2011年09月07日

仇討ちの〈屁〉

 そもそも〈屁〉とは何ぞやということは、そもそも〈芸術〉とは何ぞやという問いにに匹敵する(答えにく〜い)人生の問題であろう(か?)。バ〜カ、んなわけねえよ、と一蹴されるのがオチであっても、なぜに人はしばしば〈屁〉に拘泥するのであろうかねェ。

 昔の人は書きました、うんちく傾けた〈屁〉の物語を──それはとても芸術とはいえないまでも、うんちく(や人生の皮肉)を語ることに、何やら〈屁〉をこく爽快感がみなぎっているんだよね。とてもじゃないが、身から出る〈屁〉が嫌いではできない。

 1789年に刊行された草双紙(青本)に『臭気靡放屁倉栄(くさきもなびくひりくらべ)』という屁話がある。福富織部の『屁』に収録され紹介されている。調べてみたら東京都立図書館の加賀文庫に刊本の所蔵があった。織部が引用している版とは違うようだが、原文は同じ。ただし、作者などの紹介に織部とは異同がある。ここでは加賀文庫の奥付から紹介しておく。作者は錦森堂軒東(馬喰町にあった書肆の主人)、絵は勝川春朗とある。(この春朗という人はどうも北斎のようなのだが、こんなの描いてたのか)

 話は鎌倉時代にさかのぼって作者のうんちくが爆発する。キーワードは「曾我兄弟」「仇討ち」「巻狩」などで、これがまたことごとく〈屁〉で染まる〜。音成のテキトー訳で紹介する。
上の巻
 世の中が落ち着いているときに乱れることを忘れないのが良い武将である。かくて右大将頼朝公はおごる平家を放(ひ)り潰し、相州鎌倉に御所を構え、勢いある龍が水を得たごとく、なびかぬ草木もないありさまであった。さて頃は建久四年のこと、鎌倉の諸大名を召し集めて仰せられることには「われ今、天下を治めて四海ことごとく平穏である。これはみなわが武威(ぶい)のなすところだが、その武威のもとを尋ぬれば屁だ。ことに今は鎌倉に居住しておるが、カマとはつまり尻の異名。かれこれ屁に縁があるのだから、今度諸大名に申し渡して、屁の放りくらべを行おうと思う。どうじゃ」と意見を求めた。和田、北條、畠山などが言葉を合わせて「よろしいですな〜」と申し上げる。頼朝公、大いに喜びなさり、まず重忠を奉行と相定め、工藤祐経(すけつね)に諸事御用掛を仰せつけられる。重ねて頼朝公、屁術に達している者がおれば大小名に限らず申し出るよう命じなされた。

 そうこうするうち祐経(すけつね)は諸事御用掛ゆえ、まず近江八幡に申し付けて関八州の芋をことごとく積み出させ、旗下の面々へ知行に応じて分け渡した。芋、ごぼうなど隠し置いたり内々に売買する者がいれば、重大なる不正であると国々へ書状で直に申し渡しもした。こうして日夜、おびただしい数の芋船が着船した。また鎌倉の諸大名は屁術に励むように仰せられたので、我も我もと屁術の稽古を始めた。その音は百千の雷のようであり、あまりに大層な音なのであった。また一説にはその頃鎌倉に黄なる雲気が立ったという。これは諸大名が放(ひ)った屁が空に立ちのぼったものであろうか。作者も知らん。といって、新開の荒次郎が所領(現深谷市)の名物ごぼうのゆえとて屁までやったというのではあるまいし。

 このとき和田義盛は老後の慰みとして、九十三騎を引きつれ大磯にて三日三夜屁の放りくらべを催した。梶原もこの様子を聞き、何としても思う存分に放らんとて芋をしたたか食い込み、勢い込んで来たのだが、ちょうどそのとき曽我十郎祐成(すけなり)が馴染みの遊女、虎のところにやって来ていた。梶原は日頃から虎に心を懸けていたものだから、この様子を聞いてひどく腹を立て、祐成を引きずり出して大勢集まって屁を放りつけた。祐成は黄疸病さながらの無残な有様だったが、色男だけに大食もしないので、屁を放り返すことができずに無念がった。

 大薩摩文太夫が去ってから、曽我五郎時致(ときむね)はこの世に生かしてはおけぬ不倶戴天の仇敵(きゅうてき)、工藤祐経(すけつね)をただ一放(ひ)りに放りつけんと芋を洗っているうち、折しも眠気が襲ってきた。とろとろとまどろむ夢の中、不思議にも兄十郎が忽然と現れドロドロが打ち響く。──これこれ時致、今宵図らずも大磯にて梶原の連中に放り負かされ、思いも寄らぬ難儀に陥った。早く助けに来てくれよ。そのうえ仇(かたき)の祐経も一座にいる。他年の本望今宵の中、起きよ起きよ、という声の、夢うつつに耳に入るや、時致すっくと起き上がり逆沢瀉(さかおもだか)の鎧(よろい)を引っさげ飛び出した。
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下の巻
 その場所に時致(ときむね)は兄の難儀を救わんと慌てて駆けつけたのだった。朝比奈すかさず屁を放りつけ、およそ阪東八ヶ国に放屁自慢をする者は朝比奈よりほかにおらんわ、などと広言吐いて放り回れば、時致大いに怒って、憎き朝比奈が広言かな、と溜めに溜めたる怒りの屁、次々に放り出して対抗した。これを今に伝えて「草摺引(くさずりびき)」という──放り上げた逆沢潟(さかおもだか)ではチト無理かいの。いや、そんなことより時致は仇の祐経(すけつね)に対面し、思うままに放りつけんと思っていたのだが、最前の朝比奈のあまりの広言に溜め込んだ屁を思い切り放りつけたので、もはや出ない。無念がった。余裕の祐経は対面のしるしに「へがきの短刀」に短冊を添えて兄弟に与え追い返した。祐経のその歌。

さつきまで腹はいつしか芋消えて
    そのさみだれを待つてひれかし
(さつきまでで腹のお芋はいつしか消えた
    五月雨の長雨みたいな屁を待ってひれよな)

 急に詠んだので歌意はなはだこじつけである。

 この騒ぎのあと、いよいよ話は仇討ちの場面へ。下敷きになっているのは、歌舞伎の演目にもなっている曾我兄弟の仇討ちの話なのだ。登場人物が脈絡を欠いて説明なくいきなり登場したり引っ込んだりするのはその下敷きがあるから。分かる人には分かるエピソードが(ごちゃ混ぜになって)展開しているわけである。

 細かいところは省く(音成はあまり知らん)が、曾我兄弟(十郎祐成、五郎時致)の父は争いの巻き添えで工藤祐経の配下によって殺されている。兄弟は仇討ちのチャンスをうかがっていたのだが、祐経はすでに頼朝について御家人になっていたから、そう簡単には手が下せない。一度は祐経に手をかけようとするチャンスもあった。しかし、そのときは祐経に赤木柄の短刀を与えられて追い返される。それから艱難辛苦の幾年月、あるとき頼朝が富士の裾野で巻狩を催した。ここで曾我兄弟は寝所に押し入って祐経を討ち取るのである。兄の十郎祐成は戦闘で死んで、五郎時致は捕まって処刑される──大体そういう流れになっている。

 吾妻鏡にも出ているこの事件は、遊女の虎が口伝えに語り伝えて広まったとも言われていて、日本の三大仇討ちの一つとされている。

 さあ、この屁話の後半だが、思い知るのか〈屁〉の威力、音成も固唾をのんで読み進む〜。


posted by 楢須音成 at 14:10| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月10日

続・仇討ちの〈屁〉

 物語の結構というのは、作者がよくよく思案して作り上げるものなんだろうねェ。特に結末はそこで世界が切れてしまうのだから、何やら余韻を持たせるとか、奇想天外な結末にするとか、少しばかり謎めかすとか、思い切り泣かせるとか──要は深浅はあっても感動(読んで良かった〜という思い)を誘う仕掛けが細工される(ことがある)わけだろう。

 さて、いよいよ『臭気靡放屁倉栄(くさきもなびくひりくらべ)』は完結へと向かう。この世界の曾我兄弟も父を殺した仇敵、工藤祐経に深い恨みを抱いているのである。〈屁〉の世界では〈屁〉で仇討ちをするわけなんだろうが、結末やいかに──。
 光陰矢の如くはや月も下旬になったので富士の裾野に陣屋を建て、放(ひ)り場の切手(札)を出して入場を許した。仁田の四郎忠綱(ただつな)は大勢を相手に屁を放りたいと思っていたのだが、ちょうどそのとき、荒れて大暴れのイノシシが真一文字に駆けてきた。これを大勢で放り倒さんとしたところ、イノシシ大いに怒って電光石火に矢のような屁を放ったから、人々は怖れて逃げ回る。ヤアこしゃくなイノシシめ、と忠綱は満身の力を尻に込めウンと気張るや、即座にイノシシを放り倒す。あっぱれ古今まれに見る屁放りやな、と感じ入らない者はなし。かくて鎌倉の諸大名、我も我もと放り争う音に天地も鳴動し、三国一の富士山も霧が立ったようになって、その臭いこと筆に及ばず。
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 時まさに五月二十八日の夜のことである。曾我兄弟は音もなく工藤の陣屋に忍び入り「父、河津ノ三郎祐康(すけやす)を放りつけた工藤左衛門祐経(すけつね)、今こそ兄弟が恨みの屁、いざ受け止めよ」というままに続けて放りに放りつけたので、心地よかりし次第であった。かくて兄弟、思うがままに祐経に放りつけたので、それではこれから陣屋という陣屋へ押し入り一つ一つ放りつけて手並みを見せてやろうと、まずは一番たいらくの平馬、しょうあんさい黒弥、五竹の下などなど、ことごとく放りつける。これを兄弟十番放りという。かくして十郎祐成(すけなり)は最後まで放りつけたが、少し疲れているところに仁田四郎忠綱が駆けつけ、祐成に放りつけた。一方、五郎時致(ときむね)は血気にまかせて放りつけていたが、もはや屁種も尽きた頃、御所の五郎丸が女のいでたちで時致のそば近くに寄ってきたのを、女だと思い油断してしまう。折しも時致をうかがうように寄ってきて放りつけたのだが、時致が少し躊躇したその隙に、大勢が押し寄せて放りつけ時致は無残な次第となった。
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 さてさて富士の裾野の放りくらべ首尾よく済んで頼朝公、ことのほかお喜び遊ばされる。また諸大名の武威の盛んなることをお感じになり、それぞれに御褒美を賜った。なかにも曾我兄弟の働きまことに前代未聞なり、と特別に感じなさったのである。兄弟はいろいろ御褒美を頂戴し末永く栄えたのだった。
 放りくらべを仕切った重忠と工藤の二人も御加増を賜り、めでたき春を迎えた。
 夢ならばここで覚めるところである。まことに曾我兄弟をのちに両社の神に祭り、ほうひ大明神と申すそうだ。俗に屁放りの神というのはこれである。信心して行いを正せば霊験があるだろう。詳しいことは誰ぞにお聞き。

 何という結末であろうか。これを四方が丸く収まるハッピーエンドというわけだろうね。それにしても、もとの話とは随分違う結末ではないか。仇討ちはどこにいってしまったのか。敵も味方もなく誰も死ぬこともないのである。曾我物語を期待して読んだ読者には「何じゃこりゃ」の肩透かしであろう。いや音成もいささかガックリきたけどね。

 しかしまあ、これが〈屁〉なんだな。出そうで出ない、出なさそうで出る──こういう〈屁〉の裏切りはいまに始まったことではないが、正調の曾我物語に対して肩透かしの〈屁〉にまみれた、俗調の物語が放り出されたわけだ。

 まあしかし、この屁話の眼目は最後の結末にあるだろうさ。頼朝公が重視するのはお尻が放つ「武威(ぶい)」なのであるが、武威の高揚こそがこの屁話の一貫した価値基準なのである。武威に優れたる者こそめでたけれ。武威は勧善懲悪を超える。正調では仇討ちが至高の価値だったが、これが俗調では武威なのだ。つまり、仇討ちは添え物になっている。

 そう見てくると、登場する一人一人の武威がちゃんと描き分けられているではないか(な?)。かくして曾我兄弟は仇討ちではなく、仇討ちの〈屁〉が前代未聞と称揚されることになるのである。だからこそ兄の十郎祐成は死ななくてもいいのだし、仇敵の工藤祐経が死ぬこともなく(放りくらべを仕切って成功させ武威を高めた功績で)加増されるのだね。

 いやはや、曾我兄弟がほうひ大明神とはなあ。ここは結末に感動(?)を残さんとする浅薄なこじつけにしか思えないが、そもそも〈屁〉の武威とは何なのだろう。ただの〈屁〉を武威にまで高める志こそが頼朝の願いだったんだろうけどねェ。
posted by 楢須音成 at 23:39| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月19日

ガセネタの〈屁〉の真面目

 ガセネタというのは昔からあるわけだが、〈屁〉のガセネタというのはこれまた多い。巷にはウソかホントかわからないような話が充満していて、このブログで取り上げる幾多の〈屁〉の話も、事実性よりは虚構性が極めて高いものばかりといえるだろう。あるいは事実が針小棒大な話になっているのかもしれない。

 しかし、あなたにも私にも〈屁〉は厳然として存在するので、眉唾な話の中にも人生の真実味を感じてしまう、まったりとした味わいがあるね──まあ、こんなことを言うと、屁も〈屁〉の話も嫌う知人からは異常者と見なされるが、一般には〈屁〉の話はみんな好き(なはず)よねェ。

 福富織部の『屁』に著者自身がある〈屁〉の噂に関して警察に問い合わせた手紙が収録されている。これに対して回答があったのである。
 埼玉県下忍町(おしまち)に屁の営業を免許された者があると聞いて、早速照会して見た。

益々御清栄之段奉大賀候(ますますごせいえいのだんたいがたてまつりそうろう)、小生は大正五年に東京府立農林学校を卒業し、爾来(じらい)屁の研究に没頭致し居る愚人に有之候(これありそうろう)。仄聞(そくぶん)する所に依れば、今より六七年前に貴管内に屁にて歌を謡ふ名人あり、貴署より屁放りの営業を免許せられし由に候が、事実にて候や否や、乍御手数御回報相煩度(おてすうながらごかいほうあいわずらわしたく)、此段及照会候也(このだんしょうかいにおよびそうろうなり)。若(も)し事実とすれば、その出生地姓名許可証の写(うつし)等御承知致し度く候。
福富織部
忍警察署長殿

 これに関し下記の通り回答があつた。

 回答
本日十九日付ヲ以テ御照会ニヨル放屁名人当署管内ニハ差当リ(さしあたり)該当者無之(これなし)、従テ営業免許等ナシタル事実更ニナシ。尚(なお)貴殿ニハ農林学校を卒業シ、屁ノ研究ヲセラルゝ趣ナルモ、当忍町ニモ大分希望者有之候條(これありそうろうじょう)、貴殿研究事項大要折返シ御回報相煩度、此段及回答候也。
 追テ添付二銭切手一枚本件ニ使用ス

 つひにこの問答は要領を得ずにしまつたが、該警察の労を多とする。

 織部が〈屁〉で音曲を奏する人物がいると聞いて問い合わせをしたわけである。地元の警察から営業免許を貰ったというのだから、天幕興行でもしていたのだろうか。まあとにかく、そういう屁芸の人物がいたという噂を織部は聞きつけ、その者の出生地、姓名、許可証の写しを欲しいと大真面目に申し込んだ。

 織部は随分期待して回答を待っていただろう。しかし警察署の回答は、そういう人物はいないというものだった。傑作なのは、逆に織部に問い合わせをしていることだね。農林学校を卒業して屁の研究をしているそうだが、忍町にもそういう希望者が大勢いるから、研究内容の概要を回答して欲しい、というのである。

 警察署長の関心は屁の研究に向かったわけで、どういう根拠か織部を説得するように希望者多数と言ってはいるが、署長自身が興味津々の様子だ。(あるいは、単にあやしい奴と思ったのか)

 織部はこのほかにも、伊藤国太郎という浜松の芳川村に実在したと思われる屁芸の名人について村長に問い合わせている。このときは実在は確認したが、村長は「放屁云々はいざ知らず」と回答している。伊藤国太郎は屁国先生とも呼ばれたというが、織部は直接会って記述しているわけではない。(この屁国先生については1990年代に松沢呉一が取材を試みている=参照

 さて、〈屁〉で芸をする人についてはこれまでに何回か取り上げてきたのだが、過去において日本ではどの人も詳しい人物像はわからないのである。ビジネスになった〈屁〉の芸人は洋の東西ではフランス人のジョゼフ・ピュジョール(19世紀)、日本人の福屁曲平(18世紀)が世界歴史の記録に残る双璧のようだが、フランスの場合は人物が特定されて医学研究まである。日本では平賀源内ほかが記述して実在はしたらしいものの、本名すらわかっていないのである。(参照

 日本で歴史上の〈屁〉の芸人は、名前や芸風については伝わっていても、実在の特定や詳細はわからないのはなぜだろう。〈屁〉の話題(の人)は屁のように立ち消えになってしまう。(参照

 現代日本にも〈屁〉の芸人はいて、佐藤清彦の『おなら考』(1994年)で元新聞記者の著者が取材している。これはこれまでの〈屁〉の芸人についての記述の中では最も具体的で詳しいものだろう。テレビなどにも登場し(音成は観ていない)、最近まで活動されていたようであるが、やはり〈屁〉だけでビジネス芸の確立は難しいようだ。

 ──話がそれてきた。
 あちらに〈屁〉の芸人がいると聞けば早速、問い合わせるのが織部の探求心なのだった。織部が『屁』をまとめるにあたっては、噂の真偽を直接確かめる探求心(取材)が所々に発揮されている。

 そういう真面目がまた笑いを誘うのも〈屁〉というものの姿なのだな。つられて署長も反応してる。ガセネタの〈屁〉に二人とも腹の中では笑ってたのかもしらんが。
ラベル: ガセネタ 芸人
posted by 楢須音成 at 01:38| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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