2011年07月06日

〈屁〉という悪魔

 馬とかロバというのはよく屁をする。いや、するというより出る。しかし彼らは、いくら屁をしても屁を人間のようには意識していない。人間の止みがたい衝動は屁に対する過剰な意味づけ(観念化)であるが、そもそも(人間以外の)動物の屁とは、汗をかくのと同じ単なる生理現象にすぎないのである。

 人間とロバの屁の小話を紹介してみよう。屁が凶器になって何とも可笑し味を現象させるが、人間界にはありがちな悲劇だと納得しないか。ロバにとっては屁でもない。
 驢馬に乗って旅をしていた牧師が途中で悪魔に出会った。少なくとも牧師は悪魔だと思った。そいつが身分や姓名をちゃんと明かさなかったからだ。それはともかく、悪魔は牧師にこう予言した。
「君の驢馬が三度屁をしたら、君は死ぬぞ!」
 牧師ははじめ何をいうかと気にもかけなかったが、十五分ばかり行くと、驢馬がプスッ!と屁をした。そこで牧師は心配になって、驢馬からおり、道にころがっていた小石をひろって、ご存じのところへ栓をした。が、また十五分ばかり行くと、プスッ!と音がして、小石を遠くへすっとばした。
 牧師はまた驢馬からおりて、今度は前よりもずっと大きな石をひろって、無理矢理に例のところへ押しこんだ。そしてそのまま驢馬にまたがっていったが、今度すると三度目だと思うと、なんだか気が気でない。そこで、十五分ばかり行ったとき、驢馬からおりて、栓がうまくはまっているかどうかのぞきこんだ。が、そのとたんに驢馬が猛烈なのを一発ぶっぱなしたので、石がハッシとばかり牧師の眉間へあたって、牧師はその場に悶絶してしまった。
(田辺貞之助『ふらんす風流ざんげろく』1962年、高文社刊)

 宗教者はしばしば観念的だね。というか(こう言うと怒られるかもしれないが)かなり妄想的なのだ。牧師はなぜ、旅の途中で会った人を悪魔と妄想(観念)するのか。この妄想は抽象から象徴が発生した心的段階にあるのであるが、まず前段になる根拠(その人や物の出処進退とか)を抽象することによって、具体的な人や物をその化身と思い込むのである。この場合は人の身分や姓名を抽象できなかったので、抽象の闇(捨象)だけ抱えて悪魔だと考えたわけである。(小話の語り手は宗教者の過剰なこういう一種病的な性向について批評的だね)

 悪魔(かもしれない人)にロバが三回屁をしたら死ぬと言われて、牧師は次第に不安になってくる。ロバは屁をする。それまで牧師にとってロバは無関心の対象に過ぎなかった(単なる乗りものだった)のに、いまや屁が凶器となって暴発しそうなのだ。信じたくないが、心的な圧迫を感じないわけにはいかない。

 そこで小石で栓をした。小石は二発目の屁が出た拍子にプスッと遠くへすっ飛んでいく。驚愕し、もっと大きな石で栓をした──次第にエスカレートする牧師の対処は妄想に取り憑かれている状態。気が気じゃないね。しかし、栓をすれば屁が止まると考えるのは誤りで、少し冷静に考えればわかることだ。肛門の蓋なんかで屁は止まらない。それでは屁はたまる一方になる。

 まあ、よかれと思ってこういう対症療法に走ってしまうのが人間だね。得てして一番危険な対処をしてドツボにはまるパターンがこれだ。そもそも屁を止めようとすること自体が誤りなのであって、悪魔(と思われる人)の言うとおりなら、ここはロバを殺す以外に方法はないのである。

 それなのに、栓をして栓がうまくはまっているか確認する(それも正面からのぞき込む)という危険な行為に出る。心配のあまり危険に鈍感になっているのである。

 かくして予言を実行したのは牧師自身になってしまった。結局、悪魔は遠回しにロバを殺せと示唆したのだと考えていいのだが、牧師の行動は悪魔の意図を誤解している。悪魔の悪魔たるゆえんは、三度の屁で死ぬという嘘だ。そもそもロバ(の屁)は無害なのである。

 何でもないはずなのに、人が(屁に)過剰な思い入れをすることによって、何でも不吉(な屁)にしてしまう過程がここにはあるのだ。

 ところで、音成の知人などは他人の〈屁〉にひどく敏感で、他人が〈屁〉をすると極端な嫌悪におちいっていた。彼にとって〈屁〉は悪性ウイルスのようなもので、絶対に感染してはならない。〈屁〉が漂うと空気も周囲の物体も汚染されるのであり、彼の不浄感の発露は大変露骨(大騒ぎ)だった。音成は絶対に〈屁〉などしないように注意していた。

 久しぶりにその人に会い、何人かで一泊旅行したのだが、旅館に入るなり、その人がブッと〈屁〉をこいた。前にうっかり〈屁〉をこいて、その人から大ヒンシュクを買った奴が、ここぞとばかり「年取ると尻の穴がゆるむんか」と笑うと、その人曰く。平然として「なんだよ、お前ら屁せえへんのか」と。

 そりゃまあ、人である限り〈屁〉はこくが、あんたの変わり様はどうなんだと、我々は内心熱く憤慨したものであ〜る。

 ロバの不吉な屁にしても、不浄感いっぱいの〈屁〉にしても、我々の過剰な思い入れ(観念化)の結果だね。このように宗教者や知識人にはしきりに妄想する悪魔(のようなもの)があるんだな。しかし、その思い入れが剥落してしまうと〈屁〉はとたんにつまらなくなるわけよね。これが〈屁〉の悪魔払い。


ラベル: 悪魔 牧師
posted by 楢須音成 at 23:44| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月17日

屁糞という虚実の間

 室町末期の武将、太田道灌(1432-1486)の「山吹の里」のエピソードは有名だ。鷹狩りに出かけた道灌がにわか雨に遭い、農家に駆け込む。蓑(みの)を借りたいと申し出ると、幼い少女が「七重八重花は咲けども山吹のみ(実)のひとつだになきぞかなしき」と古歌を詠んで山吹の花の小枝を差し出したというのである。道灌は何のことだかわからない。結局、蓑は借りることができなかったわけだが、歌の意味をあとで知った道灌は、自分の教養のなさを深く恥じて歌道に精進したという。晩年には主家の抗争に巻き込まれて暗殺されたといわれている。

 この話がネタになって格好の屁話になっているのである。次の「似屁(にへ)物語」もそんな話の一つ。読みやすく句読点を付けて引用する。
昔(むか)し太田道灌となん云へる豪穴(ごうけつ)はすぐれて屁道を熟(じゅく)されけるが、一日(あるひ)の事(こと)狩に出(いで)られ腹のすきたる儘(まま)弁当をシコ玉(たま)食(くら)へ込(こま)れしゆゑ、腹はりて大便頻(しきり)に萌(きざ)し来(きた)れど、然(さら)ばとて野雪隠(のせっちん)とやらんも如何(いかが)なり。然(しか)るべき厠(かわや)は無きかと尋ね廻られけるとき、山の麓に細小(ささやか)なる白屋(くさや)ありければ、道灌は打よろこび尻をモヂモヂとして飛入り給ひ「俄(にわか)に用事にて難儀いたす。厠あらば借(か)し候へ」と音信(おとづれ)しかば、内より美しき少女(おとめ)立出でつ。「見そなはす如き見苦しき場所なれど厭(いと)ひ給はざれば沢山(したたか)垂(たれ)させたまへ」と応答(いらへ)しにぞ「得たりや応」と厠の中へ飛び込(こま)れ矢庭(やにわ)に尻をまくりてウンと気張れど、如何(いか)がなしけん大便は少しも出ず、大なる屁の七ツ八ツも放(はな)たれける。今や為方(せんかた)なしと衣(ころも)を下(おろ)して立(たち)たまふを、少女は何おもひけん、籬(まがき)に咲ける山吹の花一枝おり取(とり)て道灌の前へ捧げしかば、道灌は不思議におもひ「如何なる心にや」と問はざれければ、少女は恥かし気(げ)に、
  七屁八屁鼻にうげども山吹の
         実の一ツだに出ぬぞおかしき
と答へたるに道灌は赤面して恥入り「我身(わがみ)屁道のみを知つて歌道を知らざるが故に斯(かか)る辱(はずか)しめを得たり」と、其後(そのご)は只管(ひたすら)に敷島(しきしま)の道のみに心をよせ名歌あまさ詠み出でられぬ。後に到りて主人上杉氏の為に忌(いま)れ浴室(ゆや)にて毒屁あまた放掛(ひりかけ)られて殺されんとなしけるとき、少しも驚かず、
  斯(かか)る時さこそお屁(なら)のくさからめ
         かねて鳴る屁とおもひ知らずば
これを一生の最後屁として敢(あえ)なく屁をすぼめけるとなん。
(痩々亭骨皮道人編『楽み草誌』1889年)

 もとのエピソードと同じ趣向なのは、歌を突きつけられ歌道を知らないのを痛感してしまい、その後は発奮して歌道に精進したというところである。道灌が突きつけられる歌は後拾遺集にある「七重八重花は咲けども〜」の歌だが、「山吹のみのひとつだに」の解釈(もじり)がポイント。

 屁話の「似屁物語」では、もじり(山吹の実→黄色の糞)がなかなか強力なパターンになっている。虚実という言葉があるが、〈屁〉が虚ならば「糞」は実。ここには「屁糞」の現実を見据えた「虚実」の認識があるわけだ。

 前にも紹介したが、「屁糞」の「虚実」をパターンにしたこの歌のパロディには、すでに四方赤良(大田南畝)による狂歌があった(参照)。「実」を「糞」としている点は同じである。そもそも赤良がヒントになっている「似屁物語」である。では、本歌と「屁糞」の歌を比べてみよう。

(本歌)七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞかなしき(中務卿兼明親王)

(1)七へ八へ屁をこき井出の山吹のみのひとつだに出ぬぞよきけれ(四方赤良)

(2)七屁八屁鼻にうげども山吹の実の一ツだに出ぬぞおかしき(似屁物語)

 まあ、昔から「七重八重」つまり「ななえ(へ)やえ(へ)」が〈屁〉を連想させたのは間違いない。本歌は言葉の意味通りに「たくさん重なって」という情景だが、(1)や(2)では〈屁〉が前面に出た〈屁〉の歌になってしまう。ただし(1)と(2)では若干情景が違うね。

(1)たくさん〈屁〉をこいても「糞」が出ないのはめでたいなぁ→糞は出てほしくないから

(2)たくさん〈屁〉が出て鼻をうがつが「糞」が出てこないのは可笑しいなぁ→糞が出てほしいのに

 同じパターンでもちゃんとヒネリがあって中身が違うわけだ。二番煎じにはなっていない。さらに「似屁物語」はもとのエピソードのパロディによって道灌の暗殺までを〈屁〉で締めくくるという趣向になっている。道灌は一生の最後屁の辞世で「このような時こんなにも屁は臭かったのか。前からいつも鳴っていた(主君の)屁がこんなとは思いもしなかったよ」と嘆じている。

 さて、先の(1)と(2)が歌い込んだ「屁糞」の「虚実」であるが、〈屁〉を虚とし「糞」を実とするのは一般的に受け入れられるものだろう。見えない実体なき〈屁〉が虚であるのは仕方がないね。しかし、(1)にしても(2)にしてもただの虚ではないところが〈屁〉の〈屁〉たるゆえんだ。〈屁〉の虚とは、まあいかにも思わせぶりな虚なのであるね。

 虚(A)=糞かなと思わせて(糞でなく)屁
 虚(B)=屁かなと思わせて(屁でなく)糞

 今回は〈屁〉が主役になる虚(A)が該当する。出てきたのが〈屁〉であるのが虚(A)だね。この虚(A)で「糞」を望まず〈屁〉を望んだのが(1)であり、「糞」を望んだのが(2)である。出てきたのが〈屁〉である虚(A)の世界は、あまり実害がないのが特徴になっている。ブウブウと〈屁〉が鳴っても世界はそんなに変わるものではないからね。

 しかし、虚(B)になると多分に実害が生じるケースが多いはずだ。放置すればよい〈屁〉と思って糞が出ては処置に困る。『今物語』に〈屁〉と思って糞を粗相する法師の話があったよね(参照)。

 幸いなことに我々は事前に〈屁〉が出るのか「糞」が出るのかを概ね察知することができるので、虚(A)や虚(B)の状況になることはあまりない。それだけに、いきなり制御不能の〈屁〉の虚(A)や虚(B)になると心的動揺(あるいは感動)は大きいものとなる。他人からみれば、それは滑稽であるし、可笑し味を喚起する状況である。

 ──狂歌や屁話(つまり芸術のようなもの?)が虚実の間に成立するとは、まるでそこなんだねェ。
ラベル: 山吹
posted by 楢須音成 at 01:58| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月27日

なぜか〈屁〉とは言いたくない

 恥ずかしい行為はあまり口にしたくない。それを言葉にして発声することは、恥ずかしさに直結しているのである。もちろん〈屁〉もそうだ。かりに〈屁〉はこいていなくとも、他人様の前では単に「屁」と発声することすら憚られる。恥ずかしい単語なのだ。

 まだしも「おなら」という方が恥ずかしさは緩和されるかな。上品で教養もあるような人が〈屁〉などと口にすると野卑に感じるが、「おなら」なら許せるかもしれない。「おなら」というと、まるで〈屁〉が他人事のように勝手に鳴っている感じがする(よね?)。行為の連想から少しは遠ざかるわけだ。まあ、女性は〈屁〉とはあまり発声しないようだしねェ。こうした背景には羞恥心の微妙な動きがある。

 フランスの小話を一つ。
 パリへ女中に行っていた娘が三人、田舎に帰ってきて、やがてざんげしなければならなくなったが、タクシーの運ちゃんやバーのボーイや肉屋の御用聞きなんかといたずらをしたことは云いずらい。そこで、なんとかうまくごまかす方法はあるまいかと考えて、「トラッタッタをした」といおうときめた。
 牧師は何のことやら分からなかったが、パリの新語だろうと思って、二人目までは聞き流しておいた。が、三人目も同じことをいうので、これはくさいと勘づき、嵩にかかっておどかしてみると、簡単に白状してしまった。そこで、三人は改めてざんげ所に呼び込まれ、さんざん油をしぼられた。
 三人の娘はほうほうのていで教会から逃げ出したが、百メートルばかり来ると、知り合いのマルチーヌ婆さんに出会った。
「お婆さん、どこへ行くの」
「教会さ行くんだよ。どういうもんだか、このごろ屁ばっかりでてね、やりきれないんだよ、もしかしたら悪魔がとっついてるのかもしれねえので、牧師さんに相談ぶつべえと思うだよ。だけど、屁が出て仕様がねえともいいにくいでのう、思案してんのさ。なにかうめえ文句はあんめえかねえ」
 娘たちは顔を見合わせて、
「それじゃ、トラッタッタをするといいなさいよ、いまパリじゃ、そういってるんだから」
「そうかね、そりゃありがてえ。トラッタッタだね」
 婆さんは教会へいって、そのとおりにいった。牧師はびっくりして、
「いやはや、お婆さん、お前の年になっても、まだそんなことをするのかね! あきれたものだ!」
 婆さんは真顔で答えた。
「でも、仕方がねえですよ、牧師さん。おしりばかりはなかなか云うことをききませんでのう!」
(田辺貞之助『ふらんす風流さんげろく』1957年)

 娘たちが都会の男と(セクシャルな行為して)遊んだことをごまかすために「トラッタッタ」という意味不明の言葉を作り出して使い、それを〈屁〉にも流用させたのである。

 人間の〈性〉や〈屁〉は恥ずかしくて(ときには罪なものとして)隠蔽されようとするのだが、この話は〈屁〉的な観点からいうと、人間のそういう心的運動の何とも象徴的で対比的な展開になっているんだよねえ。ここで対比されているのは次のようなことなのだ。

娘たちの性的放縦への罪悪感→(あるかに見えて)実際は罪悪感なし
婆さんの屁的放縦への罪悪感→(あるかに見えて)確かに罪悪感あり

 つまりは〈性〉と〈屁〉の対照的な関係が展開されているのである(関連参照)。キリスト教の文化的背景から、ここは羞恥心というよりは罪悪感が表に出ているのであるが、一般に懺悔所などない日本においては、文化的には表層に羞恥心が出てくるだろう。(人間の心的運動では羞恥心と罪悪感はともに行動抑止の振る舞いを主導する)

 ここでは行動抑止(自己規制)という観点から、羞恥心も罪悪感も同じ(ようなもの)として扱うことにする。そこで娘たちも婆さんも教会の存在が倫理基準となって陰に陽に自己規制しているわけだが、両者は自らの行為の罪悪感(≒羞恥心)によって告白を強いられているね。

 しかし〈性〉と〈屁〉ではその心的な背景が違っていると考えられるのだ。結論をいえばこうなる。

〈性〉=肯定性の罪(≒恥)
〈屁〉=否定性の罪(≒恥)

 もともと〈性〉というものは動物の機能として生殖から喚起されているもので、原初的な否定性はないうえに、相手との身体的な「快」をもたらす究極の相互性を持つ現象である。ただ、観念妄想(つまり人間の文化現象)によって「快」が暴走して「快楽」へと突入しているため規制が必要になっている。例えばここでは教会がある。娘たちは教会を意識したとたんに罪を強いられるのである。

 一方の〈屁〉は動物の機能としてはほとんど無意味に属するもので、原初的な肯定性(根拠)は曖昧だし、ただただ相手への異音異臭の「不快」をもたらす最悪の相互性を持つ現象である。もちろん、他者への異音異臭のバラまきは観念妄想をふくらまして相互の「不快」が暴走する。根拠なき〈屁〉は忌むべき存在である。制御できない〈屁〉は悪魔の所業(悪魔が取り憑いた)とでもいうほかないのである。

 恥ずかしい行為(を示す言葉)を口にしたくない人間の習性から娘たちや婆さんの意味不明な「トラッタッタ」は生まれた。しかし、このように〈性〉と〈屁〉の心的背景の構図には違いがある。どちらも直接的な行為を示唆する言葉を避けようとするのは、深層はともかく表層の罪悪感や羞恥心を隠蔽するためだが、言い換えによって生まれる心的な状態は次のようになっているだろう。

娘たちのトラッタッタ=もともと肯定性があるので解放感が生まれる→〈性〉の擬似的自由を取得
婆さんのトラッタッタ=もともと否定性があるので遮断感が生まれる→〈屁〉からの擬似的隔絶を取得

 この話では〈性〉と〈屁〉が入れ替わる喜劇になってしまっているわけだが、牧師は娘たちの(にやけた下心の)トラッタッタのつもりで婆さんのトラッタッタをあきれて聞いている。実際には、婆さんのトラッタッタは〈屁〉から顔を背けたい一心の呪文なのである。婆さんの言訳は深刻だ。「でも、仕方がねえですよ、牧師さん。おしりばかりはなかなか云うことをききませんでのう!」という言葉は能天気に言っているわけではなく、真摯に止まらぬ〈屁〉を懺悔しているに違いないのである。

 ──つまりは〈屁〉の方が存在論的に罪深い現象なのであ〜る。
ラベル: 羞恥心 罪悪感
posted by 楢須音成 at 00:14| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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