2012年03月03日

続続続続・〈屁〉が文化となる一瞬の歴史の光芒

 人が何かに目覚めるとき、心的運動はある方向に活性化し狂躁状態になる(ことがある)わけだが、これが集団化(集団的に心的同調化)すれば、社会現象として否が応でも顕在化する。

 例えば四十年ほど前にトイレットペーパー・パニックというのがあった。中東の原油価格の急騰が日本中の主婦をなぜか(不足してもいない)トイレットペーパーの買い占めに駆り立てたのである。

 江戸の〈屁〉の大評判は、このような身に迫る被害感に駆り立てられたトイレットペーパー・パニックとは違って「パニック」ではないものの、集団の同調行動という点では同じである。人々は我先にと見物に出かけた。ただ、ここでは被害感は期待感に置き変わっているわけだ。(このように社会現象の心的運動には正と負の方向がある)

 さて、期待感というのは「見たい」「聞きたい」「言いたい」という心的運動を惹起している肯定性の興奮状態だね。その高ぶりが爆発した振る舞いは、個的には「のぼせ」となり、集団的には「熱狂」となる。なぜこうなるかは、突然のトイレットペーパー・パニックと同様に本当のところよくわからないのである。

 しかしまあ、わからないなりに時代背景の解説はするわけで、興奮が始まる心的状態は何の脈絡も動機もない突発的な事態かというと(多分)そうではないはずだ。意識しようがしまいが(たいていの場合は無意識に)期待値を高める前提条件がすでに心的に耕されているとみていいのである。

 だから江戸の民衆が屁放男の登場を(無意識に)期待していたというのは、まあ言い過ぎとは思わないのだね。江戸で〈屁〉的なものが流行した時代背景そのものが(本流とはなりえないものの)屁放男の登場を待っていたと考えてよいのだと音成は思う。

 つまり当時、狂歌や川柳に題材として〈屁〉が跋扈し、ついに散文領域にまで屁談義の集大成みたいな『薫響集』の類があらわれる、時代の流れというものがあったのだ。それは我々の〈屁〉の表現やその受容力がある方向付けで耕され成熟していた段階の時代相であった。そこに屁放男が登場したのだ。どういうことかというと、つまりこういうことだ。段々くどくなるが、もう一度その図式を掲げておく。

 屁談義を擬論理的に思弁して擬体系化した『薫響集』の登場=理屈化(情緒的and理屈的)
        ↓
 屁談義を実現するワザを実見して思弁した『放屁論』の登場=観察化(理屈的and現実的)
        ↓
 屁談義・実技・思弁から擬現実を妄想した『芋太郎』の登場=物語化(現実的and空想的)

 歴史的にみた場合〈屁〉が狂歌や川柳に扱われたのは情緒的な段階である。もともと他愛ない屁談義などは古代からあったであろうから、この時代の情緒的とは、つちかわれた詩歌の精神で〈屁〉を歌った(カタチ=表現を与えた)のである。一方では屁談義の小理屈(論理性)も台頭していた。まあ、小理屈だって昔からあったであろうが、この時期の〈屁〉の理屈は詩歌の精神を受容し、思弁を重ねて複雑になっていた。その指標は体系化をめざすことであり、その集大成の画期的な成果の一つが評論的な『薫響集』なのである。音成はこれを「理屈化」の段階とする。

 理屈化というのはいろいろあるが、〈屁〉における理屈化は異音異臭の連想に連想を重ねて奇抜なものが多くなる。例えば、花鳥風月に〈屁〉を加え詩歌の道を追求して実作や理論を示す一方で、芸事として人の面前で〈屁〉を演ずる曲目を編み出すといった見立てが出てくる。古くから梯子(はしご)屁とか数珠(じゅず)屁などと形容するのは、カタチのない〈屁〉を形態模写する素朴な見方(分類)であるが、これに理屈の手が込んでくる。『薫響集』では次のように理屈を構築して〈屁〉の世界に芸道の指標を示した。
 生きとしいけるもの屁をひらざるはなし、といへども、わきて心にかくるとかけざるとにて面白くも聞え、また臭くいやしきものともなるなり。まづ食前・食後・雪隠(せっちん)もどり、この三つの時を違へず放(ひ)るを表三箇条の伝とす。さて、言下(ごんか)・袖摺(そですり)・見返し・行違い・三つ地・六地(むつじ)、この六箇条を裏として、それより梯子屁・指曲舞(くせまい)・楽の拍子・小歌の清掻(すががき)・浄瑠璃(じょうるり)の三重、これを中段の五箇の伝とす。また許(ゆるし)の曲は蘇合の楽能にては乱(みだれ)・石橋(しゃっきょう)・道成寺(どうじょうじ)、また三弦の手は砧(きぬた)さらしゆりかんを太極の位として免状を送り、門弟取扱ひを許すなり。かくまで功者に至ること、たとへば高き山も麓のちり泥(ひじ)よりなりて、雨雲たなびくまでおひのぼれるが如くに、屁の道も執行(しゅうぎょう)し侍らば、誰の人か屁の妙を得ざるべき。よって初心のため心得のこと一つ二つ記し侍りぬ。然(しか)はあれど、屁は腹中のよしあしによるものなれば、人々わが生まれつきをよくよく自ら考へて学ぶべきことなり。

 ここでは邦楽の演目や段位になぞらえて芸道ならぬ〈屁〉の道を説いて、達人になるには一から修行に励まなければならないとしているわけだが、〈屁〉というものは努力ばかりでなく「腹中のよしあし」が大きいので、「生まれつき」を考えて学べとも説いている。つまり〈屁〉の道は努力してもなかなか一筋縄ではいかぬ(至難の道)との指摘である。

 さらに理屈化の構築は続いて〈屁〉の奥義が諄々と語られる。剣道とか柔道とかのような秘技の手ほどきではあるまいに、しかし妙に細かく行き届いたリアルな屁道の指南ではある。
 屁は射術に似て、身の構へ菊座(きくざ=尻の穴)の放(はなれ)を第一とするなり。兆(きざ)すとそのまま放つを早気(はやけ)とて嫌ふなり。保ち過ぐれば、弱々として悪しく、常に屁を貯へるとなく、また、気をはなさず、時に遇うて早速の働きを専ら心にかくるなり。侍は就中心にかくべきことなり。古歌にも、
     さむらひはわきて屁の道たしむべし
          なべてその名をぶしといはずや
 と詠みしも宜なることぞかし。
 初心の輩(ともがら)、屁を放らんと思ふときは、先ず心を静めて、腹中のよしあしを考へ、空腹ならば、何にても少々冷えたるものを食ふべし。さて脇腹を両手して押せば自ら催するなり。手拭を水に浸して、下帯の光結(みつい)に挟(はさ)むもよし。音を厳しく放(ひ)たきときは、板の上にて放るべし。戸へ尻をあてて放るもよし。常に放るときは、片膝を立て、少し前へかかりて放るべし。
 屁の勢ひを見するには、鞠懸(まりがか)りの砂を塗折敷(ぬりおしき)に薄く入れて放るなり。三、四寸より七、八寸までも放(ひり)散らすことあり。即興のときは、延紙(のべがみ)を玉子の如くして放飛ばすなり。二、三間あるひは二丈ばかりも飛ぶものなり。蝋燭の火消しやうは、尻をもっ立て、燭台の許へさし寄り、燃ゆる火を下より放消すなり。三十目掛(めかけ)・五十目掛は功者のことなり。初心にては用捨(ようしゃ)あるべきなり。
 握屁(にぎりべ)は勢ひこみて短く放るべし。長きは手のうち漏れて損あり。なべての屁、ともに長きはあしく、丸く放るを要とするなり。

 こんな調子で延々続くのだが、要するに〈屁〉の道を師伝する奥義書として、うんちく傾けた理屈(理論)を構築しようとしているのである。

 狂歌や川柳から歌論や芸道の指南へと〈屁〉がぬけぬけと表現領域に跋扈していく当時の風潮は、世界史的にも群を抜く江戸の出版文化の興隆に支えられてもいたのだろうね。(まあしかし、〈屁〉はあくまで本流にはなれなかった傍流ですが…)

 このように理屈化をたどった〈屁〉の世界に、それを実践する実技者が突如あらわれることになる。それが安永の屁放男で、昔語花咲男(むかしがたりはなさきおとこ)、福屁曲平、霧降花咲男などと名乗って人々の注目を集めたわけである。

 人々の衝撃は口先だけの理屈に、いきなり実践が伴ったことにあったと考えてよかろう。可視化の衝撃である。例えば噂に城のお姫さまは絶世の美女だと聞くとする。このとき熱く姫を語る幾千万の美女の形容と賛辞を聞いて驚嘆したとしても(多分)姫を目の前に実見して得る感動には及ばない。もちろん、姫が噂と期待に違えず真実の美女であるとしての話である。そのとき言葉は無力にも現実の前に吹き飛んでしまう(はずである)。

 もちろん、姫への幾千万の形容と賛辞が効力を失ったわけではない。現実が先を行った(言葉にならぬほど美人である)だけのことで、観念世界ではむしろ的確な形容と賛辞は現実に裏打ちされて(それなりに)燦然と輝くのである。現実に照射されたそういう言葉から、より優れた表現こそが末永く選択され生き残る(伝説になる)ことになる。姫と〈屁〉では比較にならぬが、まあまあ似たような言葉と現実の関係じゃないか(な?)。

 ともあれ、江戸に登場した屁放男は噂に聞いた「理屈」の実現だったのだ。嘘か真かわからぬ噂も目の前の現実となれば、我々の視線は熱く注がれる。評判が評判を呼ぶ。平賀源内も出かけていった。(以下の『放屁論』からの引用は音読がおすすめ)
──さいつ頃より両国橋のあたりに、放屁男(へっぴりおとこ)出(いで)たりとて、評議とりどり町々の風説なり。それつらつら惟(おもん)みれば、人は小天地なれば、天地に雷(いかづち)あり、人に屁あり、陰陽相(あい)激(げき)するの声にして、時に発し時に撒(ひ)るこそ持ちまへなれ。いかなればかの男、昔よりいひ伝へし梯子(はしご)屁、数珠(じゅず)屁はいふもさらなり、砧(きぬた)すががき三番叟(さんばそう)、三つ地七艸(ななくさ)祇園囃(ぎおんばやし)、犬の吠声(なきごえ)鶏屁(にわとりべ)、花火の響きは両国を欺き、水車の音は淀川に擬(ぎ)す。道成寺(どうじょうじ)菊慈道(きくじどう)、はうた、めりやす、伊勢音頭、一中(いっちゅう)、半中(はんちゅう)、豊後節(ぶんごぶし)、土佐、文弥(ぶんや)、半太夫、外記(げき)、河東(かとう)、大薩摩(おおさつま)、義太夫節の長き事も、忠臣蔵(ちゅうしんぐら)矢口渡(やぐちのわたし)は望(のぞみ)次第、一段ずつ三絃(さみせん)浄瑠璃(じょうるり)に合せ、比類なき名人出たりと聞くよりも、見ぬ事には咄(はなし)にならず、いざ行きて見ばやとて二、三輩(はい)うち連(つれ)て、横山町より両国橋の広小路、橋を渡らずして右へ行けば、昔語花咲男(むかしがたりはなさきおとこ)と、ことごとしく幟(のぼり)を立て僧俗(そうぞく)男女押し合いへし合ふ中より、まず看板を見れば、あやしの男尻もつたてたる後ろに、薄墨に隈取りてかの道成寺三番叟なんど、数多(あまた)の品を一所に寄(よせ)て画(えがき)たるさま、夢を描く筆意に似たれば、この沙汰(さた)知らぬ田舎者の、もし来かかりて見るならば、尻から夢を見るとや疑わんと、つぶやきながら木戸をはいれば、上に紅白の水引(みずひき)ひき渡し、かの放屁漢(へっぴりおとこ)は囃方(はやしかた)とともに小高き所に坐す。その人となり中肉にして色白く、三ケ月形(みかづきなり)の撥鬢奴(ばちびんやっこ)、縹(はなだ)の単(ひとえ)に緋縮緬(ひちりめん)の襦袢(じゅばん)、口上(こうじょう)爽やかにして憎気なく、囃(はやし)にあわせまず最初がめでたく三番叟屁、トッパヒョロヒョロピッピッピツと拍子よく、次が鶏(にわとり)東天紅をブブブウーブウと撒り分け、そのあとが水車、ブウブウブウと放りながら己が体を車返り、さながら車の水勢に迫り、汲(く)んではうつす風情あり。サア入替り入替りと打出しの太鼓とともにたち出で、朋友の許にたち寄り、放屁男を見たりといへば──

 前評判につられて源内が出かけてみると確かに見事に屁をひり分けていたのである。犬、鶏などの声帯模写、見えないながらも音による梯子、数珠、花火、水車などの形態模写、あらゆる邦楽の演奏・伴奏を難なくこなしていたというわけだ。

 細かな芸の様子も面白いが、この描写からうかがえるのは、押し合いへし合いして入場させサッサと芸を見せたら入れ替えを急ぐ人気小屋の興行の息づかいだ。音成は子供の頃に押し合いへし合いして「蛇女」の見世物小屋に入ったことがある。その小屋では、蛇女どころか単に蛇を操るだけの人間の女を見せ、観客の失望と不満をためないようアッという間に入れ替えていたものだ。しかし源内は十分満足して帰っているし、芸の質は高かったものと思われる。噂通りに目の当たりに見た曲屁の余韻は外に持ち出されて、大いに評判になったのだろう。

 誰かに喋らずにはいられない源内も友人のもとに立ち寄って、あれはインチキか否かという論議をやっている。衆議は一決しないが、源内はホンモノだと主張しているのである。そして、たとえインチキであったとしても、数万の人の目にさらされて仕掛けがわからぬのならば、ホンモノと同じと断じている。

 こうした源内の行動は、ナマの現実である〈屁〉に向き合って視線を注いでいるわけである。その〈屁〉とはまさに『薫響集』が説いたの芸の道を地で行って実践した(かのような)ものであった。ブウブウと〈屁〉に彩られた邦楽百番を繰り出す屁放男の芸は、上から下まで江戸の人たちに多大なインパクトを与えたのである。

 かくして江戸の〈屁〉は「理屈化」の段階から「観察化」の段階へと進んだのであり、現実のものとなった〈屁〉という芸の道は全国にたくさんの屁放男を出現させた。人々の視線の先に〈屁〉があった。


posted by 楢須音成 at 18:48| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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