2012年08月27日

最終・放屁と放尿の隠蔽ぶり

 そもそも〈屁〉というモノはなぜ嫌われるのであろうか。なぜ恥ずかしいのであろうか。こういう疑問を人にぶつけると怪訝な顔をされる。──おまえはアホか、とね。そんなことは太古の昔から決まり切ったことではないか、と。

 ハテ、何が決まっているのであろうか。嫌われて恥ずかしいというのは、嫌悪や恥の対象であるということなのだが、これが同時に発現してしまうモノが、やむにやまれぬ我々の〈屁〉というものである。しかしだね、音成はそのことを明快に説明してくれる人に出会ったことはないよ。

 というか、明快に説明できるのであれば、嫌悪や恥の対象にもならないんだろうねえ。我々にとって嫌悪や恥になるものはもっぱら隠蔽しておくに限るのであるが、隠蔽し続けるのも居心地が悪い。この曖昧にして厄介な存在である〈屁〉というモノ(の説明)は、音成には長い間、深い闇(暗黒面)を抱えた謎だった。

 さてところで先日、ヒッグス粒子が確認されたという物理学のビッグニュースがあった。粒子は〈屁〉と同じように見えない(視覚に捉えられない)存在であるが、推論に推論を重ね究極の抽象性を孕んだ概念によって(理論的に脳内で)実感できる存在である。それが今回、実測によってわずかな存在らしきものを捉えたというのである。

 こういう物理学の粒子は〈屁〉のように生々しく実感できる存在ではないね。しかし〈屁〉の異音異臭はハッキリいって不快の極みとして、見えないながら生々しく実感する。つまり耳と鼻でやすやすと存在を確認できてしまう。直接的な感覚器官を超越し観念で認識することから始まる粒子と違って、〈屁〉はモロに感覚の一部を強制的に不快現象として直面させる。

 ヒッグス粒子は(多分)存在しているとはいえ我々の感覚から超越しており、日常の感覚からは存在しないに等しい。世界の成り立ちからいえば(多分)ないと道理が立たぬのであろうが、我々には知らぬが仏の存在であり、何ら五感に感じないゆえに凡夫には観念妄想でもしない限り、快感や不快感を喚起するものではない。

 粒子のような存在は(快や不快にまみれた)俗世から離脱してまるで天上の宝石のように清浄なモノだねえ。我々はその実在を感覚できず、脳内での数学的論理的な概念化に依拠して認識するから、極めて観念的なモノとして存在している。一方の〈屁〉も見えないのだから同様の道筋を辿るかといえば、そんなことにはならないね。我々はそれが実在する感覚刺激にさいなまれてあらぬ意味づけをしてしまい、はなはだ私的な(嫌悪や恥の)思いに満たされ、時には(異音異臭のすさまじさに)悶絶してしまう。〈屁〉は感覚そのものの現象として不快なのであり、俗世の醜悪なのである。

 粒子=感覚に依拠せず実在の手がかりが超希薄な見えない存在=純粋な観念(概念)性
〈屁〉=感覚に依拠して実在の手がかりが超濃厚な見えない存在=不純な観念(意味)性

 その存在を認識する〈屁〉の観念性は、我々が不純な(私的な)意味を追及してしまうところに特徴があり、科学的な概念形成とはいささか遠いのである。もちろん、科学的な〈屁〉の成分分析というのはあるわけだが、どうも我々はまずは主観的な意味を先行させて〈屁〉に冷静になれないのである。

 例えばの話だが、粒子の研究室の研究者だって〈屁〉はこくだろう。しかし彼らが同室でお互いこき合っている〈屁〉に向き合う態度は、共同研究している粒子への態度とは違うのだ。隣で〈屁〉をこけば、疑心暗鬼なったり愉快至極になったり怒り心頭に発したり慌てふためいたり無視したり恥ずかしがったり──とまあ、いろいろな反応の人間模様が想定されるね。粒子と〈屁〉の違いは、どちらも見えないモノでありながら、我々の心的運動に先立つ方向付けが異なって惹起するために生じてくるのである。

 粒子=純粋な観念(概念)性が前駆する
〈屁〉=不純な観念(意味)性が前駆する

 この前駆性は、そもそも我々の原初的な観念形成というものが不純(私的な主観)であるという出発点を持つ共通の心的運動である。ただ、粒子を捉える科学的認識は、もともとそういう主観の(不純な)前駆性を(意識して)乗り越えつつ出現するのであり、それは主観をいわば自己浄化(客観化)していく心的執念(運動性)なのであり、そういう執念を他者と相互に持ち合うなかで(行動の同調性)によって保障あるいは補償されてくるのである。

 科学研究において研究者が追究する現象の前では、私的で勝手な恣意的主観性を排していく心的運動が大切な行動規範だ。その規範の不断の実践によって共有の共同の客観性が裏付けられてくる。我々には最初から客観というものがあるのではないのだ。そこでは(主観でありながら)主観を排する姿勢(の結果)が客観なのであり、その姿勢の共有が相互の科学的認識(客観)を基礎づける。

 ところが研究室で誰かが〈屁〉をこくと、だいたいその認識(客観的意味)を誰も共有できない。共有しない。まずは勝手にみんなが見えない異音異臭に、てんでバラバラに意味を張り巡らすのである。いまの〈屁〉は何だ、冗談なのか悪意なのか単なる粗相なのか当て付けなのか何かの怒りなのか──と、自分以外の〈屁〉の存在に疑心暗鬼が始まる。

 そのとき発生した現象〈屁〉の考察のために、情報を持ち寄り音の高低を計測するとかニオイの判定をするとか尻の姿勢を検証するとか、そういうことは興味を引かず、不穏にも好悪が先に立って心身が(嫌悪や隠蔽に向けて)勝手に振る舞うことになる。

 これが例えば、誰かが部屋で下手な楽器でも奏でようものなら、これも確かに好悪が先に立つものではあるので、内心で巧い下手を検証しながら褒めたり貶したりの言葉を探している。しかし、楽器も演奏技術もすでに究められた体系を保持しているのであり、いわば共有の科学性を背景に我々の認識は振る舞っているのである。演奏があまりに下手すぎたとしても、我々は(その科学性において)納得する。ここにはランキング(秩序化)という物事の整理(下手糞という評価)が行われているからである。

 ところが〈屁〉の場合には、科学性は二の次、ランキングなどはどうでもよい無秩序同然なのであり、要するに異音異臭の〈屁〉をこいた人のそばには誰も寄りつきたくないし、何もなかったことにしたい。自他ともに〈屁〉は隠蔽に走るのです。違いますか。

 我々の〈屁〉は、感覚から超越したヒッグス粒子の対極にあって、感覚にべったり粘着して最も個的な主観にまみれた存在なのである。まあ、視覚には捉えられないもの同士ながら、真逆の徹底性においてはドッコイドッコイの優劣だ。

 粒子=超感覚/純な客観に深化/共有観念(概念)
〈屁〉=純感覚/生の主観に拘泥/個有観念(意味)

 視覚を持つ我々は「モノ」を「見る」「見ようとする」努力が基本行動となり、それは「モノ事」のわからないことをわかろうとするあくなき探求へとつながっている。一般に何かが視覚の範囲内にある(網膜に像を結ぶ)ということは、快不快は別にして、とても安心できる(標準化される)ことなのだ。

 粒子は見えないことによって究極へと概念(観念の視覚化)が研ぎ澄まされ、異音異臭の〈屁〉は見えないことによって意味(邪推や妄想や誤解とか)に強くとらわれるのだが、このような強調効果(偏り)は、人間の五感の中心の座を占める視覚の欠如によって出現しているわけなのだ。我々は見えないとなると、客観的に推論するか主観的に邪推するかの二極を揺れ動く。高尚であれ下劣であれ、こうした偏りの心的運動は何かしら視覚性の欠如によって発現するとみてよかろう。(例えば、見えない効果で異音異臭は強調され意味が強化される。それは美音芳香においても同様なのだ。どこからともなく響いて匂う美音芳香があれば、我々は見えているとき以上に強い印象を受けて興味を示すだろう)

 そんな〈屁〉に比べれば(見える)尿は邪推や妄想や誤解などは少ないね。目に見えているわけだから、その存在自体は誤解のしようがないし、見える以上に妄信することは(あまり)ない。しっかり見れば、枯れたススキを幽霊と妄想することはないのである。

 さてここで、見える尿と見えない〈屁〉の話に戻ることにしよう。人間の探求心において清浄で純粋ともいえる粒子の解明に比べたら、尿やら〈屁〉やらというのは、語ることすら不浄なイメージを撒き散らしているよねえ。それは「不快」なモノとして我々の目の前にあらわれるわけだが、もともと身体生理として発動した瞬間は「快」をもたらしているのである。最初から不快なのではない。

 それが不快になるのはなぜだろうか。頭痛とか歯痛とかは最初から文句なしに不快なのであるが、尿とか〈屁〉はそうでもない。放出した瞬間の爽快な感じは多少なりとも誰しも味わうわけで、天涯孤独に無人島でやらかしたような場合は(人もいないし)恥ずかしさもない。しかしまあ、排出のあとの異臭異音や後始末というのは(たいていは人がいなければ無視できる程度であるが)不快には違いないから、身体的には避けようとするモノだ。

 思うに人間にとって「快」「不快」はかなり原初的な(そして基本的な)身体反応である。ただの感覚でもないのだ。そこには何かしらの判断と選択が持続的に芽生える。そのことは心身の基本行動の根拠ともなり、さらにこれが「快感」「不快感」となっていくという、動物的な感覚から始まった観念の心的運動へと踏み込んでいく道筋がある。(原初的な「快」に観念的な「感」がつく段階になると「不快」なことも快感になるような倒錯現象が起きたりする。〈屁〉は不快だが、快感を感じる人が出てきても不思議はないのだ。観念の関与によって人間は支配され構成されているからである)

 尿や〈屁〉は結果的に不快現象なのだが、もともと快なのだから、少しばかり事後に不快だからといって重大視する必要はないとも思えるね。実際、自由奔放に放屁し合う家庭があったり平気で立ちションするおやじがいたりするわけで、そこには嫌悪も恥もなかろう。これらはもともと快であることのなごりみたいなものだが、一般には放屁や立ちションは下品なのであり眉をひそめる。

 この眉をひそめるという態度が重要である。そこでは(我知らず)自己に対峙するたくさんの他者がいると意識している。他者との関係の中で(他者の目を気にして)それは不快(下品)なんだと眉をひそめるのだ。尿や〈屁〉の排出後の不快を感じた瞬間から我々は他者を気にしている。他者に与える悪い影響(異音異臭)に思い至っている。自己の不快は他者の不快でもあるからだ。こう見てくると、尿や〈屁〉の不快現象は自分以外の他人がいることによって醸成されていることがわかるだろう。それは「不快感」の段階に踏み込んでいこうとする一歩手前だ。

 このときの恥ずかしいという気持は、自分が不快を放っていることを他人に知られていると思い至った瞬間に起動してくる。だから例えば、どんなに臭かろうと、天涯孤独に一人でこいた〈屁〉は恥ずかしくも何ともない。一方、他人がこいた〈屁〉は(自分のことは棚に上げて)無礼であり嫌悪の対象だ。これが尿や〈屁〉の不快現象の内実である。

 では、その不快さは〈屁〉と尿とではどちらがより不快だろうか。虚心坦懐に判断すれば(多分)それは〈屁〉である。いやまあ、放置しておけば影響が自然に雲散霧消する放屁よりも、オネショの後処理は大変なので、オネショの方が不快だと思うかもしれないが、我々にとって深刻なのはそういうことではないのだ。

 目には見えないとはいっても、天上のヒッグス粒子と俗世の〈屁〉とでは大きな違いがあったように、一口に不快現象といっても、よくよく観察すれば大きな相違が存在しているのである。音成はそれを、尿の肯定性と〈屁〉の否定性の違いとして捉えている。

 尿の場合は、オネショをすれば自分も他人も不快にするし、目覚めて尿意があればいちいちトイレに立たねばならぬわけだが、明確に処理される存在としてあり、処理できれば(次の周期までサッパリと)忘れることができる。そして尿は身体のメカニズムに装備された有用性のあるモノとして、身体的な意義や効用、社会的な意義や処理の体系が明確に完備されているのだ。このような社会化された存在は多くの人の手を経て経済性(飯の種になる)をも孕んでくる。こういうモノは忌避されながらも、身体生理や社会構造に組み込まれ(たとえ不便ながらも)肯定性の存在となるのである。
 ラテン語のことわざに次のようなものがある──
   糞ト小便ガ医者ノ第一ノ心得。
 (中略)
 症候学の見地から、脈と尿はそれぞれ固有の意味を持っていた。中世の医者にとって、脈は心臓の状態と呼吸音の機能とを示すものであり、尿は肝臓と肝臓に属する諸器官の状態を示すものである。さらに、糞便の質、顔つき、体の全般的な状態などを考慮に入れなければならなかった。
 ある人々にとっては、尿による診察の方が「脈による診察よりも確実かつ迅速」であった。「前者はすべてがわれわれの目にさらけ出されるのに、後者は全面的に触覚に依存するのであるが、視覚による判断のほうが触覚による判断よりも容易であるからだ」
 尿はまた、肝臓や静脈や体液に関係することすべてにとって第一の地位を占めていた。尿によって各人の体質がわかるだけでなく、その人が短気かどうか、大胆かどうか、さらには浮気っぽいかどうかさえわかるのであった! ある人々は、尿を検査するだけで娘がまだ……処女であるかどうか判断できると豪語していた。プラントームの『好色女傑伝』にはこのようなことを極めて明瞭に述べているくだりがある。
 尿検査は妊娠を告知する特権も持っていた。たとえば、メディチ家と教皇アレクサンドル六世とに対する闘争で有名になったイタリアの説教師で、一四九八年にフィレンツェで火刑に処せられたドミニコ会修道士ジロラモ・サヴォナローラは、妊娠した女性の尿には「キエステイン」があると指摘していたのであった。
 「この実在の兆候は」とブシュクール博士が書いている。「必ずあるというわけではないし特徴的なものでもないが、朝あるいは晩に検出され、尿の専門家たちの間にさまざまな議論を巻き起こさずにはいなかった。そして、尿の検査による妊娠の診断法が押し進められたあげく、尿の中に虹色の薄膜ばかりか、生命の本源そのものたる人間の縮小体、要するに一寸法師までが探し求められるに至ったのである。実際、実験室での人間の製造は、賢者の石(錬金術師たちが探し求めた卑金属をを金に変える石)の探求とともに、中世の多くの人々の頭に取りついた妄想のひとつではなかったろうか」

 カバネスがこのように記述した中世ヨーロッパにおける尿の扱いは、単に日常的に不快なものという存在ではない。尿は「見える不快」であるが、見えることによって世界に位置して場所を占める(逃げようもなく存在する)と同時に、不快の根拠までもが医学や科学の対象になって、有用性のある新たな発見や体系化が進められる。そういう在り方は存在の本質的な肯定性を獲得するのである。

 糞尿の処理は誰しも厭うべきものではあるが、理由が付けば不快や嫌厭といった当初の否定性は乗り越えられるのだ。そのうえで存在の肯定性が再構成されていくわけである。

 これに対して〈屁〉は、そもそも何のために存在しているのか、身体的にも社会的にも説得力のある(有用性の)意味が見出しにくいだろう。何の役に立っているのか。身体のメカニズムの一環としてもどうも曖昧だし、身体的な意義や効用、社会的な意義や処理の体系は実に貧困である。要するに(あまり)意味がない。その存在はないならないで一向に困ることがなく、ない方がいいのである。

 意味がないのなら大人しくしていればいいのに、こきたいという屁意が突然やってくるや異音異臭が出現し、他人をして驚愕せしめ眉をひそめさせるんだからね。甚大な影響によって怒りを買うこともある。処理方法は無責任にただ放置してひたすら自然拡散による雲散霧消を願うほかないね。こういう不届きなモノの原因に自分がなることはとても恥ずかしい。否定性の存在のままなのである。

 尿 =有用な存在→有意味という肯定性の獲得
〈屁〉=無用な存在→無意味という否定性の獲得

 しかも〈屁〉は見えないことによって(透明人間のように)この世界で存在はしているのに(まずは推定されることでしか)場所を占めることができない。否定性のある存在が見えないことは、そのこと自体が本質的な否定性につながる。悪辣で不倫な透明人間は存在してはならないのだ。(もちろん、見えないとはいっても〈屁〉はほとんどの場合に発生元が特定されるから、その時点で否定性は仮想的に乗り越えられることが多いわけだ。そのうえで不快そのものの否定性が残っていく。発生元の特定とは、世界に「根拠」という意味追究の足がかりを残すことである。悪役でも素性は必要なのだ)

 見えないことによって、この世界で存在はしているのに(推定されることでしか)場所を占めることができないのはヒッグス粒子も同じだった。しかし、粒子の存在は否定性をまとっていない。まあ、これが毒性をまとっていたとしても、その存在は揺るぎない意味を持つわけだが──そういうものを〈屁〉と比べるのはバチ当たりでした〜。

 このように肯定性や否定性を考えていくと、それは快不快を通して(我知らず)何かしら根拠(事実や理由)を求めるという、我々が持っている本源的な倫理性に根ざすことがわかる。根拠をオープンにしない存在は悪なのだ。そして、不快現象における肯定性のモノと否定性のモノが喚起する恥ずかしさは、その深刻さが違ってくるのだ。肯定性のモノの恥ずかしさは(理由が付けば)軽減が容易だが、否定性のモノは(理由が付きにくく)恥ずかしさの軽減は容易ではない。

 肯定性の糞尿の行為や音やニオイは確かに恥ずかしいが、時と場合でちゃんと理由が付いて、それが仕方がないとなれば、恥ずかしさは薄れる。しかし、否定性の〈屁〉は生理的にも有用な意味を獲得できず、その行為や音やニオイは他人には一方的に不快であり説得的な理由が付けられないので、恥ずかしさはいよいよ高進しがちになる。

 ただ腸の手術のあとの〈屁〉は例外だろうか。これは開腹後の腸のぜん動が無事に再開したことを知らせるものなので、医者は〈屁〉が出たかをたずねてくる。このときばかりは〈屁〉は有用性を発現して切実に意味を持っているのである。従って医者と患者の間に恥ずかしさなどは(あまり)ない。二人は〈屁〉が出ましたと喜び合うのである。普段こういうことはないわけね。

 かくして我々が忌避して止まない放屁や放尿の隠蔽はその内実が微妙に異なる。例外はあるにしても、いくら言訳(理由)を積み上げても許してもらえないのが〈屁〉なのであるから、隠蔽が徹底するのは〈屁〉である。もしかして隠蔽しないあなたがいるとすれば、それは罪人に等しいのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 02:24| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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