2011年08月11日

〈屁〉が導く忘我の境地

 我々は身体上に生起する(生理的な)現象について把握しており、我身に何が起こっているか自覚しているね。まあ、単純だが一発〈屁〉をこいて無意識ということはなく、大体において自覚できるものだ。しかし。錯覚とか思い違いはままあるわけで、我身に何かが起こっていることを錯覚するようなことは、例えばこういうことがある。福富織部の『屁』から引用する。
 詩人国府青崖(こくぶせいがい)が、曾(かつ)て飯田町に寓居(ぐうきょ)した。隣は、歌人落合直文、そこで両家の便所が、垣根一重をへだてゝ相対していた。
「想をねるは、昔から厠上(しじょう)枕上(ちんじょう)鞍上(あんじょう)とある、便所に入つてやれ」
 苦吟(くぎん)の態(てい)で、便所に入り、折角(せっかく)想をこらしてゐた。すると、ブーツと、前触(まえぶれ)の法螺貝(ほらがい)の響(ひびき)、つゞいて、ポチヤーンと甕(かめ)の中に落ちたものがあつた。
「しめた、いゝ心持になつたぞ」
 帰つて、机に向かつたが、まだ何やら腹の中で、つかへてゐる。それも其の筈(はず)、ブーツブツ、ポチヤーンといふのは、隣の便所で落合直文がしてのけたのだつた。青崖は、只(ただ)一念、句を練り想を凝らすに急にして、自他の区別がつかなかつたので。
 隣の便所の戸が開いて、誰が出てゆくらしい足音を聞きつけ、やつとそれと気がついたとは、是はいや早、いや早是は。

 他人の屁糞を自分がやったと思い込んだ事例である。織部はあきれているが、この状況は詩人の一心不乱の芸術への姿勢を示しているともいえる。まあ、そこまで言わずとも、ボーッとしていて「あれ、今の屁は俺かお前か」という、ある種のとぼけた混乱は我家でもないことはない(かな?)。

 青崖の状況は必死になって詩文の想を練っているときに「ブーツ」「ポチヤーン」を聞きつけ、自分の生理的要求は満たされたと考えたのである。実際には隣人の落合直文の屁糞だった。これを織部は青崖が「自他の区別がつかなかつた」状態といっている。一定の忘我の心境になってくると、他人の行為も自分の行為も区別がなくなるといっているわけだ。

 考えてみると、この境地とは随分と奥深い。それが出現するのは「昔から厠上枕上鞍上」である。これを「三上」といっているが、寺田寅彦が随筆集の中で考察しているので紹介しよう。(適当に行を入れている)
「三上(さんじょう)」という言葉がある。枕上(ちんじょう)鞍上(あんじょう)厠上(しじょう)合わせて三上の意だという。「いい考えを発酵させるに適した三つの環境」を対立させたものとも解釈される。なかなかうまい事を言ったものだと思う。しかしこれは昔のシナ人かよほど暇人でないと、現代では言葉どおりには適用し難い。
 三上の三上たるゆえんを考えてみる。まずこの三つの境地はいずれも肉体的には不自由な拘束された余儀ない境地である事に気がつく。この三上に在る間はわれわれは他の仕事をしたくてもできない。しかしまた一方から見ると非常に自由な解放されたありがたい境地である。なんとならばこれらの場合にわれわれは外からいろいろの用事を持ちかけられる心配から免れている。肉体が束縛されているかわりに精神が解放されている。頭脳の働きが外方へ向くのを止められているので自然に内側へ向かって行くせいだと言われる。

 現代の一般の人について考えてみるとこの三上には多少の変更を要する。まず「枕上」であるが、毎日の仕事に追われた上に、夜なべ仕事でくたびれて、やっと床につく多くの人には枕上は眠る事が第一義である。それで眠られないという場合は病気なのだからろくな考えは出ないのが普通である。
「厠上」のほうは人によると現在でも適用するかもしれない。自分の知っている人の内でも、たぶんそうらしいと思われるほどの長時間をこの境地に安住している人はある。しかし寝坊をして出勤時間に遅れないように急いで用を足す習慣のものには、これもまた瞑想に適した環境ではない。
 残る一つの「鞍上」はちょっとわれわれに縁が遠い。これに代わるべき人力や自動車も少なくも東京市中ではあまり落ち着いた気分を養うには適しないようである。自用車のある場合はあるいはどうかもしれないが、それのない者にとっては残る一つの問題は電車の「車上」である。

 電車の中では普通の意味での閑寂は味わわれない。しかしそのかわりに極度の混雑から来た捨てばちの落ち着きといったようなものがないでもない。乗客はみんな石ころであって自分もその中の一つの石ころになって周囲の石ころの束縛をあきらめているところにおのずから「三上」の境地と相通ずる点が生じて来る。従って満員電車の内は存外瞑想に適している。机の前や実験室では浮かばないようないいアイディアが電車の内でひょっくり浮き上がる場合をしばしば経験する。

「三上」の三上たるゆえんの要素には、肉体の拘束から来る精神の解放というもののほかにもう一つの要件があると思われる。それはある適当な感覚的の刺激である。鞍上と厠上の場合にはこれが明白であるが枕上ではこれが明白でないように見える。しかしよく考えてみると枕や寝床の触感のほかに横臥(おうが)のために起こる全身の血圧分布の変化はまさにこれに当たるものであると考えられる。問題の「車上」の場合にはこの条件が充分に満足されている事が明白である。ただむしろ刺激があり過ぎるので、病弱なものや慣れないものには「車上」の効力を生じ得ない。この刺激に適当に麻痺したものが最もよく「車上」の能率を上げる事ができるものらしい。
(『寺田寅彦随筆集』1947年、岩波書店刊)

 物理学者の寅彦によれば、「三上」は(1)身体を拘束された余儀ない状態だが(2)外から用事を言われる心配はない状態──である。つまりこれは、身体が何らか束縛されているかわりに精神が解放されている状態であると指摘している。このとき意識の運動は外に向かうのを止められているので、自然に内に向かうことになる。なるほどね。便所で坐っている状態はまさにそういうこと。(急ぎの便所は別としてね)

 寅彦の指摘はまだあって、「三上」にはもう一つ要件があるという。そこには(3)適当な感覚的の刺激が加わっている──というのである。つまり、感覚上のある種の身体的な緊張が強いられている状態だ。便所にこもっている場合は、便意やそれによる力みに相当するだろうね。そういうものが一体になって前述の忘我状態を現象させているわけだ。(枕上や鞍上、車上については寅彦の記述をたどっていただきたい)

 そこには発想が湧き出る奥義が潜んでいると、昔から観察されてきたが、こうした一定の条件下での微妙な忘我状態については、寅彦が指摘した(3)の条件が重要だろう。要するに(1)や(2)だけでは単に部屋にこもっている凡々たる状態なのである。便所にいて便意や力みがあってこそなのだ。

 さて、ここで〈屁〉である。織部は便所では「自他の区別がつかなくなる」と指摘していたね。つまりは(1)〜(3)の条件が整うと、自他の区別がつかなくなる忘我へと至ってしまうのか。青崖は詩文を練って力みつつ便所にこもったのだった。そして忘我の中で「ブーツ」「ポチヤーン」と音を聞いて(我に返り)自分の屁糞が出たと思ったのだった。

 そもそも屁糞(という刺激)は身体の内在的な現象だね。そういう刺激の内在性の強弱は「三上」においてこう観察されるだろう。


    (刺激が内在的) ←厠上ー枕上ー鞍上→(刺激が外在的


 厠上という状況は刺激の内在性が一番強いのである。そして刺激の内在性が強いほど自他の区別がなくなりやすいことが考えられるのだ。それは心的運動が刺激に向かって純粋に内向きになっているから、自他のないより深い忘我状態をもたらすことができる。この点こそが厠上(つまり屁糞)において特徴的な現象ではないか。
 
 ともあれ厠上における〈屁〉は、発想を豊かにする忘我の契機を与える現象に違いない。しかし便所の外で自他の区別をなくした〈屁〉は大問題になるわけよねェ。


posted by 楢須音成 at 18:45| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月28日

嫁は屁をこく果報者

 なぜだか、歴史的に見ても女性の〈屁〉には格別の視線が向けられてきたようだ。その根底にあるのは、それは「あるまじきこと」ゆえに、恥に絡む倫理観の生態やら余儀なくタブーを犯してしまった女性のエロチシズム(恥じらい)やらが、とりわけ男の視線でピックアップされてきたのである。

 例えば、民話の世界の屁話。女性がどう〈屁〉に扱われているかは、これまでにも考えてきたんだけどね。古来こんなことがテーマの一つになったのも、女性の〈屁〉に格別の意味があったからだと思うのだ。そして、なぜだか特に「嫁」にスポットがあてられているね。

 民話は同じパターンの話が筋立てを変え、いろいろ変種を生んで全国に流布している。女の〈屁〉の話も同様だ。少し長いのだが、『みちのく艶笑談』(平野直編、1977年、オハヨー出版刊)から「ひとつき屁」という話を引用してみよう。

 この話は展開部が三つあって一つの話として完結している。登場するのは女性の中でも「嫁」という立場の女である。三つの展開はそれぞれがパターンとなっており、別々の独立した笑話として流布しているケースも多い。
(1)昔コの中には、屁ばなしが多い。今その中の三つ四つを語ろうと思うが、あまり臭い顔をせずに、きいてたもれ。
 ある村の若い者が、山一つ越えた隣り村の娘を見染め、なにがなんでもと、仲人を立てた。
 貰いに行くと、
「どうも家の娘には、悪いくせが一つあるので…」
 と、先方の親が渋った。
「わるいくせとはまた」
 と、きくと、
「屁をひるのが、玉に疵でがんす。ひらんでおりよすとな、顔コが青うなって、腹ぐりぐりめく、まことにお恥ずかしいくせで…」
「ほ、どれほどひられる」
「さ、まだ試したことはないようでがんすが、多分、ひと突き一つぐらいでは─」
 仲人がひと突きを一月と、ききちがえた。
「なに、一月に一屁ぐらいなら、少ない方でがんすべ。このはなし、まとめましょう」
 と、いうことになった。
 婚礼も、滞りなく終って、部屋入りとなる。さて、これからが大変なことになった。床演技が始まると、なにせひと突きひと屁なのだから堪らない。ブースカブースカ、部屋中は屁だらけで、嗤(わらわ)せっぽくなってきた。たまげるやら嗤せるやらで婿どのも方図をなくして、途方にくれた。
 次の日嫁ごは、とてもお恥しくて、身のおきどころもなかったので、
「何もいわず、お暇(ひま)をけてくなんせ」と、涙ながらに願った。
 婿どのは、ことがことだが、なにしろ自分が望んだ嫁だから、出しとうもない。といって、止める言葉にも困った。

(2)いよいよ嫁ごが土間に下りて、掃きおとしから出て行こうとすると、若者はその出口に立ちはばかって、
「これさ、ここからは出てはならぬ。ここはおらの出口だ」という。
 そこで嫁ごは、常居(じょい)の縁側から出ようとすると、
「そこもおらの出口だから、出ることかなわぬ」という。
 ではと、座敷の方にまわると、
「いやいや、そこも駄目ね。お客人の出入口だ」と、首をふった。
 そうこうしているうちに、嫁ごの顔がまっ青になり、
「とても我慢がならなくなったス。なにさかつかまっていてくなんせ」と、泣き声を立てたと。
 それそれと、婿どのを炉ぶちにたもつかせたあと、嫁ごは一発、思いっきりのをぶっ放した。
 これはまた、聞きしにまさるもので、家の天井裏を吹きぬき、屋根をつきぬいて、あろうことか、大切な大切な婿どのまで、吹っとばしてしまった。
「あやや、ことなことになったや…」
 嫁ごは、われながらわが屁に吃驚にして、婿探しに家をとび出した。

(3)山の方をたてて行ったが、更に婿どのの姿は見えなかった。泣き泣き行くうち、山の一本松のところに来かかると、お城に移し植えるのだといって、その松の大木に七匹の牛、七はづなをかけて、うんすやんすと、根っこがえしさせているところに行きあった。したが、七七、四十九頭もの牛でひいても、松の大木は、びくとも動かなかった。
 それと見た嫁ごは、
「あやや、なんたらじくなし(いくじなし)なお人たちばりだべな。おらならば、屁一つで、こんな木、根っこがえしにして見せるのにな」
 と、笑った。
「なんとまた、屁で根っこがえしさせるとは、大口たたく女ごだべ。ようし、もしもほんとにやれるものならば、一つなぎ七頭、七はずな七七、四十九頭の牛、みんなそなたさ、くれてやる」
 と、牛方の親方がいったと。
「あれ、ほんとスか」
「ああ、ほんとだとも、うそと坊主の頭、ゆったことがない」
 と、居丈高になった。
「なら、ごめんなんしょ」
 お尻をぐるっとまくると嫁ごは、一発ぐわんと鳴らしたけが、さしもの大松も、ゆっさゆっさどしんと、根っこがえりした。
 すると、その上さまた、何やら落ちてきたものがあったので、よくよく見ると、さっき吹きとばした婿どのであった。
「あや、探してい申した」
「嫁ごか。してこの場の仕儀は─」
「はい、私の屁で四十九頭の牛持ちになりあんした。二人でひいて帰りますべ」
 もはやこののちは、ひとつきひと屁もあまり苦にならず、これをお囃子音ときいて、次つぎと子宝に恵まれ、婿どののたもつく炉にはがっしりした縁をつけて、「ゆるぎぶち」と名づけ、尚屋敷の名までが「ゆるぎ屋敷」といわれる長者になったとせ。

 次第に実力を発揮していくとんでもない果報者の嫁だね。最後は長者になるという致富譚はよくある民話の大きなパターンの一つであるが、そこに〈屁〉が絡んでいるわけである。(その理由というか、背景については前にこちらで考察した=参照

 さて、この嫁の〈屁〉の特徴は、制御の観点からみれば、こうなる。

(1)一つ突かれ(やむなく)一発=受動→羞恥
(2)我慢できず(やむなく)一発=不能→呆然
(3)自由自在に(ねらって)一発=能動→元気

 こうみると、名誉挽回(逆転)の一発が最後に放たれているのだが、(1)から(3)への展開は、嫁が男勝りの元気へと脱皮していく流れになっている。笑話になってしまう核は、

(1)最中に律儀に屁をこく
(2)夫まで吹きとばす巨大な屁をこく
(3)並み居る男どもをやりこめる屁をこく

 ということが(やっぱりというか、意外にもというか)次々に判明していくところにあるのだが、これは同じ〈屁〉をこくにしても、やがて制御を手に入れていく過程になっているのだ。そもそも〈屁〉を制御することは大変難しいのである。嫁が(3)において放った〈屁〉は単に大きな威力だけでなく、うまく大松を根っこがえりさせる技術(制御)と自信(確信)が備わっていたということを見落としてはならない。

 致富譚は民衆の(決してかなわぬ)致富願望であって、話のハッピーエンドとは裏腹である。現実には、純朴で健気な嫁に〈屁〉などは似つかわしくないばかりか(あってはならぬ恥であり)裕福になるのに何のタシにもならないものだろうねェ。嫁と〈屁〉の関係性は「恥」以外の何物でもない。(いやまあ、第三者からは愛嬌とかエロとかの妄想・艶笑は出てくるにせよ)

 しかし、背反する「嫁と屁」の関係だからこそ、ことさらに〈屁〉なのである。尋常でない〈屁〉の烙印を与えて嫁を貶めつつ(3)の逆転劇が用意される。逆転とは〈屁〉の制御の獲得であり、それによって嫁は成果を得て輝かしい「(嫁の)立場を得る」のである。

 民話の結末の多くは世間的であり、よりよい世間性の獲得(例えば致富)が目指(願望)される。しかし世間は厳しい。厳しさの中で葛藤せざるを得ない。そのときの絶望感はまるで止まらぬ底なしのおびただしい〈屁〉だ。ならば、それをあやつり(制御し)活用して財をなせたらどんなに面白かろう。ああ、そんなの無理だけどさ。

 この話のリアルさはかくして〈屁〉によって裏打ちされているのだね。ときどきブーブー破綻するにしても〈屁〉は制御されることで、この世で危うい世間性を獲得する道理なわけだ。

 この嫁の健気さには不思議に励まされるが、夫の存在の影は薄く、指揮権はカカア天下に傾斜していったと思われ、ならばそれは制御の行き過ぎよ。まあ、一番ダメなのは中途半端な〈屁〉をこく奴ということになるんだけどね。
ラベル: 致富
posted by 楢須音成 at 17:35| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。