2013年01月31日

〈屁〉をこらえる奥義

 年が改まって最初の宴会は新年会。皆の衆よい気分で大いにはしゃいでいるので、喧噪の中にいて屁の一発や二発は目立たないだろう──などという了見の人はいるかな。いや、いるだろうな。しかし酒席に限らず人の面前での〈屁〉というものは、まあ普通には興ざめ。我々は〈屁〉が露見しないように四苦八苦するね。

 昔から〈屁〉を我慢する技法として踵(かかと)を使うというのがある。川柳にも「おとなしう見せて踵で屁を殺し」とある。どのようにするのか。
◎屁の放り様
甘薯(さつまいも)又は持たれ易きものを沢山食い込み、貴人の前抔(まえなど)へ出で急に屁の催しあるときは、踵(かかと)のまるきところを尻に確(しか)と宛て、力のあらん限り押しつけ、時々これを捻(ねじ)りつけるやうに心がけ気を緩(ゆる)すべからず。此の如く二度三度と堪(た)へる時、屁の気はますます激動して来て、四度目位には、殆んど踵の力の及ばぬ程の勢ひにて押し来るものなり。其の時両方の踵を充分放ち去り又尻をも充分あげ、思い切つて放(ひ)り出し是れと同時に、一と調子声を張り上げて、話を仕出し紛らかすべし。その割には、音のせぬものなり。若(も)しなまじにこれを押へんとする時は、唐人笛の如き音を発し、却(かえ)つて聞き苦しきものなり。
(礫川喜望『放屁百話』序)

 踵のまるきところを尻(谷間の肛門あたり)に押しつけ、これをねじり込むようにする──というのを、実際にやってみよう。これは正座してないとできないね。音成は正座が苦手なので、やってみたのはいいが、足がつってしまって転げた。これでは〈屁〉を我慢するどころの話ではない。アイタタタと転げながらブウブウブウ出放題になってしまう。まずは、きちんと正座の姿勢が求められるわけだ。

 この正座は〈屁〉を我慢する第一の要諦である。姿勢よく背筋をのばして正座すれば〈屁〉の気は上へ抜けていく(はずだ)。ねじり込む踵は谷間に具合よくはまる(かな)。踵で肛門に栓をするようなものだが、ここに体重をかけて集中するのだ。

 引用した礫川の語る指南が一歩踏み込んだところは、それでも限界を越えてくる〈屁〉の処置に言及しているところである。激動する〈屁〉が踵を押しのける勢いを持てば、もはや仕方がない。思い切って〈屁〉を解放するのである。両方の踵を開きつつ、目立たぬように(しかし過不足なく)尻を浮かせ(肛門を)緩めて放出してしまう。そして(ここが大事なところだが)このとき同時にちょっとばかり声を張り上げ、やむを得ぬその音にかぶせて話を切り出す。このときの放屁音は意外に目立たない──というのである。

 繰り返すが、大事なのは気を抜く肛門の緩め具合だね。なまじ緊張し恐る恐る出るものを押さえつけようとすれば、唐人笛(チャルメラ)のような(甲高い)音が鳴る。この加減は大変難しい(だろう)。

 こう見てくると「踵で屁を殺す」という行為の奥深さ(困難さ)がうかがえるのではないか。ワザを分解して整理してみる。
(1)屁意を感じたら、
(2)正座して姿勢を正し、
(3)踵を谷間にあてがい、ねじり込むようにして、
(4)体重をかけて肛門に栓をする。

 かくして「正座→ねじり込み→栓」という踵を中心とする一連のワザがあるのである。ただし〈屁〉の圧力が限界に達すれば、ガス抜きのワザを用いる。
(5)思い切って踵を緩めて肛門を開き、
(6)放出しつつ声を張り上げて話を切り出す。

 いずれのタイミングも微妙なさじ加減があるだろうし、この流れを会得するのは難しそうだ。一足飛びに(5)(6)の段階を実行するケースもありなのかもしれないが、やはり(1)〜(4)までの我慢を重ねる緊迫していく段階があって(5)(6)の終局なのであろうな。その緊張と解放が人知れず成功裏に終わることこそ〈屁〉の隠蔽の醍醐味というべきか。

 一般に奥義と言われるものの奥深さとは、表の芸の裏に潜むワザの積み重ねだ。その積み重ねが表の芸に到達するまでの隠れた精進は、観客を巻き込む一大イベント(語り草)となって評価の対象ともなる。それに比べれば〈屁〉の隠蔽の奥義の奥深さは、全く観客に気づかれない。誰も気づかなければ誰も評価しないわけで、それは評価対象ですらない。そういう〈屁〉の奥義とは、あくまで個人の秘めたる(本来は)自慢できぬ(自慢にもならない)ワザなのである。失敗したら恥の奈落に落ちる。

 そもそも〈屁〉は存在しなくて当たり前の存在(無用のもの)であるが、身体内に不可避に存在しており、異臭異音の迷惑千万な属性のため忌避されている。全くの無用という本質的な無意味さによって、その不届きな異音異臭の激しさに嫌悪の感覚を呼び覚まされる一方で、自分がそういう〈屁〉の原因となったりして関わること(意識化)には深甚な恥の観念を形成してしまう。

 観念は次第に理屈(論理)や実行(実現)を伴ってくるから、我々は自他の〈屁〉を回避するために意識的にも無意識的にもさまざまに言論(言訳)と行動(行為)をなすのである。

 そのような〈屁〉の言論と行動においては「隠蔽」や隠蔽できないときの「擬態」との間を行きつ戻りつしながら、我々は翻弄される。踵による〈屁〉の封印のワザは、この「隠蔽」から誤魔化しという「擬態」によって完成するのだ。ひたすら〈屁〉を回避する孤独で危険な営為には違いないな。


ラベル: 正座 奥義
posted by 楢須音成 at 05:25| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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