は話のネタとしてあの風体の奥方は臭くなければならず、そもそも臭いのは許せないから(嗅いだわけではないが)馬鹿にしている。森右衛門にとっては奥方の〈屁〉は臭くてはいけないのであり、もちろん臭いのは(嗅ぐまでもなく)許せないから反駁している。それぞれ立場は違うが臭いのが許されぬ(あってはならぬ)のは共通しているのである。

 洗練された婦人にとって、下劣なるニオイ(異臭)を発するのはタブーだという世間体の認識基盤は、若い衆も森右衛門も共有しているわけなのだ。

 なのに渦中にある奥方は世間体はどこへやら、ヒートアップする喧嘩に対して実にクールに振る舞って笑いを誘う。あんまり正直なんで愚かなだけなのか無垢なのか──というのが、前回エントリでの音成の判別しがたい感想であった。

 さて、ここまでは前説。大正十五年に『書物往来』という雑誌を改題した『東京新誌』(従吾所好社刊)第一号第一巻に「『屁』を讀みて」という一文を見つけたのだが、そこにこの小咄が取り上げられていたのである。書いたのは飯島花月で、江戸文学の研究家として知られる。これは福富織部の『屁』を読んでの批評の一節である。
(寛政十年板の『軽口新玉帚』といふ書に、女中の正直と題して此咄が出て居る。『屁』には出処が書いてないが、一言一句違はぬから新玉帚から採つたものであらう。此他の軽口咄の書類に話が幾つも出て居る。これは決して屁の匂いではない。頬ぺたの赤い女云々とあるので、直ちに其屁以外の異臭たることは誰にも気付かれる筈だから之れと知りつゝ故意に採取したのでもあらうか)

 ははあ、そういうことかと今頃になって気がついた。頬が赤い女はアソコが臭いという俗説があるのであった。
ある人、にはかに医師心がけ、医書をあつめ、そろそろよみて、合点のゆかぬ所に付紙を付る。
女房是を見て、「その紙は、なぜに付させらるゝ」と問へば、おとこ聞て、「是は不審紙とて、合点のゆかぬ所に付て、後に師匠に問ふためにつける。それによりて、不審紙と云」。
女房聞て、「なかなかの事じや。おれも不審がある」とて、紙をすこし引裂きて、唾をつけ、おとこの鼻のさきに、ひたと付る。
「是は何事の不審ぞ。我等が鼻に、不審はあるまい」と云。
女房聞て、「其事じや。世上(せじょう)に申ならはし候は、おとこの鼻の大きなるは、かならず、かの物が大きなるといふが、そなたの鼻はおおきなれども、かのやつは小さい。これが不審じゃ」。
おとこ聞て、尤(もっとも)じや。又我らも不審がある」とて、女房の頬さきに、紙をひたと付る。
「是は何の不審ぞ」と云。
おとこ聞て、「世上にいたの頬は白けれぞ、へゝ(陰部)がくさい」といふた。
(『きのふはけふの物語』17世紀初)

 鼻の大きな夫と頬の白い妻の会話である。頬が赤いとアソコが臭いということが前提になっている笑話なのだが、ここでは鼻が大きいとアソコも大きいということも信じられているよね。そうだね、こんな俗説は現代にも伝わって信じられている(ようだ)。

 いやはや、言訳だが、音成は「屁の様な争」をてっきり〈屁〉の話だと信じて読んでいたのである。信じたあげくに〈屁〉の論を進めてみたわけだが──浅学非才の妄論とはなりにけり、である。これは〈屁〉の話ではない。江戸文学の常識からは、頬が赤いというヒントはこの小咄を味わう鍵になっているわけなのだ。恐れ入りました。

 しかし(未練だが)端から〈屁〉と信じて読めばそのように読めるではないか。むしろ含蓄深く読めないかねェ。思えば、このような思い込みもまた、信じたい現実を事実と取り違えるケースなわけで、どこに落とし穴があるかわからない。

 音成の取り違えは「へ」と「へへ」なのだが、これが同じように臭いとしても意味するところは大きく違う。その点を少し明確にしておこう。

=誰でもが〈屁〉をこくという万人共有の認識基盤
へへ=それを所有しているという女性特有の認識基盤

 つまり人の認識の中心軸おいて、この二つは異臭が背負っている心的範囲が違うのだ。
 
 すべての人は〈屁〉を前にして崇めるも蔑むも、我が身に降りかかってくる自分の〈屁〉に逆襲される運命にある。誰だって〈屁〉をこくがゆえに、その万人性は意外に強固である。他人の〈屁〉を非難したり、アンタの〈屁〉は臭いと責めたりするのは(自分を棚上げした)撞着した倫理観の振る舞いなのだ。

 しかし「へへ」の場合には、それを持つか持たぬかによって区別され、対岸の火事を決め込む口さがない連中の餌食となることがある。それを持つ者は特有の仲間意識が生じる場合があるが、異臭のような場合はかえって仲間割れになる場合もある。そこには対岸の火事を決め込む者の存在(振る舞い)が影響してくるのだ。(屁論と女陰論の本質的な相違はその辺にあるに違いない)

 かくして江戸の小咄における奥方の振る舞いは「へへ」となるのだが、気張って喧嘩していた森右衛門が腰を抜かしたのは間違いないだろうねェ。


ラベル: 女中 信念 小咄
posted by 楢須音成 at 01:12| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。