2012年01月12日

続続・〈屁〉が文化となる一瞬の歴史の光芒

 放屁は個人的な生理の身体現象の一つであるが、それが社会(文化)現象になる段階とはどういうものであろうか。少なくともそこでは〈屁〉が他人どもを巻き込んで人口に膾炙(評判になる)しなければならない。たとえ口にしなくても暗黙の(正負の)評判というものが共有されないと社会現象にはなれないね。

 我々の〈屁〉が言葉で表現が結ばれるようになって久しいが、これは〈屁〉といえども個人の単なる異音異臭にとどまらず、社会現象化への道筋をたどっていったわけなのだ。やがて〈屁〉は江戸時代になって狂歌・川柳や黄表紙などの戯作へと大きく進出した。

 そもそも言葉の世界で〈屁〉は冷遇(無視)され、生理現象として最も蔑まれ、美意識においても花鳥風月とは最も遠い存在だった。それでも、それまで下々の民話や説話の世界では〈屁〉は滑稽味の要素として珍重されてはいたのだが、我々が〈屁〉をこいて笑ったり、恥ずかしがったり、興ざめしたり、怒ったり──といった、なぜだかわからないが〈屁〉が醸してくるストレートな感情がそこにはあったのである。

 江戸の〈屁〉はそういう感情をベースに(近代化の萌芽になる)人間観察と観念(思弁)化によって再構成されたものだった。

 黄表紙の創始者にして代表的な作家と目される恋川春町の『芋太郎屁日記咄』(1779年)は〈屁〉を題材にした作品。代表作ではないにしても注目作くらいにはなるだろう(か?)。国文学者の森銑三の感想混じりの要約を引用してみる。
 箕輪金杉の町はづれに住む芋売十兵衛と、その女房おゑごとが、或日うたゝ寝して、その昔の枯木に花咲き男から一子を授けられると夢見て懐妊する。おゑご栗の子芋のやうな男子を生み落す。「然るに不思議や、此子盥(たらい)の中ににて尻をもつ立て、一とひりぶつと屁をひりしに、その臭きこと限なし、金輪際までにほひける。その時此子盥の内にて、天に指さして、屁上屁我唯可屁糞尊と高らかに唱へる」その文句は、お寺の和尚に読んで貰ったら、「屁は上屁、わがたゞ屁糞尊かるべし」といふのであった。
 その子、生れ落ちてより五穀を食せず、たゞ里芋ばかりを食べて成人する。それで名も芋太郎と付けられる。長じて芋太郎は屁国修行に出づる。そこでお定りの道行の文句となるが、その文句が実にいい。
「まづ行き先を斬らんと、へたちの国の鹿島に詣で、行先屁臭い屁ん命と、丹誠芋に銘じて祈り、それより赴く国々は、芋ふさ、上総、芋づけや、佐野への小橋打渡り、屁ち前、屁ち後、甲斐、屁なの、屁なのなる浅間が嶽に立つ屁むり、屁むりくらべる富士の山、田子の浦屁を打過ぎて、岡屁、藤屁だ、だんだんと、長き梯子屁ひり上り、くさ津の宿に着きにける」
 そこで伯母を訪ふことがあつて、その地に逗留の間に、人々の持ち運ぶ芋の山を、おつ肌脱ぎて平らげた上、なほ曲屁をして見せる。
「東西々々、扨てこの芋食ひしまひまして、屁をひりまするところが、第一番に三番叟屁、その次に至りまして淀の川瀬の水車屁、獅子のほら入りほら返へし屁、猿猴(えんこう)の梢屁、ひだるいところへ食つたらよかん屁、腹の張る時ひつたらよかん屁、よかん屁よかん屁、曲屁の始まり、東西々々」
 一言注意して置くが、この作中の芋は、前にも見えていたやうに里芋であつて、薩摩芋ではない。安永の江戸には、薩摩芋はまだまだ里芋の上越すものとは、なつてゐなかつたのである。
 芋太郎くさ津で、三万三千三百三升の芋を食つて、一ひりすると、その勢の物凄さに、里人三人が屁くさい国まで吹飛ばされる。屁くさい国は百済国(ひゃくさいこく)のもぢりである。
 その屁くさい国での出来事は省略して、その国のあるじ王仁は芋太郎のことを聞いて、はるばる日本に渡来して、持参の品々を宮中に献じ、そこへ召されて至つた芋太郎が陽春白雪屁という曲をひると、その屁の暖かみで、帝の御秘蔵の浪華の梅が開く。王仁とりあへず、

 なには屁にさくやこの花冬ごもり
             今を春屁とかぐやこの鼻


 芋太郎は功に依つて北面の侍になされる。「されば今の世までも、うら屁、いん屁、ものの屁とて、子孫に苗字を残しける」
 かくしてまた芋太郎は、みことのりを奉じて、曲らぬ筆にて趣向をこぢつけ、上下二冊の草子として、世間に広める。この草子は皆屁のことばかりなので、これを屁草子と呼び、また臭草子とも呼んだが、あまりにその名がむさいというので、後にはいひ換えて、絵双紙、草双紙と呼ぶやうになつた。
 品のよくない題材を扱つて、他の作者だつたらどうにもならぬところであらうが、そこを春町が春町らしいものに仕上げてゐるのを及びがたしとする。これはこれで罪のない好作品を成してゐるのを珍重したい。
(「春町作黄表紙の鑑賞」から)

 芋太郎の物語は〈屁〉を滑稽味で捉えているだけではない。いにしえのうんちくを傾け言葉を重ねて遊びつつ、飾り立てた〈屁〉のストーリーへと駆り立てていく新興のエネルギーが充満している。幼稚な草双紙から一歩踏み出した黄表紙としての作品性を獲得しているのである。それも〈屁〉において仕上げているわけだから当時、結構受けた(社会現象化した)のではないだろうかねェ。

 前回紹介した『薫響集』(1757年)から平賀源内の『放屁論』(1774年)へと流れて『芋太郎屁日記咄』(1778年)へと至る江戸は、多分に〈屁〉が高揚し充満していたようなのであるよ。この段階の〈屁〉をめぐる視点は、ただの屁談義に対して時系列で次のように切り込み、再構成して展開させている。

 薫響集=理屈化(情緒的and理屈的)
 放屁論=観察化(理屈的and現実的)
 芋太郎=物語化(現実的and空想的)

 このカオスの流れの核心にあるのが、江戸の町に突如あらわれた曲屁をする屁放り男なのである。いやはや実際『放屁論』はその屁放り男の素晴らしいルポルタージュになっているのだ(参照)。その記録性の高さは特筆ものである。

 ところで『芋太郎屁日記咄』に出てくる王仁の歌は、古今和歌集の仮名序にある歌のもじり。渡来人の王仁が仁徳天皇に贈ったとされる元歌はこうである。

 難波津に咲くやこの花冬ごもり
            今は春べと咲くやこの花

 冬ごもりしていた花が春になって咲いたよ、という大意であるが、今年は日本が明るく花咲く年であってほしいと思う。


posted by 楢須音成 at 02:04| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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