2013年05月31日

「はひふ〈屁〉ほ」のクオリア

 人の振る舞いにはどこかしら品格というものがあるね。人は相手の存在感の全体にそういうものを感じ取るのであるが、自分の品格も気にしたりする。

 よくよく考えると、品格とは一種のイデオロギーではないかと思うわけであるが、観念の純粋培養による絶対的・普遍的な品格というものを「神の品格」とすれば、自堕落な人間の品格など振る舞うほどに馬脚をあらわし、どんどんランク落ちしてしまうものであろうねェ。

 それでも人は品格を重んじる。人の振る舞いばかりでなく物や物事にも気高いとか上品であるとかを暗黙のうちに判定する。そのとき美意識に昇華した観念(絶対の品格)は普遍性を持ち、逆に我々を縛るように圧倒的に振る舞ってしまうんだね。例えば寺院を訪れ否応もなく気高い仏像に圧倒される経験は、この人間界を超えている。

 しかしまあ、人が浅慮に〈屁〉をこくなどどいうことは「神の品格」の対極に位置するものだろう。気高さや上品さからは無縁であり、卑しさや下品さを体現しているのが〈屁〉だ──と、断ぜざるを得ない。

 もっとも、だからといって品格なき〈屁〉は絶対の悪(あってはならぬもの)かというと、そうも言いがたいね。仏師が丹精込めて彫った仏像に否応もなく圧倒されるように、我々は〈屁〉を否応もなく(身体内に圧倒的に)抱え込んでいるのであり、美男美女を問わず善悪をも超える存在であるという一面を持っているからだ。

 そして表現の世界では、我々はさらに〈屁〉に屈折した態度を表出せざるを得ない。例えば最古の歴史書であり文学書でもある古事記は、身体表現の記述において〈屁〉は一切出さないのである。そんなの当たり前だというなかれ、兄弟分の糞は頻繁に出てくるのであるからね。まあ、古代ばかりでなく現代においても〈屁〉が文学として扱われる軽重の度合いは(糞と比べても)極めて低い。品格という観点からいえば〈屁〉は糞にすら劣るのだ。

 世間では〈屁〉の話題は忌避されるわけだが、そもそも我々は「へ」と発声することからしてはばかられるのである。一般に「へ」よりは「おなら」の方がまだ発声しやすい(かもしれない)ね。語感としては「へ」は直接的で野卑さが漂う。しかし「おなら」はそのものからの距離感を出して野卑さ・下品さが漂うのを若干は回避している(ような気がする)。

 漢字(中国語)の「屁」は「ピイ」と読み、これはお尻の間からの放屁音を指しているらしい。確かに直接的だ。日本語では「屁」は「ヘ」または「ヒ」である。つまり、P音「パ」行またはH音「ハ」行が〈屁〉には関連していて、もとをたどれば放屁の擬音へとつながるのである。

 国語学者の上田万年(1867〜1937)のP音説によれば、日本語のハ行は元々はパ行であり、その濁音がバ行であったという。古代では「ハ行」は「パ行」だったとして、P音「パ行」→F音「ファ行」→H音「ハ行」へと発声が変遷しハヒフヘホが登場していると考えている。(つまり「パ」は「ハ」の半濁音ではなく、れっきとした清音であり「バ」は「パ」の濁音であった)

 放屁音との関連でパピプペポ(さらに濁音のバビブベボ)の音韻が〈屁〉の擬音としてふさわしいのは明らかだね。現代の我々が〈屁〉を「ヘ」または「ヒ」というのは、もとを辿れば「ペ(ベ)」または「ピ(ビ)」からの変遷であるといえるわけだ。上田はP音「パ行」→F音「ファ行」→H音「ハ行」へと移った変遷(の心的な動機)は発声の省力化現象だとしているのだが、音成はそのことに加えて「ヘ」とか「ヒ」の発声は(破裂音を避け)放屁音であることを隠そうとする潜在的な心理圧力も加わっていたと考えるのであ〜る。

 かくして放屁音に由来する〈屁〉の発声は(あからさまな擬音であることを避けながら)直接的に「屁」を指し示しているのだ。これに対して「おなら」は「鳴らす」という放屁の行為を語ることを通じて「屁」を指し示しており、直接的な「屁」そのもののへの言及を避けている。これは女房詞として宮廷の女房が使ったとされる隠語であったが、このように婉曲に言及する表現が上品で優美とされた(らしい)のであった。

 我々は意識的にも無意識的にも「へ」と「おなら」を使い分けているね。特に女性が「おなら」を採用していることが多いのは、このような音韻の伝統的背景を踏まえているわけなのだ。品格ある女性は口が裂けても「へ」とは言わない理由である。

 さて、以上は前置きのつもりなのだが、最近ある句集を見つけたのである。最初その本は何の意味かと首をひねり、次にページを開いて感動した。前書きにこうあった。
 次の頁をめくる前に、次の事を理解していただきたい。私は、私が言うのも変だが、〈品〉を重んずる性格です。生物の生理現象の屁を(He・Hi)等と発音する事を嫌い、これをHOと発音することにし、題材をHOにもとめいろいろと歌って見ました。一般の知る「へ」「ヒ」でない、もう少し品のよい「ホ」であると理解していただければ、たとえあなたが良家の方でもスムーズに頁をめくっていけるはづです。つれづれなるままに綴ったホの句集を、コーヒーでも飲みながら、明るい、静かな部屋で、一句一句場景を描きながら、楽しく見ていただきたい、見終ってから〔ヘッ〕などと言う人は、頭のカタイ人「ホッ」とした気分になる人は幸福な人です。
(池田一歩『「ホ」の本』1989年、アイデザインスタディオ刊)

 要するに、まるごと一冊が〈屁〉の句集なのだが、〈屁〉を「ヘ」とは言わずに「ホ」と呼んで一句一句を詠み上げたのである。約三百句ある。パラパラめくりながら(できるだけ上品なものを?好みで)選んでみたよ。
 豪快に こいのぼりのホ スッポ抜け
 親のホに 吠えかかってる 子犬かな
 七夕に 月下美人の 一夜のホ
 竹花の ホのかなかおり かぐや姫
 ホを一つ 落として天下の 秋を知る
 人の世は ホにも足りない 浮き沈み
 タンポポの 坊主あわれや ホの強さ
 ホをひって 可笑しくもない お人柄
 やすらぎは ほのかにかすむ ほのかおり
 電話口 元気な父の ホが聞こえ
 母のホに 目をまるくして 赤ん坊
 十五夜の ホをしたような 色の月
 一日の 仕事終わって 日暮れにホ
 何となく ただ何となく ホを一つ
 新妻の ホにスズ虫も 聞き惚れて
 シャボン玉 一発のホで 露と消え
 今朝のホは 目鼻にしみる 強さかな
 ホのように 頼りないよな 春の月
 手におえぬ 萩の乱れと ホの香り
 ホの一つ 出し惜しみする 寒さかな
 レスリング 負けた悔しさ ホで晴らし
 ホの香り 飛ばした風と コスモスと
 可笑しさに 顔も笑えば ホも笑い

 いやいや、名句がそろっているではないか。これが「ヘ」では品格が激減してしまう。このときの読み換えの「ホ」は唐突感を含んでほっこり謎めいているねェ。唐突感はあるが、まさしく〈屁〉を語っていて、だからといって「ヘ」を「ホ」と呼ぶことに違和感はない。音成の判定では「おなら」よりも品格は数段上である。

 ここでは〈屁〉を「ホ」に解放することに見事に成功している。そもそも「ホ」は「ヘ」と同じH音の隣接する音韻なので親近性が高いのだし、ハ行の末尾の安定感で「ヘ」を引き取っているのだ。放屁音に由来する〈屁〉の音韻は、H音「ハ行」(当初はP音「パ行」)のグループを故郷とするのであり、同郷の「ホ」が登場することに違和感が(あまり)ないのは当然だろう。

 このとき「ホ」は〈屁〉を直接に指示しているわけで、言い換えの「おなら」とは本質的に違う。そういう外連味のなさで「ホ」は我々にせまるのだが、なぜか野卑さ・下品さが失せている。「ほんのり」「ほのぼの」「ほっこり」「ほかほか」「ほのか」といった語に含まれる「ホ」の温かみが加わる。どんなに上品に、どんなに温かく「ヘ」の発声を努力しても、なぜか「ホ」には及ばないのである。不思議だ。

 言葉の音のクオリア(触感)に着目した「ことば理論」を打ち出している「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」(黒川伊保子、新潮新書、2004年)によると、人間の発するH音を次のように解説している。
 H音は物理抵抗が少ない音なので、他の子音ほど際立った音にならない。フランス語のように語頭のH音をはっきりと発音せず、母音のニュアンス付けだけに使う言語もある。
 しかし、聞き取りにくい音ながら、発音構造の性質はしっかりしているため、サブリミナル・インプレッション(潜在意識に働きかける印象=引用者注)は、意外にしっかりしているのである。
 物理抵抗を受けない息は、気管の体温を温存したまま外へ出てくるので、温かさの質を持っている。この温かさの質は、後続の母音によって色合いが違っている。気管からの息をそのまま口元にまで一気に運ぶHaの温かさは、かじかんだ手を温められるほどだ。気管からの息を、喉奥の大きな空洞でやんわりと包んで外に出すHoも、口元の温度が高い音になる。
 これに比べて、Hi、Huは、口元の温度が低い。この二音を「温かい」と言われると首を傾げる方も多いだろう。Hiは氷にも当てられる音(氷雨、氷室)であり、フーフーは熱い飲み物を冷ます息の音。「冷たい」とご叱責を受けることもある。
 しかしながら、このHi、Huは、熱いくらいのサブリミナル・インプレッションを持っている。実は、口腔空間を小さく使う母音i、uのおかげで、喉まで体温を温存してきた息の熱は、喉や口腔中空にぶつかり、ここに熱さを感じさせている。喉や口腔に熱を与えることによってエネルギーを消失した息は、口元に出てきたときには、もう冷たいのである。口元の息がクールなので顕在意識は気づかないが、喉に直接熱が与えられるHiは、ハ行音の中でもっとも熱い。というより、i音の鋭さの印象が効いているので、痛いほどに熱い、という方が正しいかもしれない。日(Hi)、火(Hi)は、その素直な表出語である。ヒは吹くが、ホノオ(Ho-No-O)は照らす。ホテリHo-Te-Riよりも、ヒリツキHi-Ri-Tu-Kiを訴える者の方が熱がっている。
 とはいえ、喉元の熱さのために、口元の冷たさが消えるわけではない。HiとHuは喉元の「熱さ」と、口元の「冷たさ」の正反対の二つの質を併せ持っている。特にHiは、その二つの温度差が激しい。この火のような熱さと氷のような冷たさは、ときに痛烈なほどのカリスマ性となって現れる。卑弥呼Hi-Mi-Koのカリスマ性は、Hiでなければ伝わらない。女王キミコではだめなのである。
 なお、Hiの鋭いカリスマ性に対し、HaやHoの温かさは、ヒューマニティあふれる人情の温かさだ。お風呂で手足を伸ばしたり、温かな羽毛に包まれて手足を伸ばす、あの嬉しいリラックス感である。
 同じ子音なのに、母音によってここまで表情を変える。Hは子音というより、後続の音に人間性(体温)の色合いを与える、後続音の強調関数のようだ。だからこそ、フランス語や英語の一部の単語では無発声のHがあるのだろう。
 H音の、温かさ以外の質にも着目してみよう。上あごや舌に触れない息には唾が混じることもないので、乾いた質も持つ。さらに、抵抗の少ない息は、気管から一気に口元に運ばれるので、意外なことにスピード感がある。これは、S音が持つような風の効果音による物体のこれ見よがしの早さではなくて、気管から口元へ静かに一気に運ばれるH音の息そのものの「あっという間に運ばれた」静かな早さだ。
 なぜなら、H音は、気管の空気が口元に届くまでの時間が最も短いのである(喉から口元までならKが最速)。中でもHiは最速で抜けるので、未来を感じさせるほど早い。
 なお、Hの場合、口腔内の滞留時間が長くなるとドライ感は失われる。後続母音がu、oの場合はH音が口腔内にこもって滞留するため、ドライ感は現れにくい。aやeでもゆっくり発音した場合や、長音の場合は同じようにドライ感が弱くなる。逆に言えば、同じ乾いた音でも、口腔内の滞留時間をコントロールできないK音に比べ、適度なドライ感を演出できるのがH音の特徴でもある。
 このように、H音には、温かなリラックス感、静かなスピード感(早さ・未来感)、ドライ感という三つのクオリアが互いに孤の関係(依存関係なしに)共存している。
 同じ空気感系のS音と比較するとS音はクールで適度に湿り気があって静か、H音は温かくて適度に乾いていて静かな印象になる。言い換えれば、Sは春夏の快適音、Hは秋冬の快適音といえる。あるいは、睡眠時の快適音はH、活動時の快適音はSと言うこともできる。
 母音a、iと結びつくと、早さ・新しさのクオリアが強調される。iはその他に熱さを、uは温かさ、eは乾いた感じ、oはリラックス感のクオリアを強調する。
 息を舌に滑らせて出すS音とは、雰囲気感すなわち光や風のニュアンスを伝える音、あるいは快適感の音として同系(空気感系)である。
(強調は引用者)

 要するに黒川の説では、H音「ハ行」の音のクオリア(触感)は体温を温存した温熱感を基本に持ち、発声時の空気の滞留具合によって温熱感は変わってくるのだ。そして気管や口腔内の発声構造(舌や空気の動き、母音との結びつきなど)によって「リラックス感」「スピード感」「ドライ感」がそれぞれ(バラバラの関係で)生まれているわけである。

 ここで我々が注目するのは「へHe」と「ホHo」であるが、特徴が次のように指摘されている。

「へHe」=ドライ感を強調
「ホHo」=リラックス感を強調

 このことを改めて観察してみると、「へHe」と「ホHo」がまったく逆方向にクオリアの比重を提示していることがわかるではないか。発声スピードを可変することが表現に大きな影響を与えている。

「へHe」=ドライ(冷)>スピード>リラックス
「ホHo」=リラックス(温)>スピード>ドライ

 我々が〈屁〉を「へHe」と発声するときは、すでに異臭異音の負の(忌避の)イメージに引きずられているため、一刻も早くその影響からの脱却をめざす心的運動によって短くスピーディに発声し、必然的にドライ感が生まれる。それは冷ややかでもある。

 これを「ホHo」と発声すると、まるで別物の物体を語るような錯覚(普段そうは呼ばない唐突感)もあり、息をためらいがちに滞留つつ発声し、結果的にリラックス感が生まれる。温もりがある。そういうことが陰性の〈屁〉との対比を経て、ある種ほっとする陽性の品格を生んでいるのであろうか。

 ところで〈屁〉を「ヒHi」と発声するのは放屁、曲屁というように少なく限られている。黒川の説では「ヒHi」は(勢いがあって)喉元まで熱いが口元では冷たいとする。喉を境に激しい落差を持つわけだ。喉元で制止がかかるので心的に忌避するもの・しないものをいったん我慢し、できるだけ平穏に客観視する冷静さが生まれることになる。かりに「へHe」や「ホHo」を「ヒHi」と言い換えてしまえば、「へHe」の野卑さ・下品さや「ホHo」の熱さ・温かみまでも抑制して(後退させて)しまうのだ。

 かくして我々の心的運動は〈屁〉の発声という身体表現に向かって、H音「ハ行」に内在する多様な音のクオリアとの相互作用(協働)を追求し、表現の方向性を打ち出していると観察される。

 品格を求めた池田一歩の「ホHo」の選択は、口にしにくい異音異臭への忌避感を遠ざけ、本来の温もりとリラックス感を取り戻して相対的な品位向上を図る、ハ行の中でも最善のクオリアの選択だったのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 17:18| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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