2011年11月04日

最終・お尻と〈屁〉のコラボが侮辱になるのは何でだろ〜ヵ

 他者との関わりの中でも侮辱は人間に独特のものである。そこには人間につきまとう自己保存の心的運動(観念化)が独特な形で現れている。そして人が人を侮辱する行為の中に格別なものがあるとすれば、これはその一つになるのではないかねェ。

(1)お尻を向ける
(2)お尻を突き出す
(3)お尻を突き出し〈屁〉をこく

 この一連のポーズはただの動作ではないのだ。動作を続けることで次第にエスカレートする侮辱の表現になっている(場合がある)のであった。このポーズの意味するところは、こうだ。

(1)礼儀を無視しワザと尻を向ける侮辱
(2)狙って尻を近づける強く無礼な侮辱
(3)近づけた尻で放屁する超無礼な侮辱

 尻から出てくる糞のような汚穢は誰もが嫌うものであり、そんなものを相手に突きつけたり投げつけたりするのは、相手に対する侮辱になってしまう。同じ尻から出て嫌がられる点では、兄弟分の〈屁〉も同じということになる。そこで糞やら〈屁〉は普段は人前ですることは御法度だし、理由の如何を問わず決して表には出さないものなのであるね。

 しかし、糞やら〈屁〉を粗相すると恥ずかしいのである。なぜだろうか。まあそれは、誰もが嫌がる糞や〈屁〉の発生元(原因)になってしまうからだね。これは犯罪における犯人になるようなもので、倫理道徳にもとるという心的動揺を世間的には刺激される結果をもたらすことになる。

 このときの恥ずかしいという思いは心的運動を一定の方向へ動機づけることになる。恥ずかしさをまぎらす処理に我々は日頃から大変苦労しているね。大事な場面で〈屁〉をうっかりこいてしまおうものなら、これはもう千年に一度の不覚になりかねない。我々は恥ずかしさを逃れるために、心身ともに反応せざるを得ないのである。

 ここで糞と〈屁〉の違いを少し触れておきたい。糞と〈屁〉では恥ずかしさの構造が違うのであるが、ここでは次のことを指摘しておこう。

」=「糞」自体ではなく粗相が恥ずかしい
〉=〈屁〉自体も粗相も両方が恥ずかしい

 一般に糞は(屁より)臭いしバッチイし嫌悪の対象になるのであるが、だからといって糞自体は否定されていないのである。糞は人間の排泄物として(嫌々ながらも)有意味な存在として、処理され、観察され、活用される。このように人間の視野に入って意味を与えられ体系化される存在は、どんなに臭くてバッチクても存在自体は有意義なのである。だからこの場合、根源的な恥ずかしさの根拠は粗相という振る舞いにある。

 しかし〈屁〉は一般に存在自体がほとんど否定されている(何に役立っているのか、とんと無意味である)ので、まともに顧みられることがない。同じ臭さでありながら、糞のように有意味で臭いのと〈屁〉のように無意味で臭いのは天と地ほどの相違がある。根拠もなく不快を巻き散らす存在自体が恥ずかしいのだ。そんなものを身体に抱え込んでいることは生理上(万人共通だから)仕方ないにしても、そんな無意味なものを粗相しては恥ずかしさも倍加する。

 まあ、周囲の被害性というか鼻をつまむ度合い(嫌悪)は、固体で目にみえる糞の方が実害が大きいかもしれないね。何もしないといつまでも残っている糞と違って、やがて速やかに自然消滅していく〈屁〉の実害は小さいだろう。にもかかわらず、

意味のある「糞」=粗相すると(どこか体が悪いかと)人は心配をしてくれる
意味のない〈屁〉=粗相すると(我慢できないのかと)人のヒンシュクを買う

 という場面があるのは、存在の意味のあるなしによるからなのだね。かくして嫌悪は糞に軍配が上がるにしても〈屁〉は恥ずかしさで糞に絶対負けない。

 糞と〈屁〉の違いはともかく、他者の目を気にして恥ずかしいとき、我々の自己の意識は低位にある。これは他者が感じる不快を意識して忸怩たる思いになっている心的状態である。〈屁〉における恥ずかしさの根源は「他者の不快」の意識なのだ。このとき自己の意識は低位(眉をひそめた他者の視線を「感じる」状態)になっているのである。

 さて、侮辱行為としてのお尻の三拍子(1)向ける(2)突き出す(3)屁をこく――も、そこに侮辱の意図がなければ何とも恥ずかしい振る舞いになるものだ。ここで侮辱の四条件を確認しておくと、次の通りであった。
(1)不信・対立・断絶関係にある
(2)自己の意識が相手より高位である
(3)相手の社会的立場(評価)が低い
(4)自分の不完全性を意識または無意識している

 お尻の三拍子が侮辱行為になるとすれば、すでに見てきたように(弱者が強者を侮辱するときでも)この四条件は成立していなければならないのである。ということは、恥ずかしいという心的状態の「自己の意識の低位」と条件(2)の「自己の意識の高位」とが相反していることになるね。

 羞恥=自己の意識は低位にある
 侮辱=自己の意識は高位にある

 かくして、恥ずかしいお尻の三拍子を侮辱行為にするために、我々の自己の意識は低位から高位への転位をおこなっていることになるのである。

 では、何が原動力になって意識の転位が実現しているのだろうか。そもそも恥ずかしいというのは、粗相をしたことに発しているわけだが、この粗相とは身体的な制御不能に一時的に陥ってしまった状態なんだね。

 ちょっと話がそれるが、動物には自分の身体を制御する機能が備わっている。それは外界にも向けられるわけで、人間においてはそこに観念化の心的運動が起動してしまっているのである。例えば「制御」という機能は「支配」いう観念と置き換えられて語られたりするわけだ。

 我々の〈屁〉の羞恥はそういう観念化の心的運動の渦中にあり、そこでは〈屁〉を「制御できる/できない」という意識のシーソーゲームが繰り広げられている。とりわけ〈屁〉における制御は重要なのであって(なぜなら屁は自他に不快を与えるから)、こくのを我慢できるかできないかは人生の生き方・生き様・覚悟・克己などにかかわる(意識的にも無意識的にも)重大な関心事になるのである。

 この制御というものの喪失(粗相)が恥ずかしさの源泉になっているのだ。普通は我々は人前で〈屁〉をしないのが礼儀であり、たとえこきたくても我慢する克己心を持っているものだ。このとき我々は(あまり意識しないが)自己の意識が高位にある。ところが制御からの逸脱(うっかり粗相)があると、克己心は裏切られるね。このとき我々は深い喪失感にとらわれるが、それは自己の意識が低位に沈み込む落下感なのだ。

 目には見えず異音異臭である〈屁〉は他者に不快を与える。はなはだ不快な上に〈屁〉には人生における建設的な意味は何もない。自分がそういう〈屁〉の発生元、つまり〈屁〉そのものと化した状態が粗相(放屁)の瞬間である。それは他者の不快を意識する(他者の目線を感じる)奈落に落ちていく瞬間であり、奈落の底からは地獄の羞恥が吹き上げてくる。

 とまあ、どこぞの恥知らずのオヤジがブイブイこき出す〈屁〉の軽さからすれば、ちょっと大袈裟な説明かもしれないが、羞恥の基本構造としてはそういうことになる。以前に引用した話だが、羞恥が引き起こす我々の行動は時に事件となるのだ。
 ある良家の娘さんが結婚しました。晴れの結婚式で、花嫁になったその人が、放屁したのです。
 『出ものはれもの所きらわず』の諺もありますが、緊張したせいもあったでしょう。だいいち場所がわるかった。仲人などが、おやっと思う間もなく。花嫁の姿は席に見えない。花嫁姿のまま抜け出して、一目散に走りつづけ、木曽川に飛びこんだのです。
 岐阜というところは、織田信長に縁の深い町ですが、早くから城下町ではなくなり、町人の町になりました。四角ばったところもなく、自由の気があふれ、人情もよく、暮らしやすい。そんな町に起きた事件なのです。
 とにかく、花嫁さんはもとより、関係者にとっては、あきらめきれぬ、意外な出来ごとだったのです。
 昭和十五年の春でした。
(山名正太郎『屁珍臭匂臭(まるへちんぷんかんぷん)』1986年、泰流社刊)

 かくして、制御を失った〈屁〉の悲惨の中に、侮辱に転位する〈屁〉のヒントがある。すなわち制御があるうちは、花嫁だって美しく毅然と花嫁を演じることができたのである。自己の意識は高位に保たれたのである。戦争で制空権があれば攻撃の意識が高揚するのと同じだろう。これが制空権を失うと戦局は一変してしまうのだ。では〈屁〉を制御できて自己の意識が高位にあれば恥ずかしさはなくなるのか。

 結論からいえば、なくなる。なかには〈屁〉を制御できないのに自己の意識が高位にある(恥ずかしいとは思わない)人もいないわけではないけどね。しかし何はともあれ、制御できるのであれば〈屁〉に関して自己の意識の高位は保つことができる(はずだ)。

 要するに、制御していれば〈屁〉は出ない(こかない)のであるね。まあ、これなら自己の意識が高位に保てるのは当たり前といえば当たり前。腹に〈屁〉を溜めているなど誰も知らないわけだし、誰に迷惑をかけるわけでもないさ。

 ここで侮辱の四条件戻ろう。恥ずかしい〈屁〉では「自己の意識が相手より高位」という条件が合わなくなるのだったが、無様に〈屁〉をこいてなおかつ「自己の意識が相手より高位」であるためには、制空権ならぬ〈屁〉の制御権をしっかり保持していなくてはならないということなのである。

 そもそも侮辱というものが明確な(挑発的な)意思表明だね。その意思を〈屁〉の制御と一体化させることによって、あえて不浄の〈屁〉を相手に投げつけるのである。普段は恥ずかしい行為も、制御を手にしている(完璧にワザとやっている)という確信によって(このとき自己の意識は高位なので)侮辱の覚悟を示すことになる。普段は、意図しては絶対やらないこと(放屁)をあえてやるのだから、それは強烈な意思表明だ。

 お尻の三拍子はより強い意思表明へとエスカレートしていく過程である。侮辱の意思を相手に示している。それは別段、恥ずかしさを押し殺してやっているわけではない。主観的には何の羞恥もなく相手に向ける明確な侮辱行為なのだ。

 そして「喰らえ!」とばかり投げつけるものが〈屁〉であるということは、それがその辺にころがっている石ころであること以上の意味もある。何しろ相手がそれ自体を生理的に嫌がる異音異臭の〈屁〉なのである。

 しかし万が一、ここで〈屁〉の侮辱の最中に一点でも羞恥が紛れ込んでくると大変なことになる。お尻を突き出した自分にハタと気がついて「お、俺は何をやってるんだ!」という自意識が増殖し、相手に向けている侮辱の動機を圧倒してしまい、死ぬほどの羞恥にまみれるかもしれない。だから我々にとって〈屁〉で侮辱を成し遂げることは、我を忘れるほどの強い動機を必要とする困難な行為でもあるのだ。

 神話の中の伝説になった伊企儺(いきな)や星神香香背男(ほしのかみかがせお)の行為は勇猛で超人的なものだったに違いない。だからこそ下劣な〈屁〉によって侮辱が強烈に示される。こういう侮辱行為において〈屁〉の恥ずかしさから無縁になっているのは、次の三つを内外に強く示しているからだ。

(1)反撃の明確な動機
(2)貶める強力な意思
(3)誇れる完璧な制御

 このとき自己の意識は高みにあって下界を見下ろしているわけだが、そこには時々難点が生じてくる。動機・意思・制御に導かれるのは侮辱ばかりではないのである。お尻の三拍子がただの「お笑い」なのか痛烈な「侮辱」なのか、とんと区別がつきにくい状況もあるのである。それにまた、その場の侮辱に反応する当事者でもない限り、情景は滑稽化して物笑いの種になってしまう危険がある――。
 
 いやはや残念ながら、それが巷によくある〈屁〉の罪つくりなところであ〜る。


ラベル: 侮辱
posted by 楢須音成 at 22:40| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月17日

補遺・お尻と〈屁〉のコラボが侮辱になるのは何でだろ〜ヵ

 いくら自分が相手を侮辱しようと思っても、相手がそれを感じてくれないことには、まったく意味がないだろう。相手のことなどお構いなしに、こちらに侮辱の意図があるだけで成立するものではない。何事につけ自分だけがご満悦している一方通行というのはよくあるのだが、侮辱に関しては、相手が保持している自己評価(立場)を毀損する示威に無理やり直面させてこそ意味があり、相手に被害性の心的動揺を発生させないと侮辱にはならないのである。

 このような一方通行がある場合には、相手が侮辱にいたく鈍感であるようなこともあるだろうが、侮辱する者が行為に及ぶ条件を独りよがりに主観的に構築していて相手に通じていないこともあるだろう。前回までに見てきたように、侮辱行為とは次の条件があって発生すると考えてきたね。

(1)不信・対立・断絶関係にある
(2)自己の意識が相手より高位である
(3)相手の社会的立場(評価)が低い
(4)自分の不完全性を意識または無意識している

 一般に侮辱するときは、相手の弱点(評価)をさらに貶める言葉や行動によって、相手の全体評価の毀損をめざしている。特に相手の羞恥心をかき立てる(恥をかかせる)ことにおいて顕著な行為である。それは相手次第で行為の意味合いが変わり、よくあるのは相手が強者なら当てつけ、対等なら意趣返し、弱者なら威圧といったいろいろな形をとるわけだ。

 そこでは自己の評価を貶めてはならないことが原則であり、陰に陽に常に自己の評価(立場)を高めたり誇示することが望ましい。つまりは相手を(バカにしたりコケにして)できるだけ否定することが必須なのである。

 こう見てくると、相手に尻を向け、突き出し、さらに〈屁〉をこくという侮辱行為は奇抜であり、どう転んでも恥ずかしくもあり可笑しくもある危うい行為だね。平時においては、そもそも人前で〈屁〉をこくなど自分の評価を下げ価値を貶めるだけなのだ。しかし、それが相手への侮辱になるという場合には(やっていることは変わらないのに)相互に心的な転位現象が起こっているわけで、当事者間の葛藤は並々ならぬものがあるといわねばならない。

 さて、恥ずべき行為を侮辱へと転位させる核心にあるものとして前回、侮辱する者の「自己の意識」の高位を動機づける次の三点を指摘したのだった。

(1)反撃の明確な動機
(2)貶める強力な意思
(3)誇れる完璧な制御

 例えば、日本書紀にある神話の世界の星神香香背男(ほしのかみかがせお)の状況をもう一度確認してみることにしよう。

 土着の神、星神香香背男は高天原の天孫ニニギの命の進攻を受ける。徹底抗戦するが、如何せん戦況は不利である。多分、滅ばされる。このとき星神香香背男は天孫ニニギの命に向けて尻を突き出し〈屁〉を嗅がせるポーズで侮辱したのであった。

 この構図はすべてに勝るニニギの命に対する星神香香背男の反抗である。神格も武力も劣勢にある弱者という立場においては、何が何でも自分を奮い立たせないと徹底抗戦も侮辱行為も不可能だが、このときは絶対に「自己の意識」を相手より高位に保たねばならない。(これは、いわゆる「自己意識」ではなく、他者に向けて自己を対峙させるときに必ず位置設定する意識の高低である。俗にいう「目上―対等―目下」というような関係性も一つの高低差)

 我々は相手が強者(つまり、自分が弱者)であっても、侮辱で相手を見下す(自己の意識の高位を保つ)ことができる。そのために必要な条件が(1)動機(2)意思(3)制御――の確保なのであるが、恥ずかしい振る舞いが侮辱的威圧になるためにはこれらは必須であり、なかでも重要な条件が(3)である。

 我々が〈屁〉をこいて相手を侮辱しようとして、恥ずかしがっては(自己の意識を低下させては)話にならないわけだが、自己の意識を高位に保つ条件となる「動機」「意思」「制御」のなかでも、羞恥に深く関与してくるのは「制御」なのである。

 もちろん、お尻を突き出して〈屁〉をこく侮辱行為の「制御」とは、お尻の制御つまり〈屁〉を(こいたりこかなかったり)コントロールできる確固たる自信をいうわけである。

 例えば勝負事は、やってみないと勝つか負けるかわからない(ので勝負する)のだが、強い奴は確かに強い。そういう強い奴ほど確固たる自信に満ちている。逆にいえば(露わになっていようが秘めていようが)自信に満ちていなければ弱いのである。この「強い」というのは勝負師の「強力な制御」のことであり、たとえ分野は限られても対象を支配下に治め、その分野をコントロールできる、身に備わった能力(制御力)である。勝つか負けるかは結果だが、強い弱いの真贋はこの制御力を保持する加減にあるのだ。

 これが羞恥心に関与してくるのは、負ければ恥ずかしく感じることからもわかるだろう。その恥ずかしさは自分が強ければ強いほど(つまり、制御力が強いほど)激しく感じるはずだ。相撲の横綱が格下の相手に負けるのは恥ずかしい。

 しかしその横綱も、体力や気力が衰えて制御力がなくなると、恥ずかしさを感じなくなる。弱くなって引退する横綱は(むしろ穏やかで)恥ずかしがっているようには見えないだろう。制御力がなくなると負けても当たり前なのであるから、勝たねばならぬと思い詰めたときほど恥ずかしさを感じなくなるのだ。しかしまあ、周囲や自分が体力や気力の衰え(制御力の喪失)を認めるまでは悩んだりもするのだろうけどね。

 ひるがえって〈屁〉はどうか。老人が〈屁〉をブリブリこいているのはよく見かけるよねえ。これは好んでワザとやっているのではなく、むしろ老化によって抑止する機能が身体的に衰えているのである。そして老人は、身体の衰えに見合って〈屁〉の羞恥心も薄れているのだ。若者の場合は〈屁〉をブリブリこくことは(老人より)恥ずかしい。若者は〈屁〉を我慢する制御力が体力・気力ともに旺盛だから、意識的にも無意識的にも〈屁〉などこかないのが当然なのである。

 制御力があるとなぜ恥ずかしさが募るのか。制御力があると〈屁〉は(こきたくても)隠蔽できるわけだが、そもそも普段から〈屁〉は表に出すべきものではない存在だね。健康な若者は誰だって普通のこととして〈屁〉を我慢しているはずである。高い制御力を保持して自在に〈屁〉を我慢している(やたら人前でこかない)のが当然の、若者らしい態度だ。このように高い制御力を保持しているにもかかわらず〈屁〉を取り外してしまう粗相は不用意の極みで実に恥ずかしい。特に美男美女の若者が最も恐れることである。

 誰だって美男美女は自他ともに完璧(高い制御力)が求められているから普段から〈屁〉などこかぬような顔をしているわけで、実際〈屁〉を人前でこかぬだろう。しかし、万が一〈屁〉を粗相しようものなら、美男美女は香ばしきあるまじき物体の発生元として羞恥の坩堝に突き落とされる。

 このことからわかるのは、高い制御力を持つということは反面、マナー、道徳、仁義、常識、美意識、宗教などなど――人生や世間のいろいろな意味(観念)が絡まってきて、それを「要求されている」ということでもあるんだね。制御力とは単なる身体的の機能ではなく、それによって観念的な目標を(世間から)要求されていることでもあるのだ。要求に応えられぬ逸脱は恥ずかしいわけである。(まあ、要求レベルの低い醜男醜女の〈屁〉になると自他ともにどうでもいいレベルであり、一向に関心が持たれなかったりする…)

 かくして人間の制御というものは羞恥に関与していることがわかるのだが、話をもとに戻そう。他人に侮辱行為をしようとするときには、自己の意識が高位でなければならなかったね。しかしこのとき、お尻を突き出していつもは恥ずかしく感じる〈屁〉をこくのである。では、何ゆえに制御力があれば〈屁〉は恥ずかしくないのか。

 ときに恥知らずなヘコキ男というような人が世間にはいるね。そういう人は〈屁〉をこくときどんな様子であろうか。観察すれば態度振る舞いに「私はこれから〈屁〉をこきますよ〜」というアピールがある。端的な動きとしては、お尻を突き出すとか、片尻を持ち上げてみたりするのである。あるいは「ドッコラ〜ショ」とか「一発いかが〜」とか、聞く方が恥ずかしくなるような狂態のかけ声をかけたりする。

 彼らはまさにこれから(自分の意思で)こくことを明示的にアピールしているのである。これはウッカリ粗相するのに比べたら恥ずかしくない。まさに制御力(ワザとやる)の誇示による無恥化なのだ。このとき〈屁〉は口笛がメロディーをコントロールするのと同じような扱いになっている。いやまあ、メロディーというわけではなく、ただ単に出すか出さぬかの制御なのであるが、もちろん〈屁〉で音曲を奏でられたら大いに自慢であろうさ。つまり、制御が精緻(完璧)になるほどに自慢であり恥ずかしくないのだ。

 しかし繰り返すのだが、制御が崩れたとき(粗相)の〈屁〉はたちまち反動的に恥ずかしい。完璧であればあるほど、崩れたときの羞恥は極点をめざすことになる。全勝の横綱が全敗の平幕にスッテンコロリンと不様に敗れるなどは、最悪の恥ずかしさの極みであろう。制御には(制御できない→失敗するかもしれない、という)表裏の関係の危機感が常に張り付いているのである。意識的にも無意識的にも、制御力の強い人ほど強い失敗の危機感(羞恥の奈落)が潜在しているのだ。
 
 ごく単純なレベルから、心身の制御というのは何かにつけ動物や人間を理解する原初的なキーワードなのである。それは些細なことでも、制御の失敗の危機感によって人間の羞恥にも関与してくる。制御できれば恥ずかしくはないが、制御できないと恥ずかしいという心的運動は表裏の関係で強くも弱くも機能している。

 ともあれ完璧な制御を手にしていれば何事も恥ずかしくはない(はず)。いわんや〈屁〉においてをや。粗相した〈屁〉は恥ずかしいが、ワザとこく〈屁〉は恥ずかしくないのである。

 さてさて、恥ずべき行為を侮辱へと転位させるためには恥ずかしがってはいられない。絶望的な状況の中で、新羅を侮辱した伊企儺(いきな)やニニギの命を侮辱した星神香香背男の行為は、まさに完璧な無恥化において遂行されねばならないのである。

 そもそも異臭異音の〈屁〉は不快で無作法であるがゆえに嫌われ忌避される。それはまるで不浄で性悪な疫病のようにおぞましがられ、耳を塞がれ鼻を背けられ隠蔽される。人間の行為の中でも〈屁〉は(意味ありげだが)まったく無益に意味のないものであって、清浄で潔癖な精神性からは遠い遠い存在なのだ。(といって〈屁〉が塩酸か硫酸のような劇物であるかというと、実際にはそれほどのことはないわけで、大半は少々の異臭異音であるに過ぎないのだが…)

 とにかくまあ、伊企儺や星神香香背男の追い詰められた状況下、そのとき所持している(意思的に制御できる)ものの中では〈屁〉が最も下劣なものであるには違いない。だから、そういうものを相手に投げつけることは侮辱以外の何物でもない。このとき平時においては単に無作法で恥ずかしい行為である〈屁〉が無恥化され、相手を脅かすものとなって位置づけられる。(相手もまたその状況下で最も下劣なものを向けられたと察知するのであるから、被害感をかき立てられる…)

 彼らは十分な反撃の動機のもと相手を貶める強靱な意思をもって〈屁〉を制御するパフォーマンスを演じる。自己の意識の高位を不動のものとする核心的裏付けになるのは制御力の保持である。まるで〈屁〉を完璧にコントロールしているかのように振る舞うのだ。このとき動機・意思・制御は渾然となって自己の意識の高位を保ち、自分の〈屁〉を相手に叩きつける意味(侮辱)を持つのである。

 そのときの自己の意識の高位とは、窮鼠が猫を噛むというのではなく窮地に陥った猫が反撃に一発放つて噛みつくような心的境位であろうか。しかし、現実の客観情勢は圧倒的に不利な弱者の立場にあり、反撃手段の選択幅は狭まって絶望的な手詰まり状態なのである。だがしかしその窮地ゆえに、相手を侮辱する手段として〈屁〉があやしい輝きを帯びてくるのだ。もうそれしかない(ように思う)のだからね。

 かくして、この段階で〈屁〉が完璧な制御下にあれば〈屁〉は相手に対する侮辱行為として羽ばたくことができるのだ。これこそ(自ら恥をかくような行為で)相手に恥をかかせる究極の侮辱である。平時にそんなことをするのは絶対にありえない勇者や聖人であるような人が、あえてそれを行えば最大の侮辱行為として相手を脅かすのである。

 ──以上、ここまで理論的に説得しても決してそんなことはしない勇者や聖人はいるだろう。まあ、相手が嫌がるものをさらけ出して侮辱的に振る舞う場面はいろいろあるが、この場合は何しろ〈屁〉なのであるし、深刻さという点ではチト迫力に欠けるかもしれない。この世に完璧さというものはなかなか得がたいのだから、確かに〈屁〉による侮辱は物笑いの種になる余地を残すだろうねえ。しかしだね、そこで生まれてくる笑いがあるなら、それは世間に未練を残している凡人の証であ〜る。
ラベル: 侮辱 制御
posted by 楢須音成 at 15:05| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月30日

〈屁〉が文化となる一瞬の歴史の光芒

 不倫は文化だと言った人がいたけれど、そんなことを言うのだったら、かつて〈屁〉だって文化になった時代があったのだよ。それはまあ、日本の〈屁〉の歴史の一瞬の光芒だったと思うのだが、それが18世紀半ばから19世紀にかけてのこと。それは〈屁〉が人々にもてはやされた希有な時代だった。

 江戸中期に諧謔的な文学が髏キした中で〈屁〉もまた一つの題材として注目されて、それは狂歌や川柳に脈々と流れていた。そもそも〈屁〉は口にするのもはばかられる事象であり、あえて言葉や文字で表現し(たく)ないものだが、これに言及する視点が確立しているのだ。

 屁をひつておかしくも無い一人者(柳多留三篇)

 いつそ屁をひると箕の輪へ返す也(柳多留十一篇)

 さらりと〈屁〉を話題にしているね。独身者が一人で〈屁〉をひっても何の動揺も感動もないのだし、臨時に雇った禿(かむろ=遊女に使われる童女)が〈屁〉ばっかりすれば閉口して箕輪(現在の台東区三ノ輪。遊女屋の寮などがあった)に返さざるを得ない。どちらも表現の底意は笑いにあるわけだが、その〈屁〉の笑いにのせて孤独や無邪気の振る舞いを描いてみせている。

 狂歌になると言葉遊びが過剰に出てくる。まあ、字数が多いぶん状況描写に肩入れするわけだから、少しばかり凝ってうんちくも傾ける。

 すかし屁の消易(きえやす)きこそあはれなれ
       みはなき物と思ひながらも(紀定麿)

 山ざとにしりごみしつゝ入しより
     うき世のことは屁とも思はず(四方赤良)

 おはしたの龍田がしりをもみぢばの
      うすくこく屁にさらす赤はぢ(蜀山人)

 紀定麿は「消えやすくかすかな透かし屁はおもむきがあるよなあ、実(み)はないんだけれど、身のおきどころもない」と、どうでもいいことに感動してみせ、ここでは〈屁〉の実体(?)である「実」と自分自身の「身」を重ねた複合縁語になっている。まるで〈屁〉を風流なもののように見立てて遊んでいる。

 四方赤良も蜀山人も同じ人(大田南畝)の別名だが、この人も随分〈屁〉にはこだわっている。「しり」と「屁」が縁語で「ためらいながら山里に入ったが、そもそも浮き世のことなんか何も気にしてはいないのだ」と(気にしていることを)あえて自省したり、秋をつかさどる祭神である龍田姫に縁づけて「龍田という名の女中が尻をもみもみして薄くも濃くもそっと屁をこく、秋も盛りのもみじ葉みたいな赤恥だなあ」と笑い飛ばす。「しりをもみ・もみじ葉」「うすくこく屁・薄く濃く屁」とか複合縁語を連想させ重層させて遊んでいる。

 こういう傾向は次第に散文に向かっていく。もちろん〈屁〉の話は古来から散見されるわけだが、大体において失敗(屁の粗相)談にみられるような素朴な滑稽味が主眼である。川柳や狂歌の表現性は滑稽味を前面に出しながらも、やがて〈屁〉を生活や人生や風流や言葉遊びの重要な切り札のように扱い始め、散文に向かった。

 この浮かれた世間で〈屁〉というものがどのように機能しているのか――そのような明確な意識化ではないにしても、うっすらと〈屁〉は観察の対象になっていく。この過程が散文化への方向を示していくんだね。次第に〈屁〉に対する言及が批評的になり、他方ではストーリーを夢想して物語っていくファンタジーへと方向をとっていったのである。

 江戸の〈屁〉の散文化には中国笑話をネタとして影響を受けた小咄もあるが、ここで注目するのは批評的な散文の登場である。そして、江戸後期にかけて想を練った本格的(?)な屁物語も登場してくる。これらの動きを年表風に並べてみる。◎は物語の類である。

 1753年  「放屁志」
 1757年  「薫響集」(井本蛙楽斎)
 1774年  「放屁論」(平賀源内)
 1777年  「放屁論後編」(平賀源内)
 1778年  「芋太郎屁日記」◎(恋川春町)
 1786年  「屁生物語」◎
 1798年  「臭気靡放屁倉栄」◎(錦森堂軒東)
 1796年  「諺下司話説」◎(山東京伝)
 1800年前後「屁法之巻」
      「河童の尻子玉」◎(十返舎一九)

 とまあ、こんな感じなのだが、もちろん有象無象の類書がたくさんあったのだろう。これだけ見ても同じ屁談義ネタの使い回しも多く、面白いとなればホイホイ広まるのが〈屁〉なんだね。現代的な著作権の意識はない。それまでの狂歌流の屁談義の集大成みたいな『薫響集(くんきょうしゅう)』では歌論の展開(かなり噴飯物である)がなされているが、ここに盛り込まれているネタは広く影響を与えている。

 そんな中で批評性が高く、他書にないオリジナリティにあふれて登場したのが、文才ある科学者だった平賀源内の『放屁論』である。当時流行の〈屁〉の記録(観察)がいきいきと埋め込まれているし、社会批評や自分語り(自己省察)といった近代性への萌芽までを含む。そして何が凄いって、そこでは現実に江戸の両国にあらわれた放屁男(へっぴりおとこ)が描かれたのだ。
posted by 楢須音成 at 14:48| 大阪 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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