2013年02月28日

放屁名人の存在

 このブログに限らず、おなら談義がわずかでも一定の嗜好性をもって展開されるのは、世にあまたある好事家向きの事象と何ら変わりない。好んでそれを語る流儀(振る舞い)は、結局のところ「好きだ」という以外に言いようがないわけだが、おなら談義が大好きな(面白がる)人は多いのである。

 しかしながら、なぜに〈屁〉なのか。まあ、普通はその実技における異音異臭は忌避され、恋人や夫婦のような親密な仲のくだけた場面でも、あからさまな放屁は敬遠されるものだ。それが文筆(言語)における談義となると大胆(語るにあけすけ)になる──というか実に博学・能弁だったりする。そういう〈屁〉の嗜好性は、肯定的なものを好きだと言うのと違って、否定的なものをあえて好きだと言ってみせるアマノジャクなところに意気を感じなくてはならない──のではないかねえ。

 人生の諸事に関してエッセイを書くとして、そこに〈屁〉の諸事を添えるというのは一頃(だいたい昭和三十年代あたり)流行した手法だったようだ。そういうエッセイ本が多出している。なかにはベストセラーもある。まあ何というか、当時は〈屁〉が読者にも受けた(社会現象だった)んだと思う。以下の中にはまるごと〈屁〉談義の本もある。
1954年 はだか随筆(佐藤弘人)
1956年 放屁学概論(金沢恒司)
1956年 お好み聴診器(佐藤三蔵)
1960年 厠談義(杉戸清)
1961年 一発OK(まえはらただきち)
1961年 おさんずいひつ(小倉清太郎)
1962年 河童の屁(山本辰雄)
1962年 おなら先生(太田馨)
1962年 狸の金玉(原三正)
1963年 臍下たんでん(手塚正夫)
1964年 おなら粋門記(藤田保)

 このうち地方出版だが、『河童の屁』(山本辰雄著、1962年、那の津書房刊)には「おなら談義」の一章が設けられている。人生の「あまくち談義」「からくち談義」「つれづれ談義」の章ときて〈屁〉になる。著者は福岡県の県会議員をやった人で地元の名士。こういう人が〈屁〉のウンチクを傾けている。「おなら談義」の目次を引用しておこう。
おならを訪ねて
 屁の臭さ
 屁にもお色気
 屁の色
 放屁名人曲屁福平のこと
 屁という名の字
 屁詮議
 屁の諺
 屁の徳
 外語の屁
 屁臭列伝
 福岡県での放屁名人
 河童の屁
 河童の諺
 月のもの
 柳河の河童
 小咄見合いの屁
 名優放屁弁
 笑い話眼ぐすり
其の他
 屁川柳
 屁の狂歌
 屁の都々逸
 屁の俗謡
 屁を論ずるの弁
 小ばなし南無三
 ずぼらあれこれ
 洒落
 老人のために読める

 さて、音成はこの中でも「福岡県での放屁名人」とか「柳河の河童」のような"地元ネタ"には興味をそそられるね。巷の〈屁〉の話は似たようなものが多い(このブログでも話題にした話が網羅されている)のだが、同じパターンでも"実在した"というような固有の事実性に根ざしたものは貴重といえる。
 甘木市に緒方健蔵さんといって随筆をよくする人がいる。
 心に思い、感じたままを何回かまとめて刊行された。つい先頃も「続楽我記」と題して出版されたがとても評判がよい。手に取ってみると、なかなか内容も秀れていて大いに参考になる本である。この本のうしろのほうに「秋月雑記」という作者は詳かでないが徳川の末から明治の中頃までを書きとどめた写本の抜き書が一部掲載されている。この抜き書の一節に、放屁の文がある。これによると放屁名人がもと甘木町に住んでいた事が明らかにされている。
 放屁の名人はその名を甚太といった。甚太はもともと木綿を売り歩く行商人であった。しかしなかなか頓智があり人を笑わせるユーモアも心得ていた。ある日のこと同町の豪家、大阪屋で数人の人が集まり最近祇園境内で歌舞伎をやるためそれにのぼせて家の者がさっぱり働かなくなって困るという、くやみ話が持ち上がった。
 三人集まれば文殊の知恵というが人気歌舞伎を中止させる妙案も浮ばず、このままでは商売は上ったり、どうすればいいのかと思案投げ首の頼りなさであった。そのときである、かねて屁名人の誉れ高い甚太、特異の放屁芸能で歌舞伎興行を「止めさせましょう」「私の力で」と膝を乗り出した。
 しかし集まっていた連中は噂に聞く放屁名人だけで、見たことがなかっただけに、鼻の先でせせら笑って本気にしなかった。至芸である歌舞伎と嫌らしい屁とでは最初から問題にならなかったのである。ところが甚太、一度云いだしたからには後には引かぬ性格『わしの屁が信用できませなんだか』、百聞は一見にしかず「わしの曲芸を見て欲しい」と強談判。論より証拠というわけで、翌朝、甚太の放屁芸を見物することになった。さて甚太は心得たもの身ごしらえもよろしく歌舞伎のあい間を拝借、にぎやかしく舞台の人となった。
 甚太は先ず尻をまくって初見参。観衆アッと驚くなかを、自ら歌を唄いながら屁三味線でよろしくたえなる伴奏を吹奏した。見物人は前代未聞の珍芸という訳でヤンヤの喝采をほしいままにしたことは申すまでもないが歌舞伎役者も芸を忘れ共に見物したのである。こうして病みつきの家を忘れての歌舞伎鑑賞も、ついにこの曲屁によって、歌舞伎は中止のやむなきに至ったというのである。
 今思えば、この甚太は若しかすると安永三年頃、日本中をあっと驚嘆させた曲屁福平のなれの果てであったかも知れぬ、でなければ、甚太は日本の放屁名人福平を凌ぐ屁の達人として、あらためて放屁の歴史の人物として登場を願わなければならぬ人ではないだろうか。それにしてもかくも秀いでた屁の達人がこの私の故郷にかつていたという事実は、なんとしても嬉しいことである。

 この話の面白いところは甚太の屁芸が(噂にすぎなかった名人芸から誰からも広く)認められた過程にあるね。つまり〈屁〉の芸が、歌舞伎という誰もが認める至芸と相拮抗する芸へと昇格した話なのである。

 豪家に集まったのは富裕層の旦那衆(経営者)を中心にした商人たちだろうが、神社の境内での歌舞伎興行の強烈な人気に渋い顔。家の者や使用人がのぼせて働かなくなっているのである。そこに甚太という(多分、末座にいた)放屁漢が一計を提案する。この人物は人を笑わせる才はあったというが、旦那衆の前での放屁は慎んでいたのだろう。自分の屁芸で歌舞伎の人気を横取りしてみせるという案を、旦那衆は一笑に付す。そこを強引に談判して甚太は歌舞伎の幕間に芸を見せることになるのである。

 これは屁芸が晴れの舞台を提供されたということだね。芸事で舞台に立つということは格別の意味を持つものだ。格式のハードルを一つ越えたことを意味するわけで、仲間内のカラオケボックスの美声もいいが、例えば観客を集めてのNHKのど自慢大会となると評価の次元(評価軸)が違うのである。ステージを得た甚太は「尻をまくって初見参。観衆アッと驚くなかを、自ら歌を唄いながら屁三味線でよろしくたえなる伴奏を吹奏し」「見物人は前代未聞の珍芸」に喝采する。面白いことに(プロまたはセミプロの)歌舞伎役者も芸を忘れて屁三味線を鑑賞(堪能)したというんだね。

 甚太の屁芸は大人気で歌舞伎を喰ってしまった。歌舞伎の中止は歌舞伎役者の側からの撤退(プライド喪失)だったかもしれないねえ。まあ、それほどまでに甚太の芸は凄かったのだろう。

 山本の記述の根拠は江戸末から明治中期までを記録した写本にある。それによれば甚太という放屁名人は実在したらしい。多分、九州の甘木に限らず全国にこのような放屁名人がいたこと(参照)は想像に難くないが、記録は乏しい。特に〈屁〉の場合には、単に芸をしたとか実在したとかだけでは必ずしも十分な記録は残らないのである。

 我々にとって〈屁〉とは基本は忌避すべきモノ、隠蔽すべきモノとして存在している。放屁名人もいったんは称揚されても、それは一過性の現象としてやがて封印され(忘れ去られ)る。芸の伝統が実体として伝わらない。どんなに受けても〈屁〉は歌曲になり得ず、歌い手としての師弟関係も確立できないのだ。まあ、一発芸という連続性の欠如(の環境や条件)によって記録もやがて噂の領域に埋没してしまう。放屁名人のまともな伝記などは(日本には)存在しないね。

 著者の山本は甚太の存在を郷土の誇りとして喜んでいる。さらに詳しい記録があれば、山本の筆が伝記へと進んでも不思議はなかったろう。まさしく〈屁〉を語る心意気であ〜る。


posted by 楢須音成 at 23:58| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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