2012年07月16日

続続続・放屁と放尿の隠蔽ぶり

 なぜ本来は忌避されるべきゲップや〈屁〉が上流階級で自慢の対象になったのであろうか。こともあろうにマナーを磨き上げた(と思われる)社交界で公然とそれが振る舞われたのである。

 まあ、マナーなどあってなきが如しの我家でも〈屁〉は遠慮するし、過ちの〈屁〉は無視して(なかったことにして)あげるのが通例である。まして自慢(ドヤ顔)などしない──いや、ホント。

 それにしてもなぜ、隠蔽したいモノを自慢するようになるのか。そこに至る心的運動を順を追ってまとめてみると、次のように考えられるのだった。

〈1〉我々は身体の生理として尿やゲップや〈屁〉を排出して(我知らず)気持いい。
〈2〉しかし排出した瞬間から、それらは汚れていて不浄で人を不快にするモノなので(我知らず)忌避する。
〈3〉その忌避は自分の身体から出た(自分に原因がある)分身の否定なので(我知らず)後ろめたい。
〈4〉その心的動揺を隠蔽するため(我知らず)何かしら理由を付けて平気を装う。
〈5〉ゲップや〈屁〉をしてもよい理由や条件をみんなで用意することによって、我々は安心して(我知らず)平気を装える。
〈6〉しかし我々は、そうやってみんなで合意した理由や条件を(我知らず)強制される不自由(疎外)もまた感じ始めざるを得ないのだ。
〈7〉一方、我々は動物の段階から仲間の形成(生殖やグループ化など)を通じて、何かしら社会的な閉鎖性(外との対立)を抱え込んでいる。
〈8〉閉鎖性が強く特化すると、時にその内部で外から強いられていると感じた価値(みんなで合意している理由や条件)のリセット現象を起こしてしまう。
〈9〉それは(我知らず)外からの価値に縛られている不自由感や疎外感からの解放をめざして(我知らず)反動的に発動する心的運動である。

 このような個人と社会という一種の対立関係を核にした一連の自己解放の心的運動は、何も悩み多き自分だけが振る舞う特権・特技ではないわけで、誰もが抱え込んでいる現象である。そこには利害の共有があり、同じ閉鎖性で結ばれた仲間がいるのである。

 閉鎖性の内部で強く強く外を(我知らず)意識して起こるプレッシャーから(これも我知らず)自己解放する究極のスタイルが、外の価値の逆転(リセット)である。この自己解放は理念的な思念で実現するものではない。それは(我知らず)身から湧き起こるワガママな快感現象なのであ〜る。

 その昔、不良仲間に身を投じた友人がいたが、彼は徹底して教師を無視して挨拶をしなくなった。そういうことがある日突然に起こり始めるのは、教師を無視するという独善に目覚めた(リセットした)からだが、そこには不良の仲間意識(閉鎖性)があったに違いない。もちろん、学校もまた(こちらは制度化された)閉鎖集団である。こういう閉鎖性の因果は巡る。その友人は今や教師をやっているという噂だ。

 いやいや、音成は何の話をしているのか──そうであった、フランスの宮廷の話であったな。さて、いずれにしても宮廷でゲップや〈屁〉が横行していたというのだが、これが自慢の心的領域にまで達しているというのであった。

 ここでカバネスが提供してくれたエピソードをもう一度検討してみると、ゲップや〈屁〉というのは、やたらな放尿(によるマナー違反)の横行とは趣が若干違うと知らねばならない。放尿自慢というのはないのであり、ゲップや〈屁〉は自慢なのである。つまり、放尿は平気でそれをする(ようになった)のだが、ゲップや〈屁〉は平気を通り越して(ドヤ顔で)自慢するのである。

 条件的には閉鎖性のある宮廷での出来事として同じなのになぜ、このような違いのある振る舞いの表出になってしまうのか。どうもリセット現象(価値の逆転)は放尿には発現していないようなのだ。

 以上、前回までの話を補足的にまとめ直してみたが、要するに放尿も、ゲップや〈屁〉も同じく無作法に結びつく振る舞いであるものの、そこには放出したモノの質的な違いが存在していることを言いたいわけだ。これまで示唆してきたように、我々に見えるか見えないかという点が影響しているのである。この見えるということは、言い換えればそのモノがどこかに鎮座する(自分の場所を占める)ことを意味するんだね。ここからが今日の本論となる。(なお、ゲップと〈屁〉は基本は同じということで同列扱いにしてきた。二つは出所がそれぞれ口と肛門であるし、いろいろ違いがあるのだが、論ずれば煩雑になるので以下は〈屁〉に絞って記述する)
「聞き及んだところによると、王フランソワには長く関係の続いた非常に美しい愛人がいたが、ある日のこと、床をともにしようと予告もなく思いがけない時間にそのご婦人のところに赴き、荒々しくドアをノックした。パトロンなればこその気ままな振舞いであった。その時ご婦人はポニヴェ殿(ポニヴェ提督)と同衾していたが、ローマの遊女たちのように『オ待チクダサイマシ。タダ今、オ客ヲトッテオリマス』などと言いえようはずもなかった。そこで、彼女の愛人が安全に隠れることのできる場所を探さねばならなかった。
 たまたま夏であったので、フランスではよくあるように、木の枝や葉が暖炉の中に置かれていた。そこで、ご婦人は彼にすぐその暖炉に身を隠すように促したのだが、冬でないのが幸いであった。
 ご婦人との一件をすませると、王は小用を足したくなり、起き上がって暖炉にそれをしに行った。他に適当なものがなかったからだ。はちきれんばかりになっていたので、彼はかわいそうな色男を、バケツ一杯の水をあびせたよりももっとひどくびしょびしょにさせてしまった。身動きひとつするわけにいかないその色男の苦しみを、どうか察していただきたい。どれほどの辛抱がいったことであろう。王はさっぱりすると、ご婦人に別れの挨拶をして部屋を出て行った。ご婦人はドアを閉めると恋人をベッドに来させ、自分の情火で彼を温めてやり白いシャツを着させてやった」

 カバネスが紹介したこの無作法な放尿エピソードには羞恥や自慢というものはほとんどないが、王による行為は平気の平左の領域には達している。

 放尿の場合、このように暖炉の中にやってしまうとか、しびんを用意するとか、要するに処理と結果の「場所」を何としても確保する必要がある。そういうものは自他の視界にしっかりとつなぎ止められるわけで、不快なモノ自体が網膜に残存して手間がかかるという現象を呈する。まあ、脱糞なども同様だね。そして、ここが重要だが、他人に向かって放尿や脱糞を自慢する人は(あまり)いないのである。(尿や糞の場合、状況によってフェティッシュな嗜好を示すことはあるかもしれない。しかしそれは、言ってみれば独りよがりなものであり、他人はあまり関係・関心がない。フェティシズムは直接「見える」モノに個的に発動するところから始まるのが一般的である)

 暖炉に放尿するのは一般に作法を踏み外した行為であり無作法であるが、我々は無作法の判定軸を次のように考えることができる。

 放尿の無作法=主に視覚的に判定する
 放屁の無作法=主に聴覚的に判定する

 ゲップもそうだが〈屁〉の場合には、実体が見えないのだから判定は聞こえてくる音に頼らざるを得ないが、視覚ほどの明確さがないね。一般に聴覚だけでは音源の特定が困難でまぎらわしい状況も多いだろう。これは放尿の視覚的な判定軸に比べて、すこぶる曖昧にして不明確な判定軸といえる。我々はしばしば他人の〈屁〉を聞いて空耳かと疑うわけである。

 要するに我々は無作法か否かを、放尿は「見た」瞬間に「明確」に判定し、放屁は「聞いた」瞬間に「曖昧」に判定するわけだね。見える見えないという視覚性は、それぞれのマナーのあり方や、そのモノへの嫌悪や、作法から逸脱する羞恥などに影響を与えてしまうことになるのだ。

 我々のこれまでの考察では、〈屁〉が自慢の領域に踏み込むときに、何かしらの閉鎖性による価値の逆転(リセット)を想定したのだった。〈屁〉の場合、視覚の欠如(見えない)はこの逆転の根拠になっている。

 視覚の放尿=見えるので処理は明確である
 聴覚の放屁=見えないので処理は曖昧になる

 見えてしまう放尿はとりあえずマナー(ルール)が明確である。それは便所でする(場所を用意する)ものだし、しびんはそれを拡張してしまったのであるが、後処理を考えれば常に場所をセットに用意せざるを得ないわけだ。このため、ルールも「そこでしてもよい」と指定的で明確であり、ルールに従った時点でその行為は平気に(行えるように)なるのである。それは無作法でないし恥ずかしくもない。(暖炉へ放尿する日常化した無作法は、王にとってはいわばしびんの延長であり、無作法ではなくなっているので恥ずかしくないのだ)
 フランソワ一世がこのように振舞ったのは、その時代の習慣に従ったまでのことである。ベロワルド・ド・ヴェルヴィルの言うことを信じれば、一七世紀初頭にはまだ、旅行中に旅籠の「暖炉で用を足す」のがありふれた習慣であった。

 しかし一方の〈屁〉は見えないうえに基本的に不随意であり、適宜な場所が用意できない。ゆえに「どこでしてもよい」という曖昧な指定になってしまうのだが、人が共有するルールとしてはどこでしてもよいわけではないね。倫理観としては、どこででもはしてはいけないのである。しかも、〈屁〉の後処理はおおむね尻をすぼめ風まかせの自然放置によって解消・解決するため、すこぶる曖昧で無責任な処理になってしまう。

 もちろん、放尿も放屁も無作法にならぬように(建前にしろ)ルールは厳格にあるね。ただ、よくよく考えてみると放尿は(やってもよいと強調する)許容ルールである。それに従う限りルールは(禁止というより)常識・習慣そのものとなる。これに対して放屁は(やってはいけないと強調する)禁止ルールなのである。禁を破るルール違反の危機をいつも意識せざるを得ない。そこでは危機感に裏打ちされたルール(禁止)の厳格化に進むのでストレスが大きい。

 このように放尿が「許容」され放屁が「禁止」されるとき、すでに世間のルールが適用されているわけだ。許容と禁止はルールの表裏だが、ルールが警戒しているのは意味(秩序や存在の意義)の崩壊である。

 尿や放尿は異音異臭異態で不快かもしれないが、それでもそこには(役に立つ)意味があって我々は安心し許容する。一方、放屁を禁止するのは、それが異音異臭の不快な現象であると同時に(何の役に立たつのか)意味が(わから)ないからなのだ。しかも音だけが頼りで見えないという曖昧な属性は、目で追う追究のきっかけを失わせ、無意味さを際立たせてしまう。

 放尿の許容=尿は有意味だから→常識・習慣化
 放屁の禁止=屁は無意味だから→危機を意識化

 このとき〈屁〉は見えないから無意味なのではなく、無意味なのに見えないのが問題なのである。見えない代わりに音を立てるにしても、その音源の曖昧さに我々は疑心暗鬼し、他人が放った不快な異音異臭に程度の差はあれ恐れおののくのである。

 まして知らん顔して、透かし屁が音もなくにおってくるなどというのは、まったくのところ言語道断にして卑怯そのものであるね。あなたはその瞬間、どうすることもできない理不尽さに叩きのめされる。これって、どういう意味?──あなたは意味の不在に少なからず動揺しているのである。

 つまり、見えないだけではなく、音の不在による不意打ちはケシカラン(許せない)のだ。もちろん音の存在すらケシカランのに、いきなり(見えもせず音もせず)におってくるのはもっともっとケシカランと感じるのである。だからケシカランながらも自らを(正直に)宣言している音の存在は、せめて付随してしかるべき〈屁〉の重大な徴表ではあるのだ。

 かくして音を伏せた透かし屁は(無意味どころか)卑怯な存在として忌み嫌われ、いっそうの無意味さを際立たせてしまうのである。(実はこの無意味さは存在の本質にかかわる無意味さであ〜る)

 我々は見えもせず音もしない他人の〈屁〉を忌み嫌うが、余儀なく自分がその〈屁〉の主になってしまうと、所属のない無意味さ(透かし屁)を人に悟られるという底抜けの不安を覚えることになる。比較してみればよい。音のあるよりも音のない〈屁〉が恥ずかしい(はずだ)。

 ところで、あなたは放尿と放屁とどちらが恥ずかしいと感じるだろうか。ここで羞恥について少し触れておきたい。何かを恥ずかしく思うのは、決められた心的規範から逸脱する(あるいは逸脱している)と意識するからだ。場面にもよるかもしれないが、一般に我々は放屁の方が恥ずかしいはずである。

 例えば、みんなで談笑しているときにオシッコをしたくなったとしたら我々は、ちょっとオシッコ(に行ってくる)などと(比較的)平気で口にすることができる(露骨に言わないまでも隠すことはないはずだ)。しかし、ちょ〜っと〈屁〉に行ってくるわ、とはとても言えない(はずだ)。むしろオシッコに行くふり(あるいは、その場で〈屁〉の我慢)をしてしまう。

 ともかく両者を比べてみれば(本源的に)放尿の恥ずかしさは小さく、実は〈屁〉の恥ずかしさの方が大きい。自他のルール(礼儀作法などの規範)によって縛られ抑止的になった〈屁〉が、うっかり出てしまうのはとても恥ずかしいのである。

 ところがこの羞恥が、ある一定の閉鎖性の内部で(羞恥の対極にある)自慢へと逆転するリセット現象が起こるのだった。仲間内のみんなと談笑してるときに〈屁〉をこきたくなって、片尻を上げて一発ブ〜ッと(ワザと)やる奴がいるわけだ。大爆笑ともなればドヤ顔である。

 このように自慢化してしまう〈屁〉に対して、放尿の方は恥ずかしさが薄れることはあっても自慢に走る人はほとんどいない。つまり、まことに恥ずかしいモノ〈屁〉が暴走して自慢化しやすいのだ──となるのである。

 見える放尿=処理が明確/羞恥は浅/自慢は小
 見えない放屁=処理が曖昧/羞恥は深/自慢は大

 まとめると、見えないということによって〈屁〉の処理が曖昧になり羞恥は増し、一定の条件下(閉鎖性の内部)で、ついに自慢化するということになるわけだ。では、見えないモノは全部そうなのかというとそんなことはないわけで、先日存在が確定されたヒックス粒子は〈屁〉と同様に人の目には見えないけれど、まったく〈屁〉と同じ運命にはない。いやまあ、一緒にするなという怒り(?)の声が聞こえてくるが、話が長くなったので次回につなぐことにする。


posted by 楢須音成 at 04:11| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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