2012年10月31日

放屁合戦あんぽんたん

 アンポン国では〈屁〉が臭いことが当然だった。それは自慢であり、名誉であり、国民は誰もが〈屁〉を臭くするため国産の黒芋を飽食したのであった。

 黒芋はどの国にもある食材だが、自国の黒芋を食すると〈屁〉が臭くなるので、どこの国でも異国産の黒芋が好まれていた。自国の黒芋で臭くなるのは自己完結がもたらす風土病のようなもので、健康志向の国々では〈屁〉が臭味を帯びるのは水や土地とそこで暮らす人間が奏でる負の禍々しいハーモニーとされた。

 禍々しくも〈屁〉が臭いという負のハーモニーは敬遠され隠蔽されるのが常であるから、どこの国でも国産の黒芋は輸出に回されて国内にはあまり流通しないことになる。

 しかし、どこにでも独自な国はあるものだ。アンポン国では自尊教育によって〈屁〉が臭いことはむしろ誇りだったので、逆に異国産の黒芋は疎んじられた。黒芋は他国の数倍の生産高を誇り、国民は臭味たっぷりに自信に満ちていて、そんな気は更々なかったのだが、他国民からは傲慢であると非難された。臭味が自信なのか、自信が臭味なのか、その態度は渾然と一体化していたわけである。

 そもそも他人が〈屁〉をこいて臭いというのは迷惑の極みであるから、普通は人の面前でこかないのが礼儀というものだ。ひとたび〈屁〉をこけばそこは疑心暗鬼の修羅場だ。そして人間は自分を優位にしようとする心性があるために、他人や異国人の〈屁〉は自分の〈屁〉より臭い(ように感じる)のである。そういう疑心暗鬼を避けるために〈屁〉を暗黙のうちに相互抑制する知恵も育ってきた。隣国の人間としては、いくら洗い清めたお尻でも〈屁〉を奮発するのはお控えいただきたいのである。

 その朝も祭りの御輿(みこし)をかつぐため古起杉善屁(こきすぎぜんべ)はお尻を洗い清めていた。この男、善良には違いないのだが、素晴らしく〈屁〉が臭い。もちろん、アンポン国でそれは誇りである。アンポン国でも卒倒するような臭い〈屁〉が漂えば居並ぶ人々は鼻をおさえて逃げ惑うものの、それは喜びにざんざめく快楽の狂乱になっているのだ。臭いの渦中にあってそのような、いわば〈屁〉の倒錯は異国人には理解しがたいものだろう。

 洗い清めたお尻を純白のフンドシできりっと締め上げ善屁は首を振って身震いした。そこにまるで出発の啓示のような高らかな〈屁〉の一発。ひんやりした朝の空気が引き裂かれて出屁大社(いずべたいしゃ)の空が黄色く染まった。

 大社のたくさんの御輿にはすでにフンドシ一丁の若者たちがむさぶりついてお尻を盛んに振っていた。ハリボテの巨大な御輿には長老たちが鎮座して息を潜めていた。御輿は荒海に乗り出す船であり、長老たちにとっては祭りは過酷な苦行ともなっていた。若者の晴れ晴れとした心で善屁はうごめくお尻の塊の中に無心に飛び込んで行った。やがて御輿が大きく揺れて動き始めると、法螺貝のような〈屁〉がいっせいに幾重にも重なって響いたのである。

 見物の大衆の中には異国人もたくさんいた。彼らは鼻をつまみ潰れた叫び声を上げたので、大社の森は〈屁〉の法螺貝と鼻声のどよめきに揺れた。善屁はにわかに奮い立ち、御輿をかつぎ上げる幾千の若者の一人となって都大路に飛び出して行った。

 都大路は幾万の見物人が連なり重なり合って御輿の乱舞を待っていた。ホホーヒー、ホーヒー、ホホーヒー、ホーヒーの掛け声が近づくと、興奮した見物人があちこちで遠慮なく〈屁〉をアンポンポンポンポンこいたので、凄まじい臭気に卒倒する異国人が続出した。

 そんな危険な祭りを身を乗り出して見物する異国人も異国人だが、彼らはアンポン国で経済活動する商売人とその家族なのだった。アンポンに暮らせばアンポン屁を嗅ぐべし──という、少々残念だが現実的な教訓を彼らは堅持していたのであり、祭りをボイコットするようなアンチ・アンポン屁の根性では商売はやっていけないわけである。

 それにまた、独特の祭りの民族的情念が激臭となって渦を巻く、その毒気にあたることによって耐性(我慢)を得たいという願いもあったし、興味本位ながらアンポン文化の〈屁〉の真髄を凌駕しようとする漠然とした関心(プライド)もあったのだ。

 今年も祭りは大いに盛り上がった。御輿行列は前進と後退を何度も繰り返しながら、燃え盛る炎の勢いで都大路を走り抜け、幾千万いや億千万のアンポン国民の咆哮となって空に轟(とどろ)いた。

 その年の御輿行列が最初から特に過激であったという断定はできないのだが、少々乱暴な行列であったことは間違いない。毒気の〈屁〉にあてられ卒倒する異国人を躊躇なく跳ね飛ばし、止まることなく進んで行ったのだ。これは特に〈屁〉が臭い年になると起こる危険で野蛮な現象であった。担ぎ棒に振り回されて時々宙に足をばたつかせ思わず知らず〈屁〉をこいていた善屁も、何人もの異国人が倒れるのを無関心に平然と視界に入れていた。突進する汗まみれの狂躁のなかで〈屁〉の毒気は冷酷さをもたらすのである。

 やがて御輿行列は都大路のどんつきにある超高層の千鶴タワーへと近づいて行く。このとき善屁は異国人への怒りがふつふつと沸き上がってくるのを感じたのだった。タワーの一階は隣国のポンタン国の大使館が占めていたのだが、何しろ出屁大社と相対する都大路の一等地に異国支配の施設がデンと構えているのだから、アンポン国民は面白いわけがない。歴史的経緯による既得権益は超高層さながらに高々とそそり立ち、善屁は傲然と見下されているように感じるのであった。

 行列が千鶴タワーへ近づくと御輿を担ぐ若者たちの敵意に満ちた異様な熱気が燃え盛り始めた。はじめちょろちょろなかぱっぱおやはしぬともへはこくな、という御輿に乗った長老たちの慌てた制止の声も虚しく、そのとき一天にわかにかき曇るや、不吉な雷鳴のフーガが轟き、若者たちはお尻を振り振りアンポポンポンポンポンいっせいに呼応して、次の瞬間には先頭の御輿は大きく傾きながらタワーへと突っ込んで行った。

 驚いたのはポンタン国大使館である。一階ロビーは大破し、隣の大広間で催されていたポンタン物産展会場は大混乱に陥った。何という狼藉であろうか。許されぬ──はずだが、アンポン国の警備隊は最初は見て見ぬふりの知らぬ存ぜぬ。御輿から無残にも投げ出された長老の泣かんばかりの血相にやっと慌てて制止に入ったのであった。事態を知らぬ行列の後方からのホホーヒー、ホーヒー、ホホーヒー、ホーヒーの今や間延びした掛け声が続くなか、急にブレーキがかかった行列はあちこちでアンポポンポンポンポン、アンポポンポンポンポン放屁の連打の乱れ打ち。そのとき先頭御輿の善屁はハリボテが壊れた御輿の下から、夢でも見ているような愛国の夢心地ですっくと立ち、ひときわ見事な〈屁〉をこいた。怪しげな曇天には閃光が走りドロドロの雨まで降ってきた。激しい雷鳴のフーガがけたたましく鳴り響いて、逃げ惑うポンタン国大使館員と関係者はことごとく卒倒したのである。

 一夜明ければ夢の如し。例によってアンポン国では御輿行列の行き過ぎはお咎めナシ。ポンタン国の抗議も、そもそもの原因はそこに大使館があるから(そちらが悪い)という理屈で押し返された。主張する正義の声が大きければ外交上の治外法権などという特権は反故にされるのである。

 しかも今回の件に関しては、アンポン国は何を思ったか千鶴タワーの所有者と交渉することでタワー全体を買い取って国有化し、大家になってポンタン大使館の退去(警備上、別の場所への移転)を要求したのであった。

 突っ込んだあげくに出て行けとは何事ぞ──メンツを潰されたポンタン国は怒髪天を衝いて怒りは治まらぬ。法外な賠償を積算して要求し千鶴タワーへの居座りを決め込んだのである。テコでも動かんわ──という決意のみならずアンポン国の〈屁〉が伝統的に臭いこと、ポンタン国民へ臭害(鼻粘膜の風土的崩壊)が強制されてきたことなど歴史的な経緯をほじり出してネチネチと主張し始めた。こうなるとポンタンの被害者意識はルサンチマンを帯びてくる。もともとポンタンはアンポンの三等属国だったのである。

 ポンタンでは国内消費量の大半をアンポンの黒芋(すこぶる美味ゆえポンタンでは大人気)の輸入でまかなっていたのだが、これをアンポン排撃の処置として検疫と手続の複雑化を強行し実質的に輸入禁止にしてしまった。このためポンタンでは、自国の黒芋を食することになって一気に国民の〈屁〉が臭くなってしまったのだ。救いようのないルサンチマンを帯びた〈屁〉の臭さが不気味に深みを増して国の全体を覆い始めていた。

 そのころ善屁は祭りのあとの〈屁〉の残り香、けだるい余韻に浸っていた。勝利の気分とも言うべきか。何に勝利したのかはわからないが、とにかく突っ込んだのである。もちろん御輿の暴走が解決困難の深刻な紛争を惹起したことはわかっていた。それがポンタンという国を相手にしていることもわかっていた。善屁の愛国心は紛れもないが、しかし善屁にはそんなことよりも、祭りの長老たちを御輿から放り出したことが愉快だった。いやまあ、あいつらときたら御輿に乗って酒くらって〈屁〉をこくだけの妖怪ジジイだぜ──善屁はそうとしか思えなかった。あのときの泣かんばかりの長老の慌てふためいた姿を、善屁はにんまりと思い浮かべて余韻に浸っていたのだった。長老どもに泥を塗り、ポンタン相手に愛国無罪だぜィ──。

 あまりの〈屁〉の臭さに困惑したのは周辺国で、毎度毎度の祭りの騒ぎにはうんざり。その辺で〈屁〉が漂って臭いとしても、関係ない第三国は見ざる聞かざる言わざるでいる姿勢が一般的なのであるし、当事者同士で(勝手に)やってくれ(冷静な対応を望む)というのが国際流儀。あまりに〈屁〉が臭いと制裁対象にもなりかねないが、そもそも〈屁〉は誰でもこくわけで、多かれ少なかれ自分の〈屁〉の醜悪(下品)さは何となくでもわかっているものだ。特に心弱い婦女子に至っては〈屁〉は語ることさえ鬼門である。ヘメコ国の女性大統領は〈屁〉があまりに臭いらしいと週刊誌の小さなコラムで中傷され、悶絶して反論をなしえなかったが、その週刊誌はあまりに下品過ぎると廃刊に追い込まれた。

 ことほど左様に国際的には平時における〈屁〉は忌避され、その臭さは触れてはならぬアンタッチャブル(下品)な話題なのである。しかしアンポン国が特異なのは、何があろうと〈屁〉が臭いことは誇りだったのだ。アンポン国では〈屁〉を臭くする国産の黒芋を食べることが奨励されたのである。

 確かに〈屁〉が臭いことに国家的なメリットがないことはないであろう。〈屁〉が臭ければ相手を威嚇する、うまくいけば卒倒させる──アンポン国の国民皆兵の〈屁〉武装はワガママ過ぎると国際間でも問題視されてはいたのだ。というのも相手の〈屁〉の臭さを認める(脅威を感じる)と、こちらも〈屁〉で対抗するように追い込まれるわけだ。〈屁〉の臭さに言葉だけで対抗することは(民主主義的なルールが確立していない国家間では)無理なのだ。激臭の〈屁〉には激臭の〈屁〉で対抗する以外に(精神的にも)根本解決はなかった。我慢するにもほどがあるというもんだ。

 ところで〈屁〉の国アンポンにも変わり種はいるもので〈屁〉の臭さを恥じて論をなす者はいたのである。正義派弁護士の古木益清屁(こきますきよべ)は弁護士特有の理念派(イデオローグ)で臭害がもたらす人権侵害に敏感だった。祭りともなると出番到来だ。異国人の卒倒者(被害者)を見つけ出し国家賠償に熱心に取り組んでいた。しかし国の立場としては、わざわざそこに出かけてくるのが悪い(強制連行ではない)という反論をして取り合うことはない。これが清屁には気に入らない。こういう国を挙げての〈屁〉の臭さが身悶えするほど恥ずかしかった。

 清屁は自分の〈屁〉が臭いと言われることを極度に恐れていたので、自国の黒芋は食べないことにしていたのだが、何を食おうが〈屁〉というものは多少はにおうのである。というか、におっているなかでにおわないことはにおわないことじたいがにおっている──という哲学者ヘガクサスギルの言葉通りに実はにおっているに等しいわけであるから、いくら自国産を食べず臭くなくても臭い(目立つ)のである。

 その臭さは要するに観念体系の理念からにおってくるのであり、脱観念的なものに昇華された上に深く心的な羞恥の基準になっていた。においは一般に鼻粘膜を刺激したあとはいつまでも残っていない。においがしたという記憶は残っても、においそのものはすぐに雲散霧消してしまうのだ。においを再現したいなら我々は再びにおいのするものを用意して、鼻粘膜を刺激しなければならない。つまり〈屁〉はこくたび「におう行為」なのである。しかし、そのような〈屁〉=「行為」から「におう屁は迷惑だ、劣った屁だ、撲滅すべきだ、規制すべきだ…」あるいは逆に「におう屁は素晴らしい、勇者の証だ、あまねくこくべし、我慢するな…」などと我々はさまざまに理念化する。それはもとの「屁」そのものからは乖離しイデオロギー化して我々を支配するのである。

 観念(理念)のにおいは直接に鼻粘膜を刺激するのとは違うが、脳内でいつまでも各種におってしまうのである。もっとも、一般に自分の〈屁〉をあまり臭く感じないように、においを感じるのはもっぱら他人の観念からであって、自分の観念のにおいは(あまり)感じないものだ。さらに言えば、観念のにおいは観念そのものではないが、観念の存在を前提として漂うのである。そして臭い〈屁〉をこく者同士がお互いのにおいを(あまり)気にしないように、同じ観念を共有すればにおいは気にならないことになる。

 清屁はいまや至上の人間イデオロギーになっている人権への侵害を〈屁〉が及ぼす脅威に適用していたのである。すべて〈屁〉は悪であった。清屁とて〈屁〉が人間の不可避の行為であることは認めるが、そういうものを抑止しないで振る舞うことは人の道にはずれることであり、他人への脅威に無自覚であることは非道徳なのである。臭い臭い〈屁〉が誇りになる国など絶対に許しがたい。御輿行列の下品な喧噪など恥ずかしく醜悪の極みであった。それにまた、清屁は心やさしいへミニスト(婦女子を〈屁〉から守り、何よりも〈屁〉からの純潔を主張する人)でもあった。

 御輿行列に端を発する今回の紛争が始まると、清屁は行列によるポンタン人の被害を調べ上げ賠償支援に取り組み始めた。御輿行列の見物に参加したポンタン人に何らかの強制性が働いたとの断定によって、祭りの主催者のみならず政府の関与を追及していた。多くのポンタン商人が(商売繁盛を願って大社の)祭りのスポンサーになっていたことも、その強制性の証拠とされた。清屁の活動に煽られ、賠償金につられたポンタン商人はアンチ・アンポンに傾いて「強制された」と証言した。この〈屁〉の強制性にポンタン国民は激しく憤慨し、すでに自らに解禁していた自国産の黒芋の飽食によって〈屁〉の臭味がますます深まることになった。目には目を!〈屁〉には〈屁〉を!である。

 ポンタン国内ではアンチ・アンポンが大いに盛り上がって、退去に抵抗して立て籠もる千鶴タワーのポンタン大使館の攻防と呼応し、暴徒と化したデモ隊が国内のアンポン人を襲って気勢を上げた。そうなるとアンポン国内においても一気にアンチ・ポンタンのムードが高まり、千鶴タワーの周りにはこれも逆上したデモ隊が集結して再びポンタン大使館への突入を図ろうとしていた。こうした騒ぎが大きくなればなるほど清屁はいたたまれなかった。

 そもそも騒ぎの発端はアンポンのあのにぎにぎしい御輿行列であり、いささかも〈屁〉を厭わぬ国民性であった。騒ぎの暴発でいまや〈屁〉を厭わぬ風潮がポンタンにまで感染している──と、清屁の思索はぐるぐると苦悩のスパイラルになって踊るのだった。その渦は内向きからいきなり外に噴き出してきた。危険な兆候だろう。

 すこべ温泉の天然泡風呂の泡に包まれて清屁は誰にも知られず安心して〈屁〉を何発かこいてみた。自分の〈屁〉はおおむね臭くない。泡風呂の泡にまぎれていった〈屁〉を愛しく思いながら、心は矢も盾もたまらず海を越えてポンタンへと飛ぶのだった。夢見る心という空想の世界で清屁は敵国のポンタン人と同じ〈屁〉のにおいがするアンポン人になって、ポンタン人の立場で考えた。それは世俗道徳的には不正だが超越倫理的には正しい──という哲学者ヘガクサスギルの言葉によって清屁は甘く慰撫されていた。

 ところで、一般に同じ〈屁〉のにおいのする者同士はお互いの臭いにおいを(あまり)感じないものであるが、目の前に〈屁〉のにおいが同じ異国人が現れると、かえってその人は異国人であることが目立ってしまう。それは(異国人は異臭が当然なのに、それが)におわないことが目立つからである。このように、においの存在/非存在が識別を決定づけるが、この場合、同じ立場や考えの表明はお互い悪い気はしないから相互に(少々の違和感はあっても)受け入れ合うことは容易だ。

 さらにアンポン人とポンタン人のように、異国人であっても外形が全く同じ相貌であったとすれば、意識下で視覚的にはお互い同国人(同系)のように我々は見なすので(同じ立場や考えを知れば)同化はいよいよ促進されることになる。

 我々の存在のあり方は〈屁〉のにおいというものを介して存在することを、哲学者ヘガクサスギルは喝破していた。もちろん、同化ばかりでなく異国人との異化もまた〈屁〉のにおいが介在するわけで、ヘガクサスギルは対立する二国間の紛争における相互が抱え込む対立の〈屁〉の異化作用についても語っている。

 要するに同化と異化はどちらかに偏って同時に発生するバランス現象なのである。におわない(ことがにおう)なら「同化と受容」、におう(ことがにおう)なら「異化と対立」が対になるが、同化と異化は二つの間を行き来する関係性である。

 ここで気づくのは、何かがにおう、例えば〈屁〉がにおうとは観念的な行為であることだ。におうことは嗅ぐことに等しいのである。嗅ぐ行為(の動機)がにおいの(説明の)動機になっている。

 ともあれ、におうということは我々につきまとって観念を束縛するのであるが、夢のような妄想や空想のなかでは鼻粘膜が機能せず、におい(異国人との隔たり)の自覚がないので観念世界(理念)は純論理的な展開に進む。かくして同化の論理にせよ、異化の論理にせよ、その夢想のスタートは〈屁〉のないボディという理念的な人間観によって塗りつぶされ、集団的自己中心主義へと美しく凝固(精緻化)して政治的人間へと覚醒していく──このようにヘガクサスギルはにおいを捨象した論理を思いついたとたん、うっかり〈屁〉をこいて鼻をつまみ不覚にも自分の論理が崩壊していくように感じて自殺してしまった。(没年・放屁暦931年)

 古木益清屁がすこべ温泉でポンタン人への連帯を夢想していたころ、愛国の古起杉善屁はアンポン空港の警備員として勤務に戻っていた。アンポンとポンタン両国の紛争によって空港は厳戒態勢に入っていた。もとはといえば善屁らの御輿行列が引き起こした紛争であるが、善屁は緊迫した現下の状況を誇らしく思っていた。問題の闘争的な顕在化によって問題の本質が露わになることは〈屁〉が臭気性の顕在化によって隠蔽を捨て露わになるのであるから、むしろ好ましいことであったのだ。

 テロを警戒する空港ロビーは銀色に輝く楯を操る善屁ら怪しい黒装束の警備員が壁を作り、乗客を監視下に置いていた。警備員は建前は中立の壁であって、怒りのアンポン人と怨みのポンタン人の流れがぶつからないよう直立不動ながら、川下りの船頭のように巧妙に楯を操り流れを制御していた。ロビーは怨みのポンタン人たちの出国ラッシュだった。アンポン人とポンタン人のお互いを罵り合う〈屁〉が広い空港ロビーにこだまし充満していた。

 アンポポンポンポンポン、ポンタン人が尻を突き上げ威嚇的に連打すれば、タンポポンポンポンポン、ポンタン人は尻を突き出して必死の返し〈屁〉で応戦した。この放屁合戦は自国の黒芋を十分飽食しているアンポン人に音の強みがあったが、出国できないかもしれないという恐怖のあまり、少ない自国の黒芋でも十分臭くなっていたポンタン人の〈屁〉が劇薬じみた刺激臭で空港を覆い始めていた。

 すこべ温泉で心身ともにホッコリした古木益清屁はそんな騒ぎはとはつゆ知らぬ。入念にアンポン国の強制性を検証して満足の気分のまま、売国〈屁〉と罵る奴はいるだろうが、ここは厳しく世界市民の人権のため今こそアンチ・アンポン運動に熱く連帯すべし──と、ポンタンの黒芋をパンパンに詰め込んだ鞄を両手に抱えタクシーを駆ってアンポン空港に現れた。清屁はポンタン国へと勇躍飛び立つためにやって来たのだ。

 物々しい喧噪に腰を抜かし〈屁〉をこいて慌てる清屁。その日のデイリーあんぽん紙の一面を飾った激動の空港のスナップショットに清屁の姿があった。気を取り直した清屁は出国をめざすポンタン人の列へ潜り込もうとした。無理な割り込みに警備員の楯が冷徹に立ちふさがり、清屁は楯に誘導されてロビーの片隅へと押し込められ座り込んでしまう。周りはポンタン人がひしめき、タンポポンポンポンポン、激臭の〈屁〉が炸裂している。

 清屁は混乱した──鞄に詰めてきたポンタン産の黒芋を食べてもこの激臭に同化することはできない。なぜならアンポン人はポンタン産の黒芋では〈屁〉が臭くならないのだ。いやいや、そもそも臭い〈屁〉など望んではいないぞ。におわないことがポンタン人の美徳であり至上の道徳志向性だったではないか。それがいまや、におわないどころかルサンチマンの激臭を帯び、下劣な道徳志向性となって傲慢に拡散しているのは、もとはといえば、あれ、あれだ。あの御輿行列がすべての元凶だ。

 しかし、鼻粘膜がただれた清屁は次第に激臭を感じなくなった──やっぱり俺はアンポン人としてポンタン産の黒芋を選ぶべきだ。決して〈屁〉を臭くしてはならない。臭い臭い〈屁〉はどうあがいても人権侵害なのだ。

 清屁は改めて決意すると鞄に詰めてきた黒芋を周りのポンタン人に振る舞った。湧き上がる喜びの声。ふと見上げると警備の人壁の穴の向こうに善屁がいた。善屁が見下ろすそこには清屁がいた。アッと二人が同時に悲鳴のような声を上げたとき、ブーイブーイブーイブーイブー、国際空港の禍々しい〈屁〉のサイレンが鳴り始めた。そして巨大な津波にのみ込まれるような衝撃とともに空港ビルの崩壊が始まったのである。


ラベル: 祭り 同化 異化
posted by 楢須音成 at 23:54| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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