2012年02月04日

続続続・〈屁〉が文化となる一瞬の歴史の光芒

 四十年ほど前にユリ・ゲラーという人物があらわれて超能力ブームを引き起こした。スプーン曲げなどの真贋をめぐって世間は大騒ぎしたものである。テレビがブームを引っぱった。

 花のお江戸に突如あらわれたのは屁放男(へひりおとこ)。安永三年(1774年)のことだった。人気を博した〈屁〉の名人はフランスにもあらわれたが、こちらは江戸の名人から100年以上たっての登場だから、江戸の先進性は注目してよかろう。とにかく二人は江戸とパリに〈屁〉で社会現象を引き起こしたのだった。

 そもそも〈屁〉が受け入れられて大衆化したビジネスとして成功するには、江戸とかパリとか、都市と文化の成熟(まあ一種デカダンな享楽への憧憬に対する許容・享受)が必要なのだろう。何しろ万国共通の作法破りのアンチな〈屁〉なのだからね。

 国文学者、興津要の『江戸娯楽史』(1983年、作品社刊)には江戸の見世物の一つとして「屁ひり」が取り上げられている。
 はなし好きなお姫さま腰元中へ、「なんと、ちと、めづらしいはなしはないか」とおつしやるに、おそばの腰元衆、「このごろ、両国へ花咲き男と申して、屁にて、いろいろの曲をひります」と、申し上げれば、お局、そばから、「おつと、へのはなしまではよけれども、この字はならぬぞよ」(安永四年刊、『豊年俵百噺』)

 へのはなしならばよかろうが、〈へのこ(睾丸、転じて陰茎)〉のはなしは、お姫さまには厳禁。
 武家屋敷にまでうわさがひろまった屁ひり男とは、両国広小路に、安永三年四月から登場した「昔語花咲男(むかしがたりはなさきおとこ)」と名乗る曲屁の名人のことだった。

 当時の川柳にも「両国へ屁を嗅ぎに行く五里四方」などとあって、屁放男の興行の評判ぶりを伝えているし、平賀源内は「放屁論」「放屁論後編」でこれを話材にしたわけである。興津の『江戸娯楽史』の引用を続ける。
 江戸笑話本流行の水先案内の役割を果たした名著『鹿の子餅』(明和9年正月刊)の著者でもあり、狂歌師でもあった木室卯雲(きむろぼううん、狂名白鯉館卯雲)も、「両国に放屁の妙なる見世物出で、大入りのよし聞き」と前置きして「音のたび、いよ玉やとやほめぬらん、へさきへ向ふ両国の人」という狂歌を詠んだが、これは、場所が両国だけに、川開きの花火のさいの「玉屋!!」という掛け声を配し、さらに、舟の舳先(へさき)と屁さきとをかけていた。

 この屁放男のインパクトは当時、かなりのものだったと考えられるのだ。文人で狂歌師の大田南畝の『半日閑話』にも記録があり、屁放男の出現によって「放屁論」や絵双紙が出版されたことを伝えている。
○放屁見世物 四月、此頃両国に放屁男を見世物にす。霧降花咲男(きりふりはなさきおとこ)といふ。大に評判あり。[割注]放屁論といふ書出る、平賀鳩渓作、絵草紙花咲男といふ絵草紙出る。

 屁放男は江戸のあと大阪にも出て興行していた。大阪の文人で本草学者の木村蒹葭堂(きむらけんかどう)は『蒹葭堂雑録』の中で記録した。
○安永三年東武より曲屁福平といへる者、浪花に上り道頓堀において、屁の曲撒(ひ)りを興行し、古今無双の大当なりし。尤(もっとも)屁の曲といへるは、昔より言伝へし階子(はしご)屁、長刀(なぎなた)屁などいへるものは更なり。三絃(さみせん)、小唄、浄瑠璃にあはせ、面白く屁を放わけたり。実に前代未聞の奇観なり。委(くわし)くは風来山人の放屁論に見へたり。─放屁論の引用略─是は浪華へ上る以前、江戸両国橋の辺にて興行せし評判なり。右にて其芸品の大概を推て知べし。尤大入大繁盛にて、諸々の芝居を撒(ひり)潰せしよし、同書に見へたり。─放屁論の引用略─

 源内はこの放屁男の芸を実見して『放屁論』の中でルポルタージュしたのである。この実見し(そして記録し)たというところが凄いところなのだ。後にも先にも源内の『放屁論』は〈屁〉の芸人の日本で最初の実見記である=参照。これは鳥羽絵の『放屁合戦絵巻』が日本で最初の放屁絵であるのと同様に画期的なのだね。片や文筆、片や絵筆によるのだが、何はともあれ我々の〈屁〉が明確に表現の対象としてとらえられた段階を踏んでいる。目には見えない〈屁〉なのに、絵筆が五百年〜六百年先んじているのが面白い。

 かつてユリ・ゲラーがスプーン曲げをしたとき、自分もできるという人が続出した。音成もそれを目の当たりに見て仰天したものだ。同様に江戸の両国に屁放男が登場してほかの見世物を凌駕して人気を博するや、日本全国あちこちに(芸をする)屁放男が出現したのである、多分。

 何しろ放屁が人目を引く特技(芸)であるという社会的観念が生まれ共有されたのである。これは一つの芸が市民権(人気)を得たことを示すわけで、上流階級から下々までを巻き込んで現象した。「このごろ、両国へ花咲き男と申して、屁にて、いろいろの曲をひります」とかなんとか、武家の娘の話題に出るのである。芸事としての浸透ぶりは次のような当時の尾張藩の記録にもあらわれている。
△屁の名人   奥御坊主 山田寿悦
此山田氏は、生質屁をひる事に妙を得て、或時源明様の御前に於て御好みあり。このとき屁を太鼓とし、口笛に合て神楽などの囃子をなし、屁をひりければ、君大いに御笑悦遊れしとぞ。
屁の銘に曰 絹糸 碇綱 蛙の筒入 九つ桟子 鶯
 此外にも種々ありとぞ。
(『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)・巻第八拾三』)

 源明というのは徳川宗睦(尾張徳川家九代藩主)のことで、1761年に29歳で藩主になって1799年に亡くなっている。ということは、だいたい40代の時期に両国に屁放男が登場しているわけで、この山田寿悦という人もこれを契機に特技を認められたのではないかと考えられるのである。城内にまで〈屁〉の芸は伝播して鑑賞されたのだ。

 もっとも、殿様の前で〈屁〉の芸をして御褒美をもらうという民話のパターンがその昔からある。そもそも殿様は〈屁〉が好きなのかねえ。全国に〈屁〉が妙音を奏でる屁放爺の民話が散らばっているのだが、殿様に所望され見事な〈屁〉をこいて金持になるというハッピーエンド。しかし、これは民衆の致富願望が昇華した話である。

 まあ、古代から山田寿悦のような特技の爺がいたのだろうけど、民話の表現は事実の記録性よりも創作の意図性にウエイトがかかるし、江戸の屁放男のように〈屁〉のビジネスショーが成立する社会背景を背負っていたわけでもない。要するに山田寿悦は、昔からの民話が生まれる背景とは無縁のところから(花のお江戸の屁放男に誘発された社会現象として)登場している。それは超能力をビジネスにしたユリ・ゲラーに続いてたくさんの超能力者が出現したのと同じだ。(民話の屁放爺については別に考察する予定)

 ここで再び整理しておこう。江戸の〈屁〉の文化現象の流れを前回、次のように図式化してみたのだった。

 薫響集=理屈化(情緒的and理屈的)
        ↓
 放屁論=観察化(理屈的and現実的)
        ↓
 芋太郎=物語化(現実的and空想的)

 この〈屁〉の散文表現のカオスの流れは、音成に言わせれば、実に発展的に人間の心的運動を展開していると見えるのである。そして、江戸の屁放男は『薫響集』と『放屁論』の間に強烈な触媒のようなインパクトとして登場しているんだよね。


posted by 楢須音成 at 01:25| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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