2012年04月02日

続続続続続・〈屁〉が文化となる一瞬の歴史の光芒

 目撃談というのは単なる噂話とは違うね。目撃という我々の視線に捕捉された現実(つまり「見ました」という現実提示)は何にも増して確固たる「現実」となるのである。

 思うに、人間にとって「聞きました」とか「嗅ぎました」という現実の把握は「見ました」よりも下位の現実把握なのであり、視覚が伴わないと、我々の認識は(他人に主張する場合)どうも根拠薄弱になってしまうのだ。(ここは嗅覚や触覚や聴覚や味覚などに特化している動物とは違うところである。視覚は言語表現に直結していく)

 古来から〈屁〉が(基本的に)視覚を伴わない現象であることは論を待たないが、見えない・見ないままに「聞きました」とか「嗅ぎました」という現実把握であるために、実にうろんな現象なんだね。ひと言でいえば、見えないまま〈屁〉は異音異臭で存在を強く主張してしまうのであり、その異音異臭は他人を憤激せしめる嫌悪、自分を責めさいなむ絶望を呼び覚ますのである。

 ここでは、そういう〈屁〉にまつわる嫌悪や絶望はともかくとして、我々の〈屁〉が見えない現象であることに注目したい。例えば、同様の異音異臭であっても、明確に〈糞〉と相違する点は、見えるか見えないかという存在のあり方なのである。

 この存在の見える見えないは、人間の行為に現象するとき心的運動(認識)に傾向をもたらす。同じ肛門から出てくる〈屁〉と〈糞〉に対する我々の態度は明確に違うわけだが、これについては前に考察した(参照)。要するに〈屁〉は見えないことによって存在を隠しており、物的概念の形象ができにくい。

 つまり、見えないことによって〈屁〉は誇大な妄想やあらぬ空想など(擬視覚的な)視覚前の観念までは至るにしても、網膜に視覚化した〈糞〉のようにリアルで分析的な概念化まで至りにくいのである。(しかも、見えないままに嫌われてしまう否定性の現象である〈屁〉は嫌悪、絶望、邪推、隠蔽といった否定性の情緒・情念的な方向へと陥っていく)

 江戸期における〈屁〉の台頭は、このような見えない〈屁〉が一歩踏み出してより明確な形象(概念)化の過程を辿ろうとした流れにあったと見なすことができる。表現が詩歌(川柳、狂歌)から散文(擬批評)化へと辿ったのはすでに見てきたが、ここに突如、実地の目撃談があらわれてくる。屁放男の登場であった。

 それは単に〈屁〉をこくというのではない。あたかも完成した一個の芸事として登場したのである。それを見た平賀源内はこう誉めた。
「──扨(さて)つくづくと案ずれば、かく世智(せち)辛き世の中に、人の銭をせしめんと、千変万化に思案して新しいことを工(たく)めども、十が十(みな)餅の形、昨日新しきも今日は古く、固(もと)より古きは猶(なお)古く、此(この)放屁男(へっぴりおとこ)計(ばか)りは咄(はなし)に有りといへども、このあたり見る事は我(わが)日本神武天皇元年より此(この)年安永三年に至(いたっ)て、二千四百三十六年の星霜を経るといへども、舊記(きゅうき)にも見えず、いひ伝(つたえ)にもなし。我(わが)日本のみならず、唐土(もろこし)朝鮮をはじめ、天竺(てんじく)阿蘭陀(おらんだ)諸(もろもろ)の国々にもあるまじ。於戯(ああ)思付たり能(よく)放(ひっ)たり」と誉(ほむ)れば、一座皆感心す。

 源内の言わんとするところは、あれこれビジネスを計画しても新しいものはなかなか生み出せないが、この屁放男だけは別格だというのである。神代の旧記にもなければ、言い伝えにもなく、諸外国にも例がないであろうオリジナリティだと手放しで誉め上げた。

 これに対して頭の固い堅物が「扨々(さてさて)苦々敷事(にがにがしきこと)を承る物かな」と、銭儲けのため人中で屁をこくなど言語道断と反論するのだが、源内の称揚はとどまるところを知らない。
 斯(かく)ばかり天地の間に無用の物と成果(なりはて)、何の用にも立たざるもの(屁)を、こやつめが思ひ付にて、種々の案じさまざまに撒(ひ)りわけ、評判の大入、小芝居なんどは続くべき勢(いきおい)ならず。富三(とみさ)一人が大当りは菊之丞が余光も有り、屁には固(もと)より余光もなく、惚(ほれて)人もなく贔屓(ひいき)もなし。実に木正味(きしょうみ=そのもの実質)むき出しの真剣勝負、二寸に足らぬ尻眼(しりのあな)にて、諸(もろもろ)の小芝居を一まくりに撒(ひり)潰す事、皆屁威光(みなへいこう=みな閉口のしゃれ)とは此事(このこと)にて、地口(じぐち=しゃれ)でいへば屁柄者(へがらもの=手柄者のしゃれ)也(なり)。されば諸(もろもろ)の音曲者(おんぎょくしゃ)いふべき筈の口、語るべき筈の咽(のんど)を以て、師匠に随(したが)ひ口伝を請け、高給金はほしがれども、声のよしあしは生れ付、月夜烏(つきよがらす)や五位鷺(ごいさぎ)のがあがあと鳴くがごとく、古き節の口真似はすれども、微塵(みじん)も文句に意(こころ)なく、序破急(じょはきゅう)開合(かいごう)節(ふし)はかせ(=楽譜)の塩梅(あんばい)をしらざれば、新浄瑠璃の文句を殺し、面々家業の衰微(すいび)に及ぶ。しかるに此(この)屁ひり男は、自身の工夫計(ばか)りにて、師匠なければ口伝もなし、物いはぬ尻分(しりわか)るまじき屁にて、開合呼吸の拍子を覚え、五音十二律自(おのず)から備り、其(その)品々を撒分(ひりわけ)る事、下手浄瑠璃の口よりも尻の気取(=性質)が抜群によし。奇とやいはん妙とやいはん。誠に屁道(へどう)開基(かいき)の祖師(そし)也。

 源内は言葉を尽くしているね。確かに〈屁〉は無用の存在で何の役にも立たぬが、そういうものを自分の工夫でブウブウ放り分けて大当たりをとったのは、伝統芸の音曲の担い手たちの凡庸で下手糞な口真似芸に比べたら、何と素晴らしいものかというのである。さらに源内は学者、医者、歌人、文人などをも、伝統にあぐらをかいてマンネリで工夫才覚がない心得違いがまかり通っていると痛罵して、屁放男の登場の斬新さを持ち上げるのだ。

 このような源内の絶賛ぶりは戯作の誇張だとばかりは言い切れない。源内は屁放男の登場を見て感動しているのであり、時代を画期する風を感じているのである。その風とは芸をまとった〈屁〉であり、それまで日陰の存在だった〈屁〉が見える形で表にリアルに登場したのであった。

 源内は伝統の枠を超える工夫(独自のオリジナリティ)を強調するのだが、我々がここまでに見てきた江戸の〈屁〉的な社会現象の流れからすれば、すでに耕されていた〈屁〉の理屈の実技として位置づけられるね。芸という意匠をまとった〈屁〉の視覚化がビジネス(銭儲け)として成功したのだ。

 まったく無用の〈屁〉は、理屈の段階では(面白可笑しく)あれこれ語ることができる自由(屁談義の拡張)を獲得していたものの、必ずしも〈屁〉のリアルな実技を現実のもの(可能なもの)と想定しているのではなかった。ありそうでなさそうな、その実技とは妄想であり空想であることによって成立する擬似的な芸であった。そこに登場したのがホンモノの実技者である屁放男というわけなのだ。川柳には、

 両国へ屁を嗅ぎに行く五里四方

 近頃評判の両国の屁放男──源内のみならず江戸の人々は男の〈屁〉の芸を実見し堪能した。まさに〈屁〉で芸をする芸人がいる事実(現実)が評判となって駆け巡ったのである。リアリストである源内の観察は芸そのものの評価もさることながら、それが(1)個人芸である(2)ビジネスとして成功した─ことに注意を払っている。それが〈屁〉において成立していることに感動したのである。

 このことは〈屁〉が一般の芸事と同じ水準へと昇華したことを意味する。ならば「自分もできる」という人たちが出てくる社会現象になるのはスプーン曲げと同じである。そこにはプロもいればアマチュアも輩出したであろう。何しろそれを鑑賞する理屈は十分耕されていたのである。『薫響集』はその理論書の一つだね。

 かくして源内の態度は観察という段階に達しているわけだが、大評判をとって〈屁〉が見える形で広まったのだから認識レベルが理屈の段階を超えていくのは当然のこと。源内が〈屁〉をもとに当時の芸能人や知識人への批評(皮肉)にまで踏み込んでいく(説得力を持ってくる)のも、現実になった〈屁〉を観察した段階にあるからだ。

 人間にとって視覚化された認識は(ハッキリ見えれば見えるほど)強固になる。裁判において「証拠」がないと罪は証明できないが、証拠とは物的で視覚化された認識である。モノの提示や「見たよ」という目撃は何より強い確証なのだ。(録音だってテープという物証がないとダメだね)

 源内によって〈屁〉は個人芸として称揚され、ビジネスとして称賛された。そこには人が見え、人の動きが見える──個人やビジネスが入り込んだ現実の世界に〈屁〉が昂然と登場することによって、これまた人はまた別の刺激を受けてしまう。新たな「物語」の世界が開けることになっていった。


posted by 楢須音成 at 00:20| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月21日

続続続続続続・〈屁〉が文化となる一瞬の光芒

 古代からの「民話」という物語は、近代の「小説」のような物語とはどこか違うね。例えば、日本の〈屁〉の民話は「屁ひり嫁」「屁ひり爺」などが代表的だが、そこでは特定される個人(個性)という発想(想定)はないのである。つまり「嫁」や「爺」は共有されている(どこにでもいる)存在なのであり、そういう存在が〈屁〉で突出する(目立ったことをするまれな)話となっている。

 もちろん、どんな話も何かしらモデルから出発するものである。しかし、古代から伝わる民話のモデルとなると(時代をさかのぼるほど杳として)個人の存在などはうかがえないのだが、「屁ひり嫁」はモデルの存在が具体的に指摘されている稀少な例だ。「屁ひり嫁」とは、屁こきの嫁が離縁されるものの、屁でまわりを圧倒して富を得るや、復縁して幸せになる話である。

 日本の昔話を調査・研究した稲田浩二は『日本霊異記』中巻の「力女、強力を示す縁第二十七」の話にある「力女」と「屁ひり嫁」との類似性を示し、さらに力女の起源を『続日本紀』や『延喜式』などに出てくる「諸国の貢(たてまつ)れる力婦」や「贅力ある婦女」の存在に見出している。もとを辿れば実在の人物が記録されているというのである。(男と同様の力のある婦女を古代は優遇した。そういう婦女が諸国から中央に貢がれ、その力を褒められて田畑を与えられたという。詳しくは過去のエントリを参照

 稲田の指摘から、実在のモデルの存在が説話や民話に昇華していった筋道がうかがえる。それはモデルの具体的な個性が消えていった過程なのであり、人々は異能者の(どこの誰だという)個性や事実性よりも、異能を共有する(つまり〈屁〉を我が物として富を得たい)願望を物語に託したのである。

 多くの民話には何かしらモデルがあったに違いないが、作話の過程で「屁ひり嫁」の話と同様に個性や事実性はあまり顧慮されず、それらは時とともに消えて(忘れて)いったのだと考えられる。

 ところが、近代の小説では逆に個性や事実性が評価されるようになってくるね。この違いは物語(言語表現)する人々の共同体との関わり方や境遇の変遷を通じて、物語に向かっていく我々の心的な姿勢が段階を経て次第に進化・深化していった結果といえる。

 ともあれ個的なモデル(どこかの誰かの振る舞い)が集団的な民話へと昇華していく過程で、突出した異能の〈屁〉が深い意味を持っていく例が「屁ひり嫁」の物語なのである。

 さて、江戸の〈屁〉の潮流は屁放男という個性的なモデルの出現によって、大きく転換することになったのだった。屁放男の登場までに〈屁〉は面白可笑しく詩歌に組み込まれて論じられ、これまた面白可笑しく芸道に比肩する表現や作法がまとめられていたが、まあこれはトチ狂ったように花開いた高尚な(?)屁談義というわけである。

 ここまでの〈屁〉の扱われ方は個的なモデルというものはないに等しいね。というのも〈屁〉は誰もが抱え込んでいる現象であるがゆえに、そしてそれが極力隠蔽される点において非個性の存在を装うのであるから、そもそも個的なモデルを回避しようとしているのである。まあ、隠蔽が破れれば否応なしに個性化してしまうが、我々の屁談義の発展は(どこの誰ともわからぬよう)個的な生々しいモデルを消したところに花開く性向を持つのだ。(少なくとも言語表現域においては)

 このことは「モデルはどこの誰か」「どこの誰がそれを語ったのか」がわからなくなった民話の事情と似ている。これは「誰だかわからない」という一つの共有の形態であって、わからないから共感している(つまり、誰であってもよい=私であってもよい)のである。

 しかしながら、作話にあたってのこういう昇華の様子は、民話と〈屁〉とでは出発点が大きく違っていることに気づかねばならない。なぜならば、そもそも民話はそれを表現したいのであるが、そもそも〈屁〉はそれを隠蔽したいのであるからね。

 我々の〈屁〉は最初から生々しいモデル化を回避して表現(理屈化)の道を辿っている。〈屁〉を隠蔽したい我々の心的運動の性向に即しているのだ。民話は表現したいから表現する過程で非モデル化の道を辿っていったのだが、〈屁〉は隠蔽したいけど表現するという出発点から非モデルが既定路線なのである。

 少々モデルの理屈が長くなったが、ここで指摘しておきたいのは、江戸・両国に現れた屁放男はモデル不在の〈屁〉の世界に、明確に見えるモデルとして登場したのだということである。

「民話」=表現したいし表現する→モデルから非モデル化へ
 〈屁〉=隠蔽したいが表現する→非モデルからモデル化へ

 この〈屁〉のモデル化は近代における個性や事実性を重んじる精神の潮流とも一致して、本来は隠蔽したいゲテモノであっても「個性や事実性」をそのままに発露させて面白がる芸事としての枠組みを用意していた。当時は芸事の爛熟期でもあり、何でもありとは言えないが、伝統芸はもちろん新興の見世物から大道芸まで幅広く(表現され)演じられ、屁放男も斬新な一芸として受け入れられたのだろう。

 そのインパクトは平賀源内の『放屁論』などでわかるわけだが、そこでの議論は両国の屁放男という実在の人間を認識して展開している。もちろん、その影響(事実性)は川柳、狂歌、小咄などの創作ものにも波及しているのである。

 とりわけ音成が注目するのは、その結果、〈屁〉の物語が本格的に生み出されたことだ。別に屁放男の出現を待たずに物語があってもいいようなものだが、実際にはこの時期以降に目立って創作されることになる。

 ここでいう〈屁〉の物語とは、もちろん民話レベルの物語ではない。民話が「モデル→非モデル」であるのに対して、江戸の〈屁〉物語は「非モデル→モデル」の経路を辿っているのだ。古代の「力女」は非モデル化して物語(民話)の中に転生し、江戸の「屁放男」は(屁談義が)モデル化して物語(大衆本)の中に転生したのである。

 目には見えない〈屁〉が芸事の枠組みで生身の一人の男の振る舞いとして見える形で形象化された瞬間、多くの人がインスパイアされたことであろう。まずは「自分にもできるワ」と同調の二番手が登場してくるのがわかりやすい反応だが、ついには「おお、これは物語(になるの)だな」というインスパイアが戯作者の琴線に強く触れたに違いない。

 源内が冷静に観察し、大絶賛した「屁放男」は人々にとって、一人の人物(の芸)として実にわかりやすいリアルなものだった。そして源内の『放屁論』に記録されたその男は、『続日本紀』や『延喜式』などに記述された男勝りの女性に匹敵する、モデルのハッキリした記録なのである。

 人間の認識にはモデルが大きな役割を持つことがあるね。例えば、まだ子供のいない夫婦でも、これから生まれてくる(自分の)子供のことを(喜怒哀楽しつつ)何らか想像できるのは、この世間には広く子供のモデルがいるからだ。ひるがえって近代の物語の作者にとって、ユニークでリアルなモデルを得ることはとても大事なことである。新鮮なモデルの抽出は、個性や事実性を重んじるすぐれた観察家や芸術家からもたらされるだろう。

 そういう意味で『放屁論』は〈屁〉の表現の歴史では特筆すべき著作なのだ。少なくともそこにはリアルに〈屁〉の芸人が活写されていた。先に紹介した恋川春町の『芋太郎屁日記咄』も『放屁論』の影響下にある。描かれた曲屁の趣向はこうだ。「東西々々、扨てこの芋食ひしまひまして、屁をひりまするところが、第一番に三番叟屁、その次に至りまして淀の川瀬の水車屁、獅子のほら入りほら返へし屁、猿猴(えんこう)の梢屁、ひだるいところへ食つたらよかん屁、腹の張る時ひつたらよかん屁、よかん屁よかん屁、曲屁の始まり、東西々々」などとあって、その調子は源内の記述を彷彿とさせるね。

 しかし何と言っても、描かれたモデルの核心的にポイントとなるところは、本当に「一人の生身の人間が〈屁〉で芸をする」という点である。この事実から想像力は諸国修行の旅に出る波瀾万丈の〈屁〉物語へと飛躍して展開するわけだが、これは〈屁〉で芸をするのみならず〈屁〉という異能によって世間と切り結ぶ起承転結の物語になっていくのである。

 〈屁〉で芸をする〈屁〉で世間と切り結ぶ

 こう可視化された〈屁〉が確かな手応えで(リアルなものとして)実感される(見世物として〈屁〉が成立した)時代の空気がそこにはあった。早くから花鳥風月や、人間の色恋とか政治などの権謀術数の所業が物語になっていったのに対して、やっとのこと〈屁〉が(民話レベルを突き抜けて)堂々と題材に浮上したのである。

 春町の『芋太郎屁日記咄』には芋太郎という〈屁〉でユニークな一人の人物が描かれる。それはそれまでの〈屁〉談義とは違う。人物(モデル)を描くことにおいて、アホらしいかもしれないが(物語の題材として)受け入れられたのだ。読者のこういう新作の受け入れは屁放男の芸を実地に見て熱狂した江戸の人々と重なっている。

 芋太郎は諸国修行の旅に出て(曲屁や剛胆な屁をこいて)勇名を馳せるが、屁放男もまた各地を巡業したのである。屁放男というモデルの行動性も物語にそのまま踏襲されている。

 ちょっと時代が下がって、山東京伝の『諺下司話説(ことわざげすのはなし)』は『芋太郎屁日記咄』をまるまる意識して書かれている作品だが、物語の結構は堂々として複雑になり、天下国家の陰謀あり恋の道行きありの波瀾万丈が描かれる。ここでも主人公の諸国流離は基本のパターンになっている。
 昔々あつたとさ、フツポン国放屁の国の片辺(かたほと)りに、爺と婆があつたとさ、夫婦掛向(かけむか)いの遠慮なき暮しゆへ、心置きなく屁をひるばかりが楽しみにて、ある日、爺は山に臭(くさ)がりに行き、婆アは厠(かわや)に屁をひりに行、前の川にて手を洗はんとしける折節(おりふし)、川上より一つの芋が流れて来りしかば、拾(ひろい)取りて家に帰りけり。

 爺が言ふ、「お婆がおならをすかしたそふな。さてさて臭い屁だ。ここまで匂ふ。これがほんの爺は山へ臭がりに行くのだ」
「も一つ流れて来い。お爺におまそ(=あげよう)」

 夫婦、かの芋を食しけるより、不思議や、俄(にわか)に若くなり、女房はただならぬ身となりて、程なく臨月になりければ、薩摩芋(さつまいも)の如く太りたる男の子をやすやすと産み落としける。然るに、此子(このこ)、生れ落ちると直様(じきさま)、鼻と尻とに指差して、天上天下唯我屁く尊(てんじょうてんかゆいがへくそん)と言ひつつ、スイと一つおならをすかしける。その臭き事、韮・大蒜(にら・にんにく)といふども、中々(なかなか)及び難し。これすなはち、芋を食べて身籠りし子なるゆへ、名を芋太郎と付け、夫婦掌中(しょうちゅう)の握屁(にぎりべ)の如く愛し育てけり。

「ヲヲ臭い臭い、なんの赤子がおならをするもんだ。こちの人、ひり隠しをさしやんすな」
「大僭妄(だいせんもう)、俺ではない、此(この)赤子だ」
「アアラ怪しや、鼬(いたち)は最後にいたりて屁をひり、我が子は生るるに臨んで、おならをする。生死流転の屁の如しといふ道理なるが、何にもせよ、アア臭い臭い」
「おぎやおぎや、ブブブプウ」

 その頃、放屁の国の主を臭屁(くさべ)の判官(はんがん)尻元(しりもと)の音義公(おとよしこう)と申奉り、北の方を屁玉御前と申けるが、音義公、殊の外(ことのほか)屁を弄(もてあそ)び給ひ、ブイブイといふ音は、琴三味線よりも賞美し給ひ、悪臭(わるくさ)き匂ひは、伽羅・真南蛮(きゃら・まなんばん)の如く尊(たっと)み給ひければ、臣下の面々、いずれも屁学に尻(おいど)をさらし、もつぱら屁道を励みける。ここに又、北海の尻の方に壱(ひと)つの国あり、名付けて屁臭国(へくさいこく)といふ。此国の大王を放屁皇帝と申けるが、これも又、屁を好み給ひ、かねてより臭屁(くさへ)家の屁徳を慕ひ、此度(このたび)、はるばる使者をもつて、放屁の玉といふ名玉、玉屁箱といふものを贈る。まことにかかる屁国までをひり靡(なび)け給ふ事、ひとへに尻の面目(めんぼく)、屁の冥加(みょうが)と申べし。
我が君、屁を好み給ひ、みづからよくひり給へ共、我がひつた屁は臭くなきものなりとて、常々、臣等に命じ、ひらせ楽しみ給ふなり。

「此(この)玉は放屁の玉とも、おいどう臭いの玉とも申ます。又、この箱は、世界の人が巍々登壇(ぎぎとうだん)としたる場所にて、ふととり外したるおならを集め、此内へ封じ込め、玉屁箱と名付けたる一品でござります」
「なるほど珍物茶屋にもない珍しい宝じゃ」

 冒頭は桃太郎の話に出てくる爺婆をパロディにして芋太郎が誕生する場面。芋太郎は後に花咲男と名乗って重要な役回りをするのだが、物語は冒頭の場面から一足飛びに、まずは音義公の放屁国のお家騒動から描いていくのである。諸国を旅していた花咲男が音義公に召しかかえられ、最後に〈屁〉によってお家騒動の悪人たちを一掃してハッピーエンドになるというのが粗筋だ。(詳しくはこちら参照

 芋太郎がすべて前面(主役)に出てくる恋川春町の『芋太郎屁日記咄』と違って、山東京伝の『諺下司話説』はお家騒動や姫の恋の道行きが先行する筋の運びで、肝心の花咲男(芋太郎)は何だか取って付けたように助っ人として登場してくる。花咲男は物語の完全なる主役ではないのである。

 もちろん、時代によって物語の結構は自由にはばたいていくものだから、いつまでもいつでも、芋太郎的なものが主役である必要はないね。そうではあるが、当時の花咲男の造型は「一人の生身の人間が〈屁〉で芸をする」「曲屁の伝承者」という一線を守って登場するのがリアリティであった。
 かくて握屁の臭右衛門、すい屁のポン兵衛、二人の敵役(かたきやく)滅び、紛失の放屁の玉も出でければ、音義公、右近之介も放屁之介両人の勘気(かんき)を許し、皆々喜びのおならをすかしてさざめけり。
 花咲男が屁の威光によつて悪人滅びしゆへ、平康といふ事は、この時よりぞ、又久しいものさ。花咲男は此(この)喜びに、いざやとて、扇おつとり立上り、すでに曲屁を奏でける。
 その曲屁には何々ぞ、すい屁に山茶花(さざんか)、つまむ鼻、砧(きぬた)、すががき、鶏屁(にわとりべ)、ひり捨て梯子屁(はしごべ)、三番叟(さんばそう)、鴨(かも)のすかし屁、水車(みずぐるま)、鴫(しぎ)の屁返し向ふづけ、アリヤリヤリヤ、ブフトセイ、四十八屁も、なを足らで、百(もも)屁を砕ひてひつたりけり。
 さてまた放屁之介は、花咲男に屁道の奥儀を譲られ、今は並びなき屁道の達人となりければ、音義公、かの高札の表の如く放屁之介を婿となし、吉日を選み、おならの前と祝言させ、臭屁の家、富栄へけり。

「それ鼓(つづみ)は屁の音に似たれども、わづかに三つの調子あつて、五音に通ぜず、今、花咲男がひる屁は、十二の調子を備へて自由をひる。ハテ、珍しい尻(おいど)じやナア」
 
 こんな調子で物語の締めの部分は、花咲男の曲屁を賞美しつつ終わる。
 江戸の〈屁〉の物語は芋太郎の系譜ばかりではないが、いずれの物語も、もとを辿れば江戸の町に登場した「屁放男」のインパクトによって誕生したのだった。それは「一人の生身の人間が〈屁〉で芸をする」というインパクトであり、そのとき人々の想像力が(荒唐無稽でありながらも)リアルに〈屁〉が世間と切り結ぶモデルを獲得したのであった。
posted by 楢須音成 at 02:18| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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