2012年11月30日

娯楽になり芸になる〈屁〉

 我々の〈屁〉は異音異臭によって忌避されるモノではあるものの、時に放屁という行為は「自慢」ともなり、ついには面白可笑しい「芸」として受け入れられることがある。江戸時代には〈屁〉の芸人が登場して人々を興奮させるビジネスショーを大々的に成功させたこともあった。

 華やかで金になるビジネスショーとして大成功するには、いつの時代も人が集まる成熟した都会での興行が必須になるだろうが、ビジネス以前の〈屁〉の芸は古代から連綿とあったわけで、民話の世界ではそういう芸をする人物が繰り返し登場している。

 世間でもてはやされるエンタテインメントの芸は人の面前で演じられる。そこには「型(様式性)」があって「反復(再現性)」が求められる。それは比較できる「熟練(完成度)」において評価を高めることができる技術である。

 日本の民話の中に〈屁〉の話はいろいろあるが、もちろん〈屁〉でする芸は「芸として」注目されているわけだ。しかし、芸とはいっても普通の曲芸や曲馬などと違って、曲屁はいささか別格。何しろ異臭異音の代物を駆使するのである。しかもそれは、我々の身体から出てくるが、自由自在に扱うには制御が極めて難しい。口笛と放屁の間には制御の難易度の違いが歴然とあるわけである。

 洗練された〈屁〉の芸としては平賀源内の「放屁論」に活写された江戸の花咲男の例がある。興津要の『江戸娯楽誌』(1983年、作品社刊)が源内の語りのままに紹介しているので引用する。
 その演技は、囃子に合わせて、最初が、めでたく三番叟(さんばそう)屁「トッパ、ヒョロヒョロ、ヒッヒッヒッ」と拍子よく、つぎが夜明け鶏の声を「ブブ、ブウーブウー」と、ひりわけ、そのあとが水車で、「ブウブウブウ」と、ひりながら、自分のからだで車返りというアクロバットを見せ、はしご屁、数珠(じゅず)屁はもちろんのこと、きぬた、すががきなどの歌舞伎の下座音楽から、犬の鳴き声、花火のひびき、長唄、端唄、メリヤス、伊勢音頭、一中節、半中節、豊後節、土佐節、文弥節、半太夫節、外記節、河東節、大薩摩、義太夫節など、あらゆる曲節を合奏したというから、その特技はすばらしいもので、絶大な人気を博したのも当然だった。

 芸もここまでくると芸術なのかと言いたい(とはならないか…)くらいだが、もとを辿れば、それは仰天の〈屁〉の響き。こいつをいかに制御して芸にするかが勝負になるのであるね。人気を博したこの花咲男は一つの頂点を示したとは言えるであろう。

 もちろん〈屁〉の芸がここまでくるには歴史的経緯というものがあるわけで、そのことについては前に少し考えてみた(参照)。しかし、もっと素朴な、我々の〈屁〉が芸になる道筋のそもそもの起源(最初のきっかけ)はどの辺にあったのだろうか。まあ、どうでもいいことながら、それは誰もが〈屁〉をこくという現実において、特に発揮された〈屁〉の多発性が関心を集めたところに起源を求めてよいであろう。

 要するに〈屁〉をたくさんこく人が話題の中心にあったのだ。このときの〈屁〉は嫌がられるか、称賛されるかの岐路に立っている。当然ながら〈屁〉の芸は称賛される道筋を辿るのである。

 称賛とは比較の結果だね。多発する〈屁〉が数を誇って比べられ、さらには擬音や音曲に(似るように)完成度を高めていき、それを自由に操る(制御する)ことが評価される。
 明治・大正時代から昭和戦前期、そして昭和二十年代頃までの日常食はガス(屁)の源泉となるカライモ(甘藷)やタイモ(里芋)、ジャガイモ、トウキビ(トウモロコシ)などの澱粉質の摂取量が極端に多かったので、その頃の人々は今日の我々よりはるかに放屁活動が活発であったといわれている。
 そのため娯楽が少なかった以前の社会では、今では考えられないことだが屁ひり会(屁ひり較べ)が行われていたとか、屁ひりの名人と呼ばれる者がいたとかいう話が伝えられている所(本山町・大豊町・春野町・土佐市・須崎市)がある。若者宿の中での生活や青年団活動などのときにも、屁ひり較べに類するようなことが行われていたと伝えられている。また娘たちが「オウミ宿」(糸を持ち寄って紡いでいた宿)放屁者探しをした話も伝えられている(吉川村、土佐市、須崎市)。
 明治・大正時代の土佐の村人に最も人気があった娯楽は村芝居(歌舞伎・人形芝居)と木遣り節であった。その村芝居上演のときには少し幕間が長くなると、「これほど長う待てるかや(待つことはできない)」「早う誰ぞ出て屁でもひれ」「誰々さんは屁ひりが上手、浄瑠璃(太平洋戦争後は「君が代」ということが多かったという)ぐらいはひり(吹き)上げる」(春野町弘岡・土佐市芝)などという野次が飛んだりしていたというが、そのような時にはケツに自信のあるヒョウゲモノ(道化者)が、我も我もと前へ出て自慢の技を競っていたと伝えられている。
 このような場に出る者は前もってゴボウや豆を食べて準備していたという(春野町・土佐市・須崎市)が、これは放屁効果を高めるためであったという。放屁現場では出演者同士や観客との間で、前記した放屁直後の唱えことばをはじめ、いろいろな屁に関する問答や屁ひり比べが行われていた。たとえば春野町のお年寄りの記憶にある、このような時の囃しことばに「どこそこのおばさん(あるいはおじさん・あるいは特定の若者や娘の名前)屁ひりが上手、立てりゃプップ、座りゃプップ、プップ、プップとまことに上手」というのがある。
 屁ひり比べには「握り屁」をはじめ「梯子屁」だとか「犬の泣き声」「猫なき」「祇園ばやし」「鶏屁」「三番叟」などと俗称される放屁をはじめ、音の大小や臭い、リズム、間合いなどいろいろなジャンルがあったというが、こんなことがきっかけで誰と誰とは名人だ、といって屁ひりの番付があったと伝えられている所(南国市・大豊町・本山町・春野町・日高村・須崎市)もあり、世間話としていろいろな放屁咄が伝えられている。このような屁ひりの名人として伝えられている者には大豊町の「小川の屁留さん」、本山町の「屁熊さん」(本名・宮中熊吉)、土佐清水市川口の「屁ひり増」などがいるが、いずれも明治期の人物である。
 木遣り節は元来は作業唄だったが、後には舞台木遣り・座敷木遣りとしても唄われるようになり、明治期にはその全盛期を迎えた。明治末年から大正期に高知県の代表的唄い手といわれた江ノ口村(現高知市)の正や新居村(現土佐市)の久助、領石村(現南国市)の馬というような木遣り師が県下を回って村人を熱狂させ、その影響下でさらに多くの木遣り師が誕生した。
 このような木遣り師たちはあいの狂言として落とし話(落語)や一口話、色話、豆蔵話、小唄、端唄などを適当に混ぜて上演し、お客を笑わせて喜ばせていたというが、最後には出演者全員によるナブリアイ(頓作ともいう)という芸が行われていた。このナブリアイはお互いに相手をけなし合うことでお客を笑わせ喜ばせる芸であったといわれているが、このときには放屁に関する話題がよくとりあげられていたと伝えられている。
(坂本正夫「放屁の民俗」2004年、西郊民俗186号)

 これは高知県下の「放屁の民俗」について調査して語ったものである。採取されている話は明治以降の様子であるが、古代から地域社会では〈屁〉が娯楽の要素として一定の役割を持っていたことをうかがわせる。(まあ、そんな役割なぞとんと聞いたこともないワというのが都市化された現代社会での〈屁〉の扱われ方ではあるが──)

 放屁の多発→自慢→芸化

 放屁が辿ったこういう芸化への道は古代から綿々と続いてきたと考えられるのだ。ただし、その連続性はいつの間にか最初に戻って(消えて)しまう円環運動の繰り返しであって、放屁の芸は歴史の中で消えたり現れたりしている。しかし、消えたと見える放屁芸は伝説の芸として語り継がれ、時に再興されてもいるわけだ。

 その芸はそのとき限りの単なる一発芸というわけでもないし、まったく何も伝承されないわけでもないのだが、例えば歌舞伎や落語や謡曲などのような、きっちり教えを受け継ぐ伝統芸のようにはなり得ていないのである。

 芸の型(様式性)→反復(再現性)→熟練(完成度)

 芸が成立するこのような条件において〈屁〉に困難があるとすれば何が問題であろうか。放屁は笑いを誘うという一面では人を喜ばす格好の芸の道具(ツール)ではあるものの、普通は下品で下卑な存在として忌避される。この点がまず、下品で下卑な内容の落語や漫才とかの口舌の芸とは違うところで、〈屁〉はどう取り繕ってもそのものが下品で下卑な存在なのだ。

 まあ、それでも〈屁〉が自慢になる(いささか倒錯的な)現象をふまえれば、芸として成立することはあり得る。名人になることはできるし、名人がいたのである。つまり最初は、単純に多発する〈屁〉を抱え込んで数を競うという、実にわかりやすい集団の行為として名人を生むことになった。これをコンクール形式で参加者を募り運営すれば、自薦他薦の名人が集まり、観客が参集した。

 こういう〈屁〉の多発性がショーとして成立するには、曲がりなりにも〈屁〉を制御しなくてはならないね。無秩序にやたら〈屁〉をこいても仕方がないのだ。思い通りに絶妙のタイミングを合わせ、数を上手にコントロールして増減すれば、一場のショーとしてやんやの喝采を浴びるだろう。

 屁ひり会は〈屁〉をショーにして楽しんだ。まずは(驚異的な)数の連発で評価され、ここまでくれば(数から質の評価へと向かう)芸の道へ一気呵成に進んでもおかしくない。

 しかし、その道は決して平坦ではない困難性を孕んでいる。そもそもが嫌がられる異音異臭であることに加え、精緻な制御が難しいのである。口笛とはまったく違う。口笛がオーケストラと共演できても、〈屁〉が共演することは至難の業だろう。第一、異質な(異様な)音色からして一般の音楽性はないね。逆にいえば、受け入れられる〈屁〉の芸道化は非常に(絶望的にすら)高度な技術(制御)を要するのである。

 江戸の花咲男の芸が今や語り草の伝説芸にすぎない現実は〈屁〉の芸が極めて定着しにくいものであることも示している。というか(源内がちゃんと記録したからいいようなものの)下手したら忘れ去られてしまっていただろう。

 結局、これまでの歴史で巷の〈屁〉の芸は一過性のものとして存在してきた。長続きしない。芸の潮流が途切れてしまう。それは現代に至る傾向である。かくして技の継承も世襲もままならぬのが〈屁〉なのだが、このような〈屁〉の芸は個人芸として孤高の名人を志向することになる。



posted by 楢須音成 at 06:00| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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