2013年04月29日

漫画で語る放屁論

 漫画で〈屁〉がテーマになることはある。なかでも〈屁〉の密室性を正面から取り上げたのが丸尾末広『放屁論』(1985年「キンランドンス」所収)である。音成がこの漫画を知ったのは最近なのだが、〈屁〉の本質を封じ込め、なるほどナルホドそうなのだ、と感動したよ。過激な性描写の作品集「キンランドンス」の中で一服の清涼剤のような作品になっておるわ。

 漫画はでっぷり太った中高年のオヤジが登場して独白する一人芝居。布団にもぐったオヤジが一発の〈屁〉を放って目覚める(多分、休日の)朝の風景から始まっている。(以下の引用は1カッコが1コマ内のセリフで改行は原文のまま)
「ブッ!!」

「スゥゥゥゥ……」

「すぅ〜〜〜
 〜〜〜っ
 ……」

「………
 ………」

「なんていい
 匂いなん
 だろう

 これは
 まぎれも
 なく私の
 屁である
 私のにおい
 である」

「屁は……

 それが『私のもの』で
 ある時
 私を恍惚と
 させる」

「私は『裸の真実』
 など愛さぬ
 から人前では
 決して屁をしない」

「もし不覚にも
 もらして
 しまった場合は
 笑ってごまかしたり
 せず素直に
 顔を赤らめ
 たい」

「垢は他の垢を
 愛さない

 もし
 裸の真実ばかり
 が尊ばれて
 皆が平気で
 人前で屁を
 するように
 なったら……
 私は想像するだ
 に寒気が
 してくる」

「そんな
 鼻つまみの
 裸の真実など
 何故尊ばれ
 るので
 あろう

 それ
 ばかりで
 はない」

「(人前で屁を
 する事によって)
 私の屁が他人に
 理解される
 のは許しがたい

 私の屁は唯一、
 私自身の
 ものであり
 何人にも
 理解されるもの
 であっては
 ならない」

「私の屁には
 誰一人
 立ち入る事は
 出来ない

 そんな私が
 何故人前で
 屁をする事
 ができよう
 か」

「かつて見世物小屋には
 『放屁男』なる
 芸人がいた
 らしいが

 そんなものは
 私にはまったく
 理解しがたい
 つまらぬ
 しろものである」

「何故
 自分の屁を
 他人に売るの
 であろう

 屁は孤独だ
 決してエンター
 テイメントたり
 得ないもの
 なのだ」

「屁は美しいか
 と云へば
 そうではない

 醜いかと
 云へば
 そうでもない

 屁は屁で
 ある
 それだけである」

「屁は
 フォルムを
 持たない

 それゆへにか
 屁はいつでも
 下等視される
 フォルムを持つ
 糞尿にさへ
 それ以下と
 されるのである」

「しかし
 その目に見へぬ
 屁を視覚化
 する方法はある」

「こうやって
 湯舟の中で
 屁をすれば

 (匂いととともに)
 屁を見る
 楽しみが味は
 へるのである」

「一つ
 二つ

 フフフフ……」

「特別
 威勢のいいのを
 する必要は
 ない

 さりげなく
 しかし
 確実に──」

「ブッ……と

 そしてそれを
 私は残らず
 呼吸するの
 である」

「その為には
 やはりフトンの中
 が一番よい
 ようである

 そう
 私の屁が外へ
 向かって
 拡散せぬ
 ように」

「ボードレールが
 死刑囚であると
 同時に死刑執行人
 であるよう

 私は屁をする人
 であると同時に
 屁を味わう人
 である」

「そして私は
 学校の先生
 です」

 このオヤジは実は学校の先生であるというのが最終場面のオチになっているのだが、にこやかに少年少女と手をつないで踊っているところで終わる。画にセリフがついていくよりも、セリフに画がついていってる展開なので、セリフだけ読んでも作品性はふくらんでくるではないか。〈屁〉をめぐる独白の連鎖は〈屁〉を語ってとても鋭いねェ。

 作品をおおうのは〈屁〉への偏愛である。オヤジは自分の〈屁〉が好きなのだが、この好きさ加減(偏愛の心情と理屈)が恋々と語られているわけだ。解釈を加えながら流れを追ってみよう。

(1)自分の屁の匂いとはまぎれもなく私自身なのであり、それが自分だけの匂い(私だけの独占物になっている状況)であるとき恍惚とする。
(2)私は屁を人前では決してしないが、不覚にも(意図せず)人前で屁が出たら笑ってごまかさずに恥じて素直に顔を赤らめる。
(3)世間ではしばしば平気で人前で屁をこく(屁を人間生理の当たり前と断ずる)『裸の真実』がなぜ尊ばれるのであろうか。
(4)屁の『裸の真実』などは受け入れられるものではないのだし、私が屁をこいて私の屁が人に理解・許容されるのは許しがたいのだし、そこには何人も立ち入ってはならない。
(5)まして人前で屁をさらす(屁を他人に売る)放屁芸など理解しがたいものであり、まったくつまらぬエンターテイメントである。
(6)屁はその異音異臭で存在感を際立たせるものの、フォルムを持たない(見えない)ゆえに(卑怯であると)糞尿以下に下等視されているが、見えないからこそ屁は美しくもないが醜くもないのであり、屁は屁であるというだけの孤独な(徹底的に自分だけがその異音異臭を抱え込む)存在なのだ。
(7)そんな自分だけの世界のため、屁が見えるよう視覚化するには泡と化す湯舟が最適であり、拡散させずに呼吸(嗅覚化)するには囲い込んでしまう布団の中が最上だ。どちらも屁をこいて屁を味わう人(いわば詩人)となって楽しむことができる。
(8)かくいう私は(『裸の真実』を教える)学校の先生である。

 まさに一編のポエムのような〈屁〉の漫画なのであるが、〈屁〉をうがって傑作と言ってよかろう。ここで語られているのは、まず〈屁〉が自分自身に内閉されることによって生じる恍惚感の吐露だ。もちろん〈屁〉は身体から腸内ガスが放出されて〈屁〉と呼ぶわけで、ここでいう〈屁〉の内閉性とは放屁によって自分自身だけのために異音異臭が身体の周囲に醸されている状態である。

 我々は〈屁〉の異音異臭を人前で発すれば恥ずかしいが、人知れぬ内閉性があれば楽しめる──そういうことを語っている。もちろん、これは恥ずかしいものを囲い込んで味わっている心的な倒錯だ。

 そもそも日本人にとって〈屁〉は(主として)恥ずかしいものなのだ。そのとき我々は放屁の異音異臭が程度の差はあれど他人に不快を与えることに思い至っているのであり、他人が抱く不快がわが身(=耳鼻)につまされている。そして次の瞬間には、どのような理由であれ自分の一発が(屁をこいてはいけないという)暗黙の協定を破ったことにたじろぐ。このとき我々は「規範=礼儀作法」からの逸脱を感じて湧き起こる否定性の情動「恥」の渦中にあるわけだ。

 このような否定性の「恥」は、そもそも他人の不快に配慮してしまう倫理的な気遣いから起こってくるのであるが、このとき〈屁〉を自分だけに内閉(他人の存在を消去)できていれば、少なくとも人に対する恥ずかしさはない。そしてそれが、限りない自己肯定の恍惚感へと誘われていくのは「囲い込み効果」ともいうべきものだ。

 誰かが〈屁〉をこいて周囲には誰もいないとする。しかし誰もいないにもかかわらず、そこでは他人の存在が消えているわけではないね。要するに(無人島に一人いるわけではないのだから)人は世間という他人にいつでも囲い込まれている(のを自覚している)のである。そこでは具体的な他人は目の前にはいないのだが、心的な(世間の)囲い込みが現象している。

 この囲い込みは我々が世間に鋭く対峙するほどに(厚く囲い込まれていると)感じるが、例えばモテモテの美男美女はそのプライドにおいて世間と対峙しているから、人前では絶対に〈屁〉をこかない(はずだ)。しかし鋭く対峙するほどに囲い込まれていることが強く意識され、自他の区別はいよいよ明確になり、世界の中心にいて〈屁〉をこく自分が壁に囲まれた密室の住人であるかのように感じられてくる。

 もっとも、そういう世界とはほど遠い、のんきな〈屁〉の世界があることはある。江戸の川柳にこういうのがあった。

 屁を放つて可笑しくもない独り者

 これは何ともほのぼのと気の抜けた川柳だが、ぽつねんと独り者が退屈を持てあまして〈屁〉をこいた情景であろうか。この無感覚さには密室感はない。相手(世間)を意識することもなく〈屁〉をこいたところで「可笑しくもない」のである。この独り者のように、少なくとも〈屁〉を意識して世間と向き合う気がまったくなければ〈屁〉は空気みたいに無害なものだ。そういう独身の(健康的な世間知らずの)若者が一人で部屋で〈屁〉をこいても恥(規範からの逸脱)もなければ恍惚感(倒錯)もない。ここには心的密室化は発現していない。

 恥ずかしい〈屁〉を布団に囲い込み味わって楽しむような倒錯(恍惚感)は、心的な密室化から生起してくるのだ。密室化は世間に対峙して、恥ずかしければ恥ずかしいほど強化されることになる。我々にとって〈屁〉は他人を冒涜する(と思い至る)がゆえに、それを我慢(制御)できないことは恥ずかしい。この不覚の思いが激しいほど恥は強化され、これが心的密室化の形成へとつながる。つまり恥が壁になって我々を囲繞してくる。

 話が少々それるが、一般に我々は「美しい」の反対は「醜い」と決めている。子供時代に「美しい」の反対語を「美しくない」と回答して叱られたものだが、それは意味づけの連鎖の世界において決めた認識から違えているからである。しかし、そういう決め事の意味関係から離れ、一つの認識を成立させる構造上の観点からからいえば「美しい」という認識は「美しくない」という認識と表裏の関係で同時に成立していると観察される。コインのように裏がなければ表がない(あるいはその逆もない)のであり、何かを「美しい」と思ったときには「美しくない」も認識している。

 この「美しくない」は「醜い」とは違う。それは「美しい」を欠如したすべてである。同じように「恥ずかしい」という認識は「恥ずかしくない」という認識と表裏の関係にあり、その「恥ずかしくない」は「恥ずかしい」を欠如したすべてだ。かくして「恥ずかしい」と同時に生起している「恥ずかしくない」があることが、恥を意識して表と裏(内と外)が分化する(心的な壁ができる)根拠になるのである。

 恥が壁になる(恥を意識する)ことによって、壁の内側で「恥ずかしくない」が確保される。というか、純度の高い恥の欠如が生起する。心的な倒錯(恍惚感)はこの壁に囲まれた密室で生起してくるのだ。倒錯という言い方はあくまで外から見た評価であるが、恥をよく知る(意識する)者が恥ずかしいものを楽しみ味わう──という一種の逆転現象である。

 世間に対峙した密かな心的密室(恥の欠如)を得ることによって、そこでは世間から迫られていた価値(規範)がリセット(反転)される現象を生む(ことがある)のである。いわば解放区の確保によって自由を得るようなものだ。礼儀作法や規則や禁止や禁忌といった、世間に遍在する規範の締め付けが大きいほどに心的密室度は高まり、密室度が高いほどに倒錯は生起しやすい。

 ところで世間を形成している幾多の規範は細かく制度化されるが、例えば職業も制度化の一環だね。この漫画のオヤジは学校の先生である。このことが象徴的に語っているのは、先生は生徒の前で礼儀作法を語る存在として、規範(世間)そのものとして存在しているということである。だから世間の側にいる限り人前で決して〈屁〉はこけないし、不覚にもこいた場合には深く恥じなければならない(顔を赤らめたい)──というように良心的に先生は振る舞うものだ。

 一方で、先生は〈屁〉というものの「裸の真実」を語る存在だ。そこでは〈屁〉といえども「恥」と切り離されており、例えば〈屁〉は物質として分析され、あるいは人間生理として吟味され、ついには芸事として演じられるわけである。まさに糞尿が学問として、あるいは健康の徴表として、はたまた肥料として等々──さまざまに有用性が(恥じることもなく)語られるように。

 この漫画ではそういう恥じなくてよい状況を「裸の真実」と呼んでいる。〈屁〉において「裸の真実」にどっぷり浸かると恥はないのである。一般に我々は「恥」と「裸の真実」という正反対の心的状況の使い分けをしており、それが世間体というものの総体になっているわけだ。

 しかし、そもそも世間では〈屁〉の卑怯な異音異臭は、何にも先行して存在倫理的に恥ずかしさを喚起するのだから、恥ずかしくない振りをするのは自己欺瞞に通じてしまう。かりにも恥ずかしくない(などと言う)人は極めて倫理感に乏しい人なのであ〜る。だから、オヤジ(先生)は断固として恥を強く強く意識せざるを得ず、この「恥」の意識こそが心的密室の壁なのだ。

 自分だけの世界である心的密室とは恥が欠如したエアポケットであり、物理的な条件としては〈屁〉の場合、風呂とか布団の中とかの密室が心的密室の形成を容易にうながす。そこに持続的に生起した心的密室は我々の行動に大きな影響を与えるわけだが、密室では外界で縛られていた価値の反転(リセット)が起こってくる。つまり〈屁〉が(真逆の、自由の)心的な解放(倒錯)をもたらすのである。

 身体の生理現象である〈屁〉に世間という社会性が介在することで異音異臭が(不快あるいは不快感として)意識化され、ついには「恥」に転じてしまうのだが、そこに世間がなければ「恥」はない。しかし、世間はどこにいてもついて回るのだ。

 心的密室で世間からの解放(外の価値のリセット)がもたらされるとすれば、仮想的に世間がなくなっている状況だからだ。壁(恥)の内側とは、言い換えれば心的に形成された仮面の内側である。仮面とは「恥」をまとった自分が持っている世間体(例えば先生であること)であり、このとき我々は仮面を演じながら仮面効果を体現している。外からは内が見えず、内からは外が見えるのが仮面効果だ。

 こういう内からの一方通行を確保すると心的な優位性を生んでしまう。外面的にも振る舞いは大胆になる。仮面効果のある心的密室で価値のリセットが発現するのだ。そこでは〈屁〉を是とする観念が支配し、異音異臭への偏愛が横行する。やがて(外から見れば独り善がりな)肯定性の興奮と充足の恍惚感に包まれるのである。

 このように人が心的密室化を抱え込むことによって価値を反転させる現象は、実は人間の集団化の中で大なり小なり広く見られることなのだ。例えば、不良グループとか放屁クラブといった、ある種の閉鎖的な集団では、過激な暴力や豪快な放屁が勲章になって自慢の対象になったりする。それは平穏な世間のルールや価値観とは相容れない振る舞いであり、仲間内にだけ通用する。カルト集団においては、反社会的な狂信の価値観が支配することもある。いずれも世間に壁を造った(囲い込みの)閉鎖性の中で発現している。

 漫画の先生に起こっている心的密室化(つまり価値の反転)は個的な現象(倒錯)である。それだけに秘匿された恍惚感は強烈であり、その恍惚感は自分より外には持ち出せないでいる。仮面は外せないのだ。先生にとって外で〈屁〉をこくのは強烈な恥である。そして、その恥による包囲網こそが倒錯を引き起こすのだ。先生は恥知らずではない、恥を知る人なのだ。

 いやはや、長々と理屈をこいたが、このような心的メカニズムをたどりながら漫画は展開している。その表現は実に正確といわねばならない。音成はすっかり感心してしまったよ。先生は〈屁〉を味わうには布団の中が一番よいと結論づけている。内閉の状況を布団はリアルに物理的にも心的にも作り出してくれるからだね。

 最近よく学校の先生が盗撮や児童ポルノで捕まっているニュースが流れる。彼らは(発覚すれば)犯罪になってしまうことに危険を顧みず手を染めているのだが、自らの行為を偏愛する罪や恥を強く強く自覚している(はずだ)。こういう自覚しているがゆえの倒錯劇は〈屁〉に限らず、いくつもの心的振る舞いの文脈を持ちながらこの世界で展開しているのだが、湯舟や布団の中を飛び出した時点で痛々しくアウトになってしまうのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 17:51| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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