2011年10月01日

香ばしき〈屁〉の「にほひ」

 ふと自分の〈屁〉の臭さに気がついた瞬間は恥ずかしいものであるが、そもそも臭気(悪いニオイ)というのは相対的なものではあるし、無臭というものを知らないで辺り一面が悪臭の環境にいる限りはしぶとい耐性ができるのであろうし、井の中の蛙と同様に、そのゾッとする臭味もごく普通と思ってしまう人もいるのである。

 こうなると蛙の面にナントヤラであって、無臭ないしは微臭が標準になっている人には強烈過ぎるくっさい〈屁〉が漂う中で、まったく平気の平左で息を吐くがごとくに普通に重ねて〈屁〉をこくわけで、その鈍感ぶりにまわりはあきれるばかりである。

 しかしまあ、それはそれとして、まだ未開の国ヘッポンに黒芋船が来航したとき、あまりの臭さに民衆は最初は驚き辟易したものだったが、船は悪びれるところもなくブオーブオーと勇ましく黒い屁気を吐き出すものだから、これぞ天地開闢の香ばしき「にほひ」と思って受け入れたものである。

 受け入れるということは一種の耐性の発生であり、最初は毒でもそのうち無毒化していき黒芋を賞味して我が物(つまり、自在な放屁)としつつ、屁国強屁(屁の国は強く屁をこく)をめざして黒芋の大規模農園経営に乗り出していったのだが、黒芋に飽食するとその星では次第に〈屁〉は飽きられ、ついに忌み嫌われるようになり、やがて実はもともと〈屁〉は下品下劣なもの(否定すべきもの)だったのだという者もあらわれたのである。

 ヘッポン国の哲学者ヘガクッサによれば〈屁〉が臭いのは多分に精神的なものであるといい、臭いと思えば臭いが臭くないと思えば臭くないのであり、そこが貴殿の〈屁〉がひどく臭くても俺の〈屁〉は絶対に臭くない真理だと強く主張して放屁自殺してしまったのだが、多分にこれは黒芋の過食による考え過ぎが原因といわれているのである。

 惜しむべき哲学者ヘガクッサの崇高なる自殺は自らの浄化(無臭性)を願う切なる煩悶からきているわけだが、何しろ日頃ぶくぶく飽食してにおうので、どう薄めても飢餓の国から見れば幸福過ぎる飽食国民であるのは歴然としており、これがため(自省的・自虐的に)悶絶のやむなきに至ったものと考えられていて、その煩悶の一つが〈屁〉武装中立の国家体制への憎悪である。

 深く思弁を好む哲学者ヘガクッサは「にほひ」立つ〈屁〉武装中立などは絶対に認められなかったのであって、そういう屁和(へーわ)国家などありえないのであり、かくして〈屁〉の無臭性にこだわるあまりに精神は追い立てられていったが、その真っ直ぐな愚直さと類似の正義派はいたわけで、例えば隣国の新興〈屁〉武装行進国ハンリュの黒芋カオーのコマーシャルばかりを流して黒芋三昧だったオダイベテレビは、黒芋を憎むデモ隊に本社を十重二十重と囲まれて往生していたのである。

 こうした民衆の行動を〈屁〉の「にほひ」をめぐる混迷戦であると納得したのは哲学者ヘガクッサの息子で黒芋商人のヘガモットクッサである。

 黒芋商人ヘガモットクッサは、飽食して悪臭の〈屁〉をこきつつも〈屁〉を憎んだ父親の矛盾を強く強く感じて育ったこともあり、いつしかアンチな〈屁〉に引き寄せられてむしろ〈屁〉が大好きになってしまい、父親は軟弱にも「にほひ」を過大に妄想して自他に及ぼすその悪臭(妄想)に苦しんだのだと批判的に考えるに至ったのである。

 父親はしかし、単に苦しんだのではなく、無臭という倫理(観念)の高み(理想)にのぼることによって現実構成力(正義)を獲得しようとしたのであり、放屁自殺は純粋倫理の実現であったのであり、それはそれで自らの消滅と引き換えの美しい至誠の心ばえだった──と息子にして黒芋商人ヘガモットクッサはむしろ父親を尊敬したのである。

 ただし、オダイベテレビを取り囲んだ正義派(A派)は「にほひ」は忌避しても本当は黒芋(ハンリュ産ではなく国産)が大好きなのであり、激しくおのれの〈屁〉をにおわせているにもかかわらず国産の「にほひ」を極小に妄想することで至誠(無臭)を夢見ていたのであるから、決して放屁自殺などしない楽天な人々である。

 そもそも隣国ハンリュの廉価な黒芋カオーは食用のみならず〈屁力〉発電の有力な燃料になっており、〈屁力〉に依存するヘッポン国はその黒芋を大量に輸入してまかなっていたわけだが、一方で黒芋カオーがもたらす〈屁〉は正義派(A派)から「安かろう不味かろう臭かろう」の三拍子と評価されており、オダイベテレビが朝から晩までコマーシャルを流し続けたものだから、国民の脳が洗われ三拍子が日常化される危機とされたのである。

 だからといって、どっぷりと黒芋カオーのうま味に染まったオダイベテレビが視聴者洗脳を気にするわけもなく、「はいはい嫌なら食うな」「ブウブウうるさいだけ」「あれは精神的にアレだな」「仮想敵国を作ってうれしいか」「まるでミステリーな連中だな」「超右翼のレイシスト」とか、まったく取り合うこともなかったので正義派(A派)は切屁扼糞(せっぴやくふん=悔しくて切なくて屁をこき糞をにぎにぎ)したのである。

 このオダイベテレビの屋上にあるのが〈屁力〉による自家発電所で、独特の球形の発電体が黒芋カオーを燃料にして電力を生んでいて、それをもとに強力な電波を発していたのであるが、うかつにも正義派(A派)に取り囲まれたその騒ぎの最中に〈屁〉の猛臭の漏出事故を起こしてしまったのである。

 これはオダイベテレビによる意図的な漏出だともいわれているが、あまりの猛臭に驚き慌てた正義派(A派)は散り散りに飛散し、なかには鼻粘膜をただれさせ血を流し入院までする者も続出し、この惨劇に憤激して危機感を募らせた〈屁力〉発電反対の正義派(B派)が続々と全国から集結し「そ〜ら、そらそら、いわんこっちゃない、かねてより危険を警告していたはずだ」と示威の防臭マスクを付け、何はともあれオダイベテレビへの抗議行動に打って出たのである。

 黒芋商人ヘガモットクッサの観察によれば、こちらの正義派(B派)はあらゆる黒芋を全否定することにおいて父親の哲学者ヘガクッサと極めて似ているが、A派と同様おのれの無臭性の欠如(臭気)に対する自覚に乏しいまま黒芋を摂取する一方で「あらゆる黒芋を全否定している」ことに至誠を感じており、すべて悪いのは(自分ではなく)黒芋なのだから、決して放屁自殺することなど(黒芋を全否定しているがゆえに)あり得ない楽天な人々である。

 黒芋商人ヘガモットクッサは黒芋の市場原理に忠実な現実主義者であり、全国民の黒芋需給と価格のバランスにそって絶妙の商売繁盛の渦中にあったが、現実主義者としてこうした人々の動向に父親の自壊した姿を重ねつつ、だいたい三つの商品を使い分けて黒芋を売りまくってきたのである。

A派向け=国産の黒芋(歴史正統性)
B派向け=国籍不明にした黒芋(世界理念性)
オダイベテレビ向け=ハンリュ黒芋カオー(経済貪欲性)

 まあどれにしても当面、黒芋がないと人々は立ち行かない(黒芋が主食である)のであるから、そこに黒芋商人ヘガモットクッサは深く深く付け入って販売戦略を盤石にしているのである。

A派への戦略=「にほひ」を純潔化して〈屁〉の万世固有を称揚するアジテーション
B派への戦略=「にほひ」を理念化して〈屁〉を普遍性へと昇華するアジテーション
オダイベテレビへの戦略=黒芋カオー売り込みと引き替えにする〈屁〉のスポンサー

 踏んだり蹴ったりのオダイベテレビだが、何しろ利にさとい商業マスコミであるから当面この道はどこまでも続くと、大量の黒芋カオーをバラまきながら同伴文化人や芸能人を動員して狂乱のオダイベ祭りを開催中である。

 もちろん黒芋にまつわる楽天な人々を取り込んでいる黒芋商人はほかにもいて競争も激しいので、ヘガモットクッサは「にほひ」に手を加えるため研究を重ね、これまでの黒芋モダン焼から一歩抜け出た新商品の開発に取り組んでいるのである。

 ──名前だけは決まっていてその名は、ポストモダン焼。キャッチは、芋を喰らわば皮まで。


posted by 楢須音成 at 02:32| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月05日

お尻と〈屁〉のコラボが侮辱になるのは何でだろ〜ヵ

 表情とかポーズとかの身体表現で人を侮辱することがあるね。子どもがおどけて友だちをからかったり馬鹿にしたりしているのを見ると、それが懸命の全身表現であるのに気がつく。そのしつこさは、まあよくやるよとあきれてしまうくらいのものである。

 これが〈屁〉に関連する侮辱の身体表現といえば、相手にお尻を突き出して一発ブウと放つことだろうねえ。その見るにたえぬポーズたるや、まことに無礼千万である。そんなこと女性は(多分)決してしないだろうし、相手を侮辱するとはいえ実に恥ずかしい身体表現でもあるのだね。江戸の川柳にこういうのがある。

 尻を出す伊企儺(いきな)新羅を屁ともせず
             (尻と屁の結び)

 伊企儺は『日本書紀』に出てくる人物。欽明天皇のときの新羅征討の将軍で、難波の紀男麻呂の副将として新羅を攻めたが、敗れて捕らわれ殺された。こういう背景の事情がわからないと、尻を出すとは何のことやらわからないが、『日本書紀』では次のように描かれている。6世紀くらいの話である。
 同じときに捕虜にされた調吉士伊企儺(つきのきしいきな)は、人となりが猛烈で最後まで降伏しなかった。新羅の闘将は、刀を抜いて斬ろうとした。無理に褌(はかま)をぬがせて、尻を丸出しにし、日本の方へ向けさせて大声で、「日本の大将、わが尻を喰え」と言わせようとした。すると叫んで言った。「新羅の王、わが尻を喰え」と。責めさいなまれても前の如く叫んだ。そして殺された。その子の舅子(おじこ)も、また父の屍を抱いて死んだ。伊企儺の言葉を奪えぬことこのようであった。諸将もこれを惜しんだ。その妻の大葉子(おおばこ)も、また捕虜にされていたが、悲しみ歌って、

 カラクニノ キノヘニタチテ オオバコハ ヒレフラスモ ヤマトヘムキテ
 韓国の城の上に立って大葉子は、領巾(ひれ=肩にかけた飾りの白布。これを振るのは惜別の行為)をお振りになる。日本の方へ向って。

 ある人がこれに和して歌った。

 カラクニノ キノヘニタタシ オオバコハ ヒレフラスミユ ナニハヘムキテ
(全現代語訳『日本書紀』講談社学術文庫)

 伊企儺が捕虜になりハカマをぬがされ、日本に向かって尻を突き出して「わが尻を喰らえ」と言わされようとしたが、抵抗して「新羅の王。わが尻を喰らえ」と叫んで殺されたという故事である。

 敵にハカマをぬがされるという仕打ちは、自由を奪われ臀部露出を強制される屈辱だが、これに加えて尻を突き出し「わが尻を喰え」と言わされる侮辱行為も強要されているわけだ。しかし、新羅軍はこうやって捕虜を使って日本への侮辱を表現しようとして、逆に侮辱されてしまった。伊企儺は屈することなく尻と言葉の矛先を新羅に向けたからである。このため伊企儺は(子と妻も)殺された。

 こういう背景で川柳はできあがっているんだね。ここに〈屁〉が出てくる。まあ、伊企儺が〈屁〉をこいたという確証があるのではなく、新羅なんぞ〈屁〉とも思わなかったという表現で〈屁〉が出てきているのだが、ここで〈屁〉をこいても効果的な侮辱なのだね。

 さて、その場の状況にもよるが、相手に対して(意識的に・意図して)尻を向けることが失礼な行為であることは古代から意識されていたようである。まして尻を突き出すとかすれば、それは行為の悪意ある誇張と見なされる。

 これは単に背を向けるのとは違うね。背を向けるだけでは拒絶という意味合いだけで(失礼かもしれないが)あまり侮辱ということにはならないだろうが、意識して尻を突き出しているのなら侮辱になってしまう。いやまあ、向けているのが背中なのかお尻なのかわからない曖昧な後ろ向きの人はいるけどね。

 ともあれ、キッパリ尻を向けるのは大体において失礼ないしは侮辱ににじり寄る行為の始まりであろうし、尻を突き出すのは行為の誇張であるから意図を相手に示して侮辱に突入しており、そんな姿勢で〈屁〉の一発をこいたらもうハッキリ侮辱なのである。

 もっとも、音成がこういう行為を妻に向かってやったとしてもそれは侮辱ではないぞ。別に愛情とはいわないが、冗談ぐらいには妻は思ってくれるに違いない(はずだ)。侮辱が成立するには相手との信頼関係の欠如や対立関係が必要なのであるから。

 ここでもう一つ民話の事例を紹介してみよう。『知覧むかしむかし』(飯野布志夫著、2007年、高城書房刊)という本に鹿児島県知覧地方の民話が集められている。採録した民話を通して日本の神話と南薩摩の民俗との関わりを探っている本だ。
 むかしむかし、我が家(え)の辺りに、ヘノカガッショドン(屁の嗅がせよ殿)という方がおられました。この方は大変勇ましい方で、神様たちに向って尻を丸出しにして屁を一発かましたそうです。しかし、怒った神様たちは村へ攻めてきてヘノカガッショドンを退治して息の根をとめてしまいました。
 *ヘノカガッショドンはヘンカガッショドンと発音する場合もある。「へ」は『屁』、着物の裾をまくることを南九語で「カッショ」と言い、裾をまくったうえにさらに尻を丸出しにして後ろ向きになって臭いを嗅がせることを「カガッショ」と言う。よって、ヘノカガッショとは『臭い屁を相手に向けて一発かまして嗅がすこと』である。

 この民話と神話との関連だが、『日本書紀』神代編の神が次のように指摘されている。
 この民話の主は、支配者(神)に向って尻を丸出しにして一発屁をかまして徹底抗戦した反逆の神と考えられる。これに対応すると考えられる神話が日本書紀で伝えられているのが面白い。
 それによれば、高天原朝廷の天孫ニニギの命が猿田彦の道案内で中つ国へ進攻して、中つ国の神々を次々と成敗されていくのだが、最後の最後まで徹底抗戦して軍門に降らなかったのが星神香香背男(ほしのかみかがせお)と呼ぶ神である。その部分を日本書紀神代編より抜粋してみよう。
『一書に曰く、皆(みな)已(すで)に平(む)け了(お)へぬ。其の服(うべな)はぬ者(かみ)は、唯(ただ)星神香香背男(ほしのかみかがせお)のみ。故、加(くわえて)倭文神(しづりかみ)、建葉槌命(たけはつちのみこと)を遣(つかわ)ししかば服ひぬ。故、二神、天(あめ)に登るといふ。倭文神、此には斯図梨俄未(しづりかみ)とも云ふ。果(つい)に以ちて復命(かえりこともう)しき』
(以下略)

 高天原の天孫ニニギの命に徹底抗戦した星神香香背男(ほしのかみかがせお)が民話のヘノカガッショドンに相当するというわけだ。『日本書紀』ではお尻や〈屁〉のことなど明快に記述されてはいないが、ホシノカミカガセオ(星の神、香香背男)とは何ともそれらしい名前ではないかな。背中を向けてイヤなニオイを放っている連想がふくらむよ。

 この辺でまとめておくとこうなる。
(1)お尻を向けることは人に失礼な行為である。
(2)お尻を突き出すことは失礼を通り越して人を侮辱する行為である。
(3)お尻を突き出し〈屁〉をこくことは人を強く侮辱する行為である。
(4)以上の「尻と屁」の結びつきは古代から意識されてきた侮辱行為である。
(5)人間にとって最大の侮辱行為は尻を丸出しにして人に〈屁〉を嗅がすことである。

 いや、ちょっとまとめきれなくて表面的になっているな。つまり、なぜ(背中ではなく)お尻を向けることが侮辱につながっていくのか。いやいや、お尻を丸出しにして〈屁〉をこくという恥ずかし〜い行為をすることが、なぜ相手への侮辱になってしまうのか。疑問は解消されていない。伊企儺やホシノカミカガセオの気持になってみる必要があるな〜。
posted by 楢須音成 at 01:51| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月12日

続・お尻と〈屁〉のコラボが侮辱になるのは何でだろ〜ヵ

 人を侮辱する身体表現はいろいろあるが、相手にわざと尻を突き出し〈屁〉を一発ブウとこくのは人として最大の侮辱行為ではないか。まあ、最大は言い過ぎであるとしても、「尻(を向けて)と屁(をこく)」の結びつきのその瞬間には、激しく強く感情が揺れ動かざるを得ないだろう。こいた方もこかれた方もねェ。

 さて、前回整理したようにその身体表現の基本形はこうであった。
(1)お尻を向ける
(2)お尻を突き出す
(3)お尻を突き出し〈屁〉をこく

 このように次第に(1)から(3)へとエスカレートしていく様子を観察すれば、それは視界に音とニオイを配置して強化される、侮辱の意志や意図の表出になっているのだね。

 このポーズの基本形は(日本で)古代から意識(記録)されてきたのだが、そもそもなぜそれは侮辱行為になるのだろうか。尻を突き出し〈屁〉をこく行為は顔(表情)を見せずに、下半身の身体表現だけで侮辱を表出するものだ。そして、それを言葉ではなく生の〈屁〉の音(とニオイ)で際立たせるのだ。

 もちろん、これが侮辱行為であると断定できない場合も多い。いつも悪ふざけで(1)〜(3)をやっている人はいるし、無意識にボオッとしてそういうポーズになっている紛らわしい人もいる。人に向かっておどけてデカイ〈屁〉をこいて喜んでいても、相手を侮辱する気などさらさらない馬鹿者もいる。

 だから(1)〜(3)のポーズは実は多義的であり、侮辱であるかどうかは相互の判断を待って決定されることになる。一方が侮辱のつもりでも、もう一方が侮辱と思わない場合や、その逆もあるわけで、にわかには判断できない状況というものがいろいろ出てくるのだ。

 ところで、ちょっと話が迂回するが、侮辱(した・されたという思い)とはどういうときに生起するのだろうか。そこには心的な条件があり、相手を貶める・相手に貶められたという心的運動が発動しているのだった。そして侮辱された方が侮辱と感じない限り侮辱にはならないのである。侮辱の場面の基本は次の4つのケースに分けられる。

(ア)両者が侮辱(した・された)と思っている
(イ)一方だけ(仕掛けられたと思った方)が侮辱されたと思っている
(ウ)一方だけ(仕掛けた方)が侮辱したと思っている
(エ)両者が侮辱と思っていない

 特に問題になる(物議を醸してしまう)のは(ア)と(イ)の場合であり、侮辱されたと感じる被害感の申し立てや苦情によって、侮辱が成立してくるわけだね。(イ)では侮辱を意図していない相手のポーズに一方的に侮辱を感じてしまうケースで、案外これは多いかもしれない。(ウ)の場合は仕掛けられた方が〈屁〉とも思っていない(侮辱とは感じないとか、侮辱と感じても却下できる心的余裕がある)ので侮辱が成立してこないのである。

 侮辱のあるなしには相手との関係性が影を落としているわけだが、侮辱する方にしたら、根拠はともかく相手が馬鹿にすべき理由を持っていると感じられる存在になっていて、それは相手との不信・対立・断絶関係にある場合が多いだろう。(条件1)

 相手との関係性は、相手と向き合ったときの自己の意識のあり方を決めている。自己の意識は相手に対して高位、対等、低位という高低ランクを常に付随させており、〈屁〉が臭いなどと相手を馬鹿にしたり侮辱するのは当然ながら、自己の意識が相手より高位にあるからだ。俗にいう上から目線って奴である。(参照

     自己の意識=高位―対等―低位

 もともと我々は〈屁〉に限らず他者に対していつも自己の意識の高低ランクを生起させている。何につけそのつど生起する意識の高低ランクが相手の社会的立場(評価)に対して常にリンクしているのである。相手を侮辱する条件としては、自己の意識が相手より高位にある必要があるわけだ。(条件2)

 社会的立場(評価)とは、自他の社会的地位や職位などのように外からの評価ばかりではない。身に備わっている経歴・属性・性癖によっても評価される。さまざまの生活場面でいろいろな観点から相手との距離を常に測って多元的に評価する。そこで例えば、次のようなものも何かと評価の対象になるね。

     能力=優秀―月並―無能
     容姿=別嬪―人並―ぶす
     学校=一流―二流―三流
     運動=上手―通常―下手
     知識=豊富―凡庸―貧弱
     品性=優良―普通―下劣
     体力=頑強―平凡―虚弱
     貧富=金持―平均―貧乏
     屁臭=無臭―曖昧―猛臭

 馬鹿にしたり侮辱したりするのは「無能でぶすで三流で下手で貧弱で下劣で虚弱で貧乏で屁が臭い」というような極めて低評価の場合である。(条件3)

 しかし、人間がまったく無価値ですべて低評価ということはないわけで、多くは「一流の学校に通っているが、ぶす」「運動が上手だが、品性が下劣」「知識は豊富だが、学校は三流」「体力は頑強だが、運動は下手」「別嬪だが、屁が臭い」など、ある一面だけがほとんど言いがかり(難癖)に近い感じで抽出されるのである。

 さらによくあるのは、完璧に「無能でぶすで三流で下手で貧弱で下劣で虚弱で貧乏で屁が臭い」のであれば、絶対に馬鹿にされ侮辱されるのかというと、そういうわけでもないんだね。かえってそれがいとおしくて愛される場合もある(らしい)のが人間界の不思議である。

 その不思議は自分が「優秀で別嬪で一流で上手で豊富で優良で頑強で金持で屁が臭くない」というような高位にある(と思っている)傲慢な人にしばしば出現するアンビバレントな現象の一つだ。あるいはそれが当たり前すぎて、つゆ自分が高位にあるなどとはとんと自覚していない天真な人にも出現する。

 しかしまあ一般に「優秀で別嬪で一流で上手で豊富で優良で頑強で金持で屁が臭くない」と自分を思っているような人は「月並で人並で二流で通常で凡庸で普通で平凡で平均で屁が臭いような臭くないような」という(どうでもいいと見なす)人にはほとんど関心が向かないのに、必ずや「無能でぶすで三流で下手で貧弱で下劣で虚弱で貧乏で屁が臭い」というような人を毛嫌いする。これは自分の高位が必ずしも完璧でないところからきていて、「一流の学校に通っているが、ぶす」の人が「知識は豊富だが、学校は三流」の人を馬鹿にして侮辱するというような関係構造が潜むのである。

 こう見てくると、侮辱行為はまずは条件1〜3が有効に絡み合って実践されるものだ。つまり(1)何らか不信・対立・断絶関係にある相手に対し(2)自己の意識が高位にあり(3)相手に低評価のターゲットがある――そういうときに、侮辱が生起してくる契機があるということになるのである。そしてさらに、そこでは(4)自分の不完全性(不完全な自信)を意識・無意識している――ということが必要にして重要なのだ。

 どうやら相手への侮辱行為は、意識的であってもなくても、自分自身(の低評価なターゲット)への苛立ちを潜在させているものであるらしい。それが相手を貶めようとする動機であり、そうすることによって自分の(高位の)基盤をより固めようとする。

 ところが完璧に傲慢な人(強者)は侮辱には走らない(多分そんなこと思いつかない)し、完璧に天真な人(聖者)も同様なのだ。それは意識しようがしまいが自己評価が(なぜか)パーフェクトな人たちなのである。(まあ、真にそうである人は滅多にいないでしょうけど。ときどき勘違いの人や図々しい偽りの僭称者はいます)

 一つ注意すべきは、侮辱の条件になっている相手との関係性は極めて主観的なものだということである。相手との対立関係、自己の意識の高低、自他の評価などは自己保存の心的運動によって主観的に構成されるのだ。もちろん、客観性や共同性の裏付けとなる事実やデータや現象がインプットされるにしても、結果は人それぞれに過大な自己評価を中心に身勝手に関係性を思い描いているのが実相である。

 そういう意味では侮辱行為は誰にでも与えられている振る舞いであり、しかもかなり人間的(観念的)な営為なのだ。一般の動物はどんなに威嚇的であっても侮辱行為とは無縁なのである。

 さて、侮辱の心的構造の考察はここまでにして、再び〈屁〉の侮辱の身体表現においてエスカレートする基本形(1)〜(3)に戻ろう。理由は何であれ、お尻と〈屁〉がコラボするポーズは、時と場合によって強烈な侮辱になり得るのであるね。

 しかし、考えてもみよう。尻を突き出して〈屁〉をこくという恥ずかしい行為が、何で相手への侮辱になるのだろうか。それをやっている本人はちっとも恥ずかしくはないし、やられた方は最大の侮辱を感じるのである。そのときの〈屁〉とは何ぞや?
ラベル: 侮辱
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2011年10月23日

続続・お尻と〈屁〉のコラボが侮辱になるのは何でだろ〜ヵ

 誰かを侮辱する(したい)というのは誰にでもある性癖ではあるが、とにかく相手を見下し貶めて恥ずかしい思いをさせようとする行為である。まあ、陰湿に目立たないようにやる人もいれば、ド派手に手段を選ばない人もいるし、誉めているようで実は貶しているという何とも嫌味な人もいれば、小出しにジクジクとしつこくいつまでも続ける人もいる。

 これを〈屁〉の侮辱に当てはめてみると、尻を突き出して陰湿にすかす奴もいれば、ド派手にぶっ放す奴もいるし、こいてないようで実はこいているという嫌味な奴もいれば、小出しにブブ、ブブといつまでもこき続ける奴もいるという感じだね。つまり〈屁〉のスタイルが無限にあるように侮辱のスタイルは無限なのだ。

 こうした場合、その侮辱(の内容)が正しいとか正しくないとかは問題ではなく、侮辱する人にとってはその行為自体に価値があるのである。要するに侮辱する人はそれをやって必ず溜飲を下げている。溜飲(酸っぱい胃液)を下げると、なぜかすっきり心が澄み渡るんだよね。その身勝手な気持ちよさ。経験あるね。

 侮辱する立場からいえば、とにかく相手を困らせ辱めることが重要である。侮辱する論理内容が正しければそれに越したことはないが、それは必須ではなく、態度振る舞いが重要になっていて、言葉の意味よりは強圧的な響きだったり威圧的な行動だったりするわけである。逆に、そうやって溜飲を下げない侮辱なんてあり得ないのである。侮辱行為に思い入れが強ければ強いほど溜飲は下がりスッとするだろう。

 このように侮辱してスッとした気持になってしまうのは〈屁〉をこいてスッとするのと同様であり、尻を突き出して〈屁〉をこけば、これはもう二重にスッとするさ。侮辱の身体表現においてエスカレートしたこの「尻と屁」の基本形で気持と身体がスッとするとすれば(するほど)これはなかなかに強烈な侮辱行為といえるのである。

 もっとも、いくら侮辱する気持があっても相手がそれを認識してくれないのでは、溜飲を下げることにはならない。侮辱とは相互作用であり、また少なくとも相手または自分に被害意識が生起している状態でなければならない。

 さて、前回紹介した伊企儺(いきな)や星神香香背男(ほしのかみかがせお)の侮辱行為もまた相手を貶めることによって溜飲を下げる振る舞いである。

 伊企儺は新羅軍の捕虜となり無理やり尻をむき出しにされ日本にむけて「わが尻を喰らえ」と言わされる侮辱を受けるのだが、逆にその尻を新羅軍に向け「わが尻を喰らえ」とお返しの侮辱をしたのである。

 星神香香背男は高天原の天孫ニニギの命に攻められ徹底抗戦するが、このとき強大な敵方に尻を出して〈屁〉を嗅がせ(るポーズで)侮辱したのである。

 つまりこれらは、不利な状況下での反逆的な行為なのだよね。それも絶望的に不利なのだ。しかし(状況は変わらないが)まるで起死回生の一発(のよう)に振る舞っている。

 これは状況的には弱者による侮辱行為だね。立場の弱い者が強者に対して捨て身の侮辱行為をしているわけである。ここで疑問だが、侮辱とは相手を見下す必要があったのではないのか。強者は弱者を見下すが、弱者はどうやって強者を見下すのか。侮辱の条件とはこうだった。

(1)不信・対立・断絶関係にある
(2)自己の意識が相手より高位である
(3)相手の社会的立場(評価)が低い
(4)自分の不完全性を意識または無意識している

 このうち(1)はクリアするね。また(2)も状況は相手に圧迫されているとはいえ部分的・主観的には可能だろうと思われる。そこで、その自己の意識を高位に保っている根拠を検討しなければならない。それは(3)につながる構図になっているわけだが、伊企儺や星神香香背男は弱者の状況なのに強者を低く見る(評価する)ことによって、自分の高位を確保しようとしているケースなのである。

 伊企儺は捕虜になり敵の支配下(弱者の立場)にあるのだが、新羅を攻めている(征服しようとしている立場の)意識があり、新羅を(文化的弱者あるいは日本軍にいずれ撃滅される軍事的弱者と)見下していると考えられる。前提になるそういう潜在的優位性があれば逆境でも自己の意識を高位に保つことはできるだろう。

 相手を鬼畜と見なすような差別的な心情、自分が誰よりも高潔であるという道徳的な確信、自分は頭がいいとか美人だなどという自惚れ、恐れを知らぬ勇気ある振る舞い―等々においても、自己の意識の高位を保つことはできる。そして取り巻く情勢が自分に優位でなくとも、とにかく何か相手の弱点(侮辱のターゲット)があれば、それを過大に悪く悪く評価することで、逆境にあっても相対的に自己評価は上がってくるのである。

 また、条件の(4)は、まさに置かれた逆境こそが誰の目にも露見している自分の不完全性であり弱点であるから、痛烈に意識せざるを得ない。これは理想の状況とは遠くかけ離れ、何かを達成したり復権することは不可能な状況である。そんな逆境であろうと(潜在的優位性に励まされて)自己の意識が高位になればなるほど(相対的に)相手の評価は下がり続ける。かくして逆境に自己回復を求める(自分を高める)心的運動が切実化していくのである。こう見てくると伊企儺が侮辱行為に走る条件は整っているわけなのだ。

 また星神香香背男は支配の神に対して徹底抗戦するのだが、劣勢の中でニニギの命に尻を突き出し一発かましたのである。この状況も侮辱の条件になる不信・対立・断絶関係にあたるが、星神香香背男はもともと土着の神であるから、当然ながら自分の国を守ろうと決起しているわけである。

 ただ自己の意識が相手より高位であるかどうかは微妙かもしれない。中央の神に対して自分を格下の神であると思っているかもしれないからだ。現実問題として高天原の神となると異議を唱えようもない秩序の頂点にいるのである。その社会的立場はどうあがいても永遠に低くない。

 しかし星神香香背男にとって相手は強大で格上かもしれないが、依って立つ自分の国を守ることは道義であり、そこでは自己の意識は(相手に対して)高位になろうとする。有無を言わせず進攻してきたニニギの命の理不尽さ・強引さに対して決起することに、星神香香背男は悩みはしても何のやましさもない(はず)。進攻に対抗して(自分の国を守るという)道義があれば、むしろ(劣勢であればあるほど)自尊心や勇猛心は奮い立つ(場合がある)ものだ。このようなときに人が頼る道義とか正義とは強固なイデオロギーであり、それが崩れない限りは自分に非はない(と思い込む)ね。

 もちろん一方で、強い者には従わねばならぬという政治的現実を受け入れる卑下の意識(低位の意識)に甘んじる情勢判断はあり得る。この強い者に従って低位に甘んじる姿勢は並みの凡人にはごく一般的でありがちな態度なのであるが、星神香香背男のようにリーダーたらんとする者がそれに抗してあえて高位を取らんとする(破滅を辞さずに我を通す)態度はしばしば世間に散見されるところである。(人に代行=身代わりさせる見苦しいボスもいるが…)

 こういうヒロイックな態度は相手が理不尽(思い通りにならない)であればあるほど強く過激になり怒りをふくらましていくものだ。この段階においては、情勢判断ができない馬鹿なのか、あるいは信じる道義に殉じる崇高な英雄なのかは、第三者にはすぐには判然としないが、敵方に対して侮辱行為に及ぶことがあるという点では、どちらであってもよろしいのである。

 星神香香背男の場合には侮辱の条件(1)〜(4)のうち(3)において乗り越え不能の困難に直面したわけだが、相手は絶対的に社会的立場(評価)が高いのであるから、そういう強者に対して自己の意識を高位に保ち続けるためには、正しかろうが正しくなかろうが自分の道義を最大値にまで高めるほかない。道義を貫いて絶対の強者の社会的立場(評価)を下げる―という不可能への挑戦である。これはもう徹底抗戦(エンドレスの戦い)しかないのだ。

 このような(弱者の)徹底抗戦とは主観(希望)的には勝利の先送りであり、客観(絶望)的には破滅への突進である。希望と絶望が表裏になって緊迫しているそこでは、自己の意識が高位であり続ける心的状況が生起している。多くは下世話に自尊心とか勇猛心とか呼ばれるが、要するにメゲて落ち込んでいては戦えないのである。

 かくして伊企儺にも星神香香背男にも、侮辱の条件(1)〜(4)が同じように整っていることがわかるね。

 しかし両者の明確な違いは(3)にあって、それは戦っている相手への評価であったね。伊企儺にとっての新羅は(取って代わることのできる)相対的に優勢な敵だが、星神香香背男にとってのニニギは(取って代わることのできない)絶対的に優勢な神なのである。弱者の両者がそういう相手に対して自己の意識を高めようとする心的運動は似ているようで違ってくる。

伊企儺=自己の「潜在的優位」があるので、あえて相手を見下し馬鹿にする振る舞い(強者を見下す振る舞いをするということは、相対的に自己の価値を高めることなのであり、それは自らを相手以上の存在へと高めることである)
星神香香背男=自己の「顕在的劣位」があるので、あえて相手と同格以上の振る舞い(強者と同じ振る舞いをするということは、相手に同じ振る舞いをさせることと表裏であり、それは自らを同格以上の存在へと高めることである)

 この「優位」と「劣位」の心的な評価軸の違いがあるにもかかわらず、尻を突き出して〈屁〉をこくという侮辱行為が同様に発現するのは、どちらも結果的に自己の意識が高められているからにほかならない。

 ――いやはや、煩雑な議論をしてしまった。要するに、置かれた状況や〈屁〉の如何にかかわらず、侮辱の条件(1)〜(4)が整うと侮辱行為が発現しやすいのである。

 しかし、ここで再び〈屁〉の疑問が出てくる。どんなときでも尻を突き出して〈屁〉をこくのは、普通はとても恥ずかしい行為だよねェ。心ある人、品位ある人、プライドのある人がすることではないはずだ。それなのに、何でそんなことをすることが相手を貶める侮辱になるのだろうか。相手に笑われないだろうか。馬鹿にされないだろうか。
ラベル: 侮辱
posted by 楢須音成 at 05:00| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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