2013年03月10日

放屁名人の虚実

 人間はそうであって欲しいという願いを陰に陽に現実に投影するものであるらしい。このことは人間の現実解釈が願望に引きずられたものであることを示している。そしてその願望とは、そうであって「欲しい」というようなものばかりではない。そうであって「欲しくない」というような願望もあるんだね。

 政治や経済や文学などの言説が例外なく色濃く願望に塗り込められていることは冷静になればわかるだろう。ただその願望が構造化されて(理論とか事実とか擬科学の言説で)客観的に語られ、時には強固に信心の世界に入り込んで正当性が主張されるのである。こういう段階になると、それを主張するイデオローグに同調行動をとる集団的な一派(同志)が形成されることもある。

 しかしまあ、どうころんでも願望とは自らの物心両面の栄達を願う(あるいは他人の栄達を嫉む)自己中心主義の欲望なのだ。巷を賑わすアベノミクスへの毀誉褒貶の言説にも、どんなに客観を装っても根深く願望が見え隠れしているね。評論家のみならず、デイトレードの株をやっている友人は円安・株高に急に人生観や性格が明るく(楽天的に)なっていった実にわかりやすいタイプであ〜る。

 さて、願望による現実解釈は〈屁〉にも影響を及ぼすことがあるのだと今さらながら知った。運(ウン)なのか縁(エン)なのか、前回ブログで放屁名人を取り上げたあと、何とその名人が紹介されているという写本「秋月雑記」を収録したエッセイ集(筑紫健太『続楽我記』1961年刊)を入手したのだが、そこに驚くべき記述を発見したのだ。

 甘木(現朝倉市)にいた放屁名人を記録した「秋月雑記」とは、秋月藩(福岡藩の支藩)の「藩士や庶民の逸話、滑稽物、怪談、色物等集めて」書いてあるもので、その一部が残っているらしい。

 この「秋月雑記」の中にある放屁名人の記述を典拠に、エッセイ集『河童の屁』の中で著者の山本辰雄は放屁名人を紹介したのだった。山本は「放屁名人がもと甘木町に住んでいた事が明らかにされている」として、その甚太という人物の放屁芸の様子をまるで見て来たように生き生きと書いている。(前回のエントリ参照)

 山本の描く甚太はこうだ。
(1)甚太は木綿を売り歩く行商人だった
(2)頓智があり人を笑わせるユーモアがあった
(3)かねてより放屁芸の誉れが高かった
(4)放屁芸で歌舞伎を中止させることを提案した
(5)舞台で自ら唄い屁三味線の伴奏を吹奏した
(6)歌舞伎役者も芸を忘れて見物するほど凄いものだった
(7)ついに歌舞伎を中止に追い込んだ

 やってきた神社の人気歌舞伎にのぼせて家人が働かなくなったと商人たちが嘆いているところに、甚太は放屁芸で歌舞伎を中止させると提案し、アホな、と誰からも信じられないまま舞台に立つや、観客をアッと驚かしヤンヤの喝采を浴びたのである。

 山本曰く「この甚太は若しかすると安永三年頃、日本中をあっと驚嘆させた曲屁福平のなれの果てであったかも知れぬ、でなければ、甚太は日本の放屁名人福平を凌ぐ屁の達人として、あらためて放屁の歴史の人物として登場を願わなければならぬ人ではないだろうか。それにしてもかくも秀いでた屁の達人がこの私の故郷にかつていたという事実は、なんとしても嬉しいことである」と。確かにそう言う賛辞や郷土愛もアリだと音成は思ったねェ。

 で、今回見つけた写本の記述だが、こうなっていた。以下に「放屁」という章の全文を引用する。
 甘木町に甚太と言うて、木綿を商う者あり。常に滑稽を以て世に聞こゆ、ある日大阪屋なる豪家に遊ぶ内、友達に言う。この頃祇園社内歌舞伎大当り、家の者と共にこの歌舞伎を止めさせる妙術は無きかと、互に論じ合う。甚太我は屁(ひ)りてせんと言いしに、友達笑うて承知せず。甚太言う然らば見物したまえと、翌日面白く仕度を整え、幕の半ばに、甚太出で、舞台際に尻をまくり、自ら歌を唄い尻を出して三味線の代りをなす。見物群り集り、面白がり各々見る。役者共に舞台に出て見物し、狂言とんと止みぬ。友達実に感嘆して休す。後で窃(ひそか)に其の手品を聞けば、甚太友人の一人を舞台の下に入れ、尻を口にして鳴らさせしと。

 甚太という人物がいて神社歌舞伎の舞台で放屁芸を披露して喝采を浴びたというストーリーはそうなのだが、これでは話の趣旨が違うではないか。音成は仰天したよ。「窃に其の手品を聞けば、甚太友人の一人を舞台の下に入れ、尻を口にして鳴らさせし」というのだ。つまり、甚太の放屁芸はインチキ(手品)だったのである。

 山本の紹介の仕方は事実だと言っているに等しいから、脚色が限度を越えて捏造になっている。元の話はただの頓智話なのである。そう思って写本を読めば、どこにも甚太が名だたる放屁名人であるというようなことは書かれていないわけだ。

 仲間と遊んでいたとき、家人を惑わす人気歌舞伎を止めさせる妙案はないかと議論になり、ならば自分が放屁芸でやってみせると言い出した甚太が、実際やってみせたら大喝采となった――そのオチは、舞台下で友人が尻を口にして鳴らしていたというのだ。

 これは放屁名人の話ではない。なぜこのような話を名人の話として紹介したのかなあ、と思って山本の記述を読み返してみたのだが、写本と比べればその脚色の度合い(創作)は相当なものだねェ。すっかり音成はだまされてしまったのだが、山本の脚色の執念(願望)には笑ってしまったよ。小説家みたい。

 しかしまあ、音成もこういう話は(あってほしいと)信じたい願望があるわけで、容易に同調行動に走るわけである。走るばかりか言葉を紡いでエラソーに論をなす。そういう〈屁〉の無間地獄からは逃れられそうにないわ。

 ブログで紹介した手前、ただの屁話なんだが、本日は挽回を試みた。


posted by 楢須音成 at 18:01| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月30日

実験で見る〈屁〉

 先日(3月20日)のNHKテレビ「ためしてガッテン」でオナラの特集をやっていた。NHKってオナラが好きなんだよねえ。最近も「あさイチ」でやっていたんだが、オナラを科学的に健康の観点から究めようとする。民放などが面白可笑しくオナラ芸人なんかを登場させて笑いを取ろうとするのとは違って、何というか至って真面目だ。

 今回の番組では元宇宙飛行士の山崎直子さんまで登場していたが、これは宇宙空間における〈屁〉の振る舞いを語るためだった。(NASAが〈屁〉を詳しく研究したのは、含有成分の燃えるメタンガスが船内で危険でないか──つまり船内で〈屁〉をこいてもよいか確認するためだったと)

 山崎さんによれば、船内で〈屁〉はこいてもよろしい(危険ではない)のである。酸素だけでなく窒素も含む船内の空気環境では問題ない。しかし、放出した〈屁〉はかたまりとなって漂う(拡散しない)ので、臭気の純度を保ったまま飛行士の鼻を直撃するというのだ。イメージとしては、宇宙船内の映像で水が球状になってぶよぶよ漂っているあれだ。〈屁〉の場合は透明で全く見えないから、あんな感じで鼻先に来てもわからない。遭遇すればニオイの不意打ちである。

 地上と同様に船内で〈屁〉をこいても危険はないとはいえ、宇宙で〈屁〉が拡散する(薄まる)ことなく純度の高いままに漂うという事態は、地上での〈屁〉の影響よりも大きいわけだ。宇宙においては〈屁〉をこく方もこかれる方も(影響は甚大で隠蔽はしにくいし)緊張するだろうねえ。少なくとも地上よりは心的(倫理的)な禁止(自制)は強く作用する(はずだ)。ちなみに山崎さんは被害に遭遇したことはないとのことであった。そりゃあ、レディの前ではねえ。

 音成はこうした宇宙船内における〈屁〉のありようから、地上とは違う倫理観が芽生えるような気がしたものだ。簡単にまとめると次のようになる。

 宇宙の〈屁〉=どこでもこいてはいけない(便所のような指定場所が必要になる)
 地上の〈屁〉=どこでこいてもよろしい(便所のような指定場所は不必要である)

 もちろん宇宙でも地上でも異臭異音の〈屁〉は無作法であり禁止だろう。ただ、我々が住んでいる地上では〈屁〉はどこでこいてもよい曖昧な存在だといえる。というのも地上では〈屁〉をこいても拡散してしまい、やがて自ら雲散霧消してしまう。この存在の曖昧さは放置しておくだけで隠蔽の効果が生じる(隠蔽しやすい)ということである。〈屁〉をこく指定場所はない。

 人間にとって隠蔽とは自己欺瞞に通じる心的な振る舞いである。嘘つきではないまでも隠し通す(無視する)振る舞いは、ある意味で嘘以上に後ろめたいはずだ。嘘つきがしゃあしゃあとして悪びれるところがない(正義面する)事態は往々にしてあるが、何につけ(不穏なものを)こっそり隠して(語らないで)いることはいわく言い難く後味がわるいものだ。そういう意味では隠蔽は嘘以上に根源的な倫理観を縛っているのだ。

 他人に対して〈屁〉を(こいたのに)こいたともこいていないとも言わずに、あえて黙っている(隠蔽している)こと、その後ろめたさは実は、深い深い心的な背理ゆえである。人によってはその背理の自覚(罪深さ)は地獄の苦悶をもたらすのであ〜る。私の〈屁〉が周囲に被害を与えていようといまいと〈屁〉をこいたという事実の隠蔽(無関係を装うこと)は心的背理なのだ。この隠蔽の意識的自覚または無(意識的)自覚はやがて嘘や自己欺瞞へと強化・発展していくことになる。

 それもこれも地上の〈屁〉の曖昧さ(人に知られないならどこでこいてもよいが、人が知るならどこでもこいてはいけない)からくる事態なのだが、宇宙の〈屁〉はかたまりとなって拡散せず明快に存在を主張する。いわば糞や尿と同等に近い固体性のようなものを獲得する。しかしながら見えないのだから、全く同等であるとはいえないわけで、むしろタチが悪い。不意打ちで存在を明かすのは卑怯なのである。

 ある種の固体性のような、かたまりとして〈屁〉が明確化していつまでも残存するならば、宇宙飛行士は〈屁〉に対して地上とは違う振る舞いを取らざるをえないだろう。まず〈屁〉はどこでもこいてはいけないという暗黙のルールが生まれる(はずだ)。そして、あまりに臭い〈屁〉が多発すれば〈屁〉を処理する場所を要求するようになるだろうね。現実の宇宙船がどうなのか知らないが、他人迷惑な〈屁〉を即座に処理する場所(方法)はあるのだろうか。

 かくして宇宙では〈屁〉は糞尿と同じように処理する場所(方法)を与えられれば、そこでこくのを許容される存在になるのだ。それは明快な社会(宇宙船)のルールに組み込まれたことを意味する。それは〈屁〉が地上で存在の曖昧さゆえに振る舞われた「隠蔽」という原罪から解放されることを意味する──まさに画期的な事態になるのである。居場所を与えられる存在を獲得すれば、新たに宇宙の〈屁〉の倫理観が生まれてくるのではないか。

 いやまあ「ためしてガッテン」ではただ単に宇宙船内で〈屁〉は拡散しないと言っていただけで、音成の形而上的な妄想とは関係ないけどね。で、話は替わるが音成が番組で注目したのは次の実験であった。

 番組では「肉」と「サツマイモ」を使って腸内細菌によるガスの発生を実験していたのである。ガスの発生量は半端なく「サツマイモ」が多かった。あくまで目視だが20倍以上は違ったのではないか。フラスコ内で盛んに発生したガスが管を通って注射器の押子をするすると押し戻すのを見て感動してしまったよ。

 イモを食ったら〈屁〉が出るとはよく言うが、それを実感する素晴らしい実験だった。このように実際に目で見るということ(事実)は、人間の認識に大きな影響を与えるものだ。

 また番組では実験で発生したガスを嗅いでいたのだが、「サツマイモ」から発生した大量のガスは臭くなかった。この実証も音成には意義深かった。(実際の〈屁〉は糞と触れ合ってニオイがついてしまうが、そもそもが臭い肉によるガスほどではない)

     肉食の〈屁〉=発生は少量/臭気は強
 サツマイモ食の〈屁〉=発生は大量/臭気は弱

 これは何を意味するのか。ここからまた音成の妄想だが、それは食性が肉食系の人種と草食系の人種の〈屁〉の差異であることを意味するのだ。この差異は存外、人間の精神形成(文化)に深く影響を及ぼしているというのが、かねてからの音成の持論(参照)。日本人はおおむね草食系の文化である。〈屁〉が多いか多くないか、臭いか臭くないか──そういうことが文化の根底に横たわっているのだ。まあ、詳細は今日は止めておきます。

 番組はニオイに悩む人には、一日にヨーグルト300グラム、サツマイモ100グラムの摂取をアドバイスしていた。ヨーグルトは腸内環境を整える(善玉菌を増やす)効果であり、サツマイモはガスの発生で臭気を薄めるという効果である。こういうアドバイスも実験を見せられた後に聞くと説得力があるよねえ。
posted by 楢須音成 at 12:49| 大阪 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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