2012年09月06日

朝から屁談義

 忙しいのが一段落して録画しておいた番組をようやく見ることができた。NHKの「あさイチ」でやっていた「夏の自由研究 オナラ」(8月29日放送)である。しかしまあ、ちょっとだけオナラの話題かと思っていたのだが、何と番組のほとんどがオナラ。最後までテレビの前に坐るハメになった。

 朝からオナラの話題だから大胆ではある。視聴者から「朝食中」との抗議(?)もあったが、延々たっぷり1時間以上もオナラで盛り上がっていたのだ。ゲスト出演者も当初は戸惑いを見せていたけどね。
有働 数多いらっしゃる芸能人の中からお二人が選ばれて……
 何で何で私たちが……
玉ちゃん NHKも冒険しますね、しかし朝から〜

 オナラの話題を大いに盛り上げ、選ばれし出演者一同よくやった。ちなみに出演は、有働由美子アナ、井ノ原快彦、松田利仁亜アナ、森公美子、玉ちゃん、瓜田純久教授・東邦大。

 だいたいの内容は番組のホームページ(参照)で紹介されている。オナラの悩みに答えるという形で、お腹の張りや異臭異音への対処法が懇切丁寧に解説されるという展開であった。

 テーマ別には(1)におい&回数 激減テク!(2)世界のオナラ対策(3)あの食材で"さよオナラ"(4)要注意!オナラに潜む病気(5)オナラをいい香りにチェンジ!──というものだったが、制御しがたい異音異臭をいかに克服するか、NASAも登場して世界の英知を集めていたわけである。

 それにしても、音成にはこの番組は異様に明るく感じたな。いつも厄介者の〈屁〉も出世したもんだよ。登場する全員が明るく振る舞ってオナラを語っているのであるが、見ているうちに〈屁〉がまるでやんちゃな愛すべきモノとして扱われているような気がしたよ。

 そして、番組の最初から最後まで誰も〈屁〉とは言わないのである。終始一貫して明るくオナラ、オナラと連呼していた。まして〈屁〉を「こく」なんて言う人はいない。オナラは〈屁〉の別称だが、オナラは「する」ものなのだった。

 それでも番組で屁負比丘尼(へおいびくに=近侍する妻女が放屁したときなどにその罪を負う役目の尼僧)を紹介したので、屁とか放屁という言葉が全然出てこないわけではないけどね。

 まあ、人前でオナラとは平気に言いやすいが、何となく〈屁〉という言葉は避けるね。そういう言い方は封印(隠蔽)する。特に公共の場(テレビ番組とか)では〈屁〉とは言いにくい。オナラは「鳴らす」から転じたといわれているが、直接的に〈屁〉そのものというより雰囲気をあらわしている感じね。

 名称はどうであれ、番組で「オナラ・コントロール」といっていた〈屁〉の制御の難しさは我々の悩みの種である。これが時に物議を醸す。異音異臭の緩和に加え、無軌道な〈屁〉を制御の範囲に取り戻すことは我々の切ない願いであるが、番組はこれに応えるべく機能的に対処法を解説していた。

 なるほど、と思ったのは「すかしっぺ」(さすがに、すかし「オナラ」とは言わなかったが「ぺ」だって)の流体力学的な説明だった。すかしっぺは静かに空気中に拡散せずジワリと塊になって出てくるので濃厚で臭いというのである。ブリブリ出てくる〈屁〉は振動して空気と混じり合い拡散するので臭気は薄くなるという。

 補足すれば、肉食系の〈屁〉は少量発生で臭気が強いが、肛門の押しが弱いのですかしっぺになりやすいわけで、これが番組が解析した流体力学的な動きをすればいよいよ臭い。草食系の〈屁〉は多量発生で臭気は弱いが、肛門の押しが強いのでブウブウ勢いがよいわけで、流体力学的にも臭気は薄れる──そんな感じになるのかな。納得したよ。

 面白かった(リアルだった)のは視聴者が寄せたFAX投稿のエピソードだね。だいたい番組の調査のアンケートが1900ぐらい集まっていて、いかに〈屁〉が関心の高い話題になっているのか驚いたのだが、〈屁〉の数だけエピソードはあるものだね。最後に紹介されていた「祖父のいまわの場で叔母が一発。悲しみの場なのに皆が爆笑」とか「オナラが彼氏との愛を深めた」とか「ペットのインコが私のオナラにだけ反応してヴィーと真似をする」とか、表面は笑い話なのだが、実は〈屁〉の神秘を語っているエピソードは考察に値するものであろう。

 ここまで〈屁〉を正面から時間をかけて取り上げた番組はめったにないが、さすがNHKというべきか。しかし、我々が〈屁〉をどんなに精緻に科学的医学的に語っても、その〈屁〉によってどう振る舞ったのかという人間学が〈屁〉の〈屁〉たる所以なのだねえ。本来は隠蔽すべき〈屁〉を前にして、出演者たちの笑い戸惑い照れ能弁といった振る舞いが、何とも絶品な番組だったのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 17:35| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月16日

後遺症の〈屁〉の克服

 胃を手術して切除した人の(悩ましい)後遺症の一つに〈屁〉があるという。手術後に異音異臭が強化された〈屁〉が多発する症状に悩まされる場合があり、その克服が難しい問題になっているというのである。

 胃の切除といった手術によって消化器の環境が大きく変わりガスの異常発生が起こるわけだが、そういう悩みについて対策を解説した本がある。『胃を切った人の後遺症の克服』(1994年、協和企画刊)に、悩める人の体験談や医師による「おならを克服するために」という一節があるのだ。

 これを読むと〈屁〉が深刻な厄介者として登場しており、我々の健康や精神生活を脅かす存在として振る舞っているのである。随分と深刻だ。こんな例がある。
 今、一番つらいのは、夕食後の膨満感です。特に家でくつろいでいて食べた後が苦しいのです。職業柄、未だに月に再三、会食する機会がありますが、そのときは不思議とあまり苦しくありません。人間はいかに気分に左右されるかの好個の一例かもしれません。
◆おならで家内とは寝室を別にする
 とにかく家で夕食を食べると、それから約二時間半がいかにおならを出すかの闘いとなります。右腹を下にしたり、左側にしたり、腹ばいになったり、人様には絶対に見せられない姿態を繰り返すのです。そんな格好を一時間もした後、一発ブッと出ます。再びベッドの上の苦闘が続き、約十五分たって、また一発。不思議と臭いは全然ありません。とにかく六発か七発出すまでは完全な半病人で、こんなとき来客があると、本当につらくてたまりません。
 私は東京生まれの東京育ちの大正人。当然、ある種の見栄坊の一面を持っています。ですから、そばに赤ん坊がいても、おならは出ません。子犬がそばにいても、おならを聞かせたくありません。それで家内とは別室に寝るようになって、もう十五年。夫婦生活も切れています。
 しかし、ものは考えようです。私が間もなく七五歳になっても、中小企業の経営を続け、ゴルフや麻雀を若い人たちとできるのも「おなら」のおかげと家内は言います。分かったような、分からないような複雑な心境をいまだに持てあましています。今後もベッドの上であらぬ姿を続けるのか……やはり何ともつらい半病人です。(梅田幸雄・74歳)

 これはガンで胃の五分の四を切除した企業経営者で編集者の告白である。まずは〈屁〉が出て困っているのではなく(ガスはあるのに)出なくて困っているのだが、それは身体的で精神的な苦痛を伴っている=第一段階。さらに、出さねばならぬ〈屁〉を人に聞かせたくないという精神的な苦痛をも孕んでいる=第二段階。そして、そうした苦痛の果てにそれを乗り越えることが、むしろ生きていく積極的な効用をもたらしていると思える心境への脱皮がある=第三段階。このように意のままにならぬ〈屁〉をめぐって心的な変化をたどっているわけだ。
 
 もちろん、第三段階は心境としては微妙で、一種の開き直りである。ものは考えようだが、こうした心的な進化の段階は〈屁〉というものが、単なる苦痛や不快から精神性を高めて行く過程として注目されるだろう。いやまあ、そんな大袈裟なものかと突っ込まれそうだね。確かに結局は「やはり何ともつらい半病人です」と嘆息せざるを得ない心境のままかもしれないわけなのだが──。

 ともあれ、ここには〈屁〉が厄介者として存在している様子が現象している。これに対して医師の側は「ガスが発生することは異常な現象──本来できるはずのないものができているわけではないので(つまり病気として扱えないために)患者さんが満足できる、うまい解決法がありません」というのだが、ガスの発生は病人だろうと健常者だろうと関係のない身体生理なのだね。止めるわけにはいかないのだ。

 そこで胃の手術による後遺症は(1)ガス量の増大(2)臭気の増加──と程度が問題になってくる。これも誰もが必ず悪化するというわけでもなく、またその程度はさまざまなわけであるが、無意識に飲み込んだ空気の行き先が(胃の切除で)ゲップになるよりも腸に流入しやすいとか、胃酸作用の低下が腸内細菌を増やしてガス量は多くなるという。臭気の強さは肉など蛋白質の摂取も関係してくる。対策として消化剤、乳酸菌、ビフィズス菌を二〜三ヶ月使ってみると(1)(2)の改善がみられる場合もあるそうだ。乳酸菌の長期摂取は先日のNHK番組あさイチでも紹介されていた。

 それにしても過剰な〈屁〉が人間にもたらす悩みは尽きない。先の第一段階から第三段階へと至る我々の変化は、生きるということへ積極的な価値を付与する心的運動であるが、その根拠になる存在論的な意義(生きることの尊大なる肯定)はあるのであろうか。あるとすれば、それは何なのだろうかね。何しろさんざん嫌われまくって存在意義のない〈屁〉なのであるからね。

 医師がアドバイスの最後に付け加えた次の言葉に音成は共感した。まさに〈屁〉の存在意義とはこれではないのか。──いや、そうに違いない。
 さて、いろいろ工夫されてみて、効果があれば、幸運に恵まれたと言えるでしょうが、満足のゆく結果が得られないことも十分に考えられます。前に哺乳動物の宿命であると述べました。ガスはどんどん出してしまったら良いと考え、実行できたら、この後遺症はたちまち後遺症ではなくなってしまうのですが、無理でしょうか。生命を保つことに不可欠の重要なことは、それを実行することに快感を伴うように仕組まれています。食欲がそうですし、種族維持のために性欲があります。排便、排尿、排ガスも快感を伴っており、これを実行することは正しいことですが、皆さんはどのようにお考えでしょうか。(檜山護)

 そもそも〈屁〉とは快なのである。それを我々は快感へと導くことができる。檜山医師は〈屁〉は哺乳動物にとって当たり前の現象であり、ガスはどんどん出せばいいのであって、それができれば〈屁〉の後遺症は後遺症でなくなるのだというのである。そして生命活動の維持のため不可欠の重要な行為には快感が伴うように身体は仕組まれていると指摘し、その実行は正しいことだと主張している。

 我々の〈屁〉の後遺症とは、自分や他人の不快や羞恥に悩むところから起こってくるわけだが、もともと快なのに不快や羞恥へと挫折してしまう〈屁〉の心的運動は、他人と切り結ぶ我々の社会化した人間性そのものの軌跡である。ついには〈屁〉の苦痛が(生きているのは〈屁〉のおかげというような)超俗の精神性を獲得するとしても、とりあえずはこう思ってよい。誰にも気兼ねなく〈屁〉をこいたら気持ちよか〜、とね。これに尽きるであろう。それは胸を張って正しいのだ。
ラベル: 後遺症 手術 克服
posted by 楢須音成 at 02:02| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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